記憶に焼き付いている。
自分を形作ってくれた大切なもの。忘れられるはずがない。
大きな池に浮かんだ小舟の中、仰向けになって空模様を眺める。
遠い、遠い向こうに浮かぶ、大きな雲に思いを馳せる。
小舟が揺れるたびに、水面がちゃぷちゃぷと音を立てる。ときおり木々が葉音を鳴らして風の訪れを知らせてくれる。
別世界。私だけの箱庭。
魔法の使えないおちこぼれ。
大好きだった両親や姉から叱られ続ける日々。
いつしか世界が嫌いになっていた。だから、別の世界へと逃げ込んだ。
屋敷の庭園を抜けた先にある、手入れのされていない池。遊びに使われていた古い小舟がいくつか杭につながれているだけ。
ある日、そんな箱庭に侵略者が現れた。
「ようやく見つけた」
小舟に影が降りて、羽根帽子のシルエットが目に映る。
「また泣いているのかい」
「あ……」
「寂しくないかい。こんな場所で」
「……さみしい。でも、帰りたくありません」
母に叱られて部屋を飛び出してきた。今ごろ、母や使用人たちが慌ただしく屋敷内を探し回っているはずだった。
「帰りたくない」。両親に言っても、姉に言っても、使用人に言っても、きっと咎められてしまう言葉。
だというのにその人は、そうか、とだけ頷いて受け止めてくれた。
「苦しくなったら休めばいい。寂しくなったら、誰かに甘えればいい。君が頑張ってることはよく知っている。大丈夫」
そう言って優しく前髪を撫でてくれた。その暖かさと大きさが胸に焼き付いて、いつまでもそこに残ったぬくもりを忘れられずにいた。
31話『暖かな黎明Ⅰ』
慣れないベッドの感触に違和感を覚えて身を起こすと、今度は慣れない部屋の景色が広がっていた。
締め切ったカーテンから赤みがかった日が漏れている。
ぼんやりとしてなかなか意識が覚醒してくれない。どうやら長い夢を見ていたらしい。
やがてここがアルビオンのニューカッスルであることを思い出すと、ルイズは慌てて部屋を出た。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
廊下ではニューカッスルのメイドが待機していた。ルイズは乱れた髪をそれとなく整えながら応える。
「え、ええ。もう祝宴会は始まって?」
「はい。目を覚ましたら案内するよう、仰せつかっております」
「わかった。着替えて身だしなみを整えてくるから、待ってて」
寝過ごした、とルイズは頭を抱える。ウェールズから恋文を返還してもらった後、ルイズは体を気遣って部屋で仮眠をとることにした。しかし、旅の疲れや緊張が溜まっていたらしく、目を覚ました頃にはすでに日も落ちる頃合いだった。
ニューカッスルでは今夜、祝宴会が行われるらしい。
言ってしまえば、敗戦を前にした最後の晩餐。どんなに良い食事を出されて、会話に花が咲こうとも、後には暗い感情が残るに違いない。ルイズ自身は乗り気ではなかったものの、アルレットが参加したいと言い出したがためにお目付け役という理由ができてしまった。
一旦部屋に戻ると、ルイズは手早く黒いドレスに着替えなおし、身だしなみを整えた。
鏡を覗く。すでに慣れてしまった、怜悧な印象をした自分の姿が映る。
アルレットの魔法は、その特殊な瞳を通じて精霊と対話し、「命令」を下して奇跡を起こす。
より「命令」を強くするために、まずは衣装から意識を変える。すべてはその粉飾のための格好と口調。彼女からはそう教わった。
けれど、それも。
コンコン、とノックの音が聞こえる。
「ミス、ご友人がお尋ねに。よろしいでしょうか?」
「もう平気よ。お願い」
メイドに通されて部屋に現れたのは、ドレス姿のシエスタだった。
細かな所作も小奇麗で、白い生地と顔に赤いリボンがよく映えている。平民出身の彼女もさすがに着慣れてきたかもしれない。
「お迎えに上がりました、ルイズさま。そろそろ起きる頃かなーと」
「もう、祝宴会がはじまる前に起こしてくれたらよかったのに」
「疲れていらっしゃるようでしたから。よく眠れたみたいでなによりです」
「そうね。シエスタも覚悟しておきなさい。このベッドならいくらでも眠れそうよ、さすがは王様のお城ってかんじ」
「わ……それは楽しみです。食事も素晴らしいですよ、早く行きましょう」
微笑むシエスタの顔にも、すこし疲れが見えた。アルビオンまでの船旅で少しだけ眠っていたものの、ここまでの道のりが道のりだ。寮のベッドでゆっくり休ませてやりたいと思う。
