『女神の杵』亭は不気味な静寂に包まれていた。
数分前に聴こえた怒号や地響きの気配はすでに鳴りを潜めている。窓枠の向こうに見えた赤みを帯びた明かりも、いつのまにか消えてしまっていた。
ワルドに集められたルイズ一行は、『女神の杵』亭2階の階段踊り場に集まり、1階の様子を伺っていた。
階段の手前で身をかがめているワルドは、音に敏感な風のメイジである。特有の感覚を頼りに可能な限り音の情報を拾い上げ、『女神の杵』亭周辺の状況把握に努めていた。
「……どうやら、この建物自体が盗賊の集団に囲まれてしまっているようだな」
「おいおい、ずいぶんと大胆じゃないか」
壁にもたれて腕組みをしたマチルダが苦笑を漏らす。
『女神の杵』亭は貴族ご用達の宿であるため、就寝時間にもなれば無防備な金持ちがこの一箇所に集まっているようなものである。長年盗賊として活動していたマチルダには、この宿を狙う理由は十分に理解できた。
だが、相手は貴族……つまりはメイジ。懐に抱えた金額は大きいが、その能力は強大。
ハイリスク・ハイリターンといえるが、天秤が釣り合っていない。リスクのほうが遥かに重いことは、メイジであり盗賊でもあったマチルダにとって身にしみているところだった。
「よほど腕に自信があるんだろう。メイジが仲間についている可能性が高い」
「そりゃまたずいぶんと厄介なこと。しっかし、ついてないねえあんたたち。こんなこと、めったにあるもんじゃないよ」
「……他人事のように言うが、マチルダ、キミにも戦ってもらいたい。この人数を僕ひとりで守り切るのは少々骨が折れそうなんでね。身のこなしを見るかぎり、場馴れしているのはキミとアニーくんくらいなものだ」
ワルドが上げたふたりを除くとこの場にいる人間は、緊張と不安で気がそぞろになっているルイズ、寝ぼけた様子のアルレットと、その肩を支えているシエスタである。
「わたしの依頼主はあんたじゃなくて、そこで寝ぼけ眼をこすってるお嬢さんだ。あんたの婚約者を守る目的なら別途料金になる」
「……こんな状況下で報酬を要求するなんて、やはり変わってるな」
ワルドは緊迫した表情を緩めて、口元に笑みを浮かべた。
「気に障ったかい?」
「いいや、分かりやすくて好ましい。ますます気に入ったよ」
「そうかい、光栄だね。で、いくら払ってくれる?」
「昨晩渡したワイン代の20倍を払おう。ところで、得意な属性とクラスは?」
「土のトライアングル」
「なら、キミには裏口の方を一任する。屋内と表口は地形が狭いから、僕のほうが適任だろう」
「了解。ま、仕事しましょうかね」
不敵な笑みを浮かべて、マチルダは使い古した杖を手に握った。
28話『戦場と脱出』
1階の入り口にある両扉が開け放たれていた。
武器が向けられている。暗がりの中で、月明かりを反射した矢の切っ先が無数に浮かび上がる。
気を抜けばその瞬間に絶命してもおかしくない。分かっていたことでも、目前にすると心臓が跳ね上がった。
2階の階段を降りたのは、ルイズとワルドのふたりだけ。他の4人は客室の窓から『女神の杵』亭の外へ出た。
作戦はこうだった。ワルドがルイズをかばいながら時間を稼ぎ、マチルダらが裏口を囲っている盗賊たちを排除する。裏口から続く道がひらけたら、そこから盗賊たちを振りきって全員で港を目指し、船長に頼み込んでアルビオンへの急ぎの便を出してもらう。
この街のどこに盗賊が潜んでいるかわからない以上、ラ・ロシェールを出るために最速で最善の方法を取る必要があった。
ごくり、と唾を飲みこんで、息を吐く。
そしてほんの数瞬後、暗闇の中、風切り音と共に銀のやじりが飛来する。狙いは定められていない。しかし、数は数十を数えるほどだった。
