夜の虫が鳴いている。
薄暗い牢獄の中で、娯楽といえば音を楽しむくらいなものだった。
処刑台へ送られる身で思索に耽ろうと、それが実を結ぶことはない。
それでも考えてしまう。きっとあの『破戒の剣』を持ち帰ることができたら、生涯金銭に困ることなくウェストウッドの森で穏やかに暮らせただろうと。
15話『ほんとうに欲しいものⅡ』
妹と穏やかに暮らすことがただひとつの望みだった。王家へ向ける憎しみも、のうのうと過ごす貴族へ対する敵愾心も、その望みが害されたから生まれたものにすぎない。
魔法は万の財を生み出す。盗賊となり、時として人を殺めることは、決して強いられたことではない。ましてトライアングルの土メイジともなれば、妹と村の子どもたちが慎ましやかな生活を送れるだけの日銭を稼ぐことは難しくなかった。
胸に刻まれた深い傷が、心に嘘をつかせた。妹のそばにいることよりも大切なことを作り出した。
その嘘に踊らされて、手を汚し、どんどん後戻りができなくなっていった。嘘をついた口で妹に暖かい言葉を掛け、人を殺めた腕で妹を抱きしめることは、苦痛を伴った。やがて、ウェストウッドの森から足が遠のいていった。
本当の自分は、かわいそうな妹に寄り添って穏やかに暮らすことを望んでいた。そして、妹こそがそれを切に望んでいることを知っていた。
だというのに、それをしない。とんだ大嘘つきだった。
『破戒の剣』によって嘘から解き放たれた自分ならば、また妹と穏やかに暮らすことができるだろうか。マチルダは、明日かもしれない処刑台へ登る日を忘れて、そんなことを思った。
「起きろ」
その声は、夢見心地の意識へと落雷のように到達した。
そして鉄格子の向こうから、暗闇に光るアメジストの宝石と悪魔のような鮮血の眼が覗いているのを見た。それは漆黒と真紅のドレスを身にまとったアルレットと、闇に溶ける黒色の毛並みの獣だった。
「……なんだ、笑いものにするためにきたのかい」
アルレットは答えず、薄暗闇の中で鉄格子を指さした。
指示を受けた獣が動き出す。その時、マチルダは獣の図体の大きさと、背に翼が生えていることに気付いた。
獣の口が鉄格子をくわえ込むと、それはぐしゃりと薄いアルミのようにひしゃげた。開いた隙間に獣が巨体をくぐらせ、牢の中へと入っていく。
マチルダは息を呑む。とうとう処刑の時間が来たのかと、身を震わせた。
「お前はここで獣に喰われて死ぬ」
「そうかい」
「さあ、らびたん」
獣がマチルダの影へと喰らいついた。ぐちゃり、ぐちゃりと水っぽい音が牢獄に響いた。
そうして出来上がった食べかけの肉を咥え、牢屋の隅へと放る。
「うむ、よくやった」
「ごちそうさま。でも魔王さま、食べかけを見られるの、なんだかはずかしい」
「大丈夫。わたしも城ではよく食事を残してた。もったいないって厨房でひっそりメイドが食べてるの」
「魔王さまと一緒ならはずかしくないわ」
そんな間の抜けた会話に、マチルダはゆっくりとつむっていた瞼を開いた。
そして、獣が喰らったであろうもの――死体と呼ばれたものへと、目を向ける。そして、首を傾げることになった。
「これは……?」
「マチルダ・オブ・サウスゴータの死体だ」
どこからどうみても、牛や豚などの食用肉である。豚の肉であれば、ほとんど胴体まるごとという大きさで、獣に噛みちぎられた跡がある。
前を見てみれば巨大な獣の姿はなく、アルレットの側で黒い毛並みの子猫が浮いている。マチルダには何がなんやらだった。
「幻影の魔法で、この肉はお前の死体になる。噛み跡がひどいものはすぐに火葬されるだろうから、見抜かれる心配もない」
