雪風と風の旅人   作:サイ・ナミカタ

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第83話 偉大なる魔道士、異界の技に触れるの事

 ――やはり、彼は知っているのだ。オスマン氏はそう結論した。

 

 コルベールから、今から二十年ほど前に行方がわからなくなった始祖の秘宝『炎のルビー』を見せられ、入手した経緯を詳しく聞かされた時にも『始祖』の導きを感じたものだが……己の推測を裏付けるためには、あと一歩が足りなかった。

 

(しかし、先程の様子や、かの人物の発言を踏まえた上で考えるに――どうやら、わしの見立ては間違ってはいなかったらしい。悪目立ちする危険を冒してまで、エレオノール君をこの場へ呼んだ甲斐があった)

 

 オスマン氏はそう思った。

 

 ルイズが未だ呆然自失といった体の才人を連れ、学院長室を出て行った直後。オスマン氏はまるで今日の天気を訊ねるような気軽さでもって問うた。

 

「で、君はまだ『扉』を開けないのかね? ミスタ・タイコーボー」

 

 その言葉を聞いた途端、太公望の片眉がわずかに吊り上がったのを見たオスマン氏は自分の導き出した答えの正しさを確信し、内心ガッツポーズを決めていた。

 

(そろそろ来る頃だとは思っていたが、なるほど。そのために、わざわざこのような場を設定したわけか、この狸ジジイめが!)

 

 オスマン氏が何を言わんとしているのか、太公望は充分に理解していた。ルイズのために〝瞬間移動〟に関するマニュアルを作製したあの時から、訊ねられるであろう事は想定の範囲内だった。よって、太公望は嘘をつくことなく正直に答えた。

 

「おかしな勘違いをされる前に答えておくが、わしの系統は〝虚無〟ではないぞ?」

 

 太公望の言葉に、居合わせたコルベールとエレオノールが凍り付いた。そういえばとエレオノールは振り返る。

 

(〝念力〟と〝風〟しか使えない、おちこぼれのメイジ。そのふたつですら、かつてはできなかったと聞いているわ。彼は、あまりにもルイズの境遇と似通っている――!)

 

 そんな女史の思いとは裏腹に、オスマン氏は、太公望に笑顔で言葉を返した。

 

「ああ、わかっとるわい。君の性格からして、万が一にも『担い手』であれば、絶対に隠し通そうとしたはずじゃからの。それにだ、君は他人に『扉』の魔法を伝授することができないのではないかな? したい、したくないに関わらず」

 

 意外な答えに、太公望は思わず目を瞬かせた。

 

「ふむ。どうしてそう考えた?」

 

「そもそもじゃな、病気や怪我などで感覚が狂ったからといって魔法が使えなくなるなどということはない。集中力が乱されて、うまく発動させられないというのがせいぜいだ。しかし、君がミス・ヴァリエールに渡した、例の〝瞬間移動〟に関する注意書きには『体調が悪い時には決して使うな。最悪の場合、死ぬことすらありうる』などと記載されておった。そして、どこからどう見ても健康体としか思えぬ君が、未だ『扉』を開くことができないでいる」

 

「それだけか? 他には?」

 

 ニッとずる賢そうな笑みを浮かべ、オスマン氏は答えた。

 

「君はひねくれているようでいて、実は心根の優しい男だ。サイト君の涙を見て、出来る限り早く故郷へ戻してやりたいと考えたはずじゃ。ところがミス・ヴァリエールに助言を与えるに留めた。つまり、君が持つ『扉』の魔法は、行使する際に危険を伴う。あるいは、覚えるまでにとんでもなく時間がかかる。すなわち、単純なルーン詠唱だけで発動するものではない。どうじゃな? わしの推測は当たっておるかの?」

 

 オスマン氏の言葉に、太公望は彼に対する評価を修正することにした。この男、確かにくわせ者ではあるが、それはあくまで生徒たちの利益を考えているからなのだと。

 

「なかなか面白いことを言う。もちろん、裏付けあってのことだろうな?」

 

 太公望の問いにオスマン氏は頷いた。

 

「ミスタ・タイコーボー。そしてミスタ・コルベール、エレオノール女史。これはあくまでわしの推論であり、現在のブリミル教を否定するものではないとだけ言っておく」

 

 ――そう前置きした上で、オスマン氏は自説を語り始めた。

 

 ヴァリエール家の礼拝堂でルイズが〝虚無〟に目覚めた、あの日。オスマン氏は彼女が唱えた虚無魔法を見た上で、即座に「四大系統魔法では再現不可能」と判断した。

 

「風のスクウェア・スペル最高位の魔法である〝遍在〟を使えば、似たような現象を起こすことは可能じゃろうが――あれは、あくまで『分身』を指定した場所に出現させる魔法だ。自分自身を空間を隔てた遠方へ、瞬時に運ぶような効果はない」

 

 あの時から、オスマンはずっと気になっていたのだと言う。

 