細い切っ先も集まれば面になる。盗賊たちが仕掛けてきたのは、避けることの叶わない攻撃だった。なら、それを迎え撃つ他にない――杖を取る以外に、生き残る道はない。
ワルドが剣状の杖をひとふりした。
詠唱を行う時間はない。ルイズもワルドに倣って、ありったけの精神力を込めて杖を振るう。
その瞬間、大気が震えて、ふたつの風が空間を切り裂いた。
ルイズとワルドがそれぞれ放ったエア・ハンマーの魔法は、馴染むように混ざり合い、やがてひとつの風になる。弓の攻撃による風切り音よりも、遥かに大きく、猛々しい音。巨人の拳が振り下ろされたような、ごうと唸る一撃だった。
酒場として使用されていた『女神の杵』亭の、机や椅子、カウンターに酒樽と酒瓶、ガラスの照明に皿や食器が、風に呑まれていく。まるで屋内に小さなハリケーンが訪れたような有様だった。
そして、ふたりが杖を振るった先……盗賊たちの元へ襲いかかり、その身体を大きく弾き飛ばす。
……風が収まった後、矢を射ったものは、誰一人としてそこに立っていなかった。
「これほどとは……ルイズ、キミはやはり素晴らしい」
ワルドがルイズの方を振り向いて、感嘆の声を漏らす。暗がりの中でワルドの目がぎらりと光ったように見えた。
「ワルドさま――!」
ルイズは叫んで杖を振りぬいた。
盗賊の放った火矢が空間に赤い光を走らせて、ワルドの後方から迫っていた。数にして5つ。それをワルドは身をかがめて避け、ルイズの放ったエア・ハンマーがすべて撃墜する。
「おっと、油断したよ」
見れば、盗賊の数は半数に減っていた。しかし、背後の暗闇から同じだけの数の盗賊が姿を現す。
火矢を携えた弓を引いて。
それを確認した瞬間に、火矢の第二波は放たれていた。ルイズの魔法は間に合わない。
ルイズは両腕で顔面をかばうようにして来るべき攻撃に備える。しかし、それは身を起こしたワルドの剣技によって防がれた。
安堵、その数瞬後。
「っつ――」
ルイズが思わず悲鳴を漏らす。
地面に叩き落とされた火矢が、火柱を上げて燃え上がっていた。熱い。庇うように手前に差し出した右手が焼けるような痛みにさらされる。
風の魔法によってめちゃくちゃにされた屋内は、燃やすのに手頃な薪が散らばっているようなものだった。しかし、ただ木片に火が移ったにしては激しすぎる燃え方。考えられるのは魔法しかない。
「まさか、火のメイジがいるっていうの?」
「いいや、おそらく油の錬金だ。まずいな……この数的不利で、なおかつメイジが敵となると防戦一方だ」
ワルドは苦虫を噛み潰したような表情で杖を振る。再び飛来した火矢が風に煽られて墜落し、傍で燃え上がる炎に呑まれて灰になった。
炎が明かりになって周囲を見渡せるようになっていたものの、それ以上に危機を感じさせる状況にある。敵の規模が見えないことと、燃え広がりつつある火事が不安を煽り立てていた。
「ワルドさま、下がってください」
魔法を発動する気配を感じ取って、ワルドは無言でルイズの後ろに下がる。
ルイズが杖を振り下ろすと、炎の熱を押し切ってひんやりとした空気が周囲に満ち始めた。そして、どこからともなく現れた水のかたまりが、燃え上がる炎に降り注いだ。
残ったのは黒々とした炭の山と、濡れた床。炎が消えて薄暗さが戻ってくる。
目的は、全員で港を目指すこと。そのためにマチルダらが裏口で戦っている。表に立つ自分たちがすべきことは時間稼ぎだ。
練習以外でこうして魔法を扱ったのは二度目になるものの、十分な手応えを感じていた。これならワルドの隣に立っても恥ずかしくない働きができる。芽生え始めた自信とともに、ルイズは再び杖を振るった。
