ウェールズはテラスの柵に手をついて遠くを見やる。夜明けが来ないかと、地平の向こうを睨む。
上着一枚で外へ出たのは失敗だった。やはり早朝のアルビオンは冷える。一度部屋に戻ろうかと考えるも、踵を返すことはなかった。
今日で最後になる。どうしても、訪れる夜明けを見届けたかった。
浮遊大陸アルビオン。ハルケギニアで最も星に近い場所から臨む空。
ニューカッスルは、高潔な意思のもと、心を種として炎を燃やしつづける彼らのためにある。その姿は、今日の日をもって誇りと気高さを持たない灰色の断崖となる。
この城が貴きものの城として最後に浴びる、夜明けの鮮烈な光。栄光と言い換えてもいい。
「誰かね」
風使いのウェールズが、無音の足音を拾う。
足音の主はウェールズの問いに答えない。代わりに、金属の擦れる音を鳴らした。冷えた空気を纏って、白銀の刃が月光を反射する。
ウェールズは懐の杖を握りながらその場を振り返った。懐から手を伸ばし、魔法を発動する直前、杖を向けた人物の正体に戸惑いを覚え、その手を止める。
「まさか、子爵――」
32話『暖かな黎明Ⅱ』
早朝。ルイズはまだ日の昇らない時間に目を覚ましていた。
日の昇らない時間とはいえ、アルビオンの地平ははるか上空に伸びている。当然ながら夜明けの訪れは遅く、日の暮れは早い。
勉強するにも道具がないし、勝手に城内を歩くのも気が引ける。朝食までの間、手持ち無沙汰のルイズは備え付けのテラスでぼんやりと空を眺めていた。
ニューカッスルがレコン・キスタの手に落ちたが最後、この特等席でアルビオンの絶景を眺めることも叶わなくなる。夜明けを見届けたら部屋に戻ろうと考えていた。
風の音に紛れて、がちゃり、と部屋の方から扉の閉まる音がした。
嫌な予感がする。ルイズはわずかに逡巡した後、部屋へ戻ることにした。
物音で目を覚ましたらしいシエスタが、目をこすりながら体を起こす。その隣に、アルレットの姿はない。
「えっと、ルイズさま……?」
「あの子ね、出ていったのは」
寝起きで理解の追いつかない様子のシエスタを尻目に、ルイズは部屋の扉へ向かう。
「ごめん、ちょっと探してくる」
ルイズは廊下へ出て迷わずに駆け出した。客室が並ぶ階の一つ上へ、階段を駆け上る。
行き先には強い心当たりがある。「頼りにしてるから」……そう、託してしまった。おそらくウェールズの身に危険が迫っているのを察して、部屋を飛び出したに違いない。
案の定、ウェールズの部屋の扉に鍵はかけられていなかった。そして誰もいない室内と、開け放たれたテラスへ続くガラスの戸。
駆け足で室内を横切って、その向こうへと足を踏み入れる。
そこには、3つの人影があった。
互いの杖を抜いて向かい合うワルドとウェールズ。そしてその間に割り込んでいる、探していた彼女。
アルレットの左手には琥珀色の鞘があった。そして、右手には……抜き身のナイフが握られている。
身を屈めたアルレットが、ナイフを振り抜いてワルドが持つ剣の鍔を叩き、空中へ弾き返した。
跳ねて飛んだワルドの剣は、テラスの柵の向こう、城の外へと落ちていった。その剣こそワルドの杖であり、メイジとしての彼を無力化した瞬間だった。
「なるほど、やはり君がガンダールヴだったか!」
追い詰められたはずのワルドが、焦りなど微塵も感じさせない表情で声を上げる。
「ワルド子爵! 一体どういうつもりだ」
「語るまでもないだろう、レコン・キスタはアルビオン王子の首を取り、戦の種であるアンリエッタの文を奪う」
ウェールズは顔をしかめ、ワルドの淀んだ瞳を睨みつける。
「どちらにせよこの首は貴様らに捧げる。何故このような非道な真似を!」
「敵将の首を欲しがらぬ兵士などおるまい、ウェールズよ!」
「ワルド……」
