深夜に差し掛かろうかという時間帯、ラ・ロシェールは夜とともに静けさを深めていく。船に携わるものは皆明朝の出港に備えて就寝してしまった。
残るのは、怪しげなごろつき集団ばかりである。
ラ・ロシェールの街の隅、裏路地の入り口にひっそりと佇む酒場『金の酒樽』亭には、そういった輩がよくあつまる。平民から位の低いメイジまで。大抵が懐に危ないものを隠し持っており、流血沙汰も少なくはない。
そんな酒場に、ひとりの貴族の男が足を踏み入れる。仮面を被っており素顔は伺えない。ただ、その小綺麗な服装に酒場のごろつきたちは金の匂いを嗅ぎつけて、息を潜めて様子をうかがう。
仮面を被った貴族の男――ワルドが酒場の中央テーブルの、最も人が集まっている場所へどうどうと割って入る。そして、じゃらじゃらと金属音と立てる布袋を、テーブルの真ん中に放り投げた。
「依頼だ」
無感情な声で一言言い放つと、テーブルを囲う者たちが沸いた。
27話『女神の杵Ⅱ』
ルイズはベッドで横になるワルドの目を盗んで、音を立てないようこっそりと部屋を出る。廊下の突き当りをまっすぐ突き進んで、一番奥の、もっとも大きな部屋の前で立ち止まり、控えめにノックをした。
一呼吸おいて待つと、蝶番がきいと音を立てながら扉がひとりでに開く。ルイズは半開きの扉に滑り込んだ。
小さな照明がうすい橙色を放って、部屋の中を薄明るく照らしていた。ベッドが6つ並んでおり広さも上々。最上級の部屋らしく、調度品はヴァリエールの屋敷にあるものとほとんど変わらない豪奢なものばかりだった。
人影は、ふたつ。奥にあるひとつのベッドの上で、折り重なっていた。部屋の扉を開けたらしい人物は見当たらない。どうやらあの場所から魔法を使ったらしい。
ベッドに近づくと、それがどういう状況かすぐに分かった。
話しかけても仕方がない。ドレッサーの椅子に座って、それが終わるまで待つことにした。
やがて折り重なっていた人影が離れて、ルイズに声をかけた。
「おまたせしてすみません」
「いいえ……こっちこそお邪魔だったみたい。わたし、必要なかったわね」
ルイズはアルレットに精力を与えるために部屋を訪ねた。相性の合わないシエスタからもらう分では足りず、今ごろ腹をすかせたペットのように落ち着きなく自分を待っているだろうと、そう考えていた。
しかし、実際に訪ねてみれば……アニーがすでにそれを行っている最中だった。
そして満足したらしいアルレットは、ベッドで気持ちよさそうに眠ってしまっている。言ってしまえば、ルイズは用済みだった。
ワルドに訝しまれる前に、すぐに部屋に戻ったほうがいいかもしれない。けれど、アルレットの妹と名乗る彼女、アニーと話がしてみたいという気持ちがあった。
「いいえ。わたしがいない間、アルレットの面倒を見てくれてありがとうございます」
「あ……うん。あなたがいままでこうして血を与えていたのよね」
「はい。生まれてからずっと」
「……そっか。大変ね、あなたも。この子、けっこう容赦ないでしょ」
ふつふつと湧き上がってくる、嫉妬のようなもやもやとした気持ちを振り払うように、つとめて明るい表情を作った。
「わたしの役目ですから、苦しいと思ったことはありません。でも……」
「でも?」
「でも、わたしが苦しいと感じていなくても、彼女のほうが心苦しく思っているかもしれません」
それは嘘だ。アルレットの瞳は人の心を見通す。アニーがその役目を心から受け入れているなら、アルレットが心苦しく思うことはない。
それも、生まれた頃からの付き合いというアニーが知らないはずがなかった。
