その国の姫君は、忌み子ではないかと囁かれていた。めったに民衆へ姿を見せず、現れたかと思えば暗い色のドレスを着てバルコニーから無表情に手を振るのみである。
賢者の娘が姫君の部屋へ通いつめて療病をなさっているというのは、城のメイドから流れた話であった。賢者の娘の口を開かぬ態度が、よりいっそう話に真実味を加えるである。
出産とともに命を落とした王妃の、たった一個の忘れ形見。
次の王座へ着くべきお人がこうでは堪らぬと貴族たちは王へ意見したが、王は一顧だにせず新たに妻を迎えることを拒んだ。
統治者として秀抜な手腕を発揮し続けた王も情に惑わされるようではいけないと、貴族たちの間で姫君を暗殺する計画が上がった。しかし、いざ刺客を送ってみればそこはもぬけの殻で、姫君は賢者の娘とともに国から姿を消していたのであった。
22話『賢者の娘Ⅰ』
熾火の真っ赤な灯りを暖かな色だと感じるようになったのは、ウエストウッドの村に住むようになってからだった。
火を焚くのは決まって、野宿をするときである。盗賊に身をやつしてからは宿と宿をはしごして生活していたものの、盗みを働いた夜には宿へ帰れない。そういうときに、誰もいない薄暗い森のなかで罪悪感と孤独感を押し殺し、帰る家のないことを恨みながら、じっと火にあたって冷えた体を暖めるのだった。
今は違う。一度は失った家も、ここにある。マチルダは熾火の他にある、もうひとつの暖かな温度に肩を預けた。
「どうしたの? マチルダ姉さん」
「子どもたちも寝たから、カッコつける必要もないと思って……嫌だった?」
「……ううん。姉さん」
互いに肩を触れ合わせて、熾火の赤を見る。
望む限り、明日も、十年後もこの時間は続いていく。ふたりには魔法があるのだから、この村が無くなったとしても、また居場所を作ればいい。
けれど、ふたりは人間であって、悪魔のように人の心を覗くことはできない。
自分がそれでいいと感じていても、相手はそう感じていないかもしれない。気を遣わなければいずれ軋轢が生まれて、拒絶につながってしまう。
「ねえ、テファ。ここには年の離れた子どもしかいない。ずっとこのままというのも、寂しいと思わないか?」
「……どうするの?」
ふたりだけでもよかった。そう考えていても、互いがその言葉を否定することはなかった。
マチルダの頭の中に、公爵家の娘が連れていた使い魔の姿が思い浮かぶ。
魔法を使えない落ちこぼれのメイジが召喚した、人の形をした使い魔。公爵家の娘の魔法も、その使い魔の存在も、マチルダの常識の範疇外にあった。そして、それが自分の妹にも当てはまることにマチルダは気付いていた。
「使い魔なんていたら、楽しくならない?」
春の召喚の儀から、暗い顔ばかりをしていた公爵家の娘が穏やかな表情を見せるようになった。家族や恋人と結ぶような、ああいう特別な絆がティファニアにもできたらいい。
まさか、人の形をした使い魔が本当に呼ばれるとは思っていない。熾火の灯りと、肩から伝わる人肌の暖かさに当てられて、何気なしに浮かんできた思いつきだった。
「うん、楽しそうかも」
ティファニアはいつも戯れている森の動物たちと親しげに暮らす場面を想像をする。子どもたちの世話だけでも大変なのに、使い魔の世話まで増えたら大忙しかもしれない。
けれど、マチルダの話はとても魅力的なものに思えた。長閑な森の中での暮らしは、もっと賑やかで忙しいくらいがちょうどいい、と思う。
「なら、テファが使い魔を呼んで欲しい。わたしなんかが呼んだら、可愛げないのがでできそうだ」
「ええー……わたしに呼べるかな……」
「できるに決まってるじゃないか。わたしが保証する」
「……わかった」
ティファニアは頷き、意を決した顔で立ち上がる。
「いま召喚するつもりかい?」
「うん。そのほうが、一秒でも長く一緒にいられると思うから」
「それはそうかもね。こんな夜遅くだから、呼ばれる使い魔も寝ているかもしれないけど」
妹の可愛げのあるこだわりに苦笑を漏らしながら、マチルダは立ち上がってティファニアの隣に立つ。
ティファニアは懐から小さな杖を取り出して、それを意気揚々と天高く掲げた。
「我が名は、ティファニア。えーと、ええとー……なんだっけ、ペンタゴン?」
召喚の魔法はいったいどんな呪文だっただろう。幼いころは、大人になったらどんな使い魔を召喚しようかとワクワクしたものだった。
