学長室に呼び出しを受けたルイズとギーシュは、決闘の件で説教を受けた。ルイズが呼ばれたのは、使い魔の不始末は主の責任であるという理由であり、そこにアルレットの不在は関係ない。使い魔とは犬や猫と同じ扱いなのである。
そしてその頃、コルベールは困惑していた。トリステイン魔法学院の教師のみが立ち入りを許されるフェニアのライブラリーで調べ物をしていたところ、背後から誰かに話しかけられた。厳重なセキュリティに守られているはずのフェニアのライブラリーに、侵入者があるなど考えられない。同僚の誰かだろうか、と振り向くと、薄暗い通路にラ・ヴァリエール公爵家の三女が召喚した使い魔の姿があった。
赤と黒のドレスと、猫の瞳のように光るアメジスト。暗がりの闇にドレスの黒色が溶けて、その空間に鮮血が広がっているのではないかと錯覚する。
コルベールは、その場に悪魔が降り立ったのではないかと思った。
9話『伝説の……』
王都トリスタニアの城下町にて、一人の中年男性がドレスで着飾った貴族の娘を連れ歩いていた。彼女は貴族の娘ではなく王族の姫であったが、周囲の目にはそう映っていた。微笑ましい父と娘の外出、といったところかもしれない。
「どこへ行くの?」
「武器屋だよ。何も、ここまで来る必要はなかったんだがね」
「武器が欲しいの?」
「違う、違う。私は武器なんて持たないよ」
コルベールは疑問に思っていた。
フェニアのライブラリーで見つけた、虚無の担い手が従える伝説の使い魔についての記述。たった一人で四体の使い魔を使役したと言われ、そのうちガンダールヴと呼ばれる使い魔のルーンがルイズ・フランソワーズの召喚した貴族の娘に刻まれていた。
ガンダールヴという使い魔はあらゆる武器を使いこなす一騎当千の戦士だと記されている。しかし隣を歩く彼女はといえば、足場の不安定なトリスタニアの道につまずくし、腕を組んでいなければ人波に飲まれてしまうし、見た目通りの箱入り娘に違いない。まかり間違っても、戦士とは呼べない。
学院を騒がせた黒い霧を発生させたのと同じく、未知の魔法を用いてコルベールを伴い王都トリスタニアまで瞬時に移動してみせたが、それがどれだけトリステインの人間を驚愕させるものであろうと、どこまでいっても魔法の産物でしかない。
これでは、虚無の担い手が従えるもう一人の使い魔、ミョズニトニルンではないか。
それよりももっと不可解なのが、どうして自分のような冴えない容姿の中年男性に懐いているのか、であった。コルベールは自分が若い娘からは煙たがれるような人物であると考えていたため、まるで予想外なことだった。まして人波を怖がって身を寄せられるなどと思いもしなかったのである。
「さあ、ここだ」
「……おんぼろだけど、ここでいいの?」
「小売っていうのはたいてい平民が営んでいるからね。そういうことを言えば怒る人もいるから気をつけなさい」
「怒る?」
「そうだ。誰だって自分の店を悪く言って欲しくない」
アルレットの消沈した表情に、コルベールは慌てて言葉を付け加えた。
「君はまだ子どもだ。そういうことはこれから知っていけばいい」
「わかった」
「……すまないね。私は教師をやっているから、つい小言を口にしてしまう」
そう言いながら、辿り着いた武器屋へ入っていく。
外装と同じく、あまり綺麗とはいえない店内だった。埃の溜まった角に蜘蛛の巣が張っていて、木製のカウンターはささくれている。照明もつつましやかだった。
奥から店の者らしき男が怪訝な顔をして現れた。
「貴族さま。うちはまっとうな商売をしてませえ。咎められることなんざありません」
「違う。客だ」
「ジャン。やっぱり武器が欲しいの?」
アルレットが不思議そうな表情で首を傾げた。
「いいや。この子の扱えそうなものを見繕ってくれ。軽ければ軽いだけいい」
「……はあ?」
素っ頓狂な声を上げる。アルレットもそうだが、店主はもっと不思議そうな顔をした。
「最近、土くれのフーケだかで物騒なのは知っているだろう。無いよりまし程度の、護身用だよ」
「はあ。危ないだけだと思いますけどねえ。そういうわけでしたら」
店主は一度奥へ引っ込んで、五十サントほどの短刀を手に戻ってきた。布生地で覆われた黒色の鞘には品のある花の刺繍があしらわれていて、貴族の女性が持つものだと分かる。厚みもなく素人でも扱いやすそうな代物だった。
