23話『賢者の娘Ⅱ』
ほう、と息を吐く。焚き火に照らされた煙のような白色は、瞬きの間に夜の闇へと溶けて消えた。
ミルクの暖かさとはちみつの甘さに、アニーは思わず頬を緩める。冷えた両手を赤茶のマグカップで温めながら、熾火の赤を見つめた。
「信じてくれるんですね」
「信じるだけなら簡単なもんだよ」
アニーはティファニアの特徴的な耳を前にしても、何を言うこともなかった。
エルフの象徴である尖った耳は、ハルケギニアに住む人間にとって恐怖の象徴そのものでもある。幼い子どもならまだしも、アニーはどこからどう見てもメイジであり、年ごろの少女だった。
彼女が言うように異世界から来たのであれば、ティファニアに対してのリアクションが見られないことにも説明がつくかもしれない。
学院にいた公爵家の娘とその使い魔のことを思い出しながら、マチルダは疑いを持たずにアニーの話を飲み込んでいた。
「なんだか素敵かも。大切な人のために異世界からやってきた、なんて」
ティファニアは楽しそうな声で言う。こんな突拍子もないような話をまるで疑わないのもどうなんだろう、とマチルダは姉として心配になった。
「その人がどこにいるか、わかるの?」
「……わかりません。でも、きっとすぐにでも見つけます」
「そっか……ねえ、マチルダ姉さん」
「手伝おう、っていうんだろう?」
マチルダは渋い表情で、首を横に振る。
「テファは行かせられない。代わりにわたしが手伝ってやるよ。ガリアからトリステインまで、さんざん歩きまわったからね」
「その……ありがとうございます」
「それで、居場所を知った後はどうするんだい?」
「できるだけ、その人のそばに居たいと思います。けど、恩も返さずにこの場所を去ることは出来ませんから、この場所から魔法で移動したいと思います」
「でもここ、森の奥だし……言っちゃあなんだけど、辺境だよ?」
「わたしの魔法なら、問題ありません。目的地さえわかれば」
系統魔法に、フライより優れた移動魔法は存在しない。毎日のようにフライの魔法で村や街を往復するというのは、無茶な話だった。
そこでマチルダにはふと思い当たることがあった。
「……というのは、もしかすると、召喚魔法で通ってきたアレみたいに?」
「ええ、ゲートを使います」
「……そうかい。もしかすると、あんたの探しびと、知っているかもしれない」
「……本当、ですか?」
「ああ、もし違うとしても、手がかりくらいにはなるだろう」
トリステイン魔法学院には、ティファニアと同じように、人間を使い魔にした生徒がいた。そして、マチルダはその使い魔の使用した未知の移動魔法を見ている。
きっと、そういうことなのだろう。
「どうしたんだい?」
「なんでもないです」
「よかったですね、アニーさん」
アニーは銀縁のメガネをずらして、人差し指で目元の涙を拭った。マチルダは空になったマグカップを片手に立ち上がる。
「明日は早く出るから、あんまり夜遅くなるんじゃないよ。寝坊でもしたら野宿をするはめになる」
♪
村の傍に流れる川で、朝の水浴びをする。
日が眩しく、空が遠い。鳥はさえずり、風が木々の葉を揺らしている。冷たい水は興奮した頭を冷ましていくようだった。
アニーは白いタオルで全身を拭くと、トランクケースから取り出した教会の旅装束に着替えはじめる。
やがて身だしなみを整え終わると、黒いブーツで砂利を踏みしめながら川沿いを水流に沿って下っていった。修道服に機能性を加えたような衣装を身にまとい、髪を結わずにメガネを外したアニーの姿は、昨晩とはほとんど別人だった。
川幅が広くなり、水の流れが弱まったあたりで立ち止まる。アニーの視線の先には、ローブに身を包んだマチルダが大きな岩に寄りかかっていた。
「……驚いた。あんた、シスターだったのかい」
「信心なんてありませんけど、動きやすい服がこれしかなかったので」
水流の先には、小さな滝とちょっとした崖が見える。マチルダに聞いた話では川沿いをそのまま下って森から出るらしい。
この傾斜と岩の多さを見るに、そうとう険しい道のりになることがわかった。動きやすい服を選んでよかった、とアニーは胸をなでおろす。
