その国の姫君は、物心の付いた日からそれまで、城から一歩も外へ出なかった。
箱入り娘と言われたが、それは檻に閉じ込められた罪人にも等しかった。幼く無垢な彼女が一体どんな大罪を犯したというのか。城の者ばかりか、本人すらも知らない。
そんな中で、気の毒に思った警護の者が手を差し伸べ、外の世界へと連れ出した。しかし、その態度は恭しく慇懃であり、友人とは程遠い姫と護衛の関係であった。
だから彼女は、親しい人間に突き放されることの辛さを知らなかった。
目を閉じてベッドに横たわる彼女に、どこにも居ない誰かが囁く。
彼女の目と耳は特別だった。閉じた瞼の向こう側に見えるはずのないものを見て、聞こえるはずのない声を聞いた。彼女は飛び起きて、涙で濡らした毛布を投げ捨てた。
同時に、学院に轟音が響き渡った。
11話『虚無の魔法使いⅡ』
一度、二度とゴーレムが大木のような腕を振り下ろす。
そのたびに、轟音とともにひびの入った学院の宝物庫の壁が崩れていく。
地面に響く振動を感じながら、ルイズとキュルケは逃げることもできずにいた。目の前にある圧倒的な質量を前に、どうしようもない無力感を感じていた。
せいぜい四メイルの範囲が限界の爆発や炎で、塔のようにそびえ立つあの巨人にいったい何ができるというのだろう。宝物庫の壁が完全に瓦解するまで、呆然とそれを眺めていた。
ゴーレムの肩から黒い人影が飛び出して、宝物庫へ侵入していく。
何もできずにいた二人は、ゴーレムの動きが止まってようやく状況を理解した。
噂に聞く巨大な土のゴーレム、堂々とマジックアイテムを狙う盗人。あれは、宝物を狙う盗賊『土くれのフーケ』であるに違いない。
ルイズは恐怖も無力感も投げ出し、杖を握りしめて駆け出していた。
彼女を動かすのは、貴族のプライドだった。盗賊を目にしてそれをみすみす逃すなんて選択肢はない。
「ちょっと、あんたじゃ無理だって!」
「わたしは貴族よ! 盗賊を前にして、逃げろっていうの!」
ルイズが杖を振り、ゴーレムの右足に爆発が襲った。
しかし、土の塊はびくともせず、表面がぼろぼろと削り落ちるのみだった。疲弊したルイズの爆発では、ゴーレムにとうてい敵わないのは明らかだった。それでも、ルイズは爆発を重ねていく。
やがて、ゴーレムがぐらりと揺らいだ。
ルイズは喜色の笑みを浮かべたが、それもすぐにかき消える。削れた足の部位はまたたく間に修復され、巨体が二人の方向を向いた。ゴーレムはルイズの爆発によってよろめいたのではなく、搭乗者の到着によって自ら動き出したのだった。
そしてキュルケは、ゴーレムの肩に降りた黒いローブの人影が、目深に被ったフードの向こうからこちらを睨んでいるのを見た。
「逃げなさい!」
「わたしは貴族よ。魔法を使えるものを貴族と呼ぶんじゃない」
ルイズは、ゴーレムに乗る人影に向かって杖を振った。
「敵に背中を見せないものを貴族と呼ぶのよ!」
爆発は狙い通り、搭乗者の真下を襲った。しかし、今日で数十発目の爆発は見るからに力なく、人影をゴーレムの肩から吹き飛ばすには至らなかった。
その爆発を取るに足らないと考えたからか、ゴーレムは二人から興味を失ったように、反対方向へ歩き出す。
ルイズはそれを追いかけて、逃がすものかと再び杖を振った。
今度の爆発は、ゴーレムの頭に命中した。爆風にフードを攫われそうになった人影が頭をかばっているのが見えたが、やはりダメージは与えられない。
そして、ついにゴーレムが足を止めた。
「ルイズ、いいから逃げて! もう十分立ち向かったわ。誰もあなたを笑ったりしないから!」
キュルケが顔面蒼白で説得するも、ルイズは奥歯を噛んで杖を振る。ゴーレムが立ち止まる理由といえば、ひとつだった。
ルイズの放った爆発は、振りかぶられたゴーレムの腕によってあっけなくかき消された。
そして、その巨大な腕がそのままルイズに向かって振り下ろされる。眼前のどうしようもない絶望に、声も出すことができない。ルイズはただ目を閉じて、その場にうずくまった。
――しかしそれは、もうひとつの巨大な腕によって遮られた。
衝撃音と地響きが辺りに響き渡る。ルイズの心臓にまで響いて、固まっていた身体を解した。