 始祖の祈祷書に記されていた風の先。場所と空間を司る魔法。全ての物質は小さな粒より成り、虚無はさらに小さき粒に影響を与えるという始祖の御言葉と、その粒を〝星の意志〟と呼んで研究が進められているという太公望の談話。それらは彼にひとつの解答を示していたのだと。

 

「現在の教えでは、魔法を生み出したのは『始祖』ブリミルだとされておる。じゃが、始祖の祈祷書には、こう記されておった」

 

 

 ――全ての物質は世界に宿りし小さな粒より為る。四の系統はその小さな粒に干渉し、影響を与え、かつ変化せしめる呪文なり。四の系統が影響を与えし小さな粒は、さらに小さな粒より為る。神は、我に四の系統よりもさらなる先の『道』を示された――

 

 

「……とな。つまり、じゃ。虚無の魔法は『始祖』ブリミルが無から創造したのではなく、彼が『神』と信ずる何者かから授けられた。あるいは着想を得たのではないだろうか。まだ祖国におられた時になのか、ハルケギニアへの旅の途中に何らかの出会いがあったのか、そこまではさすがにわからんがの」

 

 オスマン氏の発言にエレオノールは顔を強張らせ、反射的に「それは異端です!」と叫びそうになった。しかし彼女はその寸前で、なんとか自分を抑えることができた。

 

 学院長が述べた論説は、現在のブリミル教において確実に異端視されるものだ。だが、これは実際に始祖の祈祷書に書かれていた内容であり、それさえ周知されていれば、オスマン氏の指摘はごくごく当たり前のものとして受け入れられたであろう。

 

 エレオノールは『異端』という概念の持つ危うさに、改めて気付かされた。真実が、無知や偏見によって駆逐されてしまう。その行いの、なんと愚かしきことか。

 

 そんな女史の思いをよそに、オスマン氏の話は続いていた。

 

「その上で『始祖』ブリミルは与えられた〝秘技〟をルーンに翻訳し、自らの子孫であり、かつ後継者たるに相応しい才能を持つ者だけが紐解けるよう『秘宝』に封印したのではなかろうかとわしは考えたのじゃ……と、ここまでが前置きでな」

 

 そして、オスマン氏はまっすぐに太公望を見据えると、こう切り出した。

 

「ミスタ・タイコーボー。もしかして、もしかすると……じゃぞ? 君が用いているあの〝場〟はその『さらに小さき粒』に働きかける魔法なのではないかね?」

 

 オスマン氏の言葉に、太公望はしばし黙っていたが――やれやれと言わんばかりに肩をすくめると全てを諦めたように頷いた。

 

「うむ、おぬしの想像通りだ。であればこそ、正常な感覚が戻るまでは危険すぎて『扉』を開けないのだよ。相転移をはじめとした『粒』の扱いは緻密操作の極みだからのう。失敗すれば、天災レベルの被害が生じる」

 

 それから大げさにため息をつくと、太公望は再び口を開いた。

 

「わしとしては不本意極まりないことだが――おぬしの予測通り、わしの『扉』はルーンで扱うものではなく、使いこなすためには長い修行期間を必要とするため、才人には気の毒だが、今すぐルイズに教えてどうこうできるようなものではないのだ」

 

 それを聞いて、オスマン氏は破顔した。やはりわしの説は間違っていなかった、と。

 

 ……王天君のご機嫌伺い中、というのが実際のところなのだが、それは言わない太公望。いっぽう、彼の言葉を聞いたエレオノールは思い出した。〝召喚〟と〝契約〟が、現代に伝わる虚無魔法である、という説を。

 

「ルーンを使わない――つ、つまり、ミスタの国では、かの魔法はコモン・マジックだと仰るのですか? ま、まさか先住というわけでは……」

 

「先住――精霊魔法でないのは確かだが、汎用と呼べる程簡単でもない。〝空間使い〟になるためには、自然科学だけではなく、物理学の奥深くまで習得する必要があるのだ。かの術は、文字通り『世界の法則』に繋がる理論を元に行使されるものだからのう」

 

 太公望はいきなりダンッと目の前の机を叩くと、声を荒げて言った。

 

「にも関わらず、だ。ブリミルは、あんな短いルーンを唱えるだけで〝瞬間移動〟を行使させるに至った。ハッキリ言って、信じがたいレベルの天才。いや化け物だ!」

 

 と、ここで今度はコルベールが割り込んできた。

 

「あ、あの……ちょっと待ってください。ええと、今までの話をまとめるとミスタ・タイコーボーの国には虚無のオリジナルとおぼしき魔法がある。けれど、ルーンに翻訳されていない。そういうことですよね? それは、いったいどうして……」

 

 コルベールを片手で制すると、太公望は全員を見回し、もったいぶった口調で告げた。

 

「その先は『輪の外』だ、コルベール殿。ブリミル教という名の概念から、完全に外れる『道』を征くことになる。今ここにいるお三方は、口の堅い、信用の置ける人物だとわしは思う。よって、もしも一歩を踏み出す勇気があるのならば、話しても構わぬ。ハルケギニアの外に在る(ことわり)のうちのひとつを……な」

 