「わたしは土のメイジだから、多少の地形ならどうとでもなる。大変だったら言ってくれ」
そう言ってマチルダは崖へ向かって杖を振った。すると、砂利の下に隠れていた土が小石を押して浮き上がり、みるみるうちになだらかな斜面が広がっていく。
「……すごいです」
「土のメイジなら、このくらい大したことないんだがね」
「わたしの世界に、こんな魔法はありませんでした」
砂利の敷かれた地面は相変わらず大変そうでも、傾斜が緩やかなら苦労せずに進めそうだった。
ぼーっとしている内に、マチルダが新たに生まれた道を歩き出す。アニーは駆け足でマチルダの背中を追った。
川沿いに満ちた朝の空気の中を、砂利の音を立てて進んでいく。
アニーはマチルダの一歩後ろを歩きながら、川の流れをじっと見つめていた。ときどきマチルダが立ち止まり、杖を振るって地形をなだらかにする際には、元来た道を振り返って川の水が流れてくる方角を睨む。マチルダは不思議に思いながらも、取るに足らないことだと口にすることはなかった。
「なあ」
「なんでしょう」
「その人とは、どういう関係なんだい?」
探している彼女を大切に思っていることは、マチルダにも十分に伝わってきた。
しかし、その彼女には公爵家の娘とメイドがいる。割り込む隙もないような、近い距離に見えた。アニーが彼女を思う姿を見て、マチルダは不安な気持ちにかられてしまう。
「……その人は、あまり体が良くないんです。ですから、幼いころからずっとわたしが診ていて……」
「それだけかい?」
「えーと、まあ……」
「仲はいいんだろう? 幼なじみってところか」
「……義妹です。でも最近は好かれていないというか、もしかすると嫌われちゃったのかもって」
「そりゃあ、難儀なこったね」
一方通行か、とマチルダは複雑な表情をする。
アニーをその彼女と会わせたところで、気持ちよく終わることはないだろう。けれど、主治医と患者のような関係なら、手伝わないわけにはいかない。マチルダ自身にも、その彼女に対しての借りがあった。
「ティファニアさんは、異種族だったりするのでしょうか」
今度は自分が尋ねる番だ、とばかりに、アニーはマチルダへ疑問を投げかける。
「ハーフエルフ。向こうでは見ないかい?」
「……そうですね。エルフはもう絶滅したそうですから……長い耳と言うのは、初めて見ました」
「ふうん。まあ、こっちの人間でも見たことのある人間は少ないさ」
「ということは、種族間で敵対してるのでしょうか。だから、森のなかで暮らしていると」
「……ああ」
物分りがいい、とマチルダは感心する。向こうの世界でも同じような歴史があったのか、それともアニーの頭の回転が早いのか。もしくは、その両方かもしれない。
「でしたら村のことは、きちんと黙っています」
「そうしてもらえると助かるよ」
そう頷き前へ向き直ったところで、マチルダの足が止まった。
どこから来たのか、進む先には年端もいかない少女が立っていた。
村の子どもだろうかと考えるも、マチルダは少女の長い栗色の髪と、身につけている安生地の洋服に覚えがない。まだ街まで距離があるというのに、どうしてこんなところに人影があるのかわからなかった。それも、幼い子供ひとりきり。
距離があって表情こそ見えないものの、少女はうつむいて悲しんでいるように見える。立ちつくしたまま動かないし、何かあったのかもしれない。
近くで話を聞こうと、マチルダは少女の方へと駆け寄った。
マチルダを引きとめようとしたアニーの手が、空を切る。
「どうしたいんだい? こんな森の深くに、ひとりで」
マチルダは膝に手をついて身をかがめ、うつむく少女の顔を覗き込む。
「……あの、あの」
「わたしたちは別に怖い人じゃない。教えてごらん」
「わたし、ひとりで……ひとりで……」
「両親は?」
「いない……誰もいない……」
「離れて!」
マチルダは右腕を強く後ろに引かれて、砂利の上でたたらを踏む。見れば、腕を掴んでいたのはアニーの両手だった。
