雪風と風の旅人   作:サイ・ナミカタ

94 / 111
第93話 鏡の国の姫君、踊る人形を欲するの事

 ――ハルケギニア大陸の南方に広がる海洋へと注ぐ大河、シレ川。

 

 その川沿いに、旧市街と呼ばれる大きな中州を挟むようにして発展した大都市、それがガリアの王都リュティスだ。

 

 魔法大国と呼ばれるこの国は、メイジ――それも、裕福な貴族の数が他国に比べて多い。金持ちが多いということは彼らに仕える従者も数多く存在するというわけで……つまるところこの街は、ハルケギニア諸国最大の都市なのであった。

 

 そしてその繁栄ぶりを如実に示すような場所が、ヴェルサルテイル宮殿から見て反対側、都の北東部に存在する。それがリュティス市立劇場を中心に四方へ伸びた繁華街だ。平日、しかも昼前であるにも拘わらず、大勢の人出で賑わっている。

 

 中でも東西に延びたベルクート街には、高位の貴族や上級市民しか立ち入れないような高級店――服飾店や宝石店はもちろんのこと、超一流のシェフが腕を振るうリストランテなどがずらりと並んでいる。通りをゆくのは、主に暇をもてあました貴族の奥方たちだ。派手に着飾った彼女たちは皆揃って召使いの少女を従え、優雅に街を練り歩いている。

 

 そんな中を、昨今流行の男装をしたタバサと彼女の従者という設定の太公望は目的地へ向かって歩を進めていた。

 

「ほほう、ここが噂のベルクート街か」

 

 太公望は、きょろきょろと辺りを見渡した。どの建物を見ても上品な造りで、高級感に溢れている。丁寧に積み上げられた煉瓦、軒先から吊り下げられている華美なランプ、見事な装飾が施された窓枠に填められている大きなガラス窓。そして、その向こう側に並べられているいかにも値の張りそうな品々――。

 

「なるほど、確かに下級貴族や一般市民が立ち入れるような場所ではなさそうだのう」

 

 そう呟いた直後。彼は、自分のすぐ前を歩いていた少女の手を引いた。

 

「お嬢さま、これはなんでしょう?」

 

 振り返ったタバサは、店の窓ガラスにべったり手をついた上に顔まで押しつけて中を覗き込むパートナーを見るやいなや背負っていた長杖を手に取り、彼をぽかりと殴った。

 

「痛ッ!」

 

「店に迷惑」

 

 しかし太公望はその場から離れようとせず、窓越しに寄せ木細工の小箱や、珍しい魔法人形(アルヴィー)が並べられた陳列棚を飽きもせずに見つめている。

 

 ――寒空に、再び木の杖による乾いた打撃音が響き渡った。

 

 道行く人々が、くすくす笑いながらふたりの側を通り過ぎてゆく。絵に描いたような田舎者の従者と、そんな彼を持て余しているように見える貴族の少女との対比が相当可笑しかったようだ。

 

 思わず大きな溜め息をつきそうになったタバサだったが、ふいに気付いた。

 

(どうして彼はこんな無知な子供のような真似を? 任務中だから、従者の役に没頭している? それならもっと別のやりかたがあるはず。もしかすると、何か理由があるのかもしれない)

 

 そう考えたタバサは太公望の仕草を注視した。相変わらず店内を気にしているようだが、よくよく観察してみると、彼の目は商品を見ていない。視線が向かう先はガラス窓に映る青空――。

 

 形のよいタバサの眉が、僅かに動く。

 

「わかった」

 

 振り返った太公望に、タバサはさらに続ける。

 

「用事が済んだら、好きなだけ見てかまわない」

 

「本当でございますか!?」

 

 主人が小さく頷くのを見た太公望の顔が、ぱっと輝いた。

 

「ありがとうございます! お優しい主人を持ったわたくしめは、幸せ者にございます!」

 

 最後まで聞くことなく、タバサは再び歩き出す。太公望は、慌ててその後へ続いた。

 

 

 ――それから約十分後。ふたりは、通りの奥にある豪奢な店の前に辿り着いた。

 

 看板に書かれていた店名を、太公望が読み上げる。

 

「ベルクート宝飾品店。ここで間違いないようです」

 

 タバサは同意を示す代わりに、無言のまま店の入口へと向かった。

 

 観音開きの扉の左右に、柱を挟んで大きなガラスが填め込まれた窓がせり出している。その奥には金や銀、プラチナなどの貴金属でしつらえた飾り棚が並んでおり、指輪や首飾り、イヤリングなどの様々な装飾品に埋め込まれた宝石類が照明を反射してきらきらと輝いていた。

