雪風と風の旅人   作:サイ・ナミカタ

69 / 111
火炎と大地の狂想曲
第68話 微熱、燃え上がる炎を纏うの事


 ――王天君がイザベラの元へ帰還した後。太公望は部屋の隅にある書き物机の上に突っ伏して、独り思考の淵へと沈み込んでいた。その魂魄は、半分ほど飛びかけている。

 

「おのれ、王天君のやつめ。言いたいことだけ言って帰りおって! それにしても、まさかこのような形で仕返しをしてくるとはのう……」

 

 正直なところ。王天君の存在を実時間で数ヶ月ほどの間、完全に忘れていた太公望の側に非があることは間違いない。王天君は――本人曰く相当な苦労をして、この世界まで自分を探しに来てくれたらしいのに、だ。

 

 太公望は、はあっと深いため息をついた。

 

「今さら、わしの側ではどうしようもなかったのだ! などと言ってもあやつには通用しないだろうしのう……考えていた最悪中の最悪の事態に陥っていなかっただけでもましであると、前向きに考えるしかないか」

 

 太公望が想定していた最悪中の最悪とは。王天君がガリア国王ジョゼフの使い魔としてハルケギニアに〝召喚〟されていた上で、王の手足となり働いている――つまり、この世界全体に干渉(・・)するという事態に陥っていた場合のことである。

 

 王天君の持つ〝力〟は情報の収集に際だった効果をもたらす。また、彼の持つ頭脳とそれに伴う技術も、間違いなく人類にとって脅威となるだろう。おまけに、その気になれば一時間以内にトリスタニアを廃墟に変えるほどの攻撃力まで併せ持っているのだ。

 

 そんな王天君を、この世界最大の隆盛を誇る大国の王が手に入れたらどうなるか。結果は考えるまでもない。

 

「もちろん、普段の王天君なら素直に人間の王に従ったりはせんだろう。だが……」

 

 王天君の『半身』を誘拐同然に拉致したのが誰か。その情報を得る経緯と状況次第によっては、太公望を取り戻し、かつ誘拐犯と目した少女への復讐を兼ねて、王天君自身が何らかの行動を起こしていてもおかしくなかった。

 

 王天君は、伏羲の『闇』を象徴する存在だ。彼と鏡合わせの存在、太公望なら思いついてもやらないような非道なことでも、目的を達成するためとあらば躊躇なく行う。『半身』を取り戻すためとあらば、自身の〝力〟をもって平然とこの世界を混沌の渦に突き落としていただろう。

 

 もしも、そうならなかったとしてもだ。ここハルケギニアには人間の心を支配し、思いのままに操る効果を持つ魔法や道具が多数存在している。かつて殷で百万を越える人間を同時に操った『傾世元禳(けいせいげんじょう)』ほどの威力があるとは考えにくいが、用心しておくに越したことはない。現に、例の惚れ薬を誤飲した際に、精神攻撃には滅法強い太公望が全く抵抗できなかったのだから。

 

 ゆえに、太公望はガリア国内に在るうちは常に警戒を怠らず、王天君の気配を探り続けていたのだが……『部屋』に籠もっているらしき彼を捉えることはできなかった。

 

 そこへ、王天君と非常に似通った手法の策を講じてきた者がいた。それがイザベラ王女だった。よって、太公望は彼女ひとりに対象を絞り、罠を仕掛けたのだが――なんと、あの『王女暗殺未遂事件』はイザベラではなく王天君が仕組んだものだった。太公望は王天君の手によって完全に嵌められていたのだ。

 

「まったく、見事にしてやられたわ。とはいえ、本当にあの意地悪姫が仕掛けてきていたのだとしたら、それはそれで先行きが不安だったわけだが。この世界に王天君の影響を受けた、新たな女狐が現れることに繋がるやもしれぬからのう」

 

 ……くどいようだが、あの自作自演劇の脚本を書いたのは太公望が看破した通り、イザベラだ。王天君はそれを利用しただけに過ぎないのだが、今の太公望にそんなことはわからない。

 

「それにしても王天君のやつめ。このわしだけではなく、まさかタバサのような子供を相手にあのような真似をしでかすとは! 相当腹に据えかねておったのか、あるいは、あの意地悪姫のことが気に入ってしまったのか」

 

 〝召喚〟は基本的に召喚者と相性の良い者を呼び出す魔法とされている。裏を司る姫君が王天君を呼び込んだ末に、意気投合してしまったのかもしれない。太公望はそのように判断した。

 

「おまけに、あやつがまさか夢のぐうたら生活を手に入れておったとは!」

 

 太公望は歯噛みして悔しがった。自分は苦労に苦労を重ね、必死の思いで居場所作りをしていたというのに、後から召喚された王天君は、なんとイザベラの側で何不自由ない生活を送っていたというのだ。怠けることを至上の喜びとしている太公望にとって、こんな理不尽な話はない。