「これでどうですかい。一番軽い剣を持ってきましたぜ」
コルベールが短刀を受け取り、鞘を引き抜く。よく磨かれた銀色の刃が現れた。それを見て、コルベールはひとり頷く。
「一度、これを振ってみてもらえるかい?」
「……わたしが?」
「そうだ。危ないから、軽くでいい」
刃を鞘に戻してから渡された短刀を、アルレットは流れるような洗練された動作で抜刀し、一度、二度と宙に向かって振り下ろす。甲高い風切り音がした。
そして再び、短刀の刃が鞘へ吸い込まれるように納刀される。
コルベールは納得のいった表情で、店主は信じられないものを見る表情でそれを眺めていた。
「……これ、重たい」
アルレットのつぶやきに、コルベールは苦笑した。その短刀は分厚い包丁と変わらない程度の重さであり、達人のような剣の振りをする者が言うセリフではないと思ったからだった。
「へえ、しかしそれは店で一番に軽い剣でして……いや、ここまで見事に剣を振って頂けるんなら、ちょいと値は張りますが、オーダーメイドなんてどうでしょう?」
「いや、結構だよ。これで重いというならナイフにしよう。最も軽いものを持ってきてくれ」
「……へえ。ではちょいとお待ちを……」
アルレットから短刀を受け取ると、再び奥へ引っ込んでいった。
「ところで、剣を振ったことはあるのかい?」
「ない。でも、ルーンのおかげで使えるみたい」
「おお、やはりルーンか! これはいよいよ……」
コルベールは紙を取り出してカウンターに乗せ、興奮した様子で何かを書き始めた。
することのないアルレットが適当に店の商品を眺めているとまもなく、コルベールでも店主でもない男の声が響いた。
「おう、こっちだよ娘っ子」
「……口があったのか、おまえ」
「ありゃ、気付いてて無視されてたのか」
コルベールが顔を上げて、きょとんとした様子であたりを見渡す。しかし、そこには店の奥から戻ってきた店主とアルレットの姿以外に人の姿はなく、カチャカチャと金属が擦れる音がするのみだった。
「おまえさんにゃチンケなナイフなんて似合わねえ。もっとでけえ獲物を振りやがれ!」
「こらデル公! また粗相をしやがって!」
アルレットと店主の視線の先を見ても、錆びついた大剣があるだけだった。コルベールは首を傾げながら、その大剣へ近づく。すると、大剣の鍔がひとりでに動き始めた。
「おい、いいから俺を買え!」
「……何かと思えば、インテリジェンスソードか。ふむ」
「ジャン、欲しいの?」
「いや、君ではないがさすがにこんな重いものは持ち歩けない。私はメイジだから杖があればいい」
「そう」
コルベールの言葉に、アルレットは大剣への興味をなくして店主の方を見た。
「そうそう、そいつはほっといて下せえ。ほら、こいつなんか、食事に使うナイフのように軽い。それでいてよく砥いでありますから護身用には十分使えます」
「では、それと革の鞘を付けて見繕ってくれ。彼女が持ち歩くものだから可愛らしいもので頼むよ」
そうして見繕われたのが、琥珀色の革に桃色の花の飾り物が付けられた、注文通りの可愛らしい鞘だった。留め具の紐を解かなければ小物入れのようにも見える。
アルレットはそれを手で弄びつつ、隣を歩くコルベールの顔を見上げる。
「本当にくれるの?」
「頼みをきいてくれたお礼だ。ルーンの力があれば護身用には十分だろう」
「ありがとう。贈り物はうれしい」
「使う時が来なければいいんだがね」
コルベールは彼女がガンダールヴであることを確信していた。彼女は短刀を重たいと表現したが、その剣筋に短刀の重さを感じさせなかった。ルーンの力には武器を使いこなすことの他に、身体能力を向上させる効果があり、その二つが合わさってはじめて一騎当千の力を発揮する。ガンダールヴの力の正体が特殊なルーンそのものであろうことに見当をつけていた。
伝説の使い魔が現れたとなれば大いに騒ぎたいところだったが、コルベールはこのことを内密に伏せていようと考えた。いくら一騎当千の力を誇っていたとして、無垢な彼女に命を奪う真似をしてほしくないというのが、かつて戦場で多くの死を見てきた彼の切実な願いだった。
やがて人が多い通りに出ると、アルレットはコルベールの腕を掴んで身体を寄せる。一つの大きな問題が解決したものの、やはり分からないのはこれだった。