恐る恐る目を開いたルイズの前には、黒い沼が広がっていた。足を踏み入れれば、二度と光を見ることはないとさえ思う、昏い闇色だった。
そして、その沼から生えた巨大な腕が、振り下ろされたゴーレムの腕をその場にとどめている。
沼と同じ色をした腕は、それ自体がゴーレムに比する大きさであり、こうなればゴーレムを巨大と言っていいのか迷うほどだった。
その場を離れようとするゴーレムの腕を、闇色の腕はあっさりと握りつぶした。
搭乗者は圧倒的な力の差の前に逃走の一手を選んだ。しかし、闇色の腕がゴーレムの腹をわしづかみにする。
そして、のけぞった体勢のまま、ゴーレムの身体は上下真っ二つに分断された。
どさどさと地面に身体の欠片を落とすゴーレムは、やがて形を保てなくなり、ただの土へと還っていった。
森の奥へと消えていく黒いローブの人影を追うことも忘れ、ルイズは尻餅をついて震えていた。
腕ひとつで、まるでハエを潰すかのように三十メイルのゴーレムを葬り去った。昏い闇色の沼に何が沈んでいるのかも、ルイズは想像したくなかった。それは、街ひとつを滅ぼす天災のようだと思った。
やがてその腕は昏い闇色の沼へと還り、沼は逃げ水のように消えていった。
座り込んでいるルイズの元に、影が落ちる。今度は小さな影だった。
「怪我、してない?」
ルイズが顔を上げると、そこには目を赤く腫らしたアルレットの顔があった。目尻を下げて、不安そうな表情をしている。
「本当に泣いてたのね」
ルイズは、妹をあやすような優しい声音で言う。アルレットの情けない顔を見たら、つい先ほどまでの震えもどこかに消えていた。
そして、しっかりとした動作で立ち上がり、アルレットの身体を抱いた。
じんわりと熱く濡れていく肩口に、ルイズはアルレットの目からぼろぼろと涙がこぼれているのを感じ取った。後ろに回した手でゆっくりと背中を撫でると、アルレットの抱きつく力が強くなる。それでも、細腕からは弱い力しか感じなかった。
「ご主人様失格でごめんね」
アルレットが、ルイズの肩の上で首を振る。
「わたし、弱いくせにプライドだけ高いのよ。あなたみたいな凄い使い魔とは釣り合わないわ」
「しらない」
二人の体がよろめいた。それは、アルレットがより強くルイズへ抱きついたからだった。
お互いの体を離しながらたたらを踏んで、なんとか転ばずに踏みとどまる。ルイズはおかしくなって笑ってしまった。
自分が『ゼロのルイズ』だとしても、アルレットにとって必要な存在なのだと身にしみて感じた。
ルイズはアルレットの目元から指で涙を拭って、額に顔を近づけた。切り揃えられた前髪をかきあげて、そっと口づけをする。ルイズが、初めて自分から施したキスだった。
頬を染めるアルレットの髪を優しく撫でながら、ルイズはそれを人形に縫い付けられた金の糸のようだと思った。赤く腫らした目元も、唇まで垂れている鼻水も、不格好には見えない。ルイズにはむしろ、その無垢な顔が愛おしく感じた。
「あなたでも顔を赤くして恥ずかしがるのね」
「ルイズの気持ちが、見えたの」
暗闇で光るアメジストの瞳が、穏やかに細められる。
「わたしのこと、ずっと大切にするって」
「……もう。勝手に見ないでよ」
アルレットが、再びルイズに抱きついた。今度は、甘えるような仕草で胸に額を押し付ける。
ルイズはそれを受け入れて、アルレットの小さな頭に頬を寄せ、肩を抱いた。
「あのー……ルイズ。お邪魔して悪いんだけど」
突然に聞こえてきたのは、ルイズがすっかり存在を忘れていたキュルケの声だった。
「状況を説明して欲しいって。先生方が」
キュルケの方を振り向くと、そこには教員のコルベールとギトーが居た。
ルイズは飛び跳ねるようにアルレットから身体を離した。離れるときの悲しそうなアルレットの顔を見ないふりをして、姿勢を正し教員の二人に向き合った。
「なな、なんでしょうか!」
「……いや、事情はすでにミス・ツェルプストーから聞いた。報告は明日の朝一番にする」
「は、はあ……?」
「それまで、我々は交代で宝物庫の警護をするつもりだ。だからはやく自室へ戻りたまえ」