「人って、あくまでも理性的な生物なんです。その場の心地良さに流されることもありますが、どんなに熱に浮かされていても、かならず冷める時が来る。そうしてすぐに後悔や不安感に襲われるんです。次にはその後悔や不安感を恐れて、幸福と不幸の勘定をし始める」
「難しいわ。意味は、なんとなく分かるのだけど」
「たとえば、ルイズさんとアルレットが相思相愛で、気持ちが通じあって……恋仲になったりして」
「……え?」
唐突な例えに、どきりとさせられる。
「きっと、とても素敵です。深い、深い愛を、生涯に築きあげるでしょう。お互いの気持ちに後悔はありません。すべてをその愛に捧げられるのですから。やがて幸せな生涯だったと大往生を迎えられるはずです」
「……そういうことも、あるかもしれないけど」
ルイズは目をそらして気恥ずかしげに答える。ただ、言葉の意図がつかめない。
「そんな幸せな選択を、しない場合だってあるんじゃないでしょうか。理性的な頭で、未来の幸福と不幸の勘定をして……」
「勘定……」
「はい、すべて勘定なのです。公爵家の娘が、偉大なメイジとなったあなたが、同姓への愛を公にする不幸を。女性としての幸せを得られずに生涯を終えてしまう不幸を。子を成せないという取り返しの付かない不幸を。すべて埋めきれる幸福が、そこにはなければなりません。
たとえあなたが心の奥底から望んでいたことだとしても。そんなあなたの気持ちを知ることができたとしても、未来を知ることはできません。あなたを想えばこそ、できない選択があると思うのです。彼女があなたを想っていて、あなたが彼女を想っていても……あなたがワルドという男性と結ばれる幸せを願うことは、おかしなことではありません」
こほん、とひとつ咳払いをする。
「失礼しました。ただの例え話ですから、気にしないでください」
「それにしてはなんだかずいぶん具体的」
ルイズは不満気にため息をついた。
まるでアルレットと話している時のように。どこか見透かされているような気がする。容姿こそ似ていないものの、やはり姉妹なのだろう。
「わたしより小さいですけど、わたしの姉なんです。彼女は、妹のわたしの役目を憂いて……心苦しく思って、ご存知のとおり、わたしの目の前から消えてこのハルケギニアに来ました。わたしがこの役目を受け入れていたのにもかかわらず、です。いきなりだったから、嫌われたかと思ってすごく落ち込みましたけど……わたしの幸せを願ってのことだと、今日、きちんと教えてくれました」
忠告、なのだろうか。ルイズが今の関係を望んで受け入れていても、それがなにかの障害になるなら、また姿を消すかもしれない。
あまり気持ちのいい話ではなかった。なにより、今のルイズには思い当たることがある。
ルイズが魔法を使えば使うほどアルレットの精力が足りなくなる。だからルイズは、喉から手が出るほど欲しがった魔法でも、使用を避けるようになるかもしれない。この精力はアルレットの分なのだから、と。
そうなれば、たとえルイズが納得していて、それでもいいからそばに居て欲しいと、心の奥底から願っていたとしても……アルレットはルイズのために、身を引くに違いない。
「でもアルレットがこの世界に来た理由は、他にもあるんでしょう?」
ただ精力を求めることが心苦しくなっただけなら、わざわざハルケギニアを訪れるのもおかしな話に思える。対象がアニーからルイズに変わっただけで、なんの解決にもなっていない。
「……そうですね。やはり話していないのですか」
「あまり話したがらないみたいだから」
