ここはハルケギニアという異世界。
大気は澄み切っていて、葉はみずみずしく、燦爛と照らす太陽の光は湖の透明な水を貫いて水底を照らす。精霊はあまねくところに揺蕩い、双子の月が人々の営みを優しく見守る。
そんな、穏やかな場所。
人々の欲望がひしめき、歪み、愚かな狼煙をあげようと、この世界は変わらず美しいままだった。
プロローグ『魔王さま召喚の儀』
トリステイン王国、トリステイン魔法学院。伝統あるその学院に、ヴァリエール家の息女であるルイズ・フランソワーズは通っている。それは将来、貴族のみが扱える魔法という奇跡を会得し、民草を導く公爵の名を継ぐためだった。
しかし、そこには致命的な問題があった。ルイズは魔法の才にまるで恵まれなかったのだ。
そうして付いた二つ名が『ゼロのルイズ』。
ルイズは血筋に恵まれていたし、だからといって努力を怠ることもなかった。だというのに、ルイズの魔法の才は一向に開花する兆しがなかった。
同年代の貴族の子どもが次々と魔法の力に目覚めていくのに、ルイズはひとり魔法を扱えないまま置いてけぼりにされてしまった。その苦悩はいかんともしがたいもので、親族と屋敷の使用人たちは泣いてばかりのルイズの扱いに困った。
孤独を抱えていたのは、想像するまでもないことだった。それでもルイズは努力を止めなかった。
そうして迎えた魔法学院二年次の進級試験。
それは使い魔召喚の儀と呼ばれ、召喚魔法を用いて生涯を共にする使い魔を召喚する一大行事だった。ただ、召喚魔法は決して高度なものではなく、試験と言っても生徒たちに気負う様子はない。
一般の生徒からすれば、ただの通過儀礼。
しかし一度も魔法を成功させたことがないルイズにとって、何よりも大きな壁だった。通過儀礼をこなせない生徒は、当然ながら進級させてはもらえない。
並々ならぬ緊張を抱え、ルイズは上ずった声で呪文を紡ぐ。
「我が名はルイズ・フランソワーズ・ル、ルブれぁ、あ……っ」
緊張のあまり、ルイズは舌を噛んで詠唱を中断させる。
くすくすと嘲笑が湧いた。顔をりんごのように紅潮させたルイズは、咳払いをして呼吸を落ち着かせる。
「こほん。我が名はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド……ラ・ヴァリエール!
い、いつ、五つの力を司る、ペンダゴン!」
周囲を取り巻く生徒たちは、失敗魔法しか起こさないルイズがまさか魔法を成功させるとは思っておらず、その光景にまるで興味を持たずに隣の生徒と談笑したり、召喚したばかりの使い魔と戯れたりしていた。
この使い魔の義の監督役であるジャン・コルベールと、雪風と呼ばれるメイジのタバサだけが、眉をひそめてその光景を見守っていた。
「我のさだめっ、サダメに従いし使い魔を――」
そのとき、コルベールとタバサは杖の柄を握っていた。
「召喚せよ――!!」
杖を高々と掲げ、ほとんど裏返ったような声で、肺から空気を絞りだすように叫んだ。
声は、高らかに空へと吸い込まれていく。
暖かな陽気と、めいっぱい葉を伸ばして陽光を浴びる緑。遠くからは木のささめきと鳥のさえずりが聴こえる。
ある日の穏やかな午後だった。
ミシミシ、ミシミシ、と何かが裂ける音がした。
理解を超えた現象を前に、周囲を取り巻く生徒たちの声が止んだ。
そして、この場に居るすべての人間が、その空間に視線を釘付けにされた。
コルベールの寂しい額に脂汗がにじむ。『炎蛇』と呼ばれていた頃の記憶が蘇るようだった。
「頭が高いぞ」
空間が裂けたその向こう側は、昏くどろどろとした闇が広がっていた。その奥から、鈴を転がしたような少女の声が聴こえてきた。
「その中でも、殊更語るに耐えぬ蒙昧な輩がおるようだな」
黒いリボンのローファーが緑を踏む。声の主があざやかに大地へ降り立った。
ドレスのフリルと、胸元に飾られた真紅のリボンがふわりと舞う。
その姿は少女であり、やんごとなき令嬢のようでもあった。
ルイズは困惑していた。はじめこそ、魔法が成功したことに歓喜で全身の血が湧き上がるような感覚に浸っていたものの、召喚した使い魔は自分と変わらぬ背丈の少女だったのだ。
そしてなにより、その少女がやんごとなき身分であろうこと。フリルと金の刺繍がふんだんにあしらわれた真紅と漆黒のドレス、腰まで伸びた真珠のようにつややかなブロンドと、切り揃えられた前髪の下に覗くアメジストをそのまま埋め込んだような双眸。
さらには、まさしく王女のような立ち居振る舞い。
容姿、服装、所作のひとつひとつ、どれをとっても貴族の女として敗北感を覚えてしまうほどだった。
「お、女の子?」
コルベールの気が抜けたような声は、がやがやと騒ぐ生徒たちの声に埋もれていった。
『ゼロのルイズ』が魔法に成功したと思えば、見たこともない現象を引き起こし、現れたのが貴族の少女。騒ぎたい盛りの生徒たちにとって、これ以上にないネタだった。
「ああ、あなた!」
ルイズは、半ば自棄になったようにずんずんと少女へ近づいていった。
本当は怒鳴りつけたい気分だったが、少女の持つ気品に負けて肩がこわばっていた。
「だ、誰よ!? どうしてサモン・サーヴァントで人が呼ばれるの!?」
「余に名を尋ねるか」
少女はそれが当然であるかのように、貴族であるルイズを下に見る態度をとる。
背丈は変わらないのに、まるで見下ろすような目で無表情に言う。