 

 友人たちが見たら歓声を上げそうなそれらには目もくれず、タバサは店の最奥へと向かう。それからすぐに目的のものを発見した。

 

 店内でも特に豪華なショーケースの中で、燦然と輝く大粒の青いダイヤモンド。ダイヤは透明度の高いもの程高い価がつくが、中でも鮮やかな色のついたものは特に珍重される。この石が偽物ではなく本物ならば、どれほどの値段になるのか想像もつかない。

 

 ブルーダイヤモンドを見つめるタバサの元へ、整髪油で髪をぴしりと撫で付けた壮年の男性店員が近付いてきた。彼の顔には人当たりの良さそうな笑みが浮かんでいる。

 

「いらっしゃいませ、お嬢さま。本日はどういった品をお探しで?」

 

 タバサは躊躇うことなくケースの中の青いダイヤを指差した。

 

「これ」

 

 店員は心底申し訳なさそうな声で言った。

 

「このダイヤは売り物ではございません」

 

「これが欲しい」

 

 それを聞いた店員の目が、すっと細められた。

 

「こちら、二千万エキューはいたしますが……?」

 

「に、にに、にせんまんエキュー!?」

 

 落ち着き無く店内をうろうろしていた太公望が、素っ頓狂な声で叫んだ。

 

 平民の家族四人が一ヶ月間、都会で何不自由なく生活できる額が約十エキュー。千エキューもあればトリスタニアの郊外に庭付きの家が買えるとも聞いていた。それらと比較することで、二千万という額が途方もないものだということがわかる。

 

 しかしタバサは全く動じずに応えた。

 

「買った」

 

「左様でございますか。それでは手付け金を頂戴致したく……」

 

 太公望が慌ててタバサの側へ駆け寄る。彼の主人は財布を受け取ると、中から三枚のコインを取り出し、店員の手に握らせた。

 

 店員は渡されたものを見た。金貨ではなく銅貨、それもたったの三枚。到底二千万エキューの手付けになる額ではないのだが、彼は怒り出すどころか少女に向かって丁重な礼をした。

 

「確かに戴きました。それでは、こちらへ……」

 

 促されるまま、ふたりは店員の後へ続く。絹のカーテンで仕切られた店の奥へ入り、いくつかの部屋と通路を通り抜けると、その先は袋小路になっていた。

 

 店員が壁際に置かれた大きな棚の横についていた紐をぐいと引くと、ずるずると音を立てて棚が横に動き、裏に隠されていた扉が現れた。

 

「どうぞ、お通りくださいませ」

 

 ――そう。先程のブルーダイヤに関するやりとりは、王政府からの指示書に記されていた合い言葉。店員は客がここへ至る意志と資格があるかどうかを試していたのだ。

 

 扉の奥には階段があり、地下へ繋がっていた。言われるまま、ふたりは階段を下りた。ランプの明かりで煌々と照らされた先は突き当たりになっており、大きな鉄扉が行く手を塞いでいる。その隣には小洒落たテーブルかけの上にベルが置かれたカウンターがある。

 

 カウンターの奥にいた黒服の男が、タバサたち主従の姿を見るなり告げた。

 

「これはこれは、貴族のお客さまですか。恐れ入りますが、こちらで杖をお預かりする決まりとなっておりますので……」

 

 了承の印に小さく頷くと、タバサは背負っていた長杖を男に手渡した。それを羅紗の布で丁重に包むと、男は笑みを浮かべて言った。

 

「ご協力ありがとうございます。それでは、楽しいひとときをお過ごしくださいませ」

 

 それから、ドアの両脇に立っている詰め襟姿のドアマンふたりに目配せをした。

 

 ドアマンたちが重そうな鉄扉を開くと同時に、その奥から喧噪と、煙草の煙や酒の臭いが混じった何とも言い難い空気がどっと溢れ出してきた。

 

「秘密の社交場『天国』へようこそ!」

 

 派手な化粧を施し、きわどいドレスに身を包んだ接待係の女たちがふたりを出迎えた。

 

「あらあら、ぼうやたち。今日は誰かの付き添いかしら?」

 

 太公望が、彼女たちから守るようにタバサの前へ出た。

 

「お、お嬢さまに無礼をなことを言うな!」

 

 よくよく見ると、彼の身体はぷるぷると小さく震えている。

 

(相変わらず演技過剰……)

 

 などとタバサが冷めた目で観察を続けていると、女のひとりが声を上げた。

 