幼い容姿の彼女に異性を意識することはなくとも、周囲の視線というものがある。冴えない男とこうして歩くのは恥ずかしいものではないか、とコルベールは忖度できぬ年頃の少女の感性を想像して気をもんでいた。
「それで、本当に私なんかが選んだ店でいいのかい?」
「だって、店がわからないんだもの」
「君にはミス・ヴァリエールがいるだろうに」
アルレットがコルベールに頼んだのは、洋服を見繕うことだった。
その見返りの先払いとして彼女を武器屋へ連れて行ったのだが、未だに意図を掴みかねている。どうしてわざわざ男性である自分の前に現れて、慣れているはずのない洋服選びに駆り出すのか。
アルレットに尋ねても欲しい答えは帰ってこない。言いづらい理由でもあるのか、とも思ったが、どちらかといえば質問の意味を理解できていないようだった。
♪
「きゅいきゅい! 魔王さまがわたしたちを置いてトリスタニアへ向かったのね!」
そうタバサの元へと泣きついたのはイルククゥだった。しかし、サイレントの魔法で音を断っているタバサに声は届かない。週に一度の虚無の曜日、ひとりの空間を作り出して存分に読書を堪能していた。
しかし、肩を揺らされては視界がぶれて文字を読み進めることができない。サイレントを解除し、言葉に最大限のいらだちを込めてイルククゥへ訊ねた。
「……なに」
「魔王さまがわたしたちを置いてトリスタニアへ向かったのね!」
「そう。でも、置いていかれたわけじゃないと思う」
「……男と一緒でも?」
その言葉に、タバサは耳を疑った。
「……本当?」
「本当!」
「まさか」
「本当なのね! 盗み聞きしたのね!」
「それ、バレてる」
雑木林の件でもばっちり盗み見を見破られていた。それどころかシルフィードの正体まで。今回も例外という訳にはいかないだろう。
しかし、タバサの中では興味が勝っていた。本を閉じて、ため息混じりの様子で椅子から立ち上がる。
それを見たイルククゥは着ていた制服をベッドの上へほいほいと脱ぎ捨て、素っ裸のまま窓から飛び降りた。
そして、何故かキュルケも加わった一行はシルフィードの背に乗り、最短ルートでトリスタニアを目指した。
しかし、到着すると一行は途方に暮れた。なにせトリスタニアは王都である。街が広いだけではなく、人の数も膨大だった。
「意外ね。タバサが野次馬根性発揮するなんて」
「馬が逆立ちをしたって聞いたら誰でも気になる」
「……それ、あの子が聞いたら怒るんじゃない? あれでも繊細よ」
「本当は、うるさかったから」
そう言って視線でイルククゥを指す。
「ふうん」
「お姉さまったら素直じゃないのね。まったく」
「……いいから、どこから探す?」
タバサも女子か、とキュルケは思った。
アルレットの行きそうな場所、というのをイルククゥが提案し、街中の店という店をはしごして回ったものの中々見つからない。
休憩を取るために軽食屋を探して歩いていると、その人は見つかった。
よく知った中年男性の腕に、着飾った貴族の娘が抱きついている。
街の中、甘えているような若い娘の様子と、男性の手には大きな紙袋。タバサとイルククゥはその光景に見覚えがあった。金持ちの男性にねだって洋服を買ってもらったキュルケの姿である。そして、キュルケ自身にもその自覚があった。
魔王もやっぱり女子だったのか、とキュルケは思った。きっとケチのルイズが欲しがる物を買ってやらないのだろう、だからあんな冴えない禿男の腕をみっともなく掴んでいるのだ。全方位に対して失礼なことを考えていた。
しかし、問題はもっと別のところにある。その男性だ。
彼こそトリステイン魔法学院の教師にして火のトライアングルであるジャン・コルベール。その構図は実のところ、教員と若い娘、なのである。一種のスキャンダルとして扱われてもおかしくない。
その二人は明るい様子でカフェへ入っていく。一行は逃すまいと後を追った。
店内の奥、周囲に人がいない席を選んだ彼らから隠れるように、一行は入口付近の席へ座った。アルレットにバレないとはつゆほども思っていないが、教師のコルベールと鉢合わせるような気まずい事態は望んでいなかった。あくまで盗み見、盗み聞きが目的である。
紅茶を片手にパイをつまみながら、耳の良いタバサを通して会話の内容を共有していた。