ティファニアはずっと昔に魔法の勉強で目にした、召喚の呪文を思い出そうとする。
「えー……わたしの……運命を司る? …………なんだっけ……」
呪文がどうしても思い出せない。それでも杖の先に魔法が宿っているような予感を感じて、気持ちを込めて声を張り上げた。
「よ、よろしければ、わたしの……使い魔になりませんか!」
でたらめな詠唱だった。才能が無いと分かって以来、普通の魔法からは遠ざかっていたために、うまくいくような自信はない。
唯一唱えることのできる忘却の魔法と同じように、とにかくイメージを形にしようとティファニアは杖を振った。
「ちょっと、テファ。そんなので……」
出てくるはずがないと、マチルダは笑う。それからすぐに、その鏡は現れた。
「……もしかして、成功したのかな?」
「みたいねえ……信じられないけど」
使い魔のいる空間に繋がる、銀色のゲート。あわい光を放っていて、くらがりでもはっきりとその存在が見て取れる。
どんな使い魔が現れるだろうか、とふたりはじっとその鏡面を見つめた。
やがて銀色を割って肌色が姿を現す。徐々にその形があらわになってくると、ティファニアは声を上げた。
「や! いや! 姉さん助けて!」
鏡面からは、腕が生えていた。何かを掴もうとしているのか、その場でうねうねとせわしなく動いている。まるで溺れた人間がわらを掴んで生き残ろうとするような必死さともいえる。
くらがりの中では、ほとんどホラーだった。もしかすると悪魔や魔物を召喚してしまったのではないかと、ティファニアはマチルダに抱きついてその身を震わせる。
「まさか本当に人間がねえ……テファ。助けてあげなよ」
「お許しください! どうか!」
「……はあ。仕方ないからわたしがやるよ」
「やだぁ! ごめんなさい!」
ティファニアに抱きつかれたまま、ティファニアを引きずってマチルダは歩みを進める。
半ば信じられない気持ちで、マチルダは鏡面から伸びる白い腕を引っ張った。
ずるり、と奇妙な感触を伴って腕が引き抜かれる。
鏡面の奥から現れたのは、ローブに身を包んだ小さな人影だった。そのままうつ伏せに倒れこんで、か細い声でうめき声を上げる。
「あれ……? ひと? 人間?」
「テファと歳の近い女の子みたいね。にしても……」
頭の高い位置で結われたつややかな髪は、目が醒めるような鮮明なラピスラズリの色だった。
平民ではまず見られない色彩であり、しいていうなら、ガリアのやんごとなき血筋を連想させるはっきりとした青色だった。少女の手荷物だろうか、高級そうな黒色のトランクケースが傍に転がっている。
倒れ伏していた少女が、もぞりと緩慢な仕草で立ち上がる。
お世辞にも背が高いとは言えず、銀縁のメガネと低い位置で結われた短めのポニーテールが相まって、整った顔立ちにしてはどこか地味な印象を受ける。全身をローブで覆い隠していて体型は見て取れなかった。
ひとつ明確に言えるのが、ティファニアが呼び出したのは何の変哲もない十五・六歳に見える少女だということだった。
ティファニアは、召喚した少女の茜色をした瞳を見据える。
「あ、あの、はじめまして。召喚に応じてくれて、ありがとう……ございます。わたし、ティファニアといいます」
少女に向かって一歩を踏み出し、握手をしようとぎこちない動きで手を伸ばす。極度に緊張しているのはくらがりでも分かるほどだった。
「契約は、握手じゃできません」
少女の口から発せられたのは、硬質で透き通った青い水晶を思わせる声だった。差し出した手を下げて、ティファニアが首を傾げる。
「え……えっと?」
「わからないならわたしがやります」
今度は、少女が泰然とした様子でティファニアの方へ一歩を踏み出した。互いの息がかかる距離まで近づいて、少女はティファニアの頬に両手を添える。
ティファニアは混乱しながらも、これから起こることを察していた。幼いころは、大人になったらどんな使い魔を召喚しようかとワクワクしたものだった。使い魔を召喚した後には、頭を撫でながらキスをして「おともだち」になる約束をするつもりだった。
少女は頭半個分の身長差のあるティファニアに向かってつま先を伸ばし、ぐっと顔を近づける。
柔らかいものに、唇が塞がれた。鼻腔をくすぐる甘い匂いと脳がしびれるような感覚に、ティファニアは思わず声を漏らす。