ギトーが目を逸らしながら、しっしと厄介払いするように手を振った。隣のキュルケは、にやにやと悪い笑みを浮かべていた。
ルイズは腕に抱きついてくるアルレットを引っ張って、顔を真っ赤にしながらその場を離れるのだった。
♪
ハルケギニアにその名を轟かせる大盗賊『土くれのフーケ』は、震える手を抑えながらドアノブを引いて部屋に駆け込むと、額に浮いた脂汗をローブの袖で拭った。
目下の盗みのターゲットであるトリステイン魔法学院の寮内に彼女は居た。とはいっても、それは盗むために駆け込んだのではなく、ひとつの逃亡先だった。
そこは彼女がロングビルという女性秘書の顔を用いて獲得した自室だった。平民の扱いながらも上等な調度品の揃えられた一室は、彼女の学院での地位の高さを示している。
秘書というのはこの学院の長へ直に使える役職であり、彼女へ疑いを掛けることは学長への背信に等しい。最上級の宝物を抱えるこのトリステイン魔法学院に秘書という形で潜入できたのは、甚だ僥倖であったと『土くれのフーケ』は考えていた。
しかし、あの黒い巨人を見て考えを改めていた。
水差しからコップに水を注ぎ、中身をすべて飲み干す。カラカラになった喉が潤い、歓喜の音を鳴らした。丸めた黒いローブをベッドの下に押し込み、だらしなく椅子へもたれ掛かった。
ゲルマニアから来たトライアングルメイジと、魔法の使えない公爵家の三女。直前の下見では姿が見えなかったものの、彼女がゴーレムを生成する準備をしてから宝物庫へ向かうと、その二人がいた。
そして、公爵家の娘の失敗魔法が宝物庫の壁にひびを作った。土のトライアングルの彼女ですら傷ひとつ付けられなかった固定化を、何かの間違いか、貫いてみせたのだった。
これ以上にない好機と見た彼女は、あの二人が居るにもかかわらず宝物庫への侵入を試みた。ひびが入ったと教員に報告されてからでは遅い。そして想定通り、邪魔されずに『破戒の剣』を盗み出すことができた。
そこからが問題だった。目当ての物を手にしたのなら、彼女は一目散にあの場を去るべきだったのだ。
そうしていれば、あの怪物と相対することなく盗みを終えることができた。
その巨人の登場が姿を見せなかったアルレットの仕業だと、彼女は知らない。『破戒の剣』に憑いた呪いか、はたまた学院の宝物庫に仕掛けられた罠に、魔神を呼び出すマジックアイテムなんてものがあるのか。『土くれのフーケ』としてハルケギニアの貴族という貴族からマジックアイテムをかっさらってきた彼女でも、まるで推測が付かなかった。
ひとつ分かるのが、生きて帰れたのが奇跡に等しいということだった。腕の一本がゴーレムの高さに値するなら、あの怪物は一体どれほど巨大だというのだろう。想像すればするほど恐怖は膨れ上がっていく。
あれがこの学院に存在している以上、もう盗みは働けない。もし再び相対することがあれば命がいくつあっても足りない。それこそ、都市の人口ほども喰らってしまいそうな、怪物だった。
彼女は全身が粟立つような恐怖心もあって、早々にこの学院を去ろうと決意した。
その頃、ルイズの部屋ではシエスタを交えた試着会が行われていた。コルベールからアルレットへと贈られた例のものである。
緩みきった表情のシエスタに着替えさせられたアルレットは、白かった。
「……黒や赤なんかより、ずっと似合うわよ?」
アルレットが身につけたのは、純白の上質な絹を用いたワンピースだった。見守るルイズとシエスタは、思わず嘆息する。透き通った白い肌とつややかなブロンドが合わさった清楚な雰囲気は、決して自分には真似できない。少女ならば誰もが持っている、深窓の令嬢のような存在への憧れをくすぐるものだった。
「お姫さまみたいです。ああ、素敵……」
シエスタはうっとりとした表情で見とれていた。
「ふふん。余は王族だからな」
「ああ、台無しだ……」
口を開かなければいいのに、とルイズは切に思った。アルレットはルイズの言葉に、考えたような仕草をする。
今度は、シエスタが紙袋から黒いドレスを取り出した。襟に白い生地が使われているだけで、それ以外の部分はすべて黒色が占めている。ふんだんにあしらわれたフリルと生地の質の良さが彩りの少なさを打ち消して、それが贅沢な衣装であることを示していた。