「……あの紙袋は洋服らしい」
「つまんない。お菓子の包みがよかったのね」
「あなたもらう気まんまんね」
「そんな食い意地は張ってないのね」
イルククゥはパイを口へ放りながら、ふんと鼻を鳴らす。図星だった。
「お礼を言ってる。お金は払ってもらったみたい」
「というか、あの袋、かなりのブランド物じゃなかった? もっと近くで見れれば分かるんだけど」
「一番良さそうな店を選んだつもり、って言ってる。ミスタが」
「……あのミスタが。しかも自分で選んだと。はあ」
ブランド物を選んでプレゼントするなんて、若い頃はプレイボーイだったのかもしれない。キュルケはタバサの話に想像をふくらませていた。
「……貰ったものは大切にするって。ミスタを名前で呼び捨ててる」
「媚びてるわね……次も買ってもらうつもりだわ、確実に」
「魔王さま、本当におじさん好きだったのね……」
「驚愕」
身体を寄せて合ってこそこそと話す一行は、目立っていた。知らぬは本人たちばかりである。
「ねえふたりとも。あれ、本当にあのおじさんが好きだと思う? 次に買ってもらうための演技に決まってるわよ」
「あの子にそんな真似ができるとは思えない」
イルククゥはあの子呼ばわりには眉をしかめたものの、まったく同じ意見には変わりなく、タバサの言葉にうんうんと頷いた。
キュルケは、タバサがどうしてそうまで言うのかが分からなかった。時おり冷たい物の見方をする彼女も、思ったより純粋な心の持ち主なのかもしれない。貴族の娘も、平民の町娘も、金を持った中年男性に近づくとなれば決まって腹に一物を抱えているものだ。
「演技ってなんのこと?」
キュルケは驚いて飛び退いた。床を引きずった椅子が、店内に大きな音を響かせた。
タバサの背後から現れたのは、件の彼女である。
「席、空いてる」
そう言ってコルベールがひとり座るテーブルを指差した。
「あ、あー……相席してもいいのかしら?」
「うん」
「お邪魔では?」
「なんで?」
キュルケとの会話に、アルレットは小首を傾げる。
三人が言葉を返せずにいると、ひょこひょこと自分の席へ戻っていってしまった。
「……どうする?」
「このまま帰るのが一番気まずいと思わない?」
「たしかに」
「こうなったら魔王さまと食べるのね!」
三人の意見が合致する。観念して立ち上がると、紅茶とパイを持って席を移動した。
アルレットはともかく、コルベールは気まずい顔をするだろうとキュルケは考えていたが、教壇に立っている時と変わらぬ普段通りの表情で紅茶を飲んでいた。
「ミス・ツェルプストーにミス・タバサ。奇遇だね。この店はよく利用するのかね?」
「いえ……たまたまですわ」
「初めて」
「おお、そうか。私も初めてなのだよ。面白い偶然もあったものだなあ」
アルレットはコルベールとタバサらの話にも興味をもった様子もなく、ナイフでパイを小さく切り分けて口へ運んでいた。
「それで、君は、二年生のマントをしているが……見ない顔だね」
「イルククゥ」
余計なことを言わないように、とタバサが間髪を入れずに代わって答える。
「そうか、ミス・イルククゥか。はじめまして。火の授業を受け持っている、ジャン・コルベールというものだ」
イルククゥが言葉を返そうとした瞬間に、タバサの右手が彼女の口を塞いだ。そして、後頭部にもう片方の手を添えると、人形を動かすようにコルベールへ強引にお辞儀させた。
言葉を発せずにもごもごと言うだけのイルククゥに代わって、タバサが口を開く。何が何でも余計なことをして欲しくないという思いが現れていた。
「よろしくおねがいします。ミスタ・コルベール」
「あ、ああ? よろしく、ミス・タバサ」
「イルククゥ」
「……よろしく、ミス・イルククゥ」
タバサはイルククゥから手を離すと、戸惑うコルベールに対してお構いなしでパイを食べ始めた。
キュルケは親友の気持ちを慮って、何も言わないでおこうと思った。
「ところで、ミスタ? どうしてルイズの使い魔と?」
「それか。彼女に衣服を見繕うよう頼まれてね。なにせ遠くの場所から召喚されて来たというから、トリスタニアの存在も知らなかったそうだ」
「はあ……」
それだけ? というのが三人が持つ感想だった。コルベールからは何かを取り繕う様子も見えないし、それはアルレットも同じである。