♪
『女神の杵』亭の裏口を出ると、拓けた小さな丘が広がっており、その向こう側には巨大な世界樹の枯れ木が屹立している。
その世界樹の枯れ木こそ、ラ・ロシェールの誇る空の港である。
「依頼主曰く、こいつらは殺して欲しいそうだ」
声のする方には、武器を携えた盗賊の群れ。ワルドの言葉通り、港へ続く道は盗賊たちによって阻まれているようだった。
群れの先頭には、仮面で素顔を隠した男が佇んでいる。マントと腰に携えた杖から、メイジであることは明らかだった。
マチルダは内心で舌打ちをする。思った以上にやっかいかもしれない。
いつ攻撃が来ても守れるようにと、マチルダとアニーのふたりは、アルレットとシエスタをかばうように一歩前に出た。
「子どもとは言えメイジだ、油断も容赦もいらない」
仮面の男が口にして、杖を構えた。それに倣って盗賊たちが一斉に広がりだし、暗闇の中でまばらにうごめきはじめる。
不気味な静寂が支配する場に、一本の矢が飛来した。
それが彼らの合図だった。多勢に無勢ともいえる状況で、仮面の男の宣言通り、油断も容赦もない一斉攻撃が始まった。
四方から放たれた無数の矢とともに、仮面の男によるエア・ハンマーが襲いかかる。
マチルダの反応は素早かった。杖を振り、予め用意していた錬金の魔法を発動させる。雑草の生えた地面が隆起し、土が塊を形成し始めたかと思うと、マチルダらを中心に囲い込む防御壁が出現した。
矢の雨は鈍い音をかき鳴らしながら土塊の防御壁に突き刺さり、厚い守りを貫くことはできない。
しかしそれは、猛々しい風の鉄槌によっていともたやすく瓦解させられた。仮面の男が放ったエア・ハンマーの直撃だった。
仮面の男は杖を振るだけの僅かな動作で、即席とはいえ土のトライアングルが錬金した防御壁を打ち破った。ドットやラインクラスのメイジが扱える威力ではない。最低でもトライアングル、スクエアメイジの可能性だってある。
マチルダは眉をひそめた。いくらなんでも無茶苦茶だ。これほどの才覚を持つメイジが、盗賊なんて卑しい立場にいるなんて。
崩壊した土塊が土砂崩れのようにマチルダらの頭上に降り注ぐ。臨戦態勢あったアニーも、手をこまねいているばかりではなかった。
アニーの振るった杖の先から白い光がほとばしる。その光は瞬く間にラ・ロシェールの暗闇を白色に塗りつぶし、降り注ぐ大量の土塊のすべても飲み込んでいく。以前、ルイズがマチルダの大型ゴーレムを打ち倒したもの同じ、エクスプロージョンの魔法だった。
光が晴れて暗闇が帰ってくると、そこには土埃ひとつ舞っていなかった。元通りの、静寂をたたえた夜が広がっている。
「困りました。このままではすぐに精神力が尽きてしまいます」
すました顔でアニーは言う。状況は防戦、ただでさえアルレットに精力を分け与えているのだから当然かもしれない。
アニーがルイズほどの精神力を保有しているなら、今のエクスプロージョンの魔法で身を潜めている盗賊ごと一網打尽にできたはずだった。
「……あの男さえ討てば戦意喪失して、細かいのは消えるだろう。しょせんは義のない賊の集まりだ」
「なら――」
「そうですか。それでしたら」
アニーがアルレットの言葉を遮り、前へ歩み出した。仮面の男と向き合うようにして凛然と立つ。
「わたしがやります。マチルダさんはアルレットとシエスタさんを」
「アニー……」
「大丈夫。敵が一人ならわたしでもなんとかなります。これから戦場が続きますから、アルレットは温存して下さい」
「別にいいけど……やるったって、どうやって」