「あらやだ、ほんとだわ。こっちの子、女の子じゃないの!」

 

「まったく、どこの商家のお嬢ちゃんだい? どっちにせよ、ここは子供の遊び場じゃないんだ。とっとと帰んな!」

 

 女が小馬鹿にしたような表情で叫ぶ。

 

(この怒鳴り声の中に、わたしたちを気遣うような音が含まれている気がする)

 

 そんなタバサの思考は、野太い男の声によって断ち切られた。

 

「この馬鹿者が。貴族のお嬢さまに対して無礼なことを言うな」

 

 現れたのは、恰幅のよい商人風の男だった。四十をいくつか過ぎたくらいであろうその人物は、女たちを叱りつけて奥へと下がらせた。それから、タバサに向かって深々と頭を下げた。

 

「接客係の無礼をお詫び申し上げます」

 

「あなたは?」

 

「当カジノの支配人、ギルモアと申します」

 

 ギルモアと名乗ったその男は、ひとの良さそうな笑みを浮かべている。しかし、その目は値踏みするかのようにタバサたち主従を観察していた。

 

「重ね重ねのご無礼、どうかお許しを。お名前を頂戴してよろしいでしょうか」

 

 小さく首をかしげたタバサに向かって、ギルモアは理由を告げた。

 

「当カジノは安全を第一に謳っておりますゆえ、慎重を期すために全てのお客さまからお名前をお伺いしているのです」

 

 それを聞いたタバサは、王宮で言われた通りの偽名を口にした。

 

「ド・サリヴァン伯爵家の次女、マルグリット」

 

「ありがとうございます。ところでお嬢さま、こういった遊びは今まで……」

 

「少しだけ」

 

「左様でございますか。どうやら他のカジノではご満足いただけなかったようですな」

 

 タバサは周囲を見回した。的当てやカード、ルーレットにサイコロと、部屋のそこかしこで多種多様なゲームが行われている。それらに群がっている客は皆、裕福そうな者ばかりだ。

 

 と、それまで物珍しそうに辺りを眺めていた太公望がギルモアに声をかけた。

 

「支配人さん」

 

「はい、何でしょう?」

 

「とても立派なカジノなのに、どうしてこんな地下に造ったんですか? 外でやったほうが、もっとたくさんお客が来ると思うんですけど」

 

 ギルモアは小柄な主従を見比べた。恥ずかしそうに俯いている少女と、好奇心ではちきれんばかりの少年。これは良いカモになりそうだ……などという思いはおくびにも出さず、彼は投げかけられた疑問に答えた。

 

「我が国においてカジノは合法ですが、賭け金に上限がございます。当店では、そういった普通のレートではご満足いただけないお客さま方のために、特別な設定で運営しているのですよ」

 

「そう。だから、地下に店を構えている」

 

 タバサの補足に、ギルモアは満足げに頷いた。

 

「左様でございます」

 

 太公望が、ぽんと手を打った。

 

「なるほど! お嬢さまはそういう店で遊ぶのが楽しみで、朝からそわそわしていたと……」

 

 コーンという小気味のよい音が、ホールに響き渡った。

 

「ひ、酷い……いきなり殴るなんて」

 

 涙目で床に蹲る太公望へ、冷たい声が降り注いだ

 

「自業自得」

 

「そんな、わたくしめが一体何をしたと?」

 

 無言で従者をぽかぽか殴り始めた少女を、支配人が止めた。

 

「まあまあ、お嬢さま。そのあたりで……こうして折角いらしたのですから、私がご案内致しましょう。今日はどのゲームで遊んで行かれますか?」

 

 太公望を殴る手を止め、少し考えたタバサは――ひとつの卓を指差した。

 

「あれ」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――タバサが選んだのは、サイコロを使ったゲームだった。

 

 ルールは簡単。三つのサイコロを銀のカップに入れて振り、出た目を記録する。それから再度振り直し、次に出た目が前の合計値よりも大きいか小さいかを当てるというものだ。

 

 軍資金として預かってきた金貨をチップ――このカジノ専用の通貨に変えると、タバサは早速賭けに臨んだ。

 

 そんな彼女の様子を、全く別の場所から覗き見ている者たちがいた。太公望を起点に『窓』を展開した王天君と、イザベラである。

 

「ふふん、ずいぶんとみみっちい賭け方するのね。意気地がないわぁ~!」

 

 一回の勝負にタバサが賭けているのはチップ一枚。投入できる最少額である。ちりんちりんとカップにサイコロがぶつかる音がする。テーブルに伏せられた賽の目は、六・三・四。前回の目は二・三・六……『小』に張っていたタバサの前から、チップが持ち去られる。