ルイズは拳を握りしめる。アルレットの話したことは、やはり真実だった。悔しさと空虚さが入り混じった行き場のない感情が湧き上がって、喉奥から溢れそうになる。
「ルイズ、君が居合わせてしまったのが残念だ」
「……ウェールズ殿下を暗殺して、何食わぬ顔でトリステインへ帰ろうというつもりだったのですか」
「いいや。こうして君が手に入らなくなってしまった以上、トリステインへ戻る理由はない。本当に、残念だ」
「ウェールズ、うしろっ」
アルレットが叫ぶ。背後の上空からウェールズの背中を貫かんと迫る剣。アルレットが弾き返したはずの、ワルドの杖だった。それは担い手もなく、魔法の力でひとりでに飛んでいた。
声に反応したウェールズが素早い体捌きで剣をかわす。剣は、何を切り裂くこともできずテラスの石畳に転がった。
ワルドが転がった剣に手を伸ばそうとするのを、アルレットが体で遮る。代わりウェールズが剣を拾い上げ、刃をその首に突きつけた。
「裏切り者は貴様ひとりではないな、協力者はどこの誰だ! 答えたまえ!」
「ううん、ワルドひとり」
ワルドは未だに無手であり、魔法は扱えない。この剣にレビテーションの魔法をかけてウェールズの命を狙った者が別にいるはずだった。
しかし、アルレットはそれを否定する。
「大使殿、何故あなたがそうと言いきれる?」
ウェールズの目は、アルレットを鋭く睨んでいた。
「……っ、これは、風の魔法だから」
アルレットはワルドに向かって容赦なくナイフを振るう。ウェールズに動きを封じられていたワルドは、為す術もなくその刃を身に受けた。
しかし、切られた場所から血が吹き出すことはなかった。代わりに風が吹きすさび、ワルドの姿ごと夜明けの向こう側へと消えていった。
アルレットとウェールズの2人だけがその場に残された。ルイズはウェールズのもとへ駆け寄る。
「まさか風の偏在だったとは……」
「ウェールズ殿下、ご無事ですか」
「ああ、怪我はない。……そうだ。命を助けてもらったと言うのに、大使殿を疑ってしまった。本当にすまなかった」
後悔に表情を歪めるウェールズに、アルレットはうつむいて首を横に振る。
王子の部屋で起こった一瞬の危機に駆けつけ、明け方の薄暗さの中で飛ぶ剣の存在にいち早く気付き、風の偏在をひと目で見破る。メイジの常識で考えれば疑いの余地がある一連の流れ。頭の回転が早く、風系統に自信のあるウェールズにとってはなおさらだった。
「彼女は、わたしの使い魔で……すこし変わっていて」
「使い魔だって……? 人間の使い魔にするなんて、聞いたことがない」
「ええ、ルーンもしっかりと。ウェールズ殿下の危機に駆けつけたのも、彼女に特別な力があるからでございます」
「……そうか、それなら、本当に感謝しなければならないな。今日死にゆくこの身のため、勇敢にも小さなナイフひとつでスクエアメイジに立ち向かったのだから」
「はい。私の使い魔であることが、とても誇らしく感じます」
アルレットは口をつぐんだまま、照れ隠しにルイズへ体を寄せた。
「しかし……子爵は目的を達していない。すぐに偏在を用意して襲ってくるだろう。とくに、アンリエッタの恋文を持つミス・ヴァリエールを狙って。あの手紙は、彼らに狙われる前に火の魔法で焼いてしまってくれ」
「し、しかしっ、これは姫さまの、殿下へ向けた大切な……」
ウェールズは無言で首を振る。その瞳に覚悟の色を見て、ルイズは頷くしかなかった。
「……わかりました」
「ニューカッスルを脱出するフネの出港時間も、彼に知られてしまっている。予定を変更してフネを出そう。ミス・ヴァリエールを狙って襲撃がないとも限らない」
「いつごろでしょうか」
「すぐに出す。ついてきてくれたまえ」
そう言って、ウェールズは忙しく歩きだした。ルイズがその後ろに続く。
「……アルレット?」
