使い魔召喚の儀が終わってからその日、ルイズはほとんどの時間をベッドに突っ伏して過ごすことになった。
「精気を吸う」――その精気とは、メイジにとっての精神力と同義であるらしい。精神力がなくなればメイジは強い倦怠感に襲われ、その度合いによって丸一日眠り続けることもあるという。『ゼロのルイズ』にとってはまったく新しい体験だった。
しかし、人の上に立つ者として育ったルイズはタダ飯喰らいを許さない。
意地やプライドに生きる彼女はその底力で、魔王たるもの給仕のような真似は出来ないとゴネるアルレットに夕食を部屋まで運ばせたのだった。
2話『ほんとうは……』
朝の日差し、小鳥のさえずり。朝露をきらきらと反射する中庭の芝。空は高く、雲は綿菓子のよう。
鳥の骨が昏い策謀と戦っていようが、遠くで異種族間の紛争が起こっていようが……そこに、億の魔族を束ねる魔王の姿があろうとも。
ハルケギニアは今日も平和であり、ともすれば牧歌的であった。
「アルレット、そんなに眠い?」
文机の椅子に座るルイズは、後ろ髪を櫛で梳かしながら鏡越しにアルレットへ声をかける。今朝はしくしくと痛むうなじの噛み跡を気遣って、ゆっくりと髪を梳いていた。
話しかけられたアルレットはといえば、テーブルの椅子に座ってぼーっとしたまま答えない。ルイズは制服に着替え終わっているというのに、アルレットはルイズから借りたネグリジェのままだった。
ルイズは、アルレットは夜行性なのでは、と考えた。彼女とは同じベッドで夜を過ごしたものの、精気を吸われてぐったりしていたルイズはすぐに寝入ってしまった。
日が昇ってすぐの時間帯、幼い容貌に歳相応の可愛らしい寝顔が張り付いていたのを見たが、彼女がいつごろ寝入ったのかは分からない。もしかすると、深夜中起きていた可能性だってある。
「寝ていてもいいわよ? これから朝食の時間だし、授業まではまだあるわ」
アルレットは寝ぼけた顔のまま首を横に振る。
「じゃあ早く着替えて」
またも首を横に振る。一体どうしたらいいんだ、とルイズはため息をつく。
途方に暮れていると、アルレットがぼそっと呟いた。
「……メイド」
「メイド?」
「早く着替えを出さんか」
「…………誰がメイドだって? 寝ぼけてんじゃないわよ」
ルイズはその場で振り返って、アルレットの方を見る。
アルレットはぼーっとした様子でなにも答えず、かわりに小さなあくびをしていた。
「わたしはあんたの召使いなんかじゃないわ」
「ん……ルイズ」
「……なに?」
「メイドはどこ……?」
「……はあ。わかった、メイドがほしいのね」
彼女はやっぱりやんごとなき人だ、とルイズは思った。アルレットはルイズをメイドと間違えたのではなく、この部屋に当たり前のように居るはずのメイドに対して呼びかけていたのだった。
ルイズは嘆息して席を立つ。
「呼んでくるから待ってなさい」
「シエスタ」
「なに?」
「メイドは、シエスタがいい」
「注文が多いわね。まったく」
シエスタは今日もまた困惑していた。朝の洗濯をしているところを、突然、小さくて偉そうな貴族の女子生徒に話しかけられたのだ。慌てふためくシエスタに、女子生徒はこう言った。
『あんた、今日からわたしの使い魔の世話をしなさい。ひとまず朝の着替えをしなければいけないから、急いで』
何が悲しくて朝から使い魔の着替えなんてものをしなければならないのか。中庭でモグラや蛇の使い魔の姿を見かけていたシエスタは思った。
彼女の使い魔がせめて犬や猫の類でありますようにと願って部屋までついていくと、余計に困惑することになった。
「アルレットさま?」
「メイド。着替えを」
「は、はあ……」
アルレットにしぶしぶ赤と黒のドレスを着せてやりながら、シエスタの視線は部屋の中をさまよっていた。
「それで、使い魔というのはどこに……」
「この子のことよ」
ルイズが端的に告げる。
シエスタの表情が驚愕に染まったが、貴族の手前で余計な口を開くことはなかった。