 

 しかもだ。王天君はそんなぐうたら生活の様子を太公望に対して開示したばかりか、よりにもよって彼が一番嫌っている労働を強制してきたのである。自分が撒いた種、身から出た錆ではあるものの。何やら完全に『半身』たる王天君の掌の上で踊らされているようで――それが妙に癪に障る太公望であった。

 

「状況いかんによっては、別に無理して融合せずともよいのだが……」

 

 全ての役割を終えた今、地球の『始祖』伏羲としてではなく、再び『太公望』呂望となり、新たな世界で悠然と人生を送る。それはそれで悪くない選択なのだが……しかし。

 

「わしら仙人が、これ以上人間たちの世界や政に干渉するような事態だけは、絶対に避けねばならぬ。よって、このまま王天君のやつを放置しておくわけにはいかんのだ。とはいえ、無理矢理融合しようとすれば、どうなるかわからんしのう」

 

 かつて地上世界で軍を率いていた時とは異なり、あくまでひとりの人間――このハルケギニアにおける特権階級的存在、メイジとしてではあるものの、現在のように日常的な事件を解決する程度であるならば、世界へ及ぼす影響を最小限に抑えることができる。

 

 オスマン氏と協力したり、ラ・ヴァリエール公爵と友誼を結ぼうとしたのは決して政治的な発言力を求めてのことではなく、いち個人ができる範囲内で、周辺に巻き起こりそうな争乱の芽を潰そうとしただけに過ぎない。彼はただ、心を許せる者たちと共に、平和な世界でのんびり気ままに生きてゆきたいだけなのだ。

 

 当初のうちこそ、力在る者が持たぬ民たちの上に君臨しているという事実に複雑どころではない感情を抱いていたものの――半年以上この世界で過ごした今なら理解できる。ハルケギニアと地球とでは、環境その他諸々の事情が完全に異なるのだと。

 

 地球では別に仙人がいなくとも、人間たちは自分たちだけで生きていくことができた。むしろ、下界の王や権力者に近付いて勝手気ままに力を振るい、民を虐げ、欲望のままに奪い続けていた邪悪な仙人たちの存在がひとびとを苦しめていた。

 

 いっぽう、凶悪な妖魔や魔獣が跋扈し、猛威を振るっているこのハルケギニアからメイジたちがいなくなれば――脅威への対抗手段を失った人類はほぼ間違いなく衰退し、彼らの文明も大きく後退してしまうだろう。その先に待つものは滅亡、あるいは長く苦しい暗黒の時代だ。

 

 横暴なメイジもいるが、例の女狐一党のように民を奴隷にして斃れるまで働かせたり、農民たちが飢えて死ぬ程の税を取ったりするような者はごくごく稀だ。そもそも、そういう類の悪人は仙人やメイジに限らず、どこにでもいる。それが免罪符になるわけではないが。

 

 地球――殷最大の問題は、不老不死の女狐や歴史の道標に対抗できる者が長い間現れなかったことだが、ハルケギニアの場合は違う。

 

 メイジはオスマンのような例外を除き、基本的に普通の人間と同様寿命がある。女狐のように肉体を滅ぼされても新たな身体を手に入れて復活する、などということはない。

 

 そのため、どうしても〝力〟で対抗できない場合は最悪寿命が尽きるまで待てばいい。

 

 それに、ガリアの北花壇騎士団のような存在もいる。

 

 彼らは国の裏仕事を一手に引き受ける闇の騎士だ。その中には不当に民を虐げ、王の権威を傷付けた貴族の暗殺なども含まれる。この世界ではトリステインのように王政府がまともに機能していない場合を除き、基本的に自浄作用がきちんと働いているのだ。

 

 タバサと共に請け負ったコボルド退治のように、平民では対抗しきれない相手と戦い、これを排除するという役目もある。彼らは民の剣であり、盾でもあった。

 

 さらに、魔法が民の生活に完全に密着している。都市部では井戸を掘る代わりに浄水所を造り、水メイジが水質・水量を管理している所があったり、平民用の安い酒場で出されるワインが〝錬金〟で作られていることもしばしばだ。

 

 その気になれば、魔法で食料すら生み出せるというのが大きい。太公望もギーシュが土から造ったパンを試しに食べてみたことがある。お世辞にも美味とはいえないが……いや、正直もう一度口にしたいとは思えないレベルの出来だったわけだが……腹を壊したりはしなかった。

 

 天候の影響で作物の出来が悪かったり、漁や狩りで獲物が捕れなかったとしても、メイジがいれば飢えずに済む。これは大きい。貧しさがゆえに食料が手に入らず、雑草を食べて腹を下した経験を持つ太公望が目眩を覚えたほどだ。