見てはいけないデート現場を目撃した、と考えていたのが、アルレットとコルベールの認識によれば、見られて困るようなものでもなし。こそこそとしていたのは無駄だったのでは、と思い始めていた。
しかし、それでも晴れない疑問がある。キュルケは意を決して切り出した。
「ねえアルレット。ミスタ・コルベールが好きなの?」
質問の意図を理解したコルベールが、紅茶を吹き出しそうになっていた。しかし向かいの席に座る女子三人は、真剣な眼差しである。
アルレットはまたも小首を傾げて、何を言っているかわからないという顔をする。
「わざわざ嫌いな人と一緒にいない」
「好きなの?」
「うーん……いつも小言が多い」
「はは……そうか、それはすまなかったね」
「でも、好き」
そう言って、アルレットはおしとやかに微笑む。三人の表情が凍った。素直に受け取れないコルベールは、頬をかいて苦笑いをしていた。
「……それで、好きな人の前だから偉そうな態度は控えてるの?」
「お忍びだから、わたしなの」
「お、お忍び?」
「秘密よ?」
「いいえ、言いふらしたりはしないけれど……お忍びってどういうことかしら」
問いの意味が分からず、アルレットは考えこむ。対して、質問したキュルケは、どうして伝わらないのかが分からなかった。
お互いに首を傾げ合うという不思議な状況で、コルベールが助け舟を出す。
「お忍びは、お忍び以上の何物でもないんだろう。それで、どうしてお忍びをする必要があったんだい?」
「わたしのところでは、お忍びをしなきゃ買い物ができなかったから」
「なら、お忍びの時は取り繕わずにいられたわけだ」
「そういうこと」
たったそれだけのやりとりで、キュルケは納得した。それは彼女がもともとお忍びをしなければいけない立場に居て、お忍びでは偉そうな態度も取る相手も居ない、という端的な答えだった。
「お忍びしなければいけないのは、魔王という立場のせい?」
パイを食べ終えたタバサが、アルレットに次の質問した。
「そんなとこ」
彼女が会話の中で初めてはぐらかすような言い回しをしたことを、コルベールだけが気付いていた。
タバサは紅茶で舌を湿らせて、言葉を続ける。
「それで、どうしてミスタを連れだした?」
「だって買い方が分からない」
「ルイズの方が都合がいいはず」
「そう?」
またも理解の及ばない行き違いが生じる。このことについては、コルベール自身が疑問を持ち続けて、何度か訊ねたことでもある。
「やっぱり、アルレットはミスタが好きなのね」
「どうして?」
「だってわざわざご主人を置いてミスタと街で腕を組むんですもの」
「……人混みは大変。だから、いつものようにしただけ」
「いつも……へえ、いつもねえ。いつの間にか、関係が長いのね」
三人は納得した様子だったが、コルベールは違う。アルレットとまともに会話をしたのは、今日が初めてであった。
ようやく疑問解決の糸口が掴めた、とコルベールは思った。
「もしかして、召喚される前には、私のような人物をお付きにしていたのかい?」
アルレットは頷いた。その場にいる全員が、そのやりとりで理解した。
大人の男性と大きな街で買物をするのも、人混みではぐれないよう腕を組むのも、取り繕わない自分でお忍びをするのも、趣味や習慣のひとつなのだった。赴く場所と連れている人間が異なっているだけで、彼女にとっては当たり前の休日であり、疑問を投げかけられても答えられない。「いつものようにした」だけなのであった。
そしてひとつ、爆弾発言が投げ込まれた。
「わたしの護衛をしてた、勇者にそっくり」
紅茶を口に含んでいたタバサは思わず吹き出しそうになり、とっさに唇をきつく締めた。大きくむせ返って店内の注目を浴び、おまけに鼻から紅茶が垂れているのを、親友のキュルケは身を挺して隠した。
キュルケにイルククゥ、そしてコルベール自身も、紅茶を口に含んでいればそうなったかもしれない。そんな状況を、アルレットはきょとんとした様子で眺めていた。
「わ、私なんかが、似ているのかい……?」
「そう。護衛の時は国の騎士団長だったけど、今では世界中に肖像画が飾られてる、伝説の人」
アルレットは誇らしげに言うが、目を真っ赤にしたタバサは再びむせ返った。
それは、世界中に飾られたコルベールの肖像画を想像したのかも知れなかった。