ハルケギニアは今日も平和だった。
トリステインの姫君であるアンリエッタは、数人の護衛を連れて無防備な馬車旅をしていた。小鳥のさえずりを聞きながら、馬車に揺られて深い森の中を進んでいく。
公務の旅では不機嫌な様子でいることの多いアンリエッタもこの日ばかりは穏やかな表情で森の木々を眺めていた。
いつも口やかましい鳥の骨は別の馬車に乗っている。かわりに口を利く相手も居なかったが、それはそれで平常である。気軽に話せる人間というのは、姫君という立場からは望めない存在だった。
だから、これから見れるであろう懐かしい顔に心を踊らせていた。
幼い日の遊び相手、ヴァリエール公爵家の娘。お互いに成長して立場もずいぶん変わってしまった。あの頃のように手をつなぐことは出来なくとも、親しい距離で、同じ目線で一緒に笑いたい。国の存亡に関わる重大な悩みを抱えながらも、アンリエッタは期待に胸を膨らませていた。
20話『籠の鳥』
次の日の早朝、ルイズは使い魔の品評会の出し物について頭を悩ませていた。魔法の鍛錬にのめり込むあまり、そんな行事があることもすっかり記憶から抜け落ちていた。
ふつう、何週間も前から準備をして、使い魔と共に訓練を重ねてから挑む行事である。しかし気が付いてみれば、今日がその当日。この日が来るまで、どのような出し物にするかすらまったく考えていなかった。せめて出し物を決めなければ付け焼き刃でしのぐことすらできない。
文机の椅子に座り、うんうんと唸るネグリジェ姿のルイズ。すぐに朝食の時間だというのに、髪を梳かすのも忘れていったい何ごとかと、シエスタが恐る恐る話しかけた。
「……ルイズさま? 風邪でも引きましたか?」
「…………今日よ、今日なのよ」
「今日?」
「品評会」
「ああ……」
シエスタは以前と同じように、赤いリボンが特徴的なメイド服のようなドレスを身にまとっていた。そんな貴族のような格好でアルレットの着替えを手伝っているのだから、未だに違和感が拭えない。
アルレットのネグリジェが取り払われたところで、ルイズは窓の外へ目をそらした。
「ねえ、何か良い案ある?」
「うーん……アルレットさまですから、何をやっても大賞は間違いなしかと。けれど、やっぱり迷いますね、出来ることはよりどりみどりです」
「……あのねえ、審査員はあなたじゃないのよ」
「し、知ってますけど……本当に、アルレットさまはどんな使い魔よりもすごいですし」
「ねえ、品評会って?」
アルレットが寝起きの声で尋ねる。すっかり忘れていたのだから話す機会もなかった、とルイズは自分に言い訳をする。
「春に召喚した使い魔をお披露目する催しよ。自分の使い魔に芸を覚えさせたりして、ね」
「今日?」
「そう。ちょうどお昼ね。将来国を背負うメイジたちがどんな使い魔を召喚したかは大切なことだから、国の偉い人まで見に来ることになってるのよ」
「だからそんなに悩んでるんだ。ふーん」
「今年はゲルマニアからご帰国なさったアンリエッタ姫殿下が、トリスタニアまでの帰路にあるこの学院にご滞在なさるの。だから、何が何でもまっとうな出し物を用意しなきゃいけないわ」
シエスタが下着姿のアルレットに赤と黒のドレスを着せる。金色の刺繍が窓から差し込む朝日に反射した。
ルイズは視線をアルレットに戻して、そろそろ自分も用意しなければ、と立ち上がる。クローゼットから学生服を取り出してさっさと着替え始めた。
「じゃあ……お姫さまが来るんだから、なんかすごいことしたい」
「うーん、ただ凄いことでも困るのよ。学長に言われたでしょ。ごく常識的な範囲で、当たりまえのことをしなきゃいけないの」
「常識的?」
「そう。知らないでしょあなた、常識的って言葉。あなたに常識を期待してないからわたしが出し物の内容を考えてるわけ。おわかり」
アルレットが肩を落として消沈する。大人気なかっただろうか、と思いつつ、できることはないかと尋ねてみることにした。
「なにか、魔法以外で得意なことってある?」
「えと……ピアノとかヴァイオリンとか」
「へえ、さすがというかなんというか」
「あと、油彩画」
「絵も得意なの。じゃあとりあえず、なにか描いてもらえる?」
そう言って、ルイズは普段勉強に使っているペンと羊皮紙をアルレットの座るテーブルに差し出す。
アルレットはやる気に満ちた表情でペンを握った。ルイズとシエスタが見守る中、羊皮紙にインクを落としていく。やがて絵が完成すると、羊皮紙を誇らしげに胸元に掲げた。