 

 酷い怪我を負ったり、病を患っても水メイジに金を支払えば治してもらえる。よほどに貧しくない限り、平民が症状に合う秘薬を購入することもできるらしい。つまり、傷の悪化や病気で命を落とす人間の数が地球に比べて圧倒的に少なく、そのぶん民の生活が安定しているのだ。

 

 住む家も〝固定化〟のおかげで壊れにくく、自然災害で住処を失わずに済む。衣服や道具などにもさまざまな魔法が用いられている。

 

 衣食住全てが魔法に依存している。メイジが平民の上に君臨するのはある意味必然とも言えた。この世界の平民たちが彼らの庇護下から離れ、自立の『道』を歩むには、まだ時期尚早だろう。

 

 太公望たちが世界の営みそのものに直接干渉すれば、あるいはそれが可能となるかもしれないが――それはハルケギニアという世界の(ことわり)から、大きく外れることに繋がる。

 

「わしは、この世界の遠い未来まで責任を持つことはできぬし――それができると思う程、傲慢にはなれぬよ。今のわしにできるのは、わしらが正しく使った世界を、後に続く人々へバトンタッチすることだけだ。地球とは違うハルケギニアの歴史がどこへ行き着くのか、それはわしではない、他の誰かが見ればよい」

 

 もしも現状を良しとせず、変えていきたいと本気で願う者が居るならば、それはこの世界に生まれた者が、自分たちの意志でもって行うべきなのだ。

 

 ――かつての太公望や、彼を取り巻く大勢の仲間たちがそうであったように。

 

 仮に、そういった『世界を変える意志』を持った者たちから手助けを請われた際に、太公望がどういった選択をするのか。それはまた別の話だ。

 

 それにしても……と、太公望は頭を掻きながら呟いた。

 

「わしの存在そのものが、王室が勲章を下賜するほどの大戦果に繋がる、か」

 

 太公望が見、これまで集めた情報から判断する限り、ガリア王国は間違いなくこのハルケギニアで最大の隆盛を誇る国家だ。

 

 王都リュティスの賑わいや、市井の民たちが酒場などで自国の王を『無能王』などと揶揄しても罰を受けない自由な国風。これほど安定した治世であれば、王の実力も相まって、既にさほど魔法を重視しなくなっているのではないか。そう考えていたのだが――。

 

「かの国にはわしが想定していた以上に極端な魔法偏重のきらいがあったのだな。いや、より正確には王が魔法を使えないことを理由として兵を挙げることが『正義』であると認められるような土壌が未だ残っている、というべきか。たった一度の失敗が、よもや現王家の敵対派閥に大打撃を与えることになるとはのう」

 

 当初、忠実な家臣と称してすり寄ってくる者に対する踏み絵を兼ねて、タバサへと提言した『失敗報告』が、まさかそこまでの影響を及ぼすとは。ある程度この世界を見知った現在ならばともかく、当時の太公望にはそれこそ思いも寄らぬことだったのだ。

 

 もっとも、そういった状況を考慮すればイザベラの下につくことに問題はない。

 

 タバサの持つ事情もあり、それについては元々大人しく受け入れるつもりであったし、なにより太公望がイザベラの目論見通り――つまりタバサが起こした『失敗』の象徴らしく、ごくごく平凡な子供として動いてみせることによって、身勝手な理由で内紛を起こさんと謀る者たちの数を減らすことに繋がるのであれば、

 

『力在る者による理不尽な理屈で引き起こされる戦によって、民が巻き添えになる』

 

 という、太公望が最も嫌う形式の戦乱を防ぐことができる。彼のご主人さまであるタバサも、国を分かつ戦争を起こすことなど望んではいない。彼女は今、復讐ではなく――真実を追い求めることに目を向けているのだから。

 

 そういう意味で、イザベラとタバサには共闘できるだけの理由が存在するのだ。

 

 イザベラと話し合いの機会を持とうとしたのも、元はといえば彼女たちふたりが歩み寄るための条件を探ることを目的としていたのだ。王天君がイザベラの側にいることが確定した今ならば、彼と融合することによって、それが実現できると見越した上で。

 

 だが、そう上手く事は運ばなかった。それどころか王天君は太公望の元を離れ、よりにもよってあちら側についてしまった。そのせいで、彼と融合せずに放置するという選択ができなくなった。この世界への影響のみならず、先に危惧していた最悪の事態が発生する危険性があるからだ。

 

「うぬぬぬぬ……このわしとしたことが、完全に読み違えてしまったわ。王天君の言う通り、鈍ってしまっておるのだろうか。まったくもって不本意極まりないのだが、事ここに至ってはあやつの機嫌が直るまで、大人しく言うことを聞くしかない」