 静まり返った学院長室の中で、誰かがゴクリと飲み込んだ唾の音だけが響く。最初に行動を起こしたのはコルベールだった。

 

「私は、聞きたいです」

 

 その声に、全員が彼の顔を見た。彼の目には好奇心のさらに先――ただ真理のみを追い求める者が持つ、独特の光が宿っていた。

 

「この世界は、ハルケギニアだけで形作られているわけじゃない。エルフたちの住まうサハラや、その先にあるロバ・アル・カリイエ――もしかすると、他にも人間の住まう場所があるのかもしれない。私は見てみたいのです、外に広がる異なる世界を」

 

 続いて口を開いたのは、オスマン氏だった。

 

「ずいぶんと長生きしてきたわしじゃが、ここまで堂々と異端に踏み込むような冒険をするのは久しぶりじゃて。はてさて、どんなことを聞かせてもらえるのかのう?」

 

 最後に残されたエレオノールはひとり手を握り締め、震えていた。これは、以前にも問われた内容。ブリミル教という名の『輪の外』に出る勇気はあるか。あの時は即答できなかった。しかし、今の彼女は違っていた。ひとつの真理を掴んでいたが為に。

 

 金髪の女史はしっかりとした口調で告げた。

 

「わたくしも、是非聞かせていただきたく存じます。自分や周囲と異なる価値観を一切認めないというのは……研究者として失格ですから」

 

 このエレオノールの発言に、オスマン氏は思わず目を丸くした。だが、彼の表情はすぐさま暖かなものへと変化した。教え子の成長する様を見るのは、教育者である彼にとって最大の喜びであったから。

 

 オスマン氏は立て掛けてあった長杖を手に取ると、ついと一振りした。学院長室の扉に、固い鍵が掛けられる。それから、部屋の四隅に〝消音〟による防諜処置を施す。準備が整ったと見た太公望はいきなり核心に迫ることなく、まずは外堀から埋め始めた。

 

「最初に断っておく。すでにオスマン殿とラ・ヴァリエール公爵閣下にはお聞き頂いている内容なのだが……これを話しておかないと、我ら〝崑崙山〟の理念や、何故にわしの『扉』にルーンが用いられていないのか理解してもらえぬであろう。よって、ここでもう一度説明させてもらう」

 

 そう前置きをした上で、太公望は以前と同じく自分たち仙人の価値観について語り始めた。

 

「し、始祖の意志を、へ、平和と平等の意志と受け取り、平民の上に立つことをせず、あ、あえて人里離れた場所――ふ、ふ、浮遊大陸に移住した、ですって……!?」

 

「平民たちだけで、魔法のない暮らしをしているですと!? それでは日常生活が成り立たないのではありませんか? それに、たとえば町に凶悪な魔獣が現れたり、道路が崖崩れなどで塞がれてしまった場合、彼らはいったいどうやって対処するのです?」

 

 エレオノールとコルベールの問いに、太公望は真顔で答えた。

 

「そういった力持たぬ民にはどうしようもない災害が起きた時のために『千里眼』と呼ばれる術でもって、我らは常に地上を監視しているのだ。風系統の〝遠見〟や、さきほどルイズが使った〝世界見〟の魔法に近しいものでな。〝力〟の強い者が使えば、大陸全土――このハルケギニア全域はおろか、世界の裏側まで見通せるほどの効果を発揮する」

 

 〝遠見〟の魔法で見渡せるのは、せいぜい数リーグが限界だ。にも関わらず、ハルケギニア全土に及ぶとは――つまり、それこそがルイズが習得した〝世界見の鏡〟の原型と呼ぶべきものなのだろう。居合わせたメイジ達はそう受け取った。

 

 実際、太公望の言葉に嘘はない。彼の師は『千里眼』によって中国大陸全土を監視していたし、仙人たちが〝人間界〟に関わるのは、非常事態が起きた時に限られる。冗談でも誇張でもなく、彼らが用いる『奇跡』のほとんどが天災レベルの規模を誇っており、その〝力〟を下手に振るえば、人間の住む街や邑など、ひとたまりもないからだ。

 

「その上で、災いを鎮めるのに相応しい者が地上へと派遣され、影から人々を救う。長いこと、我らはそうしてきたのだ――そして、その結果があの『新宿』と呼ばれた町だ。平民たちは魔法に頼ることなく、知恵を駆使し、科学と技術を発展させることによって、あれほどの都市を築き上げるに至ったのだ」

 

「な、なるほど……つまり、あそこは魔法ではなく科学が世界の理となった場所。そういうことなのですな?」

 

 コルベールは激しく興奮していた。

 

 ――もしもの未来。もしも、このハルケギニアがブリミル教という名の輪の外へ、自由に羽ばたけるようになったとしたら。

 

 自分たちの魔法と、彼らの科学が手を取り合えば、あの煌びやかな街並みや、外の格納庫に仕舞われている飛行機械をも越える――かつて〝夢世界〟の中で見た、蒼い炎を吹き上げながら星の海を目指し飛んでゆく、あの美しき船にすら手が届くのではないか。いや、あれこそがふたつの理が融合した姿なのではないだろうか? それはまさしく、コルベールが常に夢描いていた光景であり、信念とも呼ぶべきものだ。彼の心は、激しく踊った。