ルイズが背後を振り返ると、アルレットはウェールズの後に続かず、その場に立ち尽くしたままだった。
「わたしは、ここに残る」
「ミス。どんな事情があるかわからないが……トリステインの大使殿を危険にさらすわけにはいかない」
「わたしは、わたしの勝手で残る。もう密命は終わった」
耳を疑うような言葉だった。ルイズはアルレットの瞳を見る。強く、ウェールズの目を見据えていた。
「今を逃したら、帰りのフネは出せない。それでも残るというのかい?」
「うん。ルイズは先に帰ってて」
「……アルレット。あなた、わたしの使い魔でしょう? それに……」
フネがなくとも、アルレットには移動魔法がある。けれどもし、そのための精力が足りなくなってしまったら……ルイズはそう考えるだけで身が震える思いだった。
たとえアルレットが戦火に呑まれたニューカッスルで生き残ったとしても、ルイズやアニーによる精力の提供がなければ生きていけない。アルレットをひとりにすること自体が、そもそも許したくないことだった。
「あの人たちの目的には『ハルケギニアの統一』がある。いつかわからないけど、いつかトリステインと敵対する。だから、アンはわたしたちに密命を下した、それを遅らせるために」
「そうだけど……まさか、あなた」
「トリステインの敵はルイズの敵、ルイズの敵はわたしの敵。あの人たちを止めるのは、早いほうがいい。早く、しないと……血がたくさん流れる前に」
レコン・キスタの兵はおよそ五万。対して、ニューカッスルに残った王党派は三百。
ウェールズは笑い飛ばそうとするも、アルレットの顔を見て、それが冗談ではないことに戸惑いを覚える。
「いつかトリステインと敵対するから」なんていうのは口実に違いなかった。アルレットは唇を噛み締めながら、「たくさんの血が流れる前に」と嘆いていた。
アルレットはレコン・キスタやトリステインより、戦争そのものを見ている。もっと言えば、人の血が流れることそのもの。
……まるで、元居た世界で人々を悪魔の手から救ったように。
また、ひとりになろうとしている。
「……僕はフネを手配してくる。それまでによく考えておいて欲しい」
そう言って、ウェールズは部屋を後にする。朝の薄明かりに照らされたテラスでふたりきり、静かに向かい合う。
「ねえ、本当に残るつもり?」
「うん、ここに残る。ルイズはシエスタやアニーと帰って、危ないから」
「……だめよ、だめに決まってるでしょう。ふざけないで」
ルイズは思わずアルレットの薄い両肩を掴んでいた。危ないならなおさら、ひとりになんてできない。
強い口調で叱咤されたにも関わらず、アルレットはひるまなかった。ルイズの目をまっすぐに捉えてはなさない。
「ルイズ、どうやって悪魔が生まれるか、知ってる?」
「……知らない、けど」
きちんと納得してもらうために、何かを伝えようとしている。そう感じたルイズは、アルレットの方から両手を放して、耳を傾けることにした。
「火の魔法は火の精霊に、土の魔法は土の精霊に呼びかける。なら、無の魔法は」
「……それが悪魔だっていうの?」
「そうだけど、そうじゃない。生物が持つ『生の力』そのものが、無の魔法を司る精霊。それが大地と、海と、空に果てしなく溶けてる。コモンマジックは、自分の体内にあるものを。虚無の魔法は、世界に広がってるものを使う」
「属性のない魔法だけ、他とは違うと思ってたけど」
「おなじ。火は火の精霊がいるから起こる。水は水の精霊がいるから流れてる。生物は、生の精霊がいるから生きてる」
それが書籍やデルフリンガーから得た魔法に対するアルレットの見解らしい。その見解がどう悪魔の話と繋がるのだろう、と接ぎ穂を促す。
「生物は生まれるときに、その『生の力』を世界から取り込んで『生きる』ことを始め、死を迎えるとふたたび『生の力』を世界に向かって吐き出す」