困惑しながらアニーの顔を見やる。しかし彼女は目を合わせることもなく、細腕に似合わぬ強い力でマチルダの腕を引っ張り、少女との距離を引き離した。
「痛いって、どうしたんだい」
咎めるような言葉を無視し、アニーはその場で屈みこんで足元のトランクケースから赤色の手鏡を取り出す。すぐに立ち上がると、手鏡の鏡面を少女へ向けて突きだした。
マチルダはアニーの背中越しに少女の方を見る。しかし、そこに立っていたのは少女ではなく、少女の形をした黒い何かだった。
その何かは少女の声で苦しそうにうめき声を上げ、真っ黒に染まった両手で顔面を覆う。何事かと目を凝らしてみれば、黒い肌は樹木のような質感をしており、彼女は人間はおろか翼人やオークからもかけ離れた存在だと分かった。
「……いったい、どういうことだい」
「ただ、この手鏡で彼女をあるがままの姿に還しただけです」
「まさか、悪魔が化けていたとでも――」
「そのとおりです。あれは、悪魔」
尋常ならざる出来事に思わず漏らしたマチルダの冗談を、アニーは真剣な表情で肯定する。
「……わたしの、不始末です。わたしがこちらへ来た時に……」
「ああ……」
うめき続ける悪魔を、マチルダは呆然と眺めていた。トリステイン魔法学院から牢獄へ送られ、その直後に牢の中で見た黒い毛並みと赤い瞳。なるほど、あれはやはり悪魔だったのかと納得する。なんにせよ、この世の、この世界のものではないのだろう。
ただ、アニーの苦い顔を見れば、アニーがその悪魔と友好的な関係にはなく、意図せずに連れて来てしまったことが分かる。
「わたしが始末します。マチルダさんは目を閉じて、耳をふさいでいて下さい」
「悪魔と言っても……害意はないみたいだけど」
牢獄で会った悪魔は恐ろしくはあったが、伝承で語られるような災いをもたらす存在だとは思えない。
今この場にいる悪魔は少女の輪郭をしており、声を漏らして悲しんでいるように見える。マチルダはアニーの「始末」という言葉に抵抗を覚えざるをえなかった。
「いいえ。いまは、真実の姿を暴かれて苦しんでいますが、やがてふたたび子どもの姿に化けて、わたしたちの間に、村の子どもたちの中に取り入ろうとするでしょう。
わたしには、悪魔と対話する術がありません。だから……」
「……わかった。わたしにはわからない。アニーに任せるよ」
アニーのこれからしようとすることが、アニー自身の本意では無いことはその表情から十分に伝わっていた。マチルダはおとなしく引き下がり、後ろを向いてアニーと悪魔を視界から遠ざけた。
「アルラウネの声には催眠効果がありますから、悲鳴をまともに聴いてはいけません。精神がやられますから、視界になくともまぶたを閉じて、強く耳を抑えて下さい」
マチルダはアニーにしたがって目を閉じて耳をふさぐ。
しばらくその場でじっとしていると、少女の叫び声が耳をふさいだ手のひらから伝わってきた。くぐもった音では、どんな声音かも判然としない。だというのに、マチルダは感情をひどく揺さぶられるような感覚に陥った。
まるで、涙を流すティファニアを見守っているときのように、胸が張り裂けそうな気持ちになる。マチルダ自身、悲鳴が飛び交う戦場で盗みを働いたこともあった。その際にも、こんな思いに駆られることはなかった。
「マチルダさん」
アニーの手が、マチルダの肩に触れる。はっとして、マチルダは耳から手を離し、まぶたを開いた。
「……大丈夫、ですか?」
「あ、ああ……」
いつまでも聴こえているように感じていた悲鳴は、すでに止んでいた。あたりを見渡せば、そこにいたはずの悪魔の姿もない。
「アルラウネの催眠効果はもうありません。あとは、心を落ち着かせれば元に戻るはずです」
「……わかった。あんたは、大丈夫なのかい?」
「修道服も、肩書も、飾りではありませんから」
アニーは変わらず、泰然とした様子で黒いトランクケースを片手に歩き出す。修道服があの手鏡のようにマジックアイテムになっているのか、それともアニー自身に耐性があるのかは分からなかったが、ともかく問題はないらしい。
マチルダは沈んだ気持ちを押し殺して、アニーの後ろ姿を追った。