 

 かたやエレオノールは、体内の血が凍り付いてゆくような感覚に囚われていた。

 

 『始祖』ブリミル生誕の地とおぼしき――彼女がそうだと信じる場所では、メイジは絶対のものとされていない。それどころか、その存在すらほとんど知られていないのだという。

 

 遙かな空の彼方から、地上に暮らす人々を見守り、影から支える生涯を送る彼らはまるで神のようではないか。

 

 翻って、自分たち貴族――いや、わたくしはどうだろう。己の持つ〝力〟に酔いしれ、平民たちを支配し、それを当たり前だと思って生きてきた。けれど、現在の状態は……本当に『始祖』の御心に沿うものなのであろうかと。

 

 そんな彼女の心を見透かしたかのように、太公望は言った。

 

「わしは外から来た部外者だ。正直なところ、わし自身の価値観からすれば、ハルケギニアの支配者たちに対して言いたいことは山ほどある。だが、わずかながらもこの国で暮らし、民の生活を見た今ならば――現体制のもと、この世界がそれなりに上手く回っていることを認めるのはやぶさかではない」

 

 己の過去を振り返りながら、太公望はさらに言葉を続けた。

 

「貴族に虐げられる者もいれば、救われる者もいる。これらは表裏一体だからだ。わしらの国でも掟を破って地上へ降り、その〝力〟でもって非道の限りを尽くした者どもが大勢おる。結局、どちらのやりかたが正しいとは言い切れぬし、それができるほど、わしはうぬぼれてはおらぬ」

 

 それを聞いたエレオノールは、ほっとしたような表情で呟いた。

 

「そ、そう……ですわね。一概に、現状が悪いなどとは言えませんわよね。なにしろ、わたくしたち貴族の魔法によって、社会は成り立っているのですから」

 

「それなのだよ」

 

「はい?」

 

「その『魔法によって社会が成り立っている』のが現在のハルケギニアだ。いっぽう、わしの祖国を含む周辺諸国では『奇跡に拠らぬ生活』を基本としている。しかし〝力〟を持たぬ人間にはどうしようもない災難が降りかかった時に、我らは動く。そのため、こことは異なり、魔法の体系こそ似通っているものの――長い年月を経て、種類や発動する効果が大きく変化したのだ」

 

 オスマン氏は長い顎髭をしごきながら聞いた。

 

「ふむ、具体的には?」

 

「そうだのう。たとえば道路の舗装や農作物の収穫などといった、手間はかかるが平民だけでも可能な作業にも魔法が使われておるし、水をワインに変えるようなことすら、ごく当たり前の技術として受け止められている。大きな怪我も、金さえあれば〝治癒〟の魔法で簡単に治る。こんな魔法がわしの国にもあれば、どれほど多くの命が救われただろうと、何度思ったことか」

 

 それを聞いたエレオノールが意外そうな顔をした。

 

「まあ! 東方には〝治癒〟もないんですの? 〝錬金〟だけではなく?」

 

「全く無いわけではないのだが、こちらの〝治癒〟ほど汎用性がない上に、使い手がごくごく少数に限られておってのう」

 

「ふむ。魔法薬の製法などと同じで、特定の家の秘伝のようになっておるとか?」

 

「そのようなものだ」

 

 少なくとも、太公望が知る限りでは『四聖』と呼ばれた仙人たちのうちのひとりが持つ宝貝『劈地珠(へきちじゅ)』と、自分が持つ『太極図』にしか回復能力は備わっていない。〝仙術〟にもあることはあるのだが、使い手はごくわずか。もしもハルケギニアの水メイジたちが仙界大戦当時の地球へ行ったとしたら、引っ張りだこの大人気となった上に、歴史が変わっていたかもしれない。そのくらい、貴重な能力なのだ。

 

「それでは、病気や怪我はどうやって治すんですの?」

 

「病気については療養するか薬を服用するかのいずれか、だのう。怪我は応急手当をした上で、あとは自然に治るのを待つのが一般的だ」

 

「そのあたりは、平民や貧乏貴族と変わりありませんな」

 

「うむ」

 

「金を出して、水メイジに依頼することもできんのかね?」

 

「我らは浮遊大陸に隠れ住んでおるからのう。基本的に、平民たちとの接点がないのだ」

 

「なるほど」

 

「と、まあこのように、我らが周辺諸国では災害救助や妖魔討伐などの『非日常』以外の場面で〝力〟を行使するのは禁忌とされておる。そのため、ほとんど汎用性がないのだ」

 

「つまり……東方の魔法は、破壊などの戦闘方面に特化していると?」

 

 コルベールの問いかけに対し、太公望は小さく頷くことで肯定した。

 

「わしの〝(ウインド)〟を見て、どう思った?」

 

「とても『ドット』スペルの威力とは思えませんでしたわ……」

 

「効果についても、じゃな」

 