「そうよ! わたしが召喚したんだもの」
「なるほど、おまえか。余の召喚者は」
「……な、なによ」
少女はつま先から頭の天辺まで、まるで美術品を鑑賞するような目でルイズをじっと観察する。
そして、無表情の面貌が口角を上げた。
「良かろう。名を告げよ」
せっかく魔法が成功したというのに、まるで水を差すようなこの少女の存在。人間がまさか使い魔の代わりになるはずもない。加えて、その見下すような傲岸不遜な態度に、ルイズの堪忍袋の緒は切れかけていた。
「どうしてあんたは上から目線なのよ! わたしが訊いてるの!」
「良かろう、と。王に名を尋ねる非礼を許すと言ったのだ。それが気に食わぬというのか?」
「お、王……? 何ふざけたこと言ってるのよ、あんたみたいな子どもが」
生徒たちはそのやり取りこそ見守っているものの、会話の内容は騒がしさに埋もれてほとんど把握していない。
突如現れた貴族の少女が『ゼロのルイズ』と言い争っているのが面白い、といった程度だ。
しかし、純粋な興味を抱いていたコルベールとタバサは、風の魔法で会話の内容を逃さずに聴いていた。
そして、『王』という言葉にコルベールは表情を強ばらせて、少女の元へ近寄っていった。
「ミスタ・コルベール! 召喚をやり直させて下さい!」
「失礼、ミス。私はジャン・コルベールと申します、この子たちの監督を任されている者です」
コルベールはルイズを申し訳無さそうな表情で一瞥してから、腰を低くして少女と向き合った。
「非礼を承知でご尊名を伺いたく」
「先ほど余に杖を向けた、語るに耐えぬ輩か」
「……御身はさぞ秀抜な魔法の才をお持ちなのでしょう。思わず身構えてしまい……いや、申し訳なかった」
苦笑しながらこめかみを掻くコルベールに、少女は神妙そうに頷いた。
「確かに……致し方なかったな。監督者なのだろう。そうか、そうか」
少女は納得の入った様子で、小さな頭をこくり、こくりとうなずかせる。
コルベールもルイズも、まさかこうもあっさり理解が得られるとは思っておらず、拍子抜けしていた。それ以前の傲岸不遜な態度を見ていたら、対話するだけでも苦労するだろうと考えていた。
「それで、余の名前だったな」
少女は勿体つけて、瞼を閉じつつ胸を張る。
「アルレット・ド・ゲヘナ――ゲヘナの魔王だ」
少女はそう誇らしげに名乗った。
「ゲヘナ――とは?」
「知らぬか、そうだな。不服であるが、それでいい。ゲヘナはここからはずっと遠くの世界にあるのだから」
「……それはもしや、東方から?」
演技がかった仕草で首を横に振る。
コルベールが困ったように首を傾げると、アルレットは細腕を天へ掲げる。コルベールとルイズの視線が空を見る。ルイズの眉間にしわが寄った。
「それはどういう……」
「二度言わせるな」
「……なるほど……しかし、召喚の魔法はハルケギニア内の生物を呼び出すものなのです」
「それは余の言葉が信用できぬと?」
あくまで無表情に睨みつけるアルレットに、コルベールは動揺する。一つの世界で生きてきた人間にとって別の世界の話など簡単に納得できるものではないのだから、当然といえば当然だった。
「余が召喚の魔法に干渉したからだ。しかし、そこの娘が呪文を歪めるから、苦労したぞ?」
ルイズは召喚の際、声が上ずっていたことに加えて、言葉を噛んでしまったことを思い出していた。
赤くなって震えるルイズを、アルレットは不思議そうな目で見つめる。
「御身は理解の上で召喚に応じたと」
「うむ。あの扉は、使い魔の契約だな。さて、続けよ娘」
「え、え……? 契約しろってこと?」
「ミス・ヴァリエール。さあ」
コルベールは一歩下がって、ルイズに契約を行うよう促す。
進級という結果と念願だった魔法を前に、ルイズは目の前の少女を使い魔にすることにしぶしぶ納得した。
「わたしが、初めて成功した魔法なんだから……恥をかかせないでよね」
睨みつけるように言い放つルイズに、アルレットは不遜に笑みを作る。
「我が名はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。五つの力を司るペンタゴン。この者に祝福を与え、我の使い魔となせ」
タクトを振る。声が上ずらないように、言葉を噛まないように、慎重に契約の呪文を唱える。ルイズは顔を赤くしながら、アルレットに大股で近づき、ぐっと顔を寄せた。
……そして。
アルレットはルイズの首に手を回し、唇を奪った。
アルレットの白い手の甲に使い魔のルーンが浮かび上がる。その間も、彼女はルイズの首から腕を離さずに行為を止めない。
周囲を同級生で囲まれての行為に、ルイズの顔はこれ以上にないほど赤面して、今にも卒倒しそうな表情で成すがままにされていた。
さあ次の授業がある、早く教室へ行きたまえとコルベールが生徒を遠ざけようとするも、まるで無意味な行動だった。生徒たちは沸き立ち、ルイズに向かってからかうような声をいくつも浴びせた。
やがてふたりの唇が離れる。アルレットは恍惚とした表情で口元の唾液を拭った。
「余の審美眼に狂いはなかった。極上の精気だったぞ」
ふらり、と倒れかかったルイズの薄い肩を、アルレットは優しく支える。ルイズは熱に浮かされたような表情で、自分を支える少女の瞳を見つめていた。
再投稿になります。
改稿・プロット変更を経て完結の目処が立ちましたので、投稿を再開したいと思います。