「魔法だって……?」
「余が直々に学院の厨房から貰ってきた」
「牛の肉! 霜降りが舌でとろけるの。わたしの食べかけで良かったら、どうぞ?」
食べかけの食肉がどうして自分の身代わりなんかになるのか。
聞きたいのは肉の味じゃない。マチルダはなんだか気が抜けて、大きくため息を付いた。
「生肉は無理だよ。それで、どうすりゃいいんだい?」
「好きにすればいい。お前は死んだのだから」
「……見張りは居ないのかい?」
「居ても問題ない。見られたとしても、明日にはすっかり忘れてる」
「それもあんたの魔法か。まるで……」
「妹みたい?」
「……ああ。けど、あんたみたいにわけのわからないのじゃなくて、もっと純粋でかわいい娘さ」
マチルダは立ち上がって、囚人服についたほこりと土を払った。
「バカにはわからないくらい、魔王さまはすごいってことかしらね~」
「はいはい、悪かったわよ。使い魔ちゃん」
ひしゃげた格子をくぐって牢から出ると、アルレットから杖が手渡される。まるっきり無防備な姿に、マチルダは苦笑を禁じ得なかった。
「お人よしか何かかい?」
「魔王の仕事」
「……へえ、そんな仕事もあるものかね。なら、時間ができたら村に来て欲しい。お代くらい、払わせてくれないかい」
「遠くまで移動するのは難しいけど」
できたら行く、とだけ答えて、アルレットは子猫を伴って闇へと消えていった。目を凝らしても、その向こう側に影は見えない。
ただひとつ、心の底から望んでいたことがある。今はそれを叶えるべき時。
マチルダは杖をしまい、ウェストウッドの森へと帰るべく歩き出した。
妹の顔を思い浮かべては、頬を緩ませる。
足取りは羽のように軽かった。荒んだ心で杖を振るったことなど、忘れ去ってしまえるくらいに。
♪
学長室では、抜けた秘書の代わりにコルベールが書類仕事に駆りだされていた。
学者肌であるコルベールにとって、数字や文書の整理はお茶の子さいさいである。しかし、あるひとつの書類がコルベールの寂しい頭を悩ませていた。
「学長」
「なんだね。じじいは鼻毛抜きにいそがしい」
「仕事して下さい」
「ふーんだ。撫でる尻を持ってきてから言うんじゃな」
女性秘書に対しては、これに加えてのセクハラである。よくもまあミス・ロングビルはあれだけ学長に仕えたなとコルベールは思う。
「ではせめて、この書類だけでも。私では判断しかねます」
「ん? どれどれ……おお、なんとまた」
「いやはや、こんな場所にお招きしていいものか」
「ふーむ……ま、ええじゃろう。先方も公務であちこち行ったり来たりじゃ。多少のわがままくらい」
書類の内容は、王室に関係するものだった。ゲルマニアで公務を終えたアンリエッタ姫が帰途に学院に滞在し、月末に行われる使い魔の品評会に審査員として参加するというのは、以前から決まっていたことではある。
しかしそれに加えて、その書類にはアンリエッタ姫のわがままのようなものが書かれていた。品評会当日、アンリエッタ姫が直々にヴァリエール家の三女の部屋を訪ね、フーケ討伐に関する勲章の授与を行いたい、というものである。
一生徒の部屋に国の姫君が来訪するというのは、異例といえば異例だった。
「いやいやしかし、学院長、万が一にもミス・ヴァリエールに失礼があったら大変ですぞ!」
「ええいさわがしい! 仮にも公爵家の娘じゃ。心配はいらん」
オスマンはコルベールのまあるい頭をもんだ。
「やめて下さい」
「やめるわい。誰が好き好んで禿頭を揉みたがるか」
ぺし、とコルベールの頭を軽く叩いて、オスマンは腕組みをしてふんぞり返った。