案内をシエスタに頼むということで、ニューカッスルのメイドには下がってもらい、ふたりで広い廊下を歩く。
「ごめんなさい、シエスタ。こんな危ない場所に連れてきちゃって」
「いいえ……足手まといで申し訳なく思います。好きでついてきたわけですから」
「そうね」
ルイズは心にもなく頷く。否定しても、話はきっと平行線になる予感がした。
好きでついてきたと言っても、シエスタにはトリステインでふたりの帰りを待つという選択肢はなかった。シエスタがアルレットにとって必要不可欠な支えであることをルイズは知っている。
「あの子の前なら、そもそもわたしだって足手まといだけど」
「そんなことないです! 危ない場所といいますけど、わたし、不安なんてありません。おふたりのそばにいますから」
「……そ、ならいい」
その嬉しそうな笑顔から、本心からふたりを頼りにしているのが伝わってくる。ルイズは頬が熱くなるをごまかすように顔をそらした。
力を持たない人間を守るのは貴族の使命とはいうものの、魔法があればこそだった。以前のままの『ゼロのルイズ』だったら、頼られることなんてなかったかもしれない。
「ところで、宴席にアルレットを置いてきて平気なの?」
「それでしたらアニーさんが付いているので大丈夫だとお思います」
「あ……そっか。彼女も一緒だものね」
どこからかもやもやとした気持ちが湧き上がってくる。それが嫉妬の感情だと気付いて、ルイズは苦笑した。
「どうされましたか?」
「ううん。ただ……再会できてよかったなって。あのふたり」
「そうですね。異世界まで追いかけて、こうしてまた出会えて……なんだか素敵です」
そう言ってシエスタは胸の前で手を合わせる。純粋な心でアルレットの幸福を祝っていた。それを見て、ルイズにも同じ気持ちが降りてくる。
「そうね、別れたままなんてあまりにも辛いもの」
それでもアルレットはその選択をした。妹のために。
「今度は別れないようにしないといけませんね」
「ええ、そのとおりよ。嫌がってもちゃんとそばにおいておくの。わたしの使い魔なんだから」
♪
長いアルビオン王室の歴史を締めくくる晩餐。最後の祝宴会はとびきり賑やかに、胸の片隅では締め付けられるような痛みを残しながらも、華やかに行われた。
後の会場に残ったのは果てしない虚しさ。この宴席の終わりがまさしく王室の終わりを意味していた。
祝宴会の最中、ウェールズは明日死にゆく身であることなど微塵も感じさせない振る舞いで貴族らの相手をしていた。そして、それは貴族らも同じで、各々が己の誇りに殉ずることに憂いを持たず、心の奥底で誰かの幸福を願いながら盃を交わしていた。
こんな人々を見たくなかった、とルイズは拭いきれない暗い感情を押し殺す。
「アルレット。明日の早朝、フネを出してくれるみたいだから。今日は早く寝ましょう」
「うん。その前に……」
「あ……そっか。アニーのところに行く?」
「ううん、ルイズの部屋。今日は一緒に寝る」
「……そう。まあ、いつも一緒だものね」
ルイズたちの他に、ニューカッスルに客人はいない。空室も有り余っていてひとりひとりに広い客室を与えられている。
一人部屋で寝泊まりする、というのはアルレットと喧嘩して以来のことだった。
アルレットを連れて割り当てられた客室に戻ると、すでにシエスタが扉の前で控えていた。
すでにアルレットが声をかけていたらしい。
3人で部屋に入ると、客室が学生寮と同じ景色に映る。すこし部屋は広いし、調度品はよりきらびやかでも、見える人は同じだった。
「これじゃあ、いつもどおりじゃない」
「そうですね。でも、昨日は別々でしたから」
シエスタがくすくすと笑う。
「ルイズ、ワルドの部屋がよかった?」
「べ、別にそういうわけじゃない。だいたい、そんなの落ち着いて休めないわ」
「……そう?」
「懐かしいとか、そういうのはあるけど……一緒の部屋で寝たいかっていうのは、別」
「そうならいいけど……気をつけてね、ルイズ」
そう言って不安げな目を見せる。ルイズはまさか、と耳を疑った。
アルレットが誰かに言及する言葉には、その瞳から得た裏付けがあるはずだった。
「……ワルド子爵はあの魔法衛士隊の隊長よ? マザリーニ枢機卿の信頼を受けて様々な任務をこなしてきたっていう」
「それに加えて、ルイズの婚約者」
「……そうね、婚約者。ただの口約束だけど」
だからアルレットは、はっきりとワルドについて言及することを遠慮している。まだルイズがワルドとの思い出を大切に思っていて、婚約の話も考える余地を持っていることを、アルレットは知っている。