「〝風〟であれほど自在に風を操るなど、普通のメイジには到底不可能です」

 

 三人はハルケギニア最強と謳われる伝説の騎士『烈風』カリンとの激しい応酬を思い起こした。烈風どころか台風と呼んで差し支えないレベルの激突。まさに〝力〟と〝技〟の戦いだった。一般的なメイジの常識で考えれば『ドット』が『スクウェア』と真正面から互角に撃ち合うことなど不可能。そんな思い込みを破壊したのが、太公望という存在だった。

 

 彼らの様子を見て、太公望は上手く会話の主導権を握れたことを確信した。そこで、再びお得意の作り話を加えることにした。真実と、そうでないことを交えながら。

 

「前にも言ったと思うが、系統魔法の根幹である魔法語には、メイジであれば誰にでも奇跡を起こせるという利点がある。しかし〝力〟を注ぎ込み過ぎると暴走し、爆発してしまうという欠点が存在する。逆に、ルーンを用いなければ――理論上、いくらでも底上げが可能ということだ」

 

「な! ま、まさか、東方では、あえて全ての攻撃魔法を口語で紡いでいると!?」

 

「実は、そのまさかなのだ。ルーン無しで奇跡を行使するには長い修行期間を必要とするが、その代わり〝力〟を持つ者は、より強力な攻撃ができる――たとえば帝国軍最強の『古代の風』聞仲太師は半径五リーグの範囲に数百本にも及ぶ〝風の鞭〟を解き放つ、文字通りの超人であった」

 

 ――密閉されているはずの学院長室に、風が吹いた。

 

「……は?」

 

「あの……五メイルと、数十本の間違い、ですよね? それでも充分高威力なのですが」

 

「いいや、間違いではない。わしは、実際にその〝鞭〟で数リーグ離れた場所から弾き飛ばされたことがある。そして彼の部下である『水使い』は町ひとつ簡単に押し流す威力のある〝水滝(ウォーター・フォール)〟を得意としておった。彼らの他にも……」

 

「まてまてまて、なんなんじゃ、君の出身地は! 例の『炎の勇者』といい、まさかとは思うが、そんな化け物だらけだとでもいうのかね!?」

 

 君という存在も、充分規格外だと言うのに? と、いう言葉を必死の思いで飲み込んだオスマン氏だったが、太公望の解答はそんな彼の想定を遙かに超えていた。

 

「そうだのう。わしやカリン殿クラスの術者で、せいぜい『中の上』程度だと考えてもらえれば、なんとなく理解してもらえるものと思うが」

 

「じょ、冗談じゃろ?」

 

「わしはこれまでになく本気で、真実を語っておるのだが?」

 

 カリーヌ夫人と戦った時のように『打神鞭』しか使わないというのであればな……と、胸の内でこっそり但し書きをつける太公望。ちなみに『太極図』を込みで考えた場合、太公望の強さは全ての仙人の中でも上位に入る。『最強にして最弱』と呼ばれるスーパー宝貝『太極図』を扱えるのはごく一握りの仙人だけなのだ。

 

(か、か、母さまが、ちゅ、中の、上……もしも母さまがこの話を聞いたら、是非ともそこへ連れて行って欲しいなんて言い出しそうで怖いわ……)

 

 などとエレオノールは割と真剣に悩んでしまった。自分自身『始祖』の出身地と思しき場所への興味が尽きないだけに、なおさらだ。もしも、そこで母が暴走したらどうなるか――などとうっかり考えてしまった女史は、なんだか頭痛がしてきた。

 

 衝撃から最も早く回復したのはコルベールだった。

 

「しかしですな、それほどの高出力魔法を唱えた場合、普通なら〝精神力〟の枯渇で気絶してしまうのではないでしょうか」

 

 至極尤もな問いに、真顔で答える太公望。

 

「我らは〝精神力〟以外の対価を払うことで、術の威力を増大させておるのだ。もっとも、やりすぎればどのみち気絶することに変わりはないが」

 

「その対価とは?」

 

「それは……生物の根幹。すなわち己の〝生命力〟だ」

 

 太公望の言葉を受けたオスマン氏は、かつて耳にしたそれを正確に再現してみせた。

 

「〝虚無〟は強力無比なり。また、その詠唱は長きに渡り、多大な精神力を消耗する。詠唱者は注意せよ、時として〝虚無〟はその比類なき威力がゆえに命を削る……か」

 

「学院長。それは……?」

 

「始祖の祈祷書の一節だ。今のところミス・ヴァリエールが〝生命力〟を削っているようなことはなさそうじゃが、将来、高位のスペルを手に入れたとき、彼女は……」

 

「……さすがに、命と引き替えに発動するような魔法は記されていないと信じたいが、もしも〝虚無〟に、わしらの術と同じ方法で威力を増大させる性質があるのだとしたら、前もってルイズに警告をしておいたほうがよかろう」

 

「ちなみに、君のところにはそういった魔法は存在するのかね?」

 

「ない……と、言ったら嘘になるな。わし自身〝生命力〟を削りすぎて、何度血を吐き倒れたかわからぬ」

 