ティファニアは抵抗する余裕もなく、少女の唇と契約のキスを交わすことになった。
「……これで契約は終わりました」
少女はティファニアから一歩下がって、ローブを脱ぎ始める。その下から、襟付きの白い半袖シャツとワインレッドのプリーツスカート姿の慎ましやかな体型があらわになった。胸元を飾る細い赤のリボンタイが歳相応の可愛らしさを引き立たてており、センスの良さを伺わせる。
「学生さん……なんですか?」
ティファニアは羞恥に頬を赤くしながらも、気まずい気持ちのまま黙っていられずに少女へ語りかけた。
「学生じゃなくて、学者、のつもり……」
「……そうですか、ごめんなさい。そういえば、お名前は」
「アニー。アニー・オブ・アンジュ」
「アニーさん、ですね。ええと……ふ、ふつつかものですがどうぞ、よろしくおねがいします」
「……はい。ティファニアさん」
アンジュ、なんて家名は聞いたことがない。マチルダは、目の前の少女がやんごとなき血筋とは違うであろうことに、ほっと胸をなでおろした。
「それで……何をなさっているでしょう?」
ティファニアは動揺した声音で言う。アニーと名乗った少女は、あろうことか細いリボンタイを解いて、シャツのボタンを上から外し始めていた。
「その、主従関係を結ぶにあたって、使い魔のルーンを確認しておくべきだと思います」
「え、ええと……」
「あの、胸のところ……見えますか?」
戸惑いながら視線をやると、はだけたアニーの胸元には薄っすらと白い文様が浮かび上がっていた。
本当に人間が使い魔になったのか、と妙な関心を抱くと同時に、ティファニアはアニーの首元にあるものに目を奪われる。
鎖骨から上にかけて、白く肌に残った無数の小さな傷跡が折り重なるように広がっていた。あまりの痛々しさに、ティファニアは思わず眉をひそめて、アニーから視線をそらす。
その傷跡がひとつだけなら、ただ事故的に怪我を負っただけかもしれない。けれど、まるで自傷行為のように繰り返し付けられたであろう傷跡の重なりは、とても尋常なものには思えなかった。
ティファニアが視線を逸らしたのを見て、アニーはシャツのボタンを下からかけ始める。やがて傷跡は襟に隠れて見えなくなった。
アニーはリボンタイを黒いトランクケースに閉まってから、ティファニアとマチルダに向き直る。
「そちらの方は、どなたでしょう」
「マチルダ。この子の、テファの姉だよ」
「一緒に暮らしていらっしゃるのですか?」
「ああ」
「そうですか。これから、よろしくおねがいします」
アニーはマチルダに向かって深く頭を下げた。
今までの様子から彼女が冷たい性格をしていると考えていたのが、思い違いだと気付く。アニーをよく観察してみれば、緊張して肩がこわばっているのが分かった。
「その薄着じゃ寒いだろう。そのローブも着て、はやくこっちに来な」
マチルダはアニーの腰に手を回して、焚き火の前まで体を押す。
ちょうどティファニアと肩がふれあうような格好になって、アニーは気恥ずかしさにティファニアから顔を逸らしながら、その場にしゃがみこんだ。
アニーはローブを羽織りながら、体を丸めて火に手をかざす。緊張よりも微笑ましさが勝って、ティファニアはアニーに寄り添うように腰を下ろした。
向かいに立ったマチルダは、そんなふたりの様子を腰に手を当てながら満足そうに眺める。
「どうしてテファの使い魔になってくれたんだい?」
「……この世界に、尋ねびとがいるんです」
「この世界……?」
聞き慣れない言い回しに、マチルダはオウム返しに尋ねる。
「わたしは、ここではない世界からやってきました」
「ここではない世界? 東方というわけではなく?」
「まあまあ、マチルダ姉さん。急がなくてもいいじゃない。これからゆっくりお話しましょ」
ティファニアが上機嫌な声で言う。確かに、こんな村で生活をするのに、何を急ぐこともない。
「じゃあ、暖かい飲み物でも入れてくるかね。アニー、なにがいい?」
「……ありがとうございます。何があるのでしょうか?」
「まあ、いろいろと。これでも不自由しない村だから」
「では……ホットミルクか、カフェオレか……あの、無ければなんでも」
「わかった、ホットミルクだね」
ティファニアと似たような好みだった。それに、人見知りがちなところもよく似ている。
もしかしたら、ティファニアがひとり増えたようなものかもしれない、とマチルダは思った。