ドレスを身につけ終わると、シエスタはテーブルに転がっている櫛を手にとって、アルレットの髪を溶かし始めた。
金の糸を束ねたようなブロンドに櫛が通るたび、アルレットの無表情が少しだけ柔らかくなるのをルイズは眺めていた。彼女の後ろにまわったシエスタからは伺えない光景だった。
「お綺麗です、アルレットさま」
そう言ってシエスタが傍に控えるように一歩下がり、ルイズに櫛を手渡した。
これでようやくアルレットの朝の支度が済んだらしい。ルイズは櫛を引き出しにしまうと、文机の椅子から立ち上がり声をかけた。
「早く行くわよ」
「うむ。余のメイド、明日も頼むぞ」
『自分のもの』宣言されたシエスタは、それににっこりと笑って応えた。
ルイズがアルレットとシエスタを伴って廊下に出ると、その人物に出会った。アルレットは一歩前に出て、シエスタはルイズとアルレットの影に隠れるよう一歩後退った。
道を遮るその人物と巨大なトカゲを一瞥して、ルイズは今朝何度目か知れない嘆息をする。
「そこ、邪魔、なんだけど。ツェルプストー」
「いけすかないわね。昨日あれから姿を見せなかったから、心配して見に来てあげたのに」
「疲れているの。わたしの身を心配するなら、さっさとどいてくれないかしら。もう、体がだるくて……」
「それよりも! あたしのサラマンダー、どう思う?」
「それよりもって、あんたね……」
心配して見に来たと言った矢先になんだ、と突っ込みたくなる気持ちを抑え、とっとと場の収拾に務めて食堂へ向かったほうがいいと判断したルイズは、投げやりに言った。
「サラマンダーなんてすごいじゃない。よかったわねキュルケ、すごいわ」
「そう? そうかしら! 人間の使い魔なんかよりずっとすごいわよねえ。ああ、可愛いフレイムちゃん」
「人間……まあそうね。人間の使い魔よりはね」
ルイズにははたしてアルレットが人間なのかは分からなかった。人間の枠に収まりきらないことに違いはないので、キュルケの言うことには当てはまらないことにする。
「行くわよ、アルレット。ただでさえ遅れてるんだから――」
そう言って隣に話しかけるも、そこにアルレットの姿はなかった。
前方から、きゅるきゅるという鳴き声が聴こえる。キュルケの使い魔だ、と思って視線をやると、そこには膝をついてフレイムの顎を撫でるアルレットがいた。
フレイムの気持ちよさそうに目を細めてアルレットに頬ずりしているさまは、さながら主従関係にあるようだった。前日にアルレットの瞳を覗いたルイズとシエスタはその様子に納得してたが、フレイムの主であるキュルケはまったくそうではなかった。
主の不満気な表情を察して、アルレットはフレイムをキュルケの方へ促す。ちろちろと舌を巻きながらキュルケの腕に抱かれるのを見てから、満足気に立ち上がった。
「もう、行くわよ」
「うむ。よく遊んだから余は空腹だ」
「……撫でてただけじゃない」
そんな様子を、キュルケは呆然と見送った。
「シーツ、ダメにしちゃったから新しいもの用意してくれる?」
ベッドシーツの赤い染みのことを思い出したルイズは、メイドにそう言いつけた。この後、シエスタという何の変哲もない学院の使用人は、アルレットが召喚された日から都合これで三度目の困惑を覚えることとなる。
「承知しました。それでは、わたしは給仕の仕事がありますので」
シエスタと別れてから、ルイズは料理の並んだテーブルに座った。座席は自由席というわけではなく、生徒によって決められている。この学院に在籍していないアルレットはその事実も知らず、ルイズの隣の席へ座った。ルイズはその行き違いに気付いていながらも、疲労に負けて怠惰を選択した。
アルレットだから勝手にどうにかするだろう。そう思っていた。
「お、おい。なんだね、キミ! どうして僕の席に座っているんだ」
小太りの少年が放った声に、食堂の生徒たちの注目が集まる。