 

「あはははははッ、早速負けてるじゃないの! みっともないったら!」

 

 『窓』の下で、再びタバサがチップを取り出す。

 

「あらやだ、また一枚なのぉ~? 百エキューしか渡さなかったから、仕方ないのかもしれないけど。そうだ! このまま最後まで負け続けたら、全額年金から引いてやろうかしら。あの子を借金漬けにしてやるのも面白いわぁ~!」

 

 げらげらと笑い続けるイザベラに、王天君が訊ねた。

 

「オメー、あの女が換金してたとこ見てたんだな?」

 

「もちろんよ。チップ一枚が金貨一枚だなんて、情報通りかなりの高レートだわ……って、あ! また負けてる! ふふん、魔法を取り上げられたらてんでダメじゃないのさ。まったく、使えないったらないわね!」

 

 王天君の目が、すっと細められた。

 

「さぁて、そいつはどうかな」

 

「え? 何かわかったの?」

 

「まぁ、いいから黙って見てな」

 

 それから十回ほど、タバサは負け続けた。隣の椅子にちょこんと座っていた太公望は、ディーラーが持つカップと少しずつ小さくなってゆくチップの山を、はらはらしたような表情で交互に見比べている。

 

 ところが十数回目のゲームで、状況が一変した。それまでじっとディーラーの手元を見つめていたタバサの目元がキラリと光る。そして、これまでとは一転。なんと三十枚ものチップを一度に賭けた。

 

「お嬢さま! いくら負け続けだからといって、自棄になっては……」

 

「黙って」

 

 チン、チロリンと鳴きながら、カップの中でサイコロが踊る。ディーラーが、卓にカップを伏せる。ごくりという唾を飲む音が響く。そして、結果――。

 

 出た目は二・五・一。前回よりも合計値が大きい。そしてタバサが張ったのは『大』だった。チップの山が、一気に高くなる。

 

「やりました! やりましたよお嬢さま! ほら、こんなに!」

 

 その後、タバサは少額を賭け続けて時折大きく張るという行為を繰り返し、チップの山を少しずつ大きくしていった。

 

「ね、ねえ、オーテンクン! あの子、なんでいきなり勝ち始めたの!?」

 

 戸惑いと苛立ちを隠そうともしない王女に、王天君は意地の悪い笑みを見せた。

 

「目。それと耳だ」

 

「どういう意味?」

 

「あの女、最初の十回は完全に捨てていやがった。んで、徹底的にディーラーのクセを盗んだっつうわけだ」

 

「クセを……盗んだ?」

 

「あぁ。今は確実に見切れた時だけデカく張ってやがる」

 

 なるほど、相手のクセを目で盗んだということか。だとすると、耳とは一体……と、しばし考えたイザベラは、答えに行き着き思わず叫んだ。

 

「まさかあの子、目でカップにサイコロが入れられる瞬間を捉えて――そこからは、音でどのくらい回転したかを聞き取っているってこと!?」

 

 ニッと笑い返してきた王天君を見て、イザベラは悟った。どうやらこれが正解らしい。再び『窓』を覗き込みがら思い返す。風メイジは音に敏感だ。優秀なメイジとして知られる従姉妹が、それを武器にしていることは想像に難くない。

 

 魔法がなくても有能さを垣間見せる従姉妹――これが半年前のイザベラなら、悔しさのあまり家具やら小道具やらに八つ当たりしていただろう。しかしタバサと同様、彼女も少なからず成長していた。モノに当たる代わりに思考を切り替えたのだ。

 

 ――わたしのパートナーは、歴戦のカジノのディーラーすら気付かない従姉妹の技を即座に見切った。

 

 そもそも王天君の『窓』を有効活用するためには、目に映ったものの詳細を確実に捉え、分析し、必要な情報を得るための知識と観察・洞察力が欠かせない。これまでイザベラは、彼を通してそれらを学んできたつもりであったが――この件でもわかる通り、未だパートナーのそれには到底及ばないことを自覚している。

 

 そして、王天君がイザベラの元へ来るまでの間『窓』を開くための起点となっていたのは、彼の弟だ。ということは、つまり――。

 

「あなたの弟も、シャルロットが何をしているのかわかっているのよね?」

 

「だろぉな。飽きもせずにあんなダセェ真似してやがるしよ」

 

 主人が勝つと派手に喜び、負けたらばったりと机に突っ伏す。或いは大げさに嘆く――見事なまでに彼は道化に徹していた。あの所作が迷彩となり、少女の行為がバレにくくなっているのだ。

