虚無のルイズと異世界の魔王さま   作:乙丸

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1話『魔王さまのお食事』

 ふらふらとおぼつかない足取りでなんとか自分の部屋にたどり着くと、ルイズはそのままベッドに突っ伏した。

 窓から差す日は明るく、普段なら授業を受けているような平日の昼。コルベールに体調が優れないことを話すと、自室で休むよう勧められたのだった。

 

 魔法が成功した。そして大恥をかいた。

 どちらも無視できない出来事なのに、そんなことはどうでもいいと思ってしまう自分が居た。

 

 あのキスを介して、なにか大切なものを奪われてしまった気がする。

 それはきっと、アルレットの言った「精気」なのだろう。

 意識がぼーっとして、ものを考えることができない。熱っぽくなった額を手の甲で冷やしながら、ルイズはまどろみのような心地よさに浸っていた。

 

 

 

   1話『魔王さまのお食事』

 

 

 アルレットは空腹だった。ルイズという極上の食事を味わった後でも、胃の中は空っぽだった。それは文字通りの別腹だった。

 足取りの頼りないルイズを部屋まで送り届け、コックが居るという厨房へ足を向ける。送り届けたと言っても、部屋の位置がわからないのでなんとなく後をついていくだけだった。後ろ髪の間から時おり覗かせる白いうなじを鑑賞して、なるほどこれは良いものだと精神的に満たされたものの、やはり胃がくうくうとさえずるのを止められなかった。

 食べ物を口に入れないといけない。飲み込んで、胃を満たさないといけない。

 アルレットは空腹にあえいでいた。

 

 こつ、こつ、という音を響かせながら、黒いリボンのローファーで石畳の廊下を進んでいく。

 気を抜けば幽鬼のようにはしたなく歩いているところをなんとか堪え、あくまで優雅に、流麗な所作で歩を進めていく。顎を引いて背筋をぴん伸ばし、肩を引いて胸を張る。エネルギー切れを起こしている身体にとって大きすぎる仕事だった。

 

 アルレットがやっとの思いで中庭に辿り着いた時、その影と出会った。

 

「メイド」

 

 シエスタという、この学院の使用人だった。エプロンとカチューシャ、黒と白のコントラスト。誰がなんと言おうと、その姿はメイドだった。

 シエスタはアルレットの姿を認めると、ぎょっとした表情で一歩後退った。

 

「ご、ご貴族様。どうされたんですか」

 

 授業時間にあるこの真っ昼間に、どういうわけか制服も着けずドレスを身にまとった見慣れぬ貴族の姿を認めれば、その驚きは当然だった。

 まして、人の出入りなどほとんどない片田舎の学院である。平民であるシエスタにとって、得体の知れない貴族は恐怖の対象でしかない。

 

「よかった。余は空腹だ、メイド」

「は、はい? ええと……」

「空腹だ、メイド」

 

 無表情に言う貴族から言い知れぬ圧力を掛けられたシエスタは、さらに困惑した。

 

「余の言葉が通じていないのか?」

「あ、えと、あの……あの」

 

 シエスタは慌てふためき、額に汗を浮かべる。

 相手は正体の分からない貴族。機嫌を損ねればどうなるかわかったものではないという恐れから、混乱したシエスタは意図が汲み取れないままでいた。

 

 アルレットはしびれを切らしたように、無言で歩み寄った。

 触れ合える距離まで近づくと、身長差のあるシエスタの瞳を見上げるような形で覗きこむ。シエスタが喉を鳴らす音がアルレットの耳にまで届いた。

 シエスタは、まるでアルレットのアメジストのような瞳に魅入られたように固まって動かなくなる。

 そうして数秒も経たぬ後、シエスタは呆然とした様子で口を開いた。

 

「ええと……食事を用意しますね」

 

 アルレットは首肯した。そして、ふわりとステップを踏み、シエスタの横に華奢な肩を並べる。

 シエスタがアルレットの瞳の奥を覗いてから、二人の間に言葉のないコミュニケーションが生まれていた。その様はまるで、「目を見れば分かる」を体現するようだった。

 

「厨房はこちらです」

 

 

 

 厨房でアルレットに出された食事は、使用人が口にする賄い料理だった。これは彼女自身が無理を通したからで、コックたちが賄いなんかを出して難癖をつけられてはたまらないと強く拒んでいたものである。

 コックたちは普段自分たちの食べているものが貴族の少女の胃に収まっていくのを、奇妙な感覚で眺めていた。自分たちには決して真似できない気品のにじみ出た食事の取り方であるから、違和感はなおさらかもしれない。