もとより、制服も身につけず派手なドレスで着飾ったアルレットは大いに目立っていた。あまりにも堂々としているから学院の客人ではないか。関わって失礼でも働いたら面倒を被るばかりだろうと、生徒たちは彼女を居ないものとして扱っていた。使い魔召喚の儀で彼女の姿を見た者たちも、似たような理由で自分から遠ざけようとしていた。
しかし、少年の一言で、不躾な視線を向けるものが大勢現れた。失礼を働いているのが少女の方であり、学院の客人ではないことが明るみになったからだった。
また面倒ごとが降りかかってきた。思慮足らずだったとルイズは頭を抱えた。
そして、その面倒事を何とかしようと思えるほどの気力がルイズには残っていなかった。勝手にやっていてくれとアルレットに任せきってしまったのだった。
「な、なんとかいい給え、キミ!」
「……王に向かって、高いところからものを言う不埒。同じく、命令する不埒。身の程をわきまえず怒鳴りつける不埒。
二度。一度は許してやるが、二度はない。余は仏などではない」
そうよね、仏じゃなくて魔王よね。アルレットに任せては事態の収拾など望めないことにルイズはようやく気づいた。
『王』という言葉に少年は訝しげに眉間にしわを作る。
アルレットが席を立った。その威圧的な物言いと振る舞いに、少年が一度びくりと震える。しかし、啖呵を切った手前、情けない顔は出来ぬとぎりぎりと奥歯を噛んでアルレットに睨みつけた。
「失礼なのは、キミのほうじゃないか!」
まったくもってその通りだったが、アルレットは事情を知らない。シエスタに対してそうしたように、小柄なアルレットは見上げるような形で少年の両目を覗きこんだ。
無表情の口角が上がる。アメジストの双眸が、少年の中身を貫いていた。
「な、なんだよ……いきなり」
「わかった、わかったぞ。今朝はポークソテーが食べたくてたまらないんだな?
あわよくば他の者からポークソテーを譲ってもらいたい。ならば、慣れない席へ移動することは避けたい」
「な、何言ってるんだよ、おい!」
「何を言っているか? それは、おまえが席を譲りたがらぬ理由だ」
図星を突かれた少年は顔を真っ赤にして憤り、アルレットの肩を突き飛ばした。よろめいたアルレットは、背後の椅子の背にもたれかかる。その衝撃を受けて、ルイズが小さく悲鳴を上げた。
「なんだ、女相手に手を上げて! 図星なんじゃないか!」
生徒の誰かが野次を飛ばした。面白い見世物だと、にわかに生徒たちが騒ぎ出す。
「もう……いい加減にしてよね……」
ルイズは自分の座った椅子にもたれてくるアルレットに恨みがましく文句を言うと、席を立って振り返った。
「アルレット、もういいから……」
そう言って自分の使い魔を見ると、なんとも信じがたいことに、目に涙を浮かべて俯いていた。
困惑していたのはルイズだけではなかった。突き飛ばした少年本人も、まさか手加減した行動で泣かれてしまうとは思いもしなかった。少年は突き飛ばす手にも大して力を入れず、抗議の意味での行為だった。
まるでひとつの騒ぎのようにがやがやと食堂が沸き立つ。
遠くのほうで教師が「静まれ」と叫んでいても、ルイズたちには聴こえなかった。生徒同士の諍いならここまで騒がしくならなかったものを、ひとえにアルレットが生徒たちの興味を引いていたために起きたことだった。
ルイズはポケットから白いレースのハンカチを取り出して、アルレットの涙を拭う。切り揃えられた前髪を撫でながら、優しい声音で尋ねた。
「どうしたの? 泣いちゃって。魔王なんでしょう?」
こくり、こくりと二度頷くと、ルイズが拭ったアルレットの目元に、また涙の雫が溜まっていた。やがて雫はあふれるようにこぼれてドレスにしみを作っていく。
こういった状況では多くの場合、『泣かせた方』に野次が飛ぶ。
例に漏れず、非難轟々だった。少年はあわててアルレットに近寄って、「ごめん」と頭を下げた。
アルレットから「ポークソテー、あげるって言おうと思ってたのに」と泣き声で言われた時、少年は自分が思い違いをしていたことに気付いたのだった。
ルイズは思った。魔王って、人と接するのが下手なんだな、と。