 

 イザベラは、つまらなさそうにフンと鼻を鳴らした。

 

「もったいないわねぇ~。わたしとしては、シャルロットの引き立て役なんかよりも、彼の『目』に期待しているんだけど」

 

 わたしが仕掛けた罠をことごとく見破ったくらいなんだから、イカサマのタネを突き止めるくらい簡単でしょうに。そう続けたイザベラに、王天君は不気味な笑みを浮かべて見せた。

 

「今はその時じゃねぇってこった。まぁ、そのうち動くだろ」

 

 

○●○●○●○●

 

 ――それから一時間ほどして。

 

 タバサの前にチップの山が築き上げられていた。その額およそ二千エキュー。幼い(ようにしか見えない)少女が勝っているせいか、テーブルの周囲に少しずつギャラリーが増えてきている。

 

 彼らと周囲のテーブルを見ながら、太公望がいかにも「退屈で仕方がありません」と言うように身体を揺り動かし始めた。

 

 それを合図と受け取ったタバサは、チップを十枚ほど彼に手渡した。

 

「遊びに行ってもいい」

 

「お嬢さまの側を離れるわけには……」

 

「大丈夫」

 

「でも……」

 

「いいから」

 

 嬉しそうに、しかしぺこぺこと頭を下げながら立ち去る太公望を見送るタバサの頭上から、ふいに声がかけられた。

 

「お嬢さまはお優しいのですね」

 

 顔を上げると、銀色の長い髪を括って後ろへ流した若い男が立っていた。

 

「隣に座っても……?」

 

 タバサが頷くと、青年は彼女の隣の椅子へ腰掛けた。爽やかな香りがふわりと鼻腔をくすぐる。柑橘系の香水――どうやら、この男がつけているらしい。

 

 清潔そうなシャツに黒いベスト。周囲を行き交う給仕たちと同じ服装だ。ただ、どこか他の者たちとは違う何かがタバサの中で引っかかる。

 

「お供の彼、自分もやってみたくてたまらないといった様子でしたからね。きっとお嬢さまに感謝していますよ」

 

「違う」

 

「と、いいますと?」

 

「騒ぐから、席を外させただけ」

 

 そんなやりとりをしていたふたりの元へ、どたばたという足音が近付いてきた。

 

「お嬢さま、ただいま戻りました……」

 

 しょんぼりとした声の主は太公望だった。見事なまでにボロ負けしてきたといった格好だ。タバサは黙ってチップを渡す。ぱっと顔を輝かせた彼に、銀の髪の給仕が言った。

 

「いきなり賭けないほうがいいですよ。最初は周りのひとたちのやりかたを見て、ルールを覚えることに専念すれば、だんだん勝てるようになりますから」

 

「わかりました。ありがとう、お兄さん!」

 

 笑みを浮かべ、ぺこりと礼をして立ち去った少年を微笑みながら見送った青年は、タバサに向き直った。

 

「申し遅れました、接客係のトマと申します。どうかお見知りおきを……」

 

 一礼したトマに向かって、タバサは言った。

 

「ありがとう」

 

「何のことでしょうか?」

 

「彼に教えてくれた」

 

 ふっと小さく笑うと、トマは答えた。

 

「素直ないい子ですね。正直な感想を申し上げますと、こういった場所にはあまり向いていないように思いますよ」

 

 もしも本心からの言葉だとしたら。

 

(このひとは、こちらが申し訳なくなるくらい見事に騙されている……)

 

 と、タバサは思った。

 

(彼があんなに早く負けて戻ってきたのは、ほぼ間違いなくわざとだろう。ああやって周囲を油断させているのだ)

 

 それがわかっていたからこそタバサは余計なことを言わず、黙ってチップを手渡した。きっと、この行為は何度か繰り返される――。

 

 ……などと考えていた矢先、またしても太公望が戻ってきた。がっくりと肩を落とし、ご丁寧にも目元に涙まで浮かべている。

 

 そんな彼の様子を見ていた周囲の客や店員たちは、揃って苦笑いを浮かべていた。完全に太公望のペースだ。

 

 大人しく席につこうとした太公望へ、タバサは再度チップを押しやる。ビクリと大げさに身体を震わせたパートナーに、タバサは静かに告げた。

 

「まだたくさんある」

 

 飛び跳ねるようにして立ち去った太公望を見送ることなく、タバサはゲームを再開した。このやりとりを見ていたトマが、静かな声で言った。

 