シエスタがアルレットのワンピースを脱がそうという時、アルレットがそれを静止した。
「これは、ルイズに着てもらおうと思ってたの」
「……え?」
きょとんとするルイズに、アルレットは黒いドレスを手に取り、近寄った。
ドレスの両肩の裾を手に持って、ルイズの身体に重ねる。ちょうどアルレットの付けた噛み跡が隠れるような、首元の露出の少なさが見て取れた。
「シエスタ、おねがい」
「あ……はい。かしこまりました」
シエスタは状況を理解しないまま、同じく何が何だか分からない様子のルイズを着替えさせた。白いタイツと、黒い革靴もセットで履かせる。あっという間に、別人のようなシルエットが出来上がった。
黒いドレスを身に纏ったルイズは、配色のせいで桃色がかったブロンドが際立っていた。鏡を見た本人が首を傾げる。
「アルレットが選んでくれたの?」
「うん。これだけ」
ルイズは鏡の中の雰囲気が一転した自分を見て、黒いドレスはあまり似合っていないのではないかと思った。
けれども、それを口には出せない。選んでくれた、という部分だけを素直に喜ぶことにした。
「ありがとう。嬉しい」
ルイズはアルレットに優しく笑いかけた。
「……ちがう」
「え?」
「もっと、顎を引いて、びしっとして」
アルレットが黒いドレスの裾を伸ばしながら、ルイズの肩を引いたり、足の開き方を直したりしはじめた。ルイズは、あのアルレットが礼儀作法の講師のような真似をし始めるとは、夢にも思っていなかった。
「口は開かないの」
「な、なによいきなり……」
「そういう低い声は出さない。口元を引き締めて、眉には絶対に力を入れない、少しも入れちゃダメ」
最後に前髪を綺麗に整えて、アルレットはルイズから一歩下がった。
鏡の中にいたのは、まさに別人だった。普段の自分からは想像もできない、冷淡な目をした怜悧な印象の少女。桃色がかったブロンドも、隠れた少女らしさを演出するのにふさわしいとすら思う。アルレットから言われた通りのまま表情を動かさず、ルイズはじっくりと自分を観察する。そこには、どこかで見たような何かがあった。
「とてもお似合いです」
「ありがとう、シエスタ。なんだか別人みたい」
「そうですね。でも、すごく素敵です」
シエスタが微笑む。なるほど、とルイズは思い、アルレットに訊ねた。
「似てないけど、あなたと同じような雰囲気にってこと?」
「うん、わたしと同じ。あとは、口調を」
「……口調を?」
認めたくない、わかりきった答えを訊く。
「わたしみたいにして?」
「……それって、偉そうにすればいいの?」
「うん。交換。するの」
白いワンピースの、清楚な印象に様変わりしたアルレットが言う。
その上目遣いに、ルイズはやられていた。
「う……ちょっと」
「ルイズ、お願い」
一度咳払いをしてから、ルイズは意を決して挑戦した。
「うむ……わ、わかった……ぞ?」
たどたどしく、セリフを読み上げるような声に、アルレットは首を傾げる。
「うーん。ダメ。表情も変になる」
「……わたしにはこれが限界」
「そう。魔法を使うには意識が必要だから、もっと別の方法を考えないと」
「魔法?」
どこからその言葉が出てきたのか。コモンマジックを扱えるようになったルイズにとって、最も関心のある話題だった。
期待感に胸を膨らませ、アルレットから逃さず聞き出そうと身を乗り出した。
「あの偉そうなのは、魔法に必要なの? 魔族を従えるためなんでしょう?」
「その二つに違いはないの。必要なのは、中身。行動が意識を塗り替える。
言ったでしょ、ルイズ。わたしの魔法をあげるって」
ルイズはドレス姿のまま文机に向かうと、引き出しから羊皮紙を取り出し、ペンを手にとった。勉強家らしく、整った文字を紙面に書き連ねていく。
横から無言で紅茶のカップが差し出される。シエスタが一歩引いて、恭しく礼をした。
「どうしたのよ、そんな仰々しく」
「これも必要な意識の一貫でございます。ルイズさま」
「…………ありがとう」
むず痒くなる気持ちを封じ込め、表情を崩さずにお礼を言う。
それから夜がふけるまで、黒いドレスのルイズと白いワンピースのアルレットは文机の前で話し続けた。