「それで、『破戒の剣』の報告がまだだったの」
「ええ、それなのですが……本来の銘を、ヴォーパルと言うらしく」
「ほほう? それは、フーケが知っていたのかね?」
「いいえ。ミス・ヴァリエールの使い魔で。彼女は異世界から来たと公言していますが、それと関係があるのではないかと」
アルレットが『破戒の剣』を知る口ぶりだったのは、ガンダールヴのルーンだけでは説明がつかない。触れただけでゴーレムを消滅させるような破格の性能を持った剣ならば、この世界のマジックアイテムだと言われるよりも、異世界の産物だと考えた方が納得がいく。
あるいはガンダールヴの他に、ミョズニトニルンの力を持っているか、である。
ふむ、とオスマンは髭を撫でて頷く。
「『破戒の剣』というのは、儂が付けた名前でな」
「オールド・オスマンが?」
「うむ。まだ若かりし頃、ある山の麓で怪物と出くわした。それはもう、大きな怪物じゃった。この学院よりもずっと大きな、黒色の巨人じゃ」
オスマンは遠い目をして語る。
「その怪物を、『破戒の剣』の一刺しで葬った女が居た。助けられた近隣の村の住人は騎士様とはやし立てたが、女は賢者を名乗り、これは自分の不始末だとして晩餐を断ったそうな。その後は村人と交流を持ちながら、山奥でひっそりと暮らすようになったという。
怪物を葬った夜、この剣は自分に必要のないものだと賢者は言い張り、決して争いを起こさぬ者にと、儂を名指して『破戒の剣』を授けた」
「それで、門外不出となっていたわけで」
「うむ。それでな、いずこから来たかと賢者に問えば、異世界からというではないか」
「それでは!」
コルベールの推測がいよいよ現実味を帯びてくる。
見たことのない魔法に、見たことのない剣。異世界の存在は間違いない、そう思った。
「儂はその言葉を一度たりとも疑ったことはない。異世界というものはあるんじゃろう」
「おお! それで、賢者を名乗る方とは今もお会いしているのですか」
「……それが、どこかへ消えてしまった。異世界へ帰ったか、あるいはただ住処を移しただけか。
あらゆる病を治し、不作の土地を肥やし、亜人の群れを追い払う。そして、賢者の美貌はいつまでも老いぬ。ガリアの血筋に負けぬ美しい青髪だった。
やがては強い信仰が興った。ちょうどそれから、平穏を愛する彼女は行方をくらませたという」
異世界という胸の踊るような話であったが、その結末を聞いてコルベールは肩を落とす。
しかし、異世界からハルケギニアへ訪れた人間は一人ではない、と気を持ち直した。
「『破戒の剣』をミス・ヴァリエールの使い魔へ譲ろうと思う。メイドをひとりやるだけでは不十分じゃからな」
「同郷のものだから……でありましょうか?」
「うむ。ただ宝物庫で眠っているよりも、帰れぬ故郷の宝として彼女が所有する方が良い」
「……お言葉ですが、彼女はフォークとナイフよりも重いものを持ちたがりませんぞ」
「…………そういう子じゃったか」
オスマンはなんとも言えぬ困った顔をする。
「まあ、彼女が納得しているのですからこれでいいのでしょう。では、仕事に戻って下さい」
「次の尻が見つかったらの」
コルベールは素知らぬ顔で鼻毛抜きに戻ったオスマンの腕を掴む。そして、勢い良く手前に引っ張った。
「おぎぃ! いだい!」
「戻らないとこのまま寝れません。ミス・ロングビルがいなくなったせいで溜まっているのですよ」
「抜いてる時に引っ張らんでも……こんなに抜けてしもうた」
美女にいじめられるならともかく、中年男性にされてはたまらない。痛みで目を赤くしたオスマンは、げんなりした気分で書類を手にとった。