「やはり、お嬢さまはお優しくていらっしゃる。ですが、優し過ぎると手酷い火傷を負いますよ。くれぐれもご用心を――と、グラスが空になっていますね。何かお飲みになりますか?」

 

 その問いかけに、タバサは頷いた。

 

「スパークリング・ワイン。それと……」

 

「はい」

 

「あなたも、何か好きなものを頼んで構わない」

 

「畏まりました。では、ありがたく頂戴致します。少々お待ちくださいませ」

 

 トマは爽やかな笑みを浮かべて立ち上がると頭を下げ、注文の品を取りに行った。それを見届けたタバサは再びゲームに集中しようと向き直ったその直後。奥のテーブルから、激しい怒声が響いてきた。

 

「こんなことはありえない! このワシを馬鹿にしているのか!?」

 

 タバサを含む、店内の視線が一斉にそちらへ集中した。問題の卓で声を張り上げたのは、髪に白いものが混じり始めた中年男だった。激昂のあまり全身を震わせている。身に纏っているマントの拵えから察するに、王宮ではなく街で働く官吏――つまるところ、貴族の客であろう。

 

「これはこれは旦那さま、如何なさいました?」

 

 支配人のギルモアが、如才なさげな顔つきで貴族の客に近付いた。

 

「あの場面で『フォー・ファイア』が揃うなぞ、いくらなんでも出来すぎだ!」

 

「しかし旦那さま、勝負は時の運と申しますから……」

 

「ああ、一度だけならワシにツキがなかっただけだと諦めただろう。だが、これで五度目だ! こんな馬鹿なことはありえん! イカサマだ!!」

 

「それは言いがかりでございます。旦那さまもご存じの通り、当店には貴族のお客さまがご来店なされた際には、杖をお預かりするという規則がございます。店内で魔法を使われたら、調度に傷がついてしまいますから……」

 

 と、表情ひとつ変えずにギルモアは続けた。

 

「ご覧ください。これこの通り、私は杖を持っておりません。もちろん私だけではなく、店内にいるディーラーも、シューターも、接客係たちも例外なく……で、ございます。なんでしたら〝魔法探知〟の呪文を試していただいても結構ですよ」

 

「で、では、魔法を使わないイカサマをしておるのだろう!?」

 

「カードを切ったのも、配ったのも、旦那さまでございませんか。お楽しみいただいたサンクをはじめとするディーラーと直接やりとりするゲームは全て、そのようにさせていただいております。もちろんこれは、当店の誠実さを示すためのもので……」

 

 支配人の言葉を最後まで聞くことなく、貴族の客はどすどすと足音を立てながら大股歩きで出口へと消えた。

 

「お騒がせして申し訳ございませんでした。どうか、引き続きゲームをお楽しみください」

 

 息を飲んで見つめていた客たちに向け、ギルモアは頭を下げた。ところが、本物の騒動が起きたのはこの後だった。

 

「おのれ、平民の分際で貴族をナメくさりおって……!」

 

 再び響いた怒声に、ホールにいた者たちが振り返る。すると、そこには先程の貴族が顔を怒りで蒼白にして立っていた。その手には年代物の杖が握られている。彼は店を出たのではなく、カウンターへ杖を取りに戻ったのだ。

 

「ウル・カーノ・ギョーフ……」

 

 男の呪文が完成し、杖の先に大きな火の玉が現れた。それを見た客たちは皆、悲鳴を上げて逃げ惑う。炎はまっすぐギルモアへ向かって飛びかかり、そのまま飲み込んでしまう――かに見えた、その瞬間。

 

 何者かが滑り込むように現れると、ギルモアを抱えて床に転がった。

 

「おお、トマ!」

 

 それは間違いなく、先程タバサから注文を受け取った接客係のトマあった。貴族が放った魔法の火の玉は爆発したが、爆心地のカーペットが焦げた程度で、目標や周囲にいた人々を傷つけるには至らなかった。

 

「こ、この……! 邪魔をするなら、貴様も道連れにしてくれる!」

 

 怒りで我を忘れた中年貴族が再び杖を振り上げる。だが、それを聞いたトマはばねのように立ち上がってギルモアから離れると、疾風のような勢いで貴族の懐へ飛び込んだ。そのとき、タバサは彼の左手首――長いシャツの袖口がキラリと光るのを垣間見た。

 

 次の瞬間。貴族が持っていた杖が切断され、先端部分が床にぽとりと落ちた。

 

「なにっ!?」

 