「アルレットさま、とってもお上手です!」
両手を合わせて褒め称えるシエスタを見て、ルイズは思った。なるほど、得意だと勘違いするわけだ。ルイズ自身も絵が得意だとは思わないが、少なくともアルレットよりは上手に描ける自信がある。これでは、ピアノやヴァイオリンも本当に得意なのかは疑わしい。
とは言っても、アルレットの瞳の前で嘘を付き続けるのは無理がある。元の世界では、そもそも教える人間が居なかったのだろう。
「シエスタ、本当のことを言ってあげるのも優しさよ。恥をかくのはこの子なんだから」
「……じゃあルイズさまが言えばいいじゃないですか」
「う……」
シエスタの恨みがましい視線に、ルイズは何も言えなかった。「下手」と、たった二文字でも口にすれば、心が痛くなるような光景が広がってしまうのが分かりきっていた。
話が見えていないアルレットは、首を傾げるばかりである。
「ね、どう? ルイズ」
「……上手ね、アルレット」
「ありがとう、ルイズ、シエスタ」
目を細めて嬉しそうに笑うアルレットを見ると、これでもいいか、と思えてくるのだった。
しかし、品評会は別である。本当に恥をかかせてしまっては可哀想だし、なにより恥をかくのはルイズも同じだった。
「他に出来そうなこととかは、ある?」
「うーん……城で一度、演劇のお披露目をしたけど、上手だってすごく褒められた」
「演劇かあ……そうねえ。確かに、上手そう」
「おかあさまによく似てるって」
「お世辞じゃなさそうね、あなた声を使うのも得意そうだし。でもね、今日発表するには時間も人数も足りないから、難しいわ」
「魔法を使えば……」
「だから、それはダメ」
お偉い人にアルレットの魔法を見せてしまったら、そのままアカデミーに連れていかれてもおかしくない。オスマンに釘を差されたことを抜きにしても、この学院にいる間は平穏に過ごしていたいとルイズは考えていた。
朝食の時間も差し迫っている。それが終われば、あとは午前の授業を終え、昼食を挟んでから品評会が始まってしまう。
このままでは、恥をかくどころの問題ではなかった。うんうんと唸るルイズに、アルレットは呑気な顔で話しかける。
「なにもないなら、ピアノが引きたい。わたし、歌も得意よ」
「……それは、語り引きってこと?」
「城では、いつも部屋でピアノを引きながら歌ってた。絵は、本当はあんまり好きじゃないの。やることがないからやっていただけ」
あまり期待できない、と思いつつも、案が浮かばないのだから仕方ない。聴くだけ聴いて、あまりにダメならごまかさずにはっきりと伝えようと、ルイズはアルレットの提案を飲むことにした。
「じゃあ、とりあえず聴かせてくれる? ピアノくらいなら学院にもあると思うから」
時間も足りない。とりあえず、ルイズの朝食は抜きになりそうだった。アルレットとシエスタはこの後、ゆっくり朝食を取ってもらえればいいものの、ルイズはここ最近、授業が欠席続きになっているので危機感を覚えていた。朝の授業も出なければならない。
両手で口を抑えながら、あくびを噛みころす。そのまま部屋を出ようとしたところで、シエスタに呼び止められた。
「ルイズさま、髪、跳ねていますよ。梳いて差し上げますから、座ってください」
「あーー」
自分の髪を触って気づく。髪を梳くのをすっかり忘れていた。
このまま出ていたらキュルケに笑われるところだった、とほっと息をついた。
「近ごろ頑張っていますから、疲れているんですね」
「ルイズ、無理しないでね?」
「ちょっと寝ぼけてたみたい。心配しないで」
♪
昼時のヴェストリの広場で、がやがやと観衆がざわめいている。生徒たちは緊張と興奮が入り混じった様子で落ち着きなく品評会の始まりを待っていた。
やがて教師によるコールが掛かると、発表を行う一人目の生徒がフクロウの使い魔を伴って観衆の前に現れる。生徒は緊張したようなぎこちない動きで、観衆に向かってお辞儀をした。
来賓席では、護衛の兵士に左右を囲まれたアンリエッタが窮屈そうに肩をすぼめていた。ルイズの姿を探そうと辺りを見渡していると、マザリーニにみっともないと見咎められてしまった。親友の姿を探すことのどこがみっともないのか、とアンリエッタは内心で悪態をついてみたものの、学院を訪れた際から生徒たちの注目は自身へ向いている。目立つような行動が良くないことは、アンリエッタ自身もよく分かっていた。