 

 王天君とイザベラを相手に一敗地に塗れることとなった軍師は、もはや彼らの下で働くしかない。しかも仕事の内容を選ぶこともできず、拒否権すらない。一見ふらふらといい加減なようでいて、実はとてつもなく責任感の強い太公望の頭の中には、既にここから逃げ出すという選択肢は残されていなかった。

 

 王天君の、ある意味最も効果的な仕返しにただ頭を抱えることしかできなかった太公望は机にぐったりと身体を預け、夜半過ぎから日が昇るまで、そこから動くことができなかった――。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――キュルケは、今日という日に大いなる期待をしていた。

 

 それというのも、昨夜こんなことがあったからだ。

 

 夜半過ぎ。自室の窓枠にもたれかかりながらワイングラスを傾けていたキュルケは、双月を背にゆったりと地上へ舞い降りてきた風竜の姿を視界に捉えたとき、思わずほっと息を吐いた。

 

「ああ、ふたりとも無事に帰って来られたのね。良かったわ……」

 

 だが、次の瞬間。彼女は首筋に冷たい氷の刃をあてがわれたような恐怖を覚えた。風竜の背に跨るふたつの人影が、帰還を待ち望んでいた者たちの姿とは明らかに異なっていたからだ。

 

「あのシルエット、どう見ても騎士装束よね。ま、まさか、タバサかミスタ・タイコーボーの身に何かあったんじゃ……?」

 

 彼らふたりがガリア王家から言い渡されたという任務に赴いていたのを知っていたキュルケは沸き上がってくる不安を必死に押し殺し、慌てて校門前まで駆けつけたのだが――その甲斐あってか、ある意味彼女にとって、素晴らしいものを目撃できた。

 

 風竜に乗っていたのは。騎士装束に身を包み、つばつき帽子を被った太公望と、彼の胸にぐったりと身体を預け、寝息を立てているタバサであった。

 

 これはまるで、絵物語に登場する姫君と、それを護る騎士のようではないか。キュルケは両手の拳を天にかざし、大声で快哉を叫びたい気持ちを必死の思いで堪えた。

 

 と、さらにそんなキュルケへ、太公望が小声で囁きかけてきたのだ。

 

「ちょうどよいところへ来てくれた。今回の任務で、相当疲れてしまったようでな、これこの通りの状態なのだ。起こすのも気の毒なので、部屋へ運ぶのを手伝って欲しい」

 

「あら? ミスタがそのまま連れていけば……って、ああ、そういうことね」

 

「うむ。おぬしが得意なアレを頼みたいのだ」

 

「別に〝解錠(アンロック)〟はあたしの得意技ってわけじゃないんだけど……そういうことなら喜んで」

 

 その後、タバサの寝支度が終わるまで部屋の外で待っていると告げ、くるりと背を向けて扉から出て行った太公望を横目で見遣りつつ、半分寝ぼけた状態の少女を着替えさせてやったキュルケの顔には、抑えようにも抑えきれない微笑みが浮かんでいた。

 

「タバサが、あんなふうに誰かに寄りかかって眠るだなんて……ちょっと前なら、絶対ありえなかったことなのにね」

 

 親友である自分以外の人間には全くといってよいほど心を開こうとしなかった『雪風』が、いくら疲労の極致にあったとはいえ、その身の全てを預けられるほどに信頼できる相手ができた。

 

 さらに、それが異性だという事実はキュルケにとって大変喜ばしい出来事であった。ふたりの間に横たわる年齢差やその他諸々の事情など、彼女にとって考慮に入れる必要のないものだ。

 

「そうよね、タバサもそろそろ恋の喜びを知ってもいい頃だわ。あの子は今まで、ずっと辛い思いをしてきたんだもの。お母さまも助かったことだし、これを機会に少しくらい楽しいことをしたって罰は当たらないわよ!」

 

 『燃える恋愛』を至上とし、家訓とするツェルプストー家の娘として生まれたキュルケにとって恋愛は娯楽のひとつでありながら、最も熱心に取り組むべき対象なのである。

 

 そんな彼女自身も、現在〝情熱の炎〟でその身を焦がすような恋の真っ最中であった。

 

 キュルケが虎視眈々と狙っている獲物――魔法学院の教師コルベールは今のところ学問と研究に愛の全てを注ぎ込んでいるような状態ではあるものの、決して彼女を邪険に扱っているわけではない。それどころか、キュルケの訪問を心から喜んでいるフシがある。もっとも、彼らの関係はまだ男女のそれではなく、いち教師と生徒のままなのではあるが。

 

 しかしキュルケは彼女独自の勘によって、既に確信していた。

 