アニーは窓の外を見やった。宵闇の空に、双子の月が吊るされて輝いている。
「今、シエスタさんとマチルダさんには席を外してもらっているのですが……そうですね、彼女たちが帰ってくるまで、簡単にですがお話します」
♪
暗い廊下を行き、こっそりと部屋の扉を開く。部屋を出る際には無かった橙色の明かりが、足元にこぼれた。
ワルドが文机のランプを灯して本を開いているようだった。どうやら眠っていなかったらしい。
「おかえり、ルイズ。こんな時間に、どこへ行っていたんだい?」
「……え、えっと、その……」
「あの娘たちのところかい?」
隠し事が見つかってしまった、としどろもどろになるルイズとは対照的に、ワルドは微笑みながら言う。
「知り合いなら、女性同士で話したいことがあって当然だろう。気が利かなかったね」
「あ……いえ、黙っていて、申し訳ありません……」
ワルドは席を立ち、優しい顔を浮かべてルイズの元まで歩く。そして、ルイズの肩口にぽんと手を置いた。
「それより、明日は早い。ゆっくり休んでおくれ。小さなルイズ」
「はい……おやすみなさい、ワルドさま」
「ああ、おやすみ、ルイズ」
ルイズがベッドに潜り込んだのを見届けてから、ワルドは指を鳴らしてランプの灯りを消す。そしてワルド自身も隣のベッドに潜り込み、ルイズに背を向けて横になった。
しばらくすると、寝息が聞こえてきた。
厚い毛布にくるまって暗闇を見つめる。身体は疲れているはずなのに、目が冴えて眠れなかった。いつまで経ってもまぶたが重くなってくれない。
アニーから語られた話の内容が、頭の内側にこべりついている。
どうしてアルレットが、ハルケギニアを訪れたのか。理由はひとつじゃない。いろんな問題が重なりあって、この結果が導き出されている。
ハルケギニアしか知らないルイズでは、決して知ることのできなかったことが大きく関わっている。それはアルレットの居た世界のこと。
ルイズの曖昧な認識では、たいして複雑な印象は抱いていなかった。アルレットの世界には魔族という存在があって、それはハルケギニアでいうエルフや亜人のようなもの。その魔族を統べる王があって、それが自称魔王のアルレット。魔王はゲヘナと呼ばれる魔族の大陸に君臨していたらしい。
最近知ったことが、アルレットがアンジュという国の姫君だったこと。アンジュがゲヘナの大陸にあるかは知らない。細かいことは置いておいて、一国の姫君であったアルレットが、その特異な瞳と能力を以って悪魔を統べ、ゲヘナの王を名乗っていた、というのがルイズの認識で、ルイズが見ていたアルレットという人物の背景だった。
そして今日知ったのが、ゲヘナという大陸が滅びているということ。
海に浮かぶ巨大な大陸が、まるごとひとつ。永遠に明けない夜に呑まれ、荒廃した大地には二度と草木が芽吹くことはない。すべての生命が息絶えた。あるのは、はてなく広がる闇だけ。
晴れた日のアンジュの港からは、その光景がうっすらと伺えるという。まるで雲間から垂らされた黒いシミが、水平線のある一箇所に垂れているような、おぞましい景色。黒いシミが垂らされた場所こそが、ゲヘナの大陸であり、悪魔の手によって滅ぼされた地であるという。
その、退廃の最果てにある大陸で、王を名乗り、誇らしげに胸を張っていたアルレット。
いつか、彼女が話していたことを思い出す。
魔王を名乗っていながら、こんなハルケギニアの辺境にいて大丈夫なのだろうか、と、何気なしに浮かんだ素朴な疑問を口にした。
――ところであなた、魔王なのにこんなところにいて大丈夫なの?