「強い〝力〟を得るためには、それ相応の代償が求められる、ということですか……」

 

 コルベールは『イーグル』号の上で太公望が自国のアイテムを使い過ぎ、倒れてしまったときのことを思い出した。

 

 魔法具にはいくつかの種類があるが、大別すると、誰にでも使える物とメイジしか扱えない物の二種類になる。治療薬などが前者で、ガーゴイルや学院内に備え付けられている魔法のランプなどが後者だ。こちらはメイジの〝精神力〟を消費して動くため、平民には扱えない。これと同じように〝生命力〟を用いているのが、彼らの土地の魔法具なのだろうとコルベールは考えた。

 

「真実はわからぬが、もしやすると『始祖』ブリミルは〝生命力〟の損耗を抑えるためにこそ〝虚無〟を魔法語に翻訳されたのやもしれぬな。〝精神力〟だけで、強力無比な魔法を発動させるための工夫として」

 

 太公望の話を聞いたオスマン氏の顔が、驚愕に満ちた。

 

「待て! ま、まさか、君の国では攻撃魔法に限らず、ほとんど全ての魔法でルーンを用いていないのか!?」

 

「少し違うな。我らはルーン自体を用いないのが一般的なのだ。忘れられておる、と、言ったほうが正しいかもしれぬ」

 

 そもそも魔法語自体が存在していないのだが、そのように告げて誤魔化す太公望。実際使っていないのだから、嘘は言っていない。

 

 かたやそれを聞いたメイジ達はというと、衝撃のあまり口を開けないでいた。

 

 なにせ目の前の男は『始祖』の加護を強さと引き替えに自ら手放したというのだ。それも、国ぐるみで。ブリミル教の観点からすれば、罰当たりどころの話ではない。

 

 こんな話がロマリア宗教庁の元に届けば、目の前にいる少年の姿をした老爺はその場で宗教裁判にかけられ、ほぼ間違いなく煮えたぎる湯の中に放り込まれるか、火刑に処されることとなるだろう。正直、危険に過ぎる『内緒話』であった。

 

 ――しばしの沈黙の後。最初に口を開いたのは、エレオノールであった。

 

「ひとつ、お伺いしたいのですが……ミスタがお持ちの『扉』の魔法をルイズに伝授していただいた場合、あの子なら、どの程度で行使できるようになると思われます?」

 

 太公望は腕組みをしながら答えた。

 

「現在よりも遙かに細かい〝念力〟操作の習得と、自然科学と数学、力学、物理学の学習が必須となるので……そうだな、最短でも二十年といったところか」

 

「に、に、に、にじゅうねんですって!? そ、それはいくらなんでも……」

 

「正直なところ祈祷書から探し出すほうが早いだろうし、安全だと思うぞ? 今までの経緯から察するに、ほぼ間違いなく書き残されておるはずだ」

 

「で、でも、時間がないんです!」

 

「うむ。詔の巫女として、祈祷書が貸し出されている期間――つまり、あと半月ほどしか呪文を探すための時間が取れないのじゃよ。姫の結婚式が済んだら、即座に返却せねばならんからのう」

 

 そんな彼らを、まるで不思議なものを見るかのような目で見た太公望は、教え子を諭す教師のような口調で言った。

 

「何を言うのだ。姫が降嫁してしまえば、実質始祖の祈祷書をヴァリエール家の管理下に置けるではないか」

 

「それは、どういう意味……あ、いや、そういうことか……!」

 

「たた、確かに、状況次第ではそういうことに、な、なりますわね……」

 

「あの、学院長。私にはさっぱり訳がわからないのですが」

 

「なあ、コルベール君。きみも、たまには研究室の外に出て、国内外の政情を掴んでおいたほうがいいぞい」

 

「す、すみません。私は、昔から政治方面には疎いもので」

 

 ゴホンとひとつ咳をすると、オスマン氏は部下へ説明をするために口を開いた。

 

「現在、アンリエッタ姫殿下の王位継承権は二位。しかるに、継承権第一位を持つマリアンヌさまは女王への即位を拒み続けておる。つまり、権利を放棄しているに等しい。ここまではきみも知っておるな?」

 

「はい。なんでも、マリアンヌさまは女王陛下という呼びかけには一切お答えにならず、あくまで自分はトリステインの母だと公言しておられるとか」

 

「政治音痴のきみですら知っておることだ、既に他国にも知れ渡っておるじゃろう。さて、その上でだ。こたびの同盟締結の条件として、姫殿下の降嫁が求められておるわけじゃが、そもそも降嫁とは王族が王族以外の人物。つまり格下の家へ嫁ぐということじゃ」

 

 そこへ、太公望が訳知り顔で補足する。

 

「その際にだ、妻の地位が夫よりも高いことによる弊害で嫁ぎ先が混乱するのを防ぐため、元の家が持つ権威を全て捨て去るのが一般的だ。アンリエッタ姫の場合は、王族としての地位と王位継承権が消滅することになるであろう。実質最上位の継承者である姫君が、降嫁によってトリステインを去れば、残るのは――」