(コルベール先生は奥手な上に、男女の関係について少々お堅い面はあるけど……まあトリステイン貴族なら普通だし、別に女嫌いってわけじゃないわ。あたしの見立てでは、その逆ね)

 

 その証拠にキュルケがコルベールの手元を覗くふりをして、さりげなく相手の背中にこぼれんばかりに豊かな胸を押しつけると、彼の身体は見事なまでに硬直する。そして、

 

「先生の研究所って、閉め切っているせいか本当に暑いですわね」

 

 などと呟きながら、わざとシャツのボタンを外して見せようとすると、

 

「そ、そうかね。なら、風通しがよくなるように窓を開けるとしよう」

 

 と、ドタバタと窓を開けながらも、視線が泳ぎ始める。実になんともわかりやすい反応ではないか。キュルケは、そんな初心な年上の教師が、もう可愛くて仕方がなかった。

 

「先生は思ったほど鈍い訳じゃないし……生徒と教師っていう壁さえなければ、すぐにでも応じてくれそうなんだけどね、お嫁さんを探してるって公言してるくらいだし。けど、ここで変に焦っちゃダメ。このあたしが、やっと見つけた本命なんだから!」

 

 これまで大勢の男性と付き合ってきたのは運命の相手を探すためだ。そう言って憚らなかったキュルケが、ついに最終目標を見定めた。実家への滞在中、首府見学にかこつけて、さりげなく家族へコルベールを紹介しているあたりに彼女の真剣さが伺えよう。

 

「あたしと同じ火系統のメイジで、おまけに元特殊部隊の指揮官! 有名な軍人を大勢輩出している我がフォン・ツェルプストー家に迎え入れるには、ぴったりの男性よね」

 

 軍人としての実力はもちろんのこと、度胸についても申し分なし。キュルケの芯に〝火〟が通ったのは実際に彼の戦いぶりを間近で見て、それを知ったからだ。生徒たちを護るため、エルフを相手にしてもなお一歩も引かぬその背中に、彼女は初めて本物の『男』を感じた。

 

「先生は戦いが嫌いだけど、うちはギーシュのところみたいな軍閥貴族って訳じゃないから、本人が望まなければ無理矢理戦に駆り出される心配もないし……婿入りしたって問題無いのよね」

 

 それどころかツェルプストー家は、自領内にいる数多くの職人や研究者たちを支援し、新技術――特に魔法以外の技術開発に注力しているという、ハルケギニアでも特に先進的な考えを持つ、非常に珍しい家なのである。そういった意味で、これはコルベールにとっても決して悪い話ではないのだ。

 

 ……おまけに、彼にはツェルプストー家にとって、とてつもない『付加価値』がある。

 

「あのラ・ヴァリエール公爵の目に留まった天才学者っていうのも大きいわよね。直接王室へ論文を届けてもらえるなんて、実際とんでもない話よ? そんな彼を、あたしがお婿さんに迎える……フォン・ツェルプストー家の者として、実に相応しい行動だわ」

 

 『仇敵』ヴァリエール家にとって重要な人物を奪う。これは、ツェルプストー家に代々伝わる伝統行事のようなものだ。事実キュルケの曾祖父は、元々ヴァリエール家に婿入りするはずの人物だった。それ以前にも、かの家に嫁ぐはずだった娘はおろか、既に結婚していた相手を寝取ったことすらある。歓待期間中、かの家の人物たちとはそれなりに仲良くなれたキュルケであったが、それはそれ、これはこれである。

 

 コルベールを――本人には内緒で紹介した当初こそ、微妙に難色を示していた両親も、これを話した途端、完全に折れた。今では、連日のように娘の元へ、彼を誘惑するために効果的だと思われる服や装飾品、おまけに軍資金まで送りつけてくる等、積極的に後押しをしている始末だ。

 

 よって彼女は、魔法学院への帰還後毎日のように、太公望からガリアへの出立前に教えられていた『込める』ための練習を終えた後、コルベールの邪魔をしない程度に彼の研究所を訪れては、いろいろと工夫をこらしたちょっかいをかけているのである。

 

 恋愛の手練手管に長けたフォン・ツェルプストー家の娘キュルケが、実家のバックアップを受けた上で、一方的な攻撃を加えている現在、本物の戦場ならばともかく、こういった戦いにはてんで弱いコルベールには、もはや逃れる術はない。

 

 ――お堅い教師が陥落するのは、最早時間の問題といっても差し支えないだろう。

 

 そんなキュルケだからこそ、唯一無二と信ずる親友であるタバサに、是非とも恋をする喜びを知って貰いたい。楽しみを分かち合いたいと考えるのは至極当然の成り行きなのだ。対象となりえる相手が身近にいるとなれば、なおさらだ。

 