仮面の男とアニーの距離はいわばメイジの距離。弓の援護に加えてトライアングル以上の魔法を盾にされれば、近づくことも敵わない。魔法をぶつけ合うにも、精神力に余裕のないアニーにとって打ち合いは不利になる。
まして、相手はワンアクションで分厚い土塊を突破する風の使い手。けれどマチルダの中には、アニーの扱う未知の魔法ならば、という思いもあった。
「近づいて、意識を奪います」
「……わかった、任せたよ」
どうやって近づくというのだろう。マチルダには分からなかったが、アニーが杖を構えるのを見て可能なのだろうと納得する。そして、自分の役目を果たすべく再び防御壁の錬金を始めた。
仮面の男もすでに詠唱を始めている。その影響か、薄暗い雲が上空で渦巻いていた。
先ほどのエア・ハンマーよりも遥かに強力な魔法が放たれようとしていることは、平民であるシエスタの目にも明らかだった。
「シエスタ。なにかあっても、わたしが守るから」
「……はい。魔王さま」
今立っている場所が、紛れもない戦場だった。その不安を和らげてやろうとアルレットはシエスタの腕を抱く。
メイジ3人のうち、もっとも早く魔法を発動させたのはアニーだった。
その様子をじっと眺めていたシエスタの目からは、彼女の姿が一瞬のうちに掻き消えて見えた。そして視線を仮面の男の元へ向ければ、上空から地上へ迫りくる雷槌に照らされて、丘を凄まじいスピードで駆け抜ける小柄な彼女の姿が映る。
大気を轟かせて大地へと突き刺さった雷槌の魔法は、それを上回る速度で駆けるアニーの快足によって躱された。喫驚した仮面の男が慌てて後ずさる。
マチルダの錬金が再び防御壁を生み出しはじめた。やがて土塊が視界を遮って、それ以上の光景は伺えなかった。
「ライトニング・クラウド……」
土壁の檻の中でマチルダがつぶやく。風のスクエアスペル、雷を操る御業。ライトニング・クラウドを目にするのはマチルダも初めてだった。
アニーが未知の魔法を使うのは、今回が3度目。それよりも、仮面の男に対する興味が強まる。
スクエアメイジの盗賊なんて聞いたことがない。スクエアというクラスは特別も特別で、顔が割れれば名前も知れるような存在。マスクを被る理由にも納得がいく。だからこそ、長年盗賊業をやっていたマチルダが彼を知らないはずがなかった。
そうなれば考えつくのは、仮面の男が盗賊などではないこと。彼はおそらく名のある貴族で、盗賊を雇ってまでマチルダらを狙う理由がある。
「……レコン・キスタ、ね。面倒ごとに巻き込まれちまったみたいだ」
土塊の防御壁は静かに佇んだまま揺らがない。戦場の空気が掻き消えたのをマチルダは感じた。もう一度杖を振るい、土塊を大地へと還していく。
「アニー、あの男は?」
「申し訳ありません、マチルダさん。逃してしまいました」
「……逃したって? ワイバーンでも現れたのかい」
開けた視界に敵の姿はなく、ラ・ロシェールの静謐な夜の丘が広がっていた。目的は港への道を切り開くことで、目標は達したと言っていい。
あとはルイズとワルドを回収してアルビオンへと飛ぶだけだ。
「触れた瞬間、男の全身が風に変わってかき消えました。何かの魔法でしょうか」
「……信じがたいけど、偏在の可能性が高い。自分の分身を生み出す最高位の魔法さ」
「そんな魔法が……」
「ああ。本体である男はまず間違いなくラ・ロシェール周辺に身を潜めてる。とっととこの街を脱出したほうが良さそうだ」
分身にスクエアスペルを扱わせるなんて、化物としかいいようがない。アニーが不意打ち同然の魔法で撃退したものの、二度目が通用するとは限らない以上、再びあの男と相まみえるのは危険だ。
目標を達成したことをワルドらに知らせるために、マチルダは夜空に向かって火の魔法を放った。