アルレットはこともなげに答えた。
――もう全部、終わったこと。ひとつの大陸を犠牲にして、人間は魔族から逃げ延びた。魔族もまた、安寧の地を手に入れた。
その時は、ふたりでチェスをしていた。
試合の結果はルイズの惨敗だった。黒の駒を指揮するアルレットは、白の駒をすべて追い出し、盤上を黒で埋めた。
はっきりと分かたれた白と黒。それは人間と魔族を意味していた。
戦いは終末を迎え、世界から白と黒の駒が入り交じる戦場が消え失せる。魔族は盤上の争いに勝利し、安寧の地を得た。人間は盤上の争いに敗北したものの、魔族の手から完全に逃れ得た。アルレットはそう言っていた。
黒の駒を指揮するアルレットこそが、魔族の王だった。
魔族を率いてひとつの大陸を退廃の最果てへ導いた。そして魔族の大陸を築き上げ、廃墟の城で玉座に腰を下ろす。その王は、悪だろうか。はたして何色の駒だろうか。
人々を魔族の手から救った彼女は、少なくとも悪ではないし、魔族を率いて大陸を滅ぼしたのだから、間違いなく白の駒ではない。
悪でなくとも、白の駒でないなら……彼女が魔族と同じ、黒の駒であるなら。白の駒と同じ場所に立つことは許されない。
彼女の居場所は、そこにしかない。そして、彼女は誰かに精力を分け与えてもらえなければ生きていけない。
退廃の最果てにある大陸の、廃墟の城。その王室に住まう姉妹が、アルレットとアニーだった。
その世界には、ただふたりを除いて、生命という生命が存在を許されない。魔族は渦巻く闇であって命ではない。そんな場所でアルレットに血を捧ぎ、終えてしまう生涯を、アニーは認めていたという。
いくらアニーがその運命を納得して受け入れていたとしても、姉のアルレットは認めないだろう。だからアルレットはルイズの召喚に応え、廃墟の城から姿を消し、そこにアニーがいる理由を奪った。アルレットがハルケギニアへ渡ることは、定められていたことなのかもしれない、とルイズは思う。
もう自分に縛られることなく、アンジュの国で平和に暮らして欲しいと、アルレットは妹の幸せを願った。ルイズとアルレットの出会いは、その結果だった。
戦いの果てにあるものは、深く想い合っている姉妹の袂すらもたやすく分かつ。
ルイズにはそれが恐ろしくて仕方なかった。学院で平穏に日々を過ごしているだけなら、きっとふたりにその時は来ない。ただ、ルイズが魔法の力を求めてアルレットの精力を受け取った時から、その平穏が不確かで不安定なものへと変わっていたことに、気付いてしまった。
結局、その日の夜はほとんど寝付けなかった。
アルレットについて知ったこと。それまで何も知らずに接していたこと。驚愕や呆然というより、後悔や後ろめたさだった。
それに加えて、胸にくすぶる不安や焦燥感のようなものが、眠れない意識を追い立てる。
例えば、アルレットに教わった魔法を吸収して、可能なすべてを自分のものにできたなら――もう、アルレットがルイズのそばにいる理由はなくなる。それどころか、ルイズの精力を奪うことは、魔法の邪魔立てにしかならない。
アルレットがルイズの精力を奪うことによって、ルイズは魔法を満足に扱うことができなくなってしまうのだから。
清廉な矜持を胸に携え、貴族として杖を振い、国を導く。
幼いころから望み続けていた、心の奥底からの願い。アルレットはルイズの目を通して、それを知ってしまっている。
ルイズの幸福を願うなら、アルレットはルイズのそばを離れるに違いない。今のハルケギニアには、ルイズの他に、深く想い合った妹がいるのだから……それはアルレットにとっての幸福にも繋がる。
ベッドの上で何度も寝返りを打ちながら、数時間にわたってその焦燥に胸を焼かれつづけた。
空が白み始める前。もっとも夜の深まる時間になってようやく、疲れた心が意識を手放しはじめ、うつらうつらと眠りの淵に足を踏み入れたときだった。
野太い怒号が聴こえた。窓の外に赤みを帯びた明かりが浮き上がる。そして――硝煙の匂い。
……戦場の空気がそこにあった。ルイズが毛布を退けて飛び起きたと同時に、地鳴りのような衝撃音が建物全体に響き渡る。
横を見れば、ワルドが既にマントを羽織って、腰に剣型の杖を下げていた。
「ワ、ワルドさま!」
「ルイズ、静かに。僕は向こうの部屋で眠っている彼女たちを呼んでくる。それまでに支度をするんだ。場合によっては、すぐにこの街を出なければならない」
「――はい」
ルイズの返事にうなずいて、ワルドは部屋を飛び出す。言葉とは裏腹に切迫した様子を見せず、平時のように落ち着きを払った様子だった。
そんなワルドを見て、ルイズは焦りや不安を出来る限り抑えこみながら、急いで衣服を着替え始めた。