 アルレットがナイフとフォークを置いて、テーブルナプキンで口元を拭い、「ごちそうさま」とつぶやくまで、コックたちは職分を忘れてその一挙手一投足から目を離せなかった。

 

「賄い、というのは良いな。城では口にさせてもらえなかったが、また頼んでみるのもいい」

「へ、へえ……」

 

 コック長のマルトーは曖昧に返事をするしかなかった。

 テーブルの賄い料理を味見したのはマルトーであり、それが貴族の眼鏡に適うものだとはつゆほども考えていなかった。貴族に出す料理と比べ見た目が劣っていることはもちろん、食材はごった煮の様相で味が整っているとは言いがたく、間違いなく文句をつけられるだろうと覚悟しているところだった。

 

「マルトーと他の者たち。良い腕だった。今日から余の食事を作れ」

「い、いいえご貴族様、言われずともこの学院の生徒たちが食う三食を作っているのは、俺たちでさあ」

「余は生徒などではない。対価ならばジャン・コルベールかルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールのいずれかに要求するがいい」

「……はあ」

「それと、余をご貴族様などと呼ぶな」

「で、では、なんとお呼びすれば……」

「余はアルレットだ。誤った呼称でなければなんとでも呼べ」

「はあ。ではアルレットさまと」

 

 その呼び名に関心などないように、アルレットは無言で立ち上がる。

 機嫌を損ねてしまったかとコックたちはお互いを見るも、アルレットの表情からは何も読み取れない。厨房を後にする彼女を、ただ呆然と見送った。

 

「おい、シエスタ」

「はい」

「なんでえ、ありゃ」

「アルレットさまのことですか?」

「それ以外に何があるってんだ」

 

 アルレットをもてなしている間、シエスタはお気に入りの紅茶を飲んでくつろいでいた。

 コックたちが職分を忘れてしまっていたから同じくサボってやろうという、拗ねた気持ちから取った行動だった。まさか一介のメイドがこの広い厨房でひとり働こうなどとは思わない。

 

「何と言われても……魔王さま、といえばいいのしょうか」

「魔王? はあ……シエスタまでおかしくなっちまった」

 

 おかしいのは職務を放棄しているコックたちの方だ、とシエスタの口から出かかったが、自分が紅茶を堪能している狢であることを思い出し、踏みとどまった。そして、夕食の調理の作業がだいぶ滞っていることにいつ気付いてくれるのだろう、と投げやりに考えてるのだった。

 その後、厨房がかつてないほど忙しくなったのは言うまでもない。

 

 

 

 

   ♪

 

 

 

 

 学生寮である塔のてっぺん。この日、尖った屋根の上に立つ小さな人影があった。

 全天快晴、とまではいかずとも、空はずっと向こうまで見渡せるくらいに晴れ渡っている。ちぎれたような綿雲がゆったりと風に運ばれて行く様はなんとも牧歌的だった。

 

「来て、らびたん」

 

 アルレットは呟いて、静かにアメジストの双眸を上空へ向けた。

 

 髪が風に攫われるのを右手で抑えて、左手を上空へ掲げる。

 すると、その向こうから黒いモヤのようなものがするすると降りてきて、アルレットの左腕へまとわり付いた。くるくる、くるくるとその腕の周りを回り続ける。

 

「魔王さま、魔王さま」

 

 そのモヤが、喉もないのに声を発した。甲高い少女の声だった。

 

「この場所は、どう?」

「とってもいいところ! 大好き、魔王さま」

 

 モヤは腕の周りをくるくると回るのを止め、空中に踊りだした。青空を背景に、黒色のモヤが渦巻いて滞留する。

 

「やっぱり魔王さまはすごいわ! 異世界までひとっとび!」

「うん。でもね、ルイズのおかげ」

 

 不定形なモヤがだんだんと形を作っていく。やがて現れたのは、薄い翼の生えた赤い瞳の黒猫だった。モヤがそうであったように、黒猫は翼を羽ばたかせることなく宙に浮いていた。

 アルレットは黒猫へ両手を伸ばして抱きかかえる。黒猫は、アルレットの腕に収まりきってしまうほど小柄だった。

 

「ルイズって、あのちんちくりん?」

 

 黒猫は小首を傾げて、アルレットの方を見た。

 

「ルイズを悪く言わないで。わたしにとって、必要な人だから」

「ふうん……」

 