 中年貴族が驚いている隙を突き、トマは素早く後ろへ回り込んだ。そして右手で相手の腕を掴み動けなくすると、左手に持っていた短剣をすいと喉元に突き付けた。周囲から、どっと拍手と歓声が上がる。

 

「店内では魔法の使用が禁じられております」

 

 屈辱に我を忘れた貴族が叫んだ。

 

「おのれ……貴族にこのような真似をして、ただで済むと思っているのか!?」

 

「失礼ですが、杖を切り落とされた……それも平民如きにやられたなどと世間に知れ渡った場合、お立場が危うくなるのは閣下のほうではありませんか?」

 

 恥辱に全身を震わせながら立ち去る中年貴族を一瞥すると、トマは客たちに向かって優雅に一礼して見せた。再び、店内ホールは歓声に包まれる。しかし、今度は一部から小さな舌打ちや苛立ったような呟きが混じっていた。

 

 タバサの耳が捉えたのは「生意気な平民め……」といった中年貴族に対する同情と傲慢さが溢れる呟き。あるいは「貴族の面汚しめが」「紳士の社交場で杖を抜くとは無粋にも程がある」などといった非難の声だ。

 

 それにしても……と、タバサは思った。トマのあの動き――袖口から短剣を取り出す仕草が引っかかるのだ。以前、あれと似た動きをどこかで見たような……。

 

「すごいですねえ、あのお兄さん! 魔法無しで貴族をやっつけちゃうなんて」

 

 振り向くと、いつのまにか太公望が後ろに立っていた。タバサはすぐさま思考を切り替える。騒動に気付いて、わたしを守るために戻って来てくれたのだろうか。

 

 そんなタバサの幻想は、即座に打ち砕かれた。

 

「あの、お嬢さま。軍資金の追加をお願いしたいのですが……」

 

 おずおずと両手を差し出す彼を見たタバサの胸に、暗雲が立ちこめてきた。チップを手渡しながら周囲の者たちに聞こえないよう小声で訊ねる。

 

「あなた、賭博の経験は?」

 

「少しだけなら」

 

「結果は?」

 

 逃げるように駆けていった太公望の背を呆然と見送りながら、タバサは思った。今回の任務は彼が最も得意とする頭脳戦ということで大きな期待を寄せていたが……どんなに頭が良く抜け目がなくとも、それが賭け事の強さに繋がるとは限らないのだ。

 

(彼が負け続けているのが演技ではなく、単に弱いだけなのだとしたら――)

 

 タバサは再びテーブルにつくとゲームを再開した。銀のカップが振られ、サイコロが転がる。出た目の合計値は七で、前回より小さい。タバサがベットしたのは『大』だった。

 

 回収されてゆくチップを見遣りながら、タバサは我知らず呟いた。

 

「わたしは弱くなった」

 

 あの〝使い魔召喚の儀〟が執り行われる以前。わたしは心を持たぬ人形となり、ただひたすらに〝力〟を追い求めていた。そうしなければ、目的――父の仇を討ち、母の心を取り戻すことなどできないと、頑なに信じていたから。

 

 当時のわたしなら、彼が敗北を続ける姿に不安など覚えなかっただろう。誰にも頼らず、自分ひとりで戦い続けていたのだから。

 

「このままじゃいけない」

 

 これまで気付いていなかったが、心のどこかに甘えがあったのだろう。わたしが負けても、彼がきっとなんとかしてくれる。そんなふうに考えてはいなかっただろうか?

 

 今の境地に至れたのは、みんなが手を差し伸べてくれたから。ひとりではできないことも、大勢が力を合わせることで辿り着けることを知った。

 

「でも……」

 

 だからといって、研鑽を忘れていいわけじゃない。どうしても自分だけで乗り越えなければいけない壁が、世の中にはたくさんあるのだから。

 

「わたしは、それを忘れてはいけない」

 

 目を閉じ、乱れていた呼吸を整える。

 

 頭の中から雑念を追い出し、クリアにする。

 

 ゲームに集中し――勝つことだけを考える。

 

 カジノに損失を与えるほど儲けて見せれば、店側は先程の貴族にしてみせたようなイカサマを仕掛けてくるはず。そこで、そのカラクリを見破ってみせる。

 

 これくらいの任務を自分ひとりでこなせないようでは、双子の妹の行方と伯父の真意を探ることなんて、できるわけがないから。

 

 

○●○●○●○●

 

 ――いっぽうそのころ。

 

 『窓』からカジノを覗き見ていたイザベラは、奇しくも従姉妹と同じ考えに至っていた。その方向性はまた違っていたが。

 

