虚無のルイズと異世界の魔王さま   作:乙丸

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34話『始祖と魔王』

 レコン・キスタが最後まで王党派を攻めあぐねていたのは、ニューカッスルがハルケギニアで指折りの艦隊を備えているからだった。

 そして、その中でも際立つのがアルビオンの誇る艦体『イーグル号』。黒塗りの重厚な船艇が空を滑るさまは、見るものすべてを威圧する。

 

 その甲板を踏みしめると、ルイズの胸にじわじわと実感が湧き上がってくる。今の今まで、アルレットが気にかかってそれどころではなかった。

 空に上がれば戦場。ジェームズ1世の言うとおり、賽は投げられた。ふたたび大地を踏むには、未来を勝ち取る他にない。あるいは二度と戻ってこれないかもしれない。

 黒いドレスの裾をつまむ。色は少ないものの、フリルがふんだんにあしらわれた華美な衣装。しかし、それは虚無の魔法を助けるものであり、まるで戦士の身につける鎧のようでもあった。

 

「ルイズ」

 

 背後から声がかかる。声の主は、すぐにルイズの横に並び立った。

 

「ねえ、疲れちゃった」

「……頑張ったわね」

 

 手を握って、体を寄せる。他にいたわる方法が思いつかなかった。

 それでもアルレットは嬉しそうに口元を緩めて、ルイズの肩に寄りかかる。歩きづらさは少しも煩わしくなかった。手のひらから伝わる温度が心を暖めてくれる。

 

「奥の部屋で、シエスタに紅茶でも淹れてもらいましょう」

「うん、一緒にのも」

「もしかしたら、もう用意してくれてるかもね」

「たしかに。シエスタだもの」

 

 

 

   34話『始祖と魔王』

 

 

 風に運ばれていく雲海の向こう、鉄の塊のような戦艦が姿を現す。遠く、雲と比べてはるかに小さいそれは、ずんずんとこちらへ向かって航行してくる。

 その背後から、ぽつり、ぽつりと黒色が増えていく。まるで群れたカラスのようだと、ルイズは思った。

 

 イーグル号の甲板からは、ニューカッスル城の姿がはっきりと伺える。高度はないものの、アルビオン大陸がそもそも抜きん出た高地にあたる。ここに来て、改めて空気の薄さと肌寒さを感じさせた。

 

「ルイズ。あの艦隊の、乗員の意識だけを刈り取る。できる?」

「……やるわ。やらなきゃいけない」

 

 ひとつの作戦を失敗すれば、それがそのまま全員の死につながる。今まではアルレットがいれば、という思いもあった。

 けれど、敵は5万。逃げ場のない戦場で、体力のないアルレットが相手取るには多すぎる。

 

「パリー、ぎりぎりまで引きつけて。撃ち漏らせば一気に不利になる」

「難しい注文ですが、ええとも、任せてくだされ。『鉄壁』と呼ばれたこの老将軍、全力で応えてみせましょうぞ」

 

 ドレス姿のアルレットに語りかけるパリーは、さながら「じいや」といった様だった。

 

「それにしても、慣れておりますな? いやはや異国の王を名乗るだけはありましょう」

「……詮索?」

「とんでもない! 若い身で無理を貯めすぎると心を歪めてしまう。せめて、この老骨の前では気張らなくとも良いと、お伝えしたかった」

「……あなた」

 

 パリーはルイズですら目を疑うようなアルレットの変わり身を見抜いていた。その事実に驚愕を隠せない。

 

「……王族というのは、幼い時分から背負わねばならぬものが多すぎる。ウェールズ殿下もそうでございました」

「ウェールズも……」

「そう。であるからこそ、ウェールズ殿下をお救いくださり、想い人との婚約を授けてくださった大使殿御一行には感謝が尽きませぬ。この老骨、必ずや期待に応えてみせましょう。この灯火が消えるときまで」

「ありがとう、パリー……わたしも、応えるから」

「やはり、年相応の表情が一番美しく見えるものですな」

 