 黒猫はアルレットの懐に顔をうずめて、不機嫌そうに鳴く。

 

「嫉妬、しないで。わたし、らびたんのことはずっと好きよ」

 

 アルレットは優しい手つきで黒猫の毛並みを撫でた。黒猫は気持ちよさそうに目を細めて、ごろごろと鳴き声をあげる。そのたびに、黒猫の姿形が曖昧になっていく。

 やがて黒猫は輪郭を失って、溶けるように元のモヤへと還っていった。

 

「ここは綺麗な世界だから、すぐに良くなる」

「うん、魔王さま。ほら、わたし、とても気分がいいの。魔王さま」

 

 アルレットが再び左手を上空へ掲げる。

 モヤとなった黒猫は、上空から降りてきたときの逆回しのように、左腕の周りを回ってするすると天へ登っていく。

 そして、黒色ごと青空の向こう側へ消えていった。

 

 

 

 アルレットはモヤの行方を見届けた後、ルイズの部屋に舞い戻っていた。

 ベッドの上ですっかり寝入っているルイズの横へするりと潜り込み、白いうなじへと手を伸ばす。深い眠りに落ちているルイズはまるで起きる気配がなかった。アルレットはルイズのうなじの表面を指で何度もなぞると、そこへ向かってゆっくりと顔を近づける。荒い呼気がルイズの肌を撫でた。

 口元に鋭い犬歯を覗かせたアルレットは、幼い顔に似合わぬ恍惚とした表情で指でなぞった場所へとかぶりついた。

 犬歯がぷつりと白肌を貫き、舌の上に赤い雫が転がる。その甘美な味に狂喜を覚え、アルレットは身を震わせた。

 そうしてルイズにほとんど抱きついて、一心不乱に行為を続けた。やがてルイズの方がぴくりと動き、アルレットの耳にか細い声が届く。

 

「痛い……痛いって」

 

 ルイズが目を覚ました。しかし、明瞭な痛みに襲われながらもどうしてか目覚めのまどろみから抜けだせず、アルレットの身体を力なく押し返すのが精一杯だった。

 

「あなた……まさか吸血鬼だったの? お願いだからやめて……」

 

 アルレットは答えない。それどころかいっそう行為に没頭し、何度も何度もうなじに犬歯を突き刺した。こぼれた血液がぼたぼたとシーツに落ちる音がした。

 何も言う気が起きなくなったルイズは、しばらくアルレットの行為に身を任せていた。やがて満足したのか、アルレットの口が自身のうなじから離れると、意識が明瞭になっていくのを感じた。

 急いで身体を起こして、ベッドに座り込むアルレットへ問いただす。

 

「何をしていたの……? あなた」

 

 アルレットは子どもが食事をした後のように口元を汚していた。その汚れが自分の血であることに、ルイズはぞっとして身震いを抑えられない。うなじの痛みも忘れていた。

 

「余を従える対価だ」

 

 楽器の音色のような美しい声が、ルイズの耳朶を撫でつける。

 

「神は救われぬものに無償の愛を施すが、悪魔は愛など知らぬ」

「な……何がいいたいのよ」

「だから、救われぬものにこう言うのだ。『お前の魂と引き換えに、どんな願いも叶えてやろう』」

 

 アルレットは立ち上がり、アメジストの双眸でルイズを見下ろした。

 窓から漏れた夕焼け色の陽が、アルレットの血で汚れた口元を照らす。さながら悪魔じみた光景だった。

 

 ルイズは「ひっ……」と声を漏らしてアルレットから後退る。

 

「言ったであろう。余は魔族の大陸、ゲヘナの魔王」

「な、な、なら、わた、わたしは」

「――ふふ」

 

 赤い笑みを作る。

 

「お前の魂と引き換えに、どんな願いも叶えてやる。ルイズ・フランソワーズ」

 

 笑っているようにも無表情のようにも見えるアルレットの目元、眼窩に埋め込まれたアメジストのような瞳に、ルイズは魅入られた。

 透明な紫。瞳の奥に隠された、彼女の中身まで見通せそうな澄んだ宝石。無機物の究極的な美が、水気を帯びて生きている。

 そしてルイズは、文字通りその向こう側を見た。

 

「あ……魔王さま」

 

 熱に浮かされたような声でアルレットを呼ぶ。ルイズは彼女の特別な瞳を通して、彼女の中身を見ていた。それは思考であり、記憶であり、魂でもある。こと勉学において優秀な成績を残してきたルイズでも、まったく知らない異世界の魔法だった。