「ねえ、オーテンクン。まさかとは思うけど、あなたの弟って……賭け事の類が苦手だったりするのかしら?」

 

「ギャンブルか。そういやアイツ、国元で象レースにハマったことがあんだけどよぉ」

 

「ゾウ?」

 

「コイツのこった」

 

 王天君がパチンと指を鳴らすと、イザベラの前に新しい『窓』が現れた。そこには、ハルケギニアでは見たことのない動物が映し出されている。全身がくすんだ灰色で、顔から長い筒のようなものが伸びている。

 

(頭の横についている、大きな皮翼のようなものは何かしら? あれで空を飛ぶとか、正直考えにくいんだけど……まさか、耳じゃないわよね)

 

 足下には獅子とよく似た生き物がいた。背後にそびえ立つ木の高さや、この獅子もどきと比較すると、ゾウとやらはかなり大きな動物だということがわかる。

 

「それで、このゾウと賭け事に何の関係があるのかしら?」

 

「人間の国でな……このゾウを集めて賭けレースをしてたんだ。それも、賭け金の上限ナシで」

 

「ふぅん。それで?」

 

 王天君は勿体振るようにテーブルの上に置いてあったグラスを傾け、喉を潤す。それから続きを語り始めた。

 

「アイツよぉ。あちこちから借金して、一頭のゾウに全額つぎ込んでなぁ」

 

「もちろん勝算あってのことよね?」

 

「まぁな。太公望の野郎、そのゾウに乗る騎手に手ぇ回しやがったんだ。走っている最中は見えねぇように、鞍に乗らねぇで浮いてろってな」

 

「思いっきりイカサマじゃないのさ!」

 

「あぁ、そうだ。けどな……」

 

「その様子だと、うまくいかなかったのね。騎手が応じなかったのかしら?」

 

「いいや、騎手は言うことを聞いて浮いたままゾウを走らせた。だがなぁ、コースの途中にカーブがあってよぉ……考えてもみろ、あんだけ図体のデケェ生き物を全力で走らせた挙げ句、(おもり)になるようなモンも無しで方向転換させたら、どうなると思う?」

 

 イザベラは、その様を頭に思い浮かべてみた。馬は急に止まれない。その馬よりもずっと大きな動物が全力で走ったらどうなるか。

 

「うまく曲がれなくて……コースから飛び出しちゃった、とか?」

 

 その解答に対し、王天君は拍手と爆笑でもって応えた。

 

「その通りだ。結果はボロ負け! あの馬鹿、デケェ借金こさえて夜逃げしやがったんだぜぇ! アイツに投資した連中は、もう上を下への大騒ぎでなぁ……ク、ククククッ……ハハ、ハハハハハハッ!!」

 

 これを聞いたイザベラは思った。

 

(彼、なんだか弟の失敗を楽しんでるみたい)

 

 そういえば、最近になってようやく仲直りしたみたいなことを言っていた覚えが――。

 

「ねえ。もし彼がここで大負けした場合――」

 

「あぁ、心配すんな。このオレが絶対逃がしゃしねぇよ」

 

 間違ってもそんな事態にゃならねぇだろうけどな。と、内心独白する王天君。

 

「ホントにいいの? だって、そうなったらあなたの弟、最悪一生タダ働きになるわよ?」

 

 そう続けたイザベラに向けて、王天君はニタリと笑い返した。

 

「別に構いやしねぇよ。アイツには、さんざ探し回ったオレの苦労に見合った働きをしてもらわねぇとな。それに――あの女への仕返しにもなる」

 

「シャルロットのことね」

 

 王天君に向けて、イザベラも意地の悪い笑みを返す。

 

 もしも従姉妹がこの任務に失敗した場合――当然のことながら、罰を与えることができる。それが王天君の弟に足を引っ張られるという形であれば、なおよろしい。

 

 父王から与えられた仕事の解決が遅くなるのは問題だが、北花壇騎士団のメンバーはあのふたりだけではない。早急に代わりの者を派遣すれば済む話だ。

 

 もちろん、成功すればそれだけ父の覚えが目出度くなる。イザベラにとって、彼らが成功しても失敗してもオイシイ状況であることに変わりはない。

 

 ソファーの上に身体を投げ出したイザベラは、にやにやと笑いながら『窓』に映る従姉妹に向かって囁いた。

 

「ねえ、シャルロット。お前は人形……わたしの玩具(オモチャ)なんだ。愉快に踊って、楽しませてよね」

 

 

 




そ(の助けにきてくれたと思ったなどという)
げ(んそうを)
ぶ(ちこわす)。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。