「うふふふふ。今度こそ、もしかすると、もしかするわよね……」

 

 これまで、タバサを相手に恋愛のなんたるかを説くのは、水をたっぷりと吸い込んだ薪に火を灯すような行為であった。だがしかし、遂に機は熟した。これを生かさずしてなんとする。フォン・ツェルプストー家の娘として、頑としてやり遂げねばならぬ。

 

「いつかあたしたちと一緒にダブルデート! なんていうのも悪くないわよね~!」

 

 それが実現できたなら、絶対楽しいに違いない。そう考え、早速朝食後にタバサを呼び寄せ、今後についてのアドバイスを送ろうとしていたキュルケだったのだが……朝、アルヴィーズの食堂に現れたふたりを見た瞬間。彼女は思わず叫び声を上げそうになった。

 

 これが、普通の女子生徒だったなら気が付かなかっただろう。だが、常に他人の動向を気にするキュルケだからこそ見抜けた。いつもと何ら変わらぬそぶりをしているが、太公望の目が、わずかに充血しているのを。

 

「こ、これは……まさかの大逆転……!?」

 

 タバサの表情から察するに、キュルケが期待するような『何か』があったわけではなさそうだ。しかし、あきらかに彼女のパートナーの様子がおかしい。おそらくだが、昨夜満足に眠ることができなかったのだろう。

 

 遠くガリアから帰ってきたばかりで疲れていたはずの彼が、何故眠れなかったのか。そんなものは決まり切っている。同じ部屋で眠っているタバサのことが気になって、どうしようもなかったに違いない。

 

 キュルケは、内心で狂喜乱舞した。正直なところ、タバサの『お相手』を落とすのは、自分の全力を持ってしても難しいのではないかと考えていたからだ。

 

 何故ならあの太公望という男は、とにかく女性に興味を示さない。

 

 ……たとえば、以前こんなことがあった。

 

 校庭で実習授業が行われた際に、突如巻き起こった悪戯なつむじ風が、女子生徒たちのスカートを膝上二十サントほどまでたくし上げたことがある。

 

 その時、周囲にいた男子生徒のみならず、教師までもが(名誉のため、あえて名前は挙げないこととする)彼女たちのあられもない姿に視線が釘付けとなったのだが――唯一太公望だけが、まるで何事もなかったかのように授業の再開を待っていた。

 

 ……また、こんなことまであった。

 

 訓練用に作った畑で水まきをしている最中のことだ。ルイズがうっかり目測を誤り、キュルケの頭上に桶の中の水をぶちまけてしまった。当然のことながら、そのせいでずぶ濡れとなったキュルケのシャツは、身体のラインを強調するかのように、ぴったりと上半身に張り付いた。

 

 それを見た『水精霊団』男子のうち一名が、

 

「ハルケギニアの女の子って、やっぱりブラジャーつけてないんだネ」

 

 などという意味不明な言葉を発した後、鼻血を流して倒れたり。

 

 別の一名が眼鏡を外し、自分は何も見なかったと言わんばかりに後ろを向いた後、その場でしゃがみ込んだり。

 

 彼女の肢体を目にする直前、突如沸き上がった〝水柱〟(ウォーター・ポール)によって視界を遮られた者が約一名いた中。平然とした顔で手ぬぐいを寄越してきただけでなく、そのままでは風邪をひいてしまうからと、タバサと揃って〝(ウインド)〟を唱え、服を乾かす手伝いまでしてくれた。

 

 その結果。キュルケは体調を崩すことこそなかったものの、言いようのない敗北感に襲われ、夜、自室でひとりワインを呷る羽目に陥った。

 

 その後、彼が実は七十歳をとうに越えていることが判明し、さらに老いてなお盛んであるオールド・オスマンの「枯れたジジイ」発言により、興味のあるなし以前に、既にそういう時期を過ぎてしまっていることを悟らざるを得なかったキュルケは内心頭を抱えていたのだ。いくら肉体が若返っているとはいえ、彼を『その気』にさせるのは、相当難しいのではあるまいか――と。

 

 もしもだ。太公望がタバサのパートナーではなく、かつコルベールという『運命の相手』と出逢っていなかったとしたら。キュルケはツェルプストー家の名誉にかけて、彼を落としにかかっていただろう。彼女はそれだけの価値を太公望という人物に対して見出していたのだ。

 

 だが、現状でそれはありえない。よって、キュルケは親友を応援することに注力する決意を固めていた。しかし、前述の理由から、恋愛スキルの高い彼女を持ってしても相当『難易度』の高い相手であることを承知していた。よって、いかにして彼を攻略するか、タバサとふたりで知恵を絞って考えよう。そう決心していたのだが……。

 