 そう笑って、パリーは踵を返してその場を後にした。そしてすぐに、甲板の向こうから船員に檄を飛ばす声が聞こえてくる。ついに敵の姿が現れたと、ますますイーグル号は慌ただしくなる。

 

「元気なおじいさんね」

「うん、好き」

「じゃあ勝たなきゃね」

「うん。ウェールズも、パリーも、死なせない」

 

 アルレットはルイズに向き直り、細い肩をそっと抱いた。それに応えるようにルイズはアルレットの腰に両手を回して、長いまつげの下の、アメジスト色の瞳を覗き込む。そしてお互いが示し合わせることもなく、唇を合わせた。

 ルイズの中に、暖かいものが降りてくる。アルレットの精力がルイズの血になっていく。

 見えるはずのないものが、聴こえるはずのない音が、そこにはある。唇が離れると、それがはっきりと感じられた。

 

「ねえ、どうしてアルレットは精霊や悪魔と言葉を交わせるの?」

「……半分くらい、同類だから。本当にそれだけ」

「そっか。じゃあ今は、わたしも同類ね」

 

 茫洋と広がる空の海に満ちている。世界を形作るための力。

 大地が広がり、水が流れ、火が燃え、風が吹き、生が芽吹く。そのための理と、存在。それと言葉を交わせるのは、同じ存在以外にない。

 

 ふたりで甲板の先頭に並び立ち、遠くの空を見据える。はっきりと艦体の形が見て取れるほど、その群れはイーグル号に迫っていた。

 ごうごうと風が唸る。冷たさが頬に裂けるような痛みを与える。血液が指先に集まり、両足で立っている感触が失われていく。

 

「最後尾に一番大きい艦体。たぶん、司令塔のいる『レキシントン号』」

「大丈夫、届く」

「うん。ルイズを信じる」

 

 アルレットがルイズの左手を取る。あたたかくて柔らかな感触がした。まるで日向のような心地よさで包んでくれるその手を、ルイズは大切に握り返した。

 

「大使殿!」

 

 後方からパリーの声が聞こえた。これ以上近づけば、敵の艦隊から集中砲火を受けてもおかしくない。「時間が来た、限界だ」という合図だった。

 

 ルイズは杖を持った右手を前へ突き出す。杖はルイズの右手からするりと落ちて、イーグル号の下、地上へと落下していく。無用の長物を、ルイズは今度こそ捨て去った。

 意識を塗り替える。平民を従わせるのは貴族、貴族を従わせるのは王族。しかし、今ルイズが従わせるべき相手は人ではない。虚無を司る精霊、人や動物に命を吹き込む『生の力』。彼らを扱う力は、虚無の担い手として選ばれたルイズに備わっている。あとは、対話するだけ。その手助けをしてくれるのが、彼らを従えるための意識。

 

 アルレットは相手の瞳を覗き込むだけで、その内に秘めた『生の力』と対話して、相手の考えや本質を読み取ってみせる。アルレットの力を借りた今でも、ルイズはそれに遠く及ばない。

 けれど、今この瞬間、やることは至極単純だった。

 

「エクスプロージョン」

 

 爆ぜろ。無表情に、しかし心の中で炎を燃やしながら、そう命令を下す。

 ルイズの指先から生じた光が、青い空にほとばしった。それが生命の力の波濤なら、その光がなにをもたらすかも、ルイズの思いのままだった。

 

 奇跡の名にふさわしい極光は、流れ星よりも短命に、蒼穹へ吸い込まれて消えた。

 

 風がひときわ唸った。沸き立つ乗員の声は、ひとつ残らずかき消される。イーグル号の帆が喧しくなびき、突風に横殴りにされた船体がぐらぐらと空を泳ぐ。

 これだけの衝撃があって、レコン・キスタ艦隊に損傷は見られない。しかし、その変化は一目瞭然だった。

 

 やがて風が止むと、イーグル号の乗員はその成果を確認した。

 レコン・キスタの艦体がひとつ残らず前傾している。空に浮かぶ巨大な鉄の塊たちは、操縦者を失い、宙を滑るようにして緩慢に落下していた。ルイズの虚無の魔法は、空のレコン・キスタ軍をたしかに葬り去っていた。