 ルイズはアルレットを理解する。隅々まで、とはいかないものの、ルイズはその瞳の奥に見た。彼女がどこから来たのか、その身がどのような存在なのか。そして、自分が置かれている立場も。

 悪魔の瞳が、すべてを教えてくれた。

 

 アルレットはベッドの上に膝をつき、座り込むルイズにぐっと顔を近づけた。

 切り揃えられた自身の前髪を右手でかき上げると、白い額を同じくルイズの額にぴたりと付ける。発熱しているルイズにとって、それは死人のものよりずっと冷たいように感じた。

 

「わからない? この目を見ればわかるでしょう?」

「なにが……魔王さま」

「違う」

「……はい。アルレット」

「そう、それでいい」

「わたしの使い魔……わたしのアルレット」

「そう、ルイズの使い魔」

 

 『使い魔』。人ならざるものを従えることは、魔法使いの証である。

 ルイズはこの時、ようやく魔法が成功したことに実感を得て、歓喜した。十年来の苦悩が溶けてなくなってゆくような心地だった。

 目の前の少女が自分のものであることに、狂喜せずにいられなかった。これが嘘でないなら、魂など差し出してやる。そう、本気で思った。

 

「わたしの、わたしのアルレット……」

「うん……」

 

 アルレットは額を離して、両手をルイズの頬に添えた。

 そうして再び、顔と顔を近づけていく。アルレットの瞳は、ルイズの桃色をした薄い唇をじっと見つめていた。

 その唇が触れる前に、ルイズはアルレットがなにをしようとしているのかを察知していた。

 

「……待って。今日はもうさんざん吸ったでしょう?」

 

 ルイズの両手がアルレットの両手首をつかむ。

 召喚の儀でキスをされたのも、ベッドの上でで血を吸われていたのも、彼女の言う対価なのだろう、とルイズは思う。その際になにか、体力や精神力のようなものをアルレットに吸われていくのがわかった。

 供物は捧げなければいけない。しかし、ルイズは既にへとへとだった。

 このペースで吸われたら寝たきりの生活になってしまう。明確な危機感から、ルイズの手が動いていた。

 

「唇からのほうが精気を吸いやすいから」

「精気っていうの? でも、嘘。だってあなた、わたしが寝ている時、迷わず血を吸ったでしょう。それに、昼間……あんな公衆の面前で、呆れるほどもらっていったじゃない」

「……ルイズ、好き。だからわたしは口づけがしたい」

 

 アルレットの口調から尊大な態度が消え去る。無表情を崩し、沈痛な面持ちでルイズに迫る。

 

「ダメ。そんなこといってもダメ。そんな顔しても、ダメ」

「余は王だぞ。おまえのような小娘に断る権利はない」

「……もっとダメ。威圧なんてマイナスもマイナスに決まってるじゃない。わたしはあなたにかしずくような家来じゃないわ」

「……威圧しないから、ダメ?」

「ダメ、ダメ。だいたい――」

 

 ルイズはアルレットを退けて立ち上がった。驚いたアルレットがたたらを踏むのを、ルイズが手を掴んでぐっと引き寄せる。

 肩が触れ合って、息遣いも聴こえる距離。期待の篭った視線がルイズに向けられる。

 

「ルイズ……もしかして、いいの?」

「違う!」

 

 ルイズは怒鳴りつけるように言うと、机からハンカチを取り出して、アルレットの顔に強く押し付けた。

 「ぶぐっ」と可愛らしく鳴くも、ルイズは苛立たしげに言い放つ。

 

「口元が汚い! 洗ってきなさい!」

「……ひどい」

 

 極上の食事をおあずけされたアルレットは、とぼとぼと捨てられた猫のように部屋を去っていく。

 扉が閉められて一人の空間になると大きなため息が漏れた。貧血で頼りない身体を、ベッドに横たえて休ませる。ああ、本当にギリギリまで吸われたんだ。ルイズは熱の引いた頭でそう思った。

 

 眠ってしまおう。アルレットの言う「精気」も回復するかもしれない。また起きた時に吸われてないといいけど。

 ぼんやりと思って瞼を閉じたとき、部屋のドアが開いた。

 

「ルイズ……」

 

 薄目を開けてドアの方を見ると、口元が汚れたままのアルレットがいた。

 

「どこで洗えばいいの?」

「……はいはい、連れて行ってあげるから」

 

 ルイズはやつれた顔でベッドから起き上がり、使い魔の手を取った。

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