「うふふふ、そうよね。ミスタでなくとも気になるわよね……あんな無防備で、しかも愛らしい女の子が自分のすぐ側で寝てたりしたら、ねえ?」

 

 太公望が気にしていたのは、王天君の動向と今後の展望であって、キュルケが考えているようなものではない。しかし、当然のことながら彼女にはそんなことはわからない。

 

「ええ、わかる、わかるわ。昨日のタバサってば、女のあたしから見ても本当に可愛かったもの。さすがのミスタ・タイコーボーも、あれで落ちちゃったって訳ね」

 

 本音を言えば、ものすごくイジりたい。だがしかし、ああいうタイプが『出来上がる』前にちょっかいをかけると、せっかくの〝火〟が消えてしまう可能性が高い。過去の経験から、それを嫌と言うほど思い知っているキュルケは、必死の努力で自分を抑えた。

 

「おはよう……じゃなくて、おかえりなさい。ふたりとも無事で本当に良かったわ」

 

 本音を一切表に出さずにこの台詞を言えた彼女は、相当頑張ったといえよう。

 

「ありがとう」

 

「心配をかけたようだな、すまぬ」

 

 挨拶まではいつも通り。ところが、いつもなら席についた途端喋り始める彼が、何故か今日は黙ったままだ。

 

「あら、今朝は随分と静かですわね。どうかしましたの?」

 

 心底不思議そうな顔をして、そう聞いたキュルケに、

 

「ああ、すまぬ。少し考え事をしておってな」

 

 夏期休暇中だけあって、現在食堂内にいる生徒は彼ら三人だけであった。今、この場には他に誰もいない。一応、給仕のメイドがいるにはいるのだが、距離が離れているため、ちょっとした内緒話をする程度ならば問題ない環境だ。そう判断したキュルケは万が一聞かれても支障がない程度の内容を、小声で話を聞いてみることにした。

 

「考え事? まさかとは思うけど、例の任務中に何かあったんですの?」

 

 と、この言葉を聞いた太公望がタバサに声をかけた。

 

「任務……か。そうだ、タバサよ。頼みがあるのだが」

 

「わたしにできることなら」

 

「食事の後、できればでかまわぬので、わしに〝制約(ギアス)〟をかけてはもらえぬだろうか」

 

 太公望の爆弾発言を耳にしたキュルケは、盛大に咽せた。

 

「使ったことがない」

 

 タバサの答えに、太公望は首をかしげた。

 

「つまり、その気になれば唱えられるということかのう?」

 

 太公望の問いに、タバサは首を横に振った。

 

「〝制約〟は禁呪。各国の法律で使うことを禁止されている。効果についてはある程度学んでいるけれど、ルーンまでは知らない……公開されてないから」

 

「ふむ、そうか。おぬしにかけてもらえるならば助かったのだが、こればかりは無理に頼めることではないからのう」

 

 横でこのやりとりを聞いていたキュルケの胸の内では、歓喜と動揺とがないまぜとなって溢れかえっていた。

 

(え、何? 彼、もうそこまで追い込まれてるの? 禁呪で縛られないと自分が抑えられないってわけ? それともまさか……そういう趣味だとか!?)

 

 ……説明するまでもないことだが、太公望が〝制約〟をかけて欲しいと言っているのは、自分がちゃんと〝抵抗〟できるかどうかを試すためであって、キュルケが考えているようなものでは断じてない。だが、燃え始めてしまったキュルケは止まらない。彼女の思考は完全にそっちへ向いてしまった。声には出さず、ひたすら先に思いを馳せる。

 

(〝魅了(チャーム)〟じゃなくて〝制約〟ってところがニクいわね。ううん、もうすっかりタバサに参っちゃってるから、そっちはいらないって意味の告白かしら。そう考えると素敵だわ。でも、いざとなると大胆ね、ミスタって。人前でいきなり縛ってくれ、だなんて)

 

 ああ……もうだめだ、あたしは彼をイジらずにはいられない。キュルケが勢いよく立ち上がろうとしたその時だ、無粋な闖入者が現れたのは。

 

「なんなら、わしがかけてやってもええぞい」

 

「おぬしだと〝抵抗〟に失敗した時何をさせられるかわからぬ。よって却下だ」

 

 それは教員用のロフト席から降りてきた、オスマン氏であった。

 

「それよりもじゃな、何故、自分に対して〝制約〟なんぞをかけてもらう必要があるのか。わしはそれが知りたい」

 

 ニヤニヤと笑いながら顔を近づけてきたオスマン氏に、太公望はぶっきらぼうに返す。

 

「……個人的なことなので、おぬしに話すわけにはいかぬ」

 

「個人的、のう。君ともあろう者が、迂闊にもこんな場所でそのような話をするとは、相当切羽詰まっておるようじゃのう。ほれ、このわしでよければ相談に乗ってやるから話してみんかい。ん? ん?」