フクロウを連れた生徒が観衆による拍手の中、出し物を終えて生徒たちの列へ戻っていく。
何事もなく品評会が進行していけばおのずとルイズの顔も見られるだろう。アンリエッタは椅子に深く座り直して観覧に努めることにしたものの、思ったよりも早くその姿を見ることになった。
制服を着た生徒たちの中で、ドレスで着飾った人間がいれば目立たないはずがない。どうして今まで気づかなかったのか、とアンリエッタは疑問に思う。
黒いドレスを着た、冷たい雰囲気の彼女。泣き虫で意地っ張りだった幼い頃とはずいぶんと印象が違うものの、桃色掛かったブロンドと整った顔立ちは間違いなくあのルイズのものだった。
出し物に必要な衣装だろうか。ルイズの隣には、同じように制服を身にまとっていない生徒がふたりもいた。しかし、肝心の使い魔の姿が見えない。となれば、さすがはヴァリエール家の三女といったところか、大型の飛竜を召喚したに違いない。
アンリエッタは親友の晴れ舞台に期待をふくらませながら、ルイズの名前が呼ばれるのを待った。
火竜や風竜が登場し、その雄々しい姿に観衆が沸き立つ。品評会も終盤になって、とうとう教師の口からルイズの名前が読み上げられた。
アンリエッタは身を乗り出してルイズの登場を待ったが、一向に観衆の前へ現れる気配がない。首を傾げていると、建物の方からレビテーションの魔法で黒いグランドピアノが運ばれてくるのが見えた。
設置されたピアノの影から、杖を手にしたルイズが現れる。続いて、白いワンピース姿の少女がピアノの前に用意された背の高い椅子に腰掛けた。
「生徒同士の、合同の発表というのもあるのですね」
いままで発表した生徒の中に、ふたり以上で舞台に立った例はいない。ルイズは白いワンピースの彼女とたいそう仲がいいのだろう、と微笑ましく思っていると、アンリエッタの斜め後ろに座るマザリーニが訝しげな声で言葉を返す。
「いいえ……そのようなことは認められていないはずですが。そもそも、マントを身に着けていないというのは、魔法学院の教育は――」
マザリーニの言葉を遮って、ルイズのよく通る声がヴェストリの広場に響き渡った。
「これから、私、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールの使い魔、アルレット・オブ・アンジュを紹介いたします。
春の召喚の儀、私の呼び出した使い魔は、異国から訪れました彼女でございます。彼女は大変優秀なメイジでありますが、見慣れた系統魔法を実演することは面白みに欠けると考慮いたしまして、今日は彼女にしか響かせることのできない音楽を鑑賞して頂きたく思います」
ルイズが指揮棒のように杖を振る。それに合わせたようにアルレットがピアノを弾き始めると、観衆ひとりひとりの耳に、まるで間近で演奏されたような繊細な弦の音が響き渡った。
「このように、細やかな音色まで皆さまの耳に届くよう、私が風の魔法を行使しております。では、ご清聴くださいませ」
アルレットの演奏を背景に、ルイズが観衆に向かって深く腰を折った。
幼い頃から変わり者だと思っていたものの、まさか人間を使い魔にしているだなんて思わなかった。アンリエッタは妙な関心を覚えながら、耳元に響く演奏に耳を澄ませる。
高名な演奏家を知るアンリエッタには、その演奏技術が稚拙なものに思えた。限られた九十の音で、どこか聴き覚えのある旋律を奏でる。決して下手とは言えないものの、ありきたりといえばありきたりで、拍子抜けしたというのがアンリエッタの正直な感想だった。
演奏が佳境に差し掛かったところで、ささやくような歌声が旋律に合流する。
知らない国の言葉で紡がれた詞は、単調なピアノ音に暖かな色を与えていく。歌というにはあまりにも声量が足りず、風の魔法がなければほとんど耳に届かないだろう。聴こえるはずのない、細かな息遣いまでもがひとつの音楽だった。
演奏と同じく、それが才覚のある歌い方だとは思わない。声の美しい貴族の少女が、ただ聴いたことのあるようなメロディで詞を口ずさんだだけの歌。
楽しげな色の中に郷愁のような憂いを残して、透き通った歌声がヴェストリの広場に響き渡る。歌声の中にある表情の豊かさに、アンリエッタは自然とまぶたを閉じて聴き入っていた。
ピアノが最後の音を響かせて、歌声が中空に消えていく。