「ワルドは何かを隠してる?」
「……うん」
アルレットは態度を変えず、言うつもりはないという素振りでルイズから顔をそらす。
「わたしはあなたを信じるから。ひとりで背負い込まないで」
そうでも言わないと、どこかへ行ってしまいそうだった。そう考えてしまうのも、アニーから聞いた話がまだ頭の片隅でくすぶっているからかもしれない。
意を決したようにアルレットがルイズを見て、口を開く。
「……あのひとはレコン・キスタ。ウェールズの暗殺と、恋文の回収を狙ってる」
「そんな――」
それ以上、言葉が出てこない。信じると言った手前だというのに、アルレットの言葉を飲み込むことができない。
「レコン・キスタって、ウェールズ殿下たちの敵……ですよね?」
シエスタの問いに、アルレットはこくりと頷く。
敵。それも、『ハルケギニアの統一』と『聖地奪還』を掲げる巨大な反乱軍で、トリステインを脅かす大敵に違いなかった。
トリステインはレコン・キスタから身を守るためにゲルマニアとの同盟が必要で、その同盟締結にはアンリエッタのしたためた恋文が重要性を持つ。つまるところ、今度の密命はトリステインがレコン・キスタに対して打ち出した策の一端だった。
レコン・キスタの人間にその密命を授けたとなれば、その策は無意味どころか、彼らを助けていると言ってもいい。
「……そう、なんだ」
「信じるの……?」
「疑ってなんかない。それに……なんだか、変わったような気がしてた」
「ワルドが?」
「そう。昔はもう少し、距離が近かった気がする。今はなんだか、仮面をかぶっているというか、掴めないというか……とにかく、昔とは違うのは、なんとなく分かってた」
落ち込んだルイズの声を聞いて、アルレットも表情に影を落とす。会話が途切れて暗い雰囲気が場に降りようというところで、シエスタが口を開く。
「……昔は、どんな方だったんでしょう?」
「いつも優しくて、どこか寂しそうで……でも、大きくて頼りになったし、頼りにしてた」
「なんだかそれだけ聞くと白馬の王子さまみたいですね。優しくて身長が高くて顔も整ってて、すごいところの隊長で、どこか憂いがあって」
「……人は歪んでしまうから。みんな、ルイズやウェールズみたいにはなれない」
どうしようもない痛みを抱えながらも、その痛みに真正面から向き合い、正しい選択を続けることの難しさ。ルイズはウェールズに及ばないまでも、魔法が使えない間ずっと、それを続けてきたつもりだった。
けれどもし、春の召喚の儀でアルレットが現れなければ……いずれ、耐えきれないときが訪れていたかもしれない、と思う。
「ウェールズはわたしが守るから。心配しないで」
「うん、わかった。頼りにしてるから」
「あとね、たぶんだけど……あの人はルイズのことも狙ってる、あわよくば」
「え……? わたし?」
「レコン・キスタに虚無の力が必要みたい。だから、ルイズのこともわたしが守る」
「虚無……」
栄誉を立て続けて、魔法衛士隊の隊長にまで上り詰めたワルド。ずっと昔に両親が交わした口約束の婚約話を覚えていたこともルイズにとって意外だったし、長い間、会う機会も会おうとする努力もなかったのに、今になって結婚を迫ってきたことにも違和感が拭えない。
……裏切られていた。胸が締め付けられるような思いに駆られる。
それでも、目の前で不安そうに表情を曇らせる使い魔を見ると、どうでもいい痛みに思えた。
「わかった。ちゃんと守ってね、使い魔なんだから」
「うん、任せて」
ルイズに頼られたアルレットは、少しだけ嬉しそうに胸を張る。
本当は頼りたくなんてないし、誰かを傷つけたり、傷つけられたりなんてことはさせたくない。けれど、アルレットの居場所が生まれるなら……今はそれでもいい。
「今日はたくさんもらっていいから。わたしのこと、守ってもらうんだもの」
ルイズはベッドに腰掛ける。アルレットは、吸い寄せられるようにルイズに迫った。
そのまま華奢な肩を押して、ふたりでベッドに倒れ込む。もう堪えきれないと息を荒くして、アルレットはルイズの首筋に食らいついた。アルレットは艶やかなブロンドを乱しながら一心不乱にそれを飲み下す。
「いつもどおりですね、わたしの位置も……」
肩を落としながらぽつりとつぶやく。シエスタは折り重なって食事をするふたりを尻目に、食休み(?)の紅茶を入れるべくそっと部屋を出た。