 

「おぬしに話したら余計に混乱するに決まっておる! ところで、何か用なのか?」

 

「君、わしのこと全く信用しとらんな……? ああ、そうそう。個人的で思い出したわい。明日は何か予定が入っとるか? 特にないなら、早急な用件で会談を申し入れてきておる人物がおるのじゃが」

 

「わし個人に、か?」

 

「うむ。実は、君たちがガリアへ向かった直後に申し込みがあってな」

 

 そう言うと、オスマン氏は再びニヤリと笑って太公望を見た。

 

「で、明日以降の予定は?」

 

「できることなら、今日から数日間は勘弁してもらいたいところではあるのだが、相手にもよる」

 

「ああ、会談相手はエレオノール女史じゃよ」

 

 オスマン氏の言葉に、太公望の眉が動いた。キュルケの眉もピクリと上がった。

 

「そういうことならば仕方がないのう……ただし、会談場所はできるだけ魔法学院内に設定してくれ。さすがに、あちらの屋敷まで出向くというのはご免被りたい」

 

「それならば心配ないわい。既にそのように話はつけてある」

 

「わかった。では、日時が確定したら、連絡をくれ」

 

「疲れておるところにすまんのう。何せ彼女ときたら、相当焦っておるようじゃったので、さすがのわしにも断りきれなんだわ」

 

 しきりに、心の底から済まなさそうな声で太公望へと語りかけているオスマン氏を見たキュルケは思った。これは怪しい。声音こそ申し訳なさそうなものではあるのだが、目元が微妙に笑っているのだ。

 

 急ぎの会談――しかも、個人的なもの。申し込んできたのは、ヴァリエールのお姉さま。そこまで考えるに至って、彼女はとんでもない可能性に気が付いた。

 

(まさか! あのひと、ミスタ・タイコーボーのこと――)

 

 思い当たる節はある。会談期間中、やたらと彼と話をしたがっていた。彼の言葉に、いちいち頷いて、メモを取っていた。それだけならまだしも、単に研究熱心だと言うには、あまりにもミスタの側にくっつき過ぎていた気がする。ただ、キュルケはエレオノールからそれらしき雰囲気を感じていなかったため、これまで気に留めていなかったのだ。

 

(おまけに、わざわざトリステインの王立図書館へ入館するために必要な、外国人特別許可証を取得する手助けを申し入れていたわよね。最初は、単にタバサとミスタへのお礼だと思っていたけれど、こうやって状況を並べてみると、怪しすぎることこの上ないわ!)

 

 オスマン氏が用件を言い終え、その場を立ち去った後も、キュルケは考え続けていた。もしかすると、自分の思い違いかもしれない。しかし、せっかく彼に〝火〟がつきそうな状況にも関わらず、別の女性に外からおかしな横槍を入れられてはたまらない。

 

 よって、彼女はしかるべき最初の一歩を踏み出した。

 

「ねえ、タバサ。〝制約〟覚えてみてもいいんじゃない?」

 

「いや、別に無理をしてまで覚える必要は……」

 

 そう告げた太公望の言葉を、しかしキュルケは遮った。

 

「きっと『フェニアのライブラリー』になら、魔法書があると思うわ。あたしは入れないけど、タバサなら許可証を持っているでしょう?」

 

「……ん。タイコーボーがわざわざ頼んで来るということは、何か大切な理由があるからだと思う。なら、わたしは力になりたい」

 

「そうよね~、さっすがタバサ。あなたみたいないい子、なかなかいないわよ!」

 

 そう言ってキュルケは親友にぎゅっと抱きつくと、その頭を優しく撫でた。

 

「と、いうわけですから。ミスタは、先にお部屋へ戻っていてくださいな!」

 

 そしてタバサとキュルケのふたりは、まるで吹き抜ける突風のように、図書館へ向けて飛んで行ってしまった。後に残された太公望はというと……。

 

「部屋に戻れと言われても……鍵、閉まっとるのだが。どうしろと……?」

 

 これまで〝解錠〟の魔法を全てタバサに任せっきりにしていた太公望は、部屋の鍵を開ける手段を持っていないのであった。その気になれば、無理矢理こじ開けることは可能かもしれないが、しかしそんな気力など、今の彼には無く。

 

「仕方がない。瞑想しながら考えを纏め直すとしようかのう……」

 

 よたよたと外へ向けて飛び去っていった太公望。だが、彼の心だけではなく、周囲に巻き起ころうとしている争乱は、収まる気配を見せなかった――。

 

 

 




いつも誤字報告ありがとうございます、
大変助かっております。
できるだけ更新前に潰しておきたいのですが、
思いもよらぬところに残っていたりするものですね……。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。