 このまま行けば、レコン・キスタ艦隊はイーグル号の下を通り、地上のニューカッスル付近に墜落する。丈夫な戦艦が低速で不時着したところで、艦体そのものはまず損壊しない。しかし、衝撃でその場から投げ出されるであろう乗員のほとんどは、無事でいられないことに違いなかった。

 

「虚無だ、本物の! 奇跡の担い手だ!」

「大義は我らにあり!」

 

 騒ぎ立てる王党派の貴族たちの声が、ルイズの耳には遠く聞こえる。

 この作戦にはまだ続きがある。繋いだ左手を握ると、アルレットがそれを強く握り返した。

 

「アルレット」

「うん、大丈夫。ルイズを人殺しになんてさせない」

 

 イーグル号の船員たちは、ルイズが相手空軍を無力化したことで沸き立っている。

 仮に王党派が虚無の力を借りて大勝したとして、力を持った先にあるものは、同じ戦争に違いない。

 ならば、どちらの陣営にも付かず、あらゆる人間の上に立つ者として争いを終わらせる。

 

 ルイズの目的は栄誉でも、金銭でも、戦うことでもない。すでに杖を捨て去った自分にとって、すべて価値の無いものに思えた。

 だから、この空の上で目指すことは、戦争の勝利ではない。この理想が始祖と魔王、ふたつの奇跡と共にあることを、レコン・キスタ軍だけでなく、王党派の目にも焼き付ける。

 

 アルレットが左腕をゆっくりと持ち上げ、天上を指差す。

 異変は音もなく訪れた。

 ……沼が広がっていく。すべての光を飲み込むような闇色がイーグル号の真下から伸びて、大地を犯していく。まるで絵画の上に乗せられた、黒い絵の具のようだと思う。

 光を反射しない黒い沼は、起伏も斜面もある大地を、まっさらな平面に変えていった。

 

 その黒い沼から、同じ闇色の腕が伸びていた。光を反射しないそれを判別できたのは、青い空の上に、巨大な腕の形が影絵のように映し出されているからだった。

 

 その腕はニューカッスルの手前にある小山を掴み、沼の底から這い上がろうとしていた。

 やがて腕の握力に耐えきれなくなった小山は、まるで砂の塊のように崩れ去った。しかしその腕を持つ巨人にとっては瑣末ごとだった。崩れた瓦礫に手のひらをつき、腕力だけでその体を持ち上げていく。

 

 首のない、闇色の巨人だった。

 大地に降り立った彼は上体を大きくそらし、声ではない声で吠える。彼に首があるなら、空を仰ぐような動きだった。彼の発した音は大気を震わせ、水中で聞くようなくぐもった叫び声を大陸に響かせた。

 

「……あれ、前にフーケからわたしたちを助けてくれた」

「うん。ジャバウォック。『嘘つきの悪魔』」

 

 フーケを捉えた際に、そんな言葉を聴いた気がする。アルレットの話によれば、あの巨人は嘘を塗り重ねた末、心を歪めて命を落としたものが成る悪魔の姿だった。

 

 いつのまにか、大地に広がっていた闇色の沼は消えていた。

 彼はアルレットの方を一瞥するような仕草を取り、イーグル号と肩を並ばせた。辺りの山々よりもずっと巨大な体躯を、緩い速度で落下していくレコン・キスタ艦隊へ向ける。

 大樹を束ねたような腕を、ひとつの艦体へと伸ばした。そして、その鉄で覆われた装甲を鷲掴みにする。

 

 どんな暴虐が始まるのかと、戦場にいる誰もが震えながら彼の行動を見守った。しかし彼は、掴んだ艦体を投げるでも握りつぶすでもなく、ゆっくり、ゆっくりと大地に向かって降ろし、船底をそっと森の木々に乗せて、手を離した。

 それから、彼は残りのレコン・キスタ艦体を同じように『撃墜』させた。ひとつ、またひとつと敵の戦艦が地へ落ちていくのを、王党派の船員は唖然としながら、言葉も忘れて見送った。