「いつもあなたがもらってる、精力のこと?」
「うん。でも、その『生の力』は、強い嘆きの色で染まってしまうことがあるの。それを宿したひとが命を失って、嘆きの色に染まった『生の力』が世界に向かって吐き出されるとき」
「……悪魔」
「そう、悪魔になる。強い嘆きの意志を宿してしまった精霊。こっちの世界では、そうそう生まれないと思うけど。ひとが血を流し続ければ、悪魔はきっと生まれる」
薄々、感じ取っていた。アルレットの接している悪魔は、「生きていない」命の残骸。たしかに、胸に鼓動を宿して生きていたはずのもので、今は呼吸をしていないもの。
どうしようもない苦しみに慟哭し、それでも報われずに心を黒く染めてしまった命。嘆きの色に染まった『生の力』は、その体を離れるときに、強い意志を持ってしまう。
その意志を宿した『生の力』こそが悪魔だと、アルレットは言う。
「ハルケギニアも、いずれあなたの居た世界みたいに?」
「うん、きっと。悪魔は異物、精霊にとっての毒。精霊がいなくなると、大地も海も空も荒廃して、人に不幸をもたらす。苦しみがさらなる苦しみを呼んで、悪魔が際限なく生まれるようになる……わたしのいた世界は、そうだった」
アルレットのいた世界も、元々はハルケギニアと同じように悪魔の影はなく、系統魔法が栄えていたのかもしれない。
しかし、世界を塗り替えるほどの嘆きが集まってしまった。戦争、飢饉、疫病の時代がそれを招いた。
「……ルイズのいる世界だから。このままずっと、幸せであってほしい。そのためなら、わたしは」
ルイズは口をつぐむ。代わりに出てきたのは、誰に向けたかもしれない文句だった
「どうして、どうしてあなたがやらなきゃいけないの」
「……わたしにしか、できないことだから」
初めて表情を曇らせたアルレットに、ルイズはそっと両手を回す。包み込んだアルレットの体は、わずかに震えていた。
たまらず強く抱きしめていた。この小さな体に、どれだけのものを抱え込んでいるのだろう。
甘えたがりのくせに、どうしようもないことだけははっきりと線引きしていて、ひとりで抱え込んでしまう。
力を持つものの責任。ルイズが魔法を身に着けた先にあるものと同じ。
ルイズが虚無の担い手として目覚めたら。その時は、大切な人も置いて、戦場で血を流すことになる。あるいは大切な人ごと、傷つけてしまう。
アルレットはきっと、生まれたときからそうだった。……だから、とルイズは意を決して、気持ちを伝える。
「わたしはどうなってもいい。アルビオンも、トリステインも……ハルケギニアも。ただあなたとシエスタと、3人で静かに暮らせたらそれでいい。あなたが幸せになってくれればいいって、ずっと考えてた……」
「そんなの、ルイズが……」
「魔法なんてもういらないって、決意したの。その代わりたくさん勉強して、貴族として恥ずかしくないような人になる。それでいいでしょう?」
「ルイズ……」
「行かないで。帰ろう、学院に」
静かに、嗚咽が漏れていた。アルレットに強く抱きつかれて、ルイズはその小さな背中を撫でた。
やがて嗚咽が収まるとルイズの体から離れ、アルレットは涙で赤く腫らせた目元を細めて、ルイズに微笑んだ。
眩い日を連れて、夜明けが訪れる。茜色が光の速度で地平を染めていく。
「やっぱりわたし、ルイズのいる世界が幸せであってほしいよ」
「……変わらないんだ」
「うん、でも、これで最後にする。ルイズが穏やかに暮らせるように、あの人たちを止める。駄目?」
「……わかった。そのかわり、わたしも残るから。そこだけは譲らない」
「……ありがと、ルイズ」
アルレットは胸に手を当てて、心に降りてきた暖かさを噛みしめるように、もう一度微笑んだ。