 

 カタカタと身体を震わせながら、エレオノールがその先を続けた。

 

「続く王位継承権第三位を持つのは、わたくしの父――ラ・ヴァリエール公爵です。姫殿下の輿入れ後に、その事実を主張すれば……昨今の国際情勢を鑑みるに、国を割ることなく王座に就くことが可能でしょう。もっとも、父にその意志があればの話ですが」

 

「ぶっちゃけ、それがマザリーニ枢機卿の狙いなのではないのかのう? おそらく、同盟調印文書でも婚姻(・・)ではなく降嫁(・・)を強調しておると思うぞ。横あいから、ゲルマニアの皇帝がトリステインの王位継承や国政に口出しできぬようにな」

 

 それに……と、太公望は分析を続ける。

 

「長きに渡る王座空位の影響で、中央政府はガタガタ。おまけに空からの脅威もある。無礼を承知で言うが、ちょっと頭の回る貴族なら、そんな国の舵取りなんぞ頼まれても引き受けたくはなかろう。少なくとも、わしならごめんだ。だが、枢機卿は公爵のような生真面目な人物であれば、祖国を放ってはおけず、自ら立ってくれるはずだと考えたのではなかろうか。いや、既に裏で手を組んでいると考えたほうが自然だのう」

 

 太公望の発言に、オスマン氏は内心でぎくりとした。

 

 以前、ラ・ヴァリエール公爵から「自分は今後どうすべきか」と問われたあの時。彼は公爵に対して国を先導する者になることを示唆している。

 

 それがトリステインにとって最善であろうと考えてのことであったが、その公爵が本当に王座へ昇る可能性が出てきた現在――自分が発した言葉の重みが、彼の両肩にのしかかってきた。

 

 王家の血を盲信していた彼は、もう存在していない。今のラ・ヴァリエール公爵は、自ら王として立つことを躊躇わないだろう――国と、大切な家族を守るために。

 

「し、しかし、それはあくまで可能性ですよね? そうならなかった場合のことも考えておいたほうが良いと、私は思うのですが」

 

「確かにコルベール君の言う通りじゃが、他の『秘宝』は、おいそれとは閲覧できる状態にはないぞい?」

 

 だが、そんな上司の言葉には耳を貸さず、コルベールは太公望の目をじっと見つめると、こう切り出した。

 

「魔法とは、何よりもイメージを重要とする技術……でしたな?」

 

 太公望の片眉が、ピクンと跳ねた。

 

「その、私はこういった交渉事は本来苦手です。それに、私が支払うことのできる対価など、たかが知れています。ですが、ミスタのアレ(・・)を使えば、もしかするとミス・ヴァリエールの新たな目覚めを促すことができるのではないかと、そう思えるのです」

 

「なんじゃ? コルベール君。いったい何を言っておるのだ?」

 

「何か特別な方法があるんですの!?」

 

 太公望は考えた。確かにアレ(・・)を使えばルイズの『空間把握能力』は飛躍的に伸びるだろう。実際に『扉』を見せてやることすら可能だ。しかし、行使にあたっての制約が厳しすぎる。オスマンの協力を仰げば、なんとかなるかもしれない……だが、その前に。

 

「ちなみに、コルベール殿がわしに提示しようとしている対価とは何だ?」

 

 コルベールは、どこまでも真剣な眼差しで太公望に向き合うと、言った。

 

「先程、エレオノール女史にお渡しした例の論文によって得られるであろう報奨の――全てをお支払いします」

 

 それを聞いたオスマン氏は目を剥いた。エレオノールの眼鏡がずり落ちた。

 

「待て! 早まるな! あの論文の価値は……!!」

 

「父さまの話では、最低でも十万エキュー……加えて王立アカデミーの首席研究員への『道』が開かれるかもしれませんのよ? そ、それを、おちび……いえ、ルイズのために失っても構わないと仰るんですの!?」

 

 ふたりの言葉に、コルベールは首を横に振った。

 

「正直なところ、それでも安過ぎると思えるのですよ。それに……これはミス・ヴァリエールやサイト君のためというより、私自身の好奇心を満たすためなのです。あの街並みを直に見て研究できるというのならば、私は何を失っても惜しくありません」

 

 やれやれ、やはり彼はとんでもない好奇心の塊だ。太公望は肩を竦めると、苦笑しながらコルベールに言った。

 

「おぬしは本当に交渉事には向かぬのう、コルベール殿。だが、その飽くなき探求心に免じて対話のテーブルにつくことを了承しよう」

 

「そ、それでは……!」

 

「焦るでない。おぬしも知っている通り、アレ(・・)は間違いなくここハルケギニアにおいて異端とされる技術だ。それは理解しておるな?」

 

「は、はい、もちろん!」

 

「と、いうわけなのだが……コルベール殿は大きな代償を支払うことを既に交渉材料として持ち出している。で、オスマン殿。それにエレオノール殿に確認したい。ルイズの魔法を伸ばす可能性がある技術を――ただし、バレたら確実に異端認定されるものを使うことに対する後方支援を行う意志はあるか?」