静まり返ったヴェストリの広場に、観衆による拍手の音が沸き起こった。火竜や風竜の使い魔が発表を終えた時よりも、手を叩く音はずっと少なかったかもしれない。それでも、アンリエッタは今日一番の感激を込めて、ルイズとその使い魔に拍手を送った。
品評会の最後には、もっとも素晴らしい使い魔を選ぶ投票が行われた。集計が終わると、抜きん出てトップに選ばれたのはタバサのシルフィードで、他の上位者の得票数にはほとんど違いがなかった。
上位者の中には、ルイズの名前も上がっていた。彼女に投票した教師がほとんどいないにも関わらず上位者に選ばれたのは、投票券がアンリエッタに五十枚、来賓と教師に十枚、生徒に一枚と不平等に分配されている中で、アンリエッタが票のほとんどをルイズに投じたからである。加えて、ある程度の生徒人気がそれを支えて、ルイズは五位の位置につけたのだった。
得票の上位十名にはそれぞれ教師からのコメントが読み上げられる。アンリエッタが複数票を投じてくれたことを知らないルイズは、どうしてわたしたちが選ばれたんだろう、とそわそわしながら自身に対してのコメントを待った。
当のアルレットは、舞台に立つために着替え直した白いワンピース姿で、堂々とシエスタの提供する紅茶と茶菓子を楽しんでいた。順位や教師からのコメントに興味は無いらしく、全体の発表が終わった時点で品評会への関心が消え失せている。
「ええ、次、得票五位のミス・ヴァリエール。ミスタ・ギトーからのコメントが寄せられております。
品評会は使い魔を通しメイジの実力を示す場であるから、十つの子どもでも出来るお遊戯会のような出し物は適切ではない。この失敗から、求められたことの趣旨を理解しようとする姿勢を学んで欲しい――以上です」
司会を任されたコルベールの読み上げた言葉に、くすくすと嘲笑が沸き起こる。上位者に選ばれたのは、きっと何かの間違いだったのだろう。ルイズはため息を付いて、大きく肩を落とした。
それでもアンリエッタから拍手をもらえたのだから、失敗ではなかった。コルベールとオスマンからは理解を得ているし、アルレットも楽しそうにやっていた。
呑気な様子のアルレットを見ていると、これでよかったかもしれない、とルイズは思った。
♪
今朝はどうなることだろうと慌てていたものの、何ごともなく使い魔の品評会を乗り越えられた。
その日の、夜の帳が下りたころ。
その時間に行われる行為はアルレットを召喚してからの習慣になっていた。食事や睡眠、水分補給とまったく同列で、必要なこと。
「ねえ、さすがにそろそろ、わたし……」
貧血でとうとう寒気がしはじめる。ルイズは覆いかぶさったアルレットの肩を押し、お互いの体を引き離した。
アルレットは、ルイズの顔色を見てはっとしたような表情を浮かべた。血の気が引いて青い顔をしている。血を吸い過ぎたせいだ、とすぐに分かった。
「……ごめんなさい、ルイズ」
ルイズの身体にまたがったまま消沈する。悪気の無い失敗なら、ルイズとしても怒る気にはなれなかった。
「うん……どうしたの?」
「ちょっと、足りなくて」
「こんなに吸ったのに……?」
こくり、とアルレットは頷く。そしてルイズの肩に両手を置いて、くちづけをした。
アルレットの唇から血の味とともに暖かいものが流れ込んでくる。失っていた血液が戻ってくるような感覚だった。貧血の症状もあっというまに解消されていく。
キスはほんの一呼吸の間に終わった。これで、アルレットが吸い過ぎた分を返してもらう形になった。
「たぶんね、ルイズの精気が薄くなってる」
「それは……」
「魔法の鍛錬で、たくさん使ってるから」
言葉を失う。自分のしている努力が、結果的にアルレットが生きるために必要な養分を奪っている。
「……控えたほうがいいなら、そうする」
多少足踏みしてもいい。ようやく手に届きそうな魔法でもアルレットのためならと、よどみなく言えた。
しかし、アルレットは首を横に振る。彼女も彼女で、ルイズと似たような気持ちだった。
「ルイズにはルイズの願いを叶えて欲しいの。少しくらい、大丈夫だから」
「でも、あなただって辛いんでしょう? その、足りないと……」
「あ、あのーー!」
シエスタが声を張る。勇気のこもった行動だった。
ベッドの上、ふたりだけの世界に入っていたルイズとアルレットは、驚いてシエスタの方を振り向く。
「あ、えと、その……わ、わたしじゃ、代わりになりませんか……?」