 

 オスマン氏は、ふんと鼻を鳴らすと即答した。

 

「もう少し情報がなければ許可できん。ああ、異端云々についてはどうでもいい。あくまでミスタ・コルベールの上司として、効果のわからんシロモノに、そんな大金を支払わせるわけにはいかんという意味でじゃ」

 

「わ、わたくしも同感です。そそ、そもそも、異端かどうか、み、見てみないことにはお答えのしようがありませんわ」

 

 ふたりの解答に、太公望はふむと頷くと、コルベールのほうを見て言った。

 

「ちと例の『二刀流』を、ここで披露してはもらえぬかのう?」

 

「了解しました」

 

 コルベールは頷くと、懐から一本、そして履いていたブーツの中からもう一本の杖を引き抜き、両手で構えた。

 

「ウル・カーノ」

 

 コルベールの詠唱が終了すると同時に、小さな炎が杖の先に灯った。それも――片側だけではなく両方に。

 

「ちょ」

 

「な、な、なななななな」

 

 驚くふたりをよそに、コルベールは次なる呪文を紡ぎ出す。

 

「イル・アース・デル」

 

 机の上に置かれていたインク壷と羽根ペンの素材が、それぞれ鉄と銅に変化した。

 

「んな!?」

 

「ま、ま、ままままま」

 

「フル・ソル・ウィンデ」

 

 今度は変化したインク壷と羽根ペンが宙へ浮き上がった。それぞれが、全く別の螺旋を描いて飛んでいる。

 

「ふむ、まだ一本での『複数同時展開』までには至っておらぬか」

 

「ええ、杖一本につきひとつ……ですね。一度、研究中にものぐさしましてな、個別に浮かせた三個の模型をそれぞれ別の場所へ運ぼうとしたんですが、全部落としてしまいましたよ。残念ながらまだ完全に習得したとは言い難い状態です」

 

「ま、待て! 何じゃこれは!?」

 

「ミスタの国の技術で『ニトウリュウ』というのだそうです。二本の杖を持つことにより、こんなふうに一回の詠唱で、それぞれ個別に魔法を発動させることができるのです」

 

 泡を食ったような表情で、エレオノールが叫んだ。

 

「ここ、こんなこと、母さまにも不可能ですわ! い、いったいどうやって……」

 

「私がこれを身に付けることができたのは、先程から我々が話題に出している、アレ(・・)のお陰なのです。正直、普通でない状況に置かれることになりますが……メイジとしての成長が望めるのは、ほぼ間違いありません」

 

 杖を二本持って魔法を使ってはいけないなどという教えは、今のブリミル教にはない。ただ、異端視――というよりも。異形と見られるのは確実だろう。しかし、少なくとも目の前のふたりには絶大なる効果を発揮した。

 

「後方支援とは、具体的に何を指すのかね?」

 

「な、内容にもよりますし、それを聞かせていただけないことにはなんとも……」

 

「絶対に人目につかぬ場所がなければ、危険すぎて実現できぬのだ。理由は言わずともわかるであろう? しかも、一度試して成功するとは限らぬしのう」

 

「間違っても他人には見られたくないということじゃな? それなら、火の塔にある倉庫をひとつ貸してやるわい。あそこならコルベール君の研究室とも近いし、授業に使う備品や、学院で使わなくなった家具が納められておる。何度か出入りしても怪しまれまいて」

 

「わたくしが行う支援というのは、もしかして……」

 

 深いため息をつきながら、太公望は答えた。

 

「例のごとく、母君には内緒にしておいてもらいたいのだ。もしも彼女がコルベール殿の『技』を身に付けたらどうなるか……」

 

 それに対するエレオノールの返答も、憂いを帯びていた。

 

「ええ。とてもよく理解できましたわ……」

 

「では、これで交渉は終了ということで構わぬか?」

 

「いや、せめてアレとやらがどんなものか、見せてもらいたいのじゃが?」

 

「で、できればわたくしも……」

 

「まあ、そうくるのが当然だろうの。コルベール殿、大変申し訳ないのだが……」

 

「外の監視と〝眠りの雲〟のことなら、お任せください」

 

「話が早くて助かる。では、早速――」

 

 ――こうして、オスマン氏とエレオノールは『夢の世界』を体験することとなった。

 

 煌めく星々に囲まれた『部屋』の中。好奇心と感動で顔を輝かせている女史のすぐ側で、オスマン氏は思った。彼がこの国に呼び寄せられたのは、事故などではない。全てはこのために――虚無の担い手を育て、導くために『始祖』ブリミル所縁の地から遣わされたに違いないと。

 

 だが、オスマン氏は物珍しい技術に目を奪われるがあまりに、いちばん肝心なことを忘れてしまっていた。太公望を呼んだ人物が、いったい誰であったのかを――。

 

 

 




いつも誤字報告大変ありがとうございます。
なかなか個別にお礼できず申し訳ございません。
心から感謝しておりますm(_ _)m

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