 

 空からレコン・キスタ艦隊が消え失せ、王党派艦隊だけが残った。

 人死の出ない方法で、ルイズとアルレットは、レコン・キスタ艦隊を全滅させた。それは空に逃げ込んだ王党派に、レコン・キスタは一切の手だしも出来なくなったことを意味する。

 

 騒ぎ立てるイーグル号の船員を背に、ルイズはアルレットの肩を抱いた。アルレットの切りそろえられたブロンドの前髪の下、白く透き通った額に、玉の汗が浮かんでる。

 

「……大丈夫」

「そんなわけないでしょ、はやく休まないと」

「あの子を、還してあげなきゃ」

 

 アルレットがルイズの腕を離れる。そして、ふたたび天上を指差して、地上に闇色の沼を広げていく。

 ……あれが、召喚や移動で使うゲートのようなものなら。アルレットにかかる負担は、相当なものに違いなかった。

 

 倒れかけるアルレットの体を支えながら、もどかしさをこらえてじっと待った。巨人は、沼の闇に呑まれるように沈んでいき、ハルケギニアから跡形もなく消え去った。

 空が広くなったような錯覚を覚える。やがて闇色の沼もそこから消え去ると、今までの光景が、すべて幻だったのではないかとすら感じてしまう。

 

「頑張ったわね、アルレット」

 

 完全に脱力したアルレットの体を受け止めて、ルイズは汗で濡れた前髪を優しく撫でつけた。

 アルレットは赤い頬をして、目を細めて笑う。

 

「ふたりで頑張った」

「……うん、ふたりで」

 

 強い疲労感。それを心地の良いものにしてくれる、アルレットの体温。

 空の青色がこれほど清々しく感じるのは、初めてだった。しばらくアルレットの体を抱いてこのままでいたい。そんなふうに思った。

 

 嬉々としたイーグル号の船員たちの騒ぎに、どこか不審な色が加わったのは、ちょうどその時だった。

 アルレットが身を起こして、甲板の手すりから地上を見下ろす。ルイズもそれに続いた。

 空を翔ける一頭のグリフォンだった。ニューカッスルの城の方角、ほとんどイーグル号の真下。ちょうど、どの艦体も大砲の経口を向けることは難しいルートを飛んで、そのグリフォンはぐんぐんとこちらへ向かっていた。

 

 グリフォンには、何者かが騎乗している。その顔を見ようとルイズは目を凝らした。

 騎乗している人間の正体がようやくわかった時、すでにグリフォンはイーグル号の間近に迫って、今にも甲板に飛び込んでくるところだった。

 

「ワルド――」

 

 ルイズは慌てて魔法を使おうと身構える。しかし、グリフォンのスピードは想像以上だった。何かを思考する猶予もなく、イーグル号の真横からルイズとアルレットに飛びかかってきた。

 

「ルイズっ!」

 

 アルレットが叫んだ。左手にはナイフが握られて、ガンダールヴのルーンが輝きを放っている。上昇した身体能力を頼りに、ルイズの懐に飛び込んでその体を吹き飛ばした。

 グリフォンは標的をひとり失ったものの、凄まじい速さで滑空してもうひとりの標的へ襲いかかった。アルレットは反射的にナイフを構えて、どうにかグリフォンの爪から身を守ろうとする。

 しかし、グリフォンの爪が刃に触れた瞬間、ナイフは砕け散りながらアルレットの背後へと弾き飛ばされていった。

 

「あ――」

 

 ルイズはその光景を、どこか信じきれない気持ちで見送った。

 グリフォンの爪がアルレットの肩を深く突き刺す。そして滑空した勢いのまま、血の跡を残しながら甲板の上を引きずっていく。やがて向かいの手すりにアルレットの体を叩きつけて、グリフォンはふたたびイーグル号の真横の空へと飛んでいった。

 

 視線をアルレットに戻せば、肩口から流血しながら、手すりに体を預けてぐったりとしている。ルイズはその場から弾かれたように駆け出していた。

 膝をついてアルレットの表情を覗き込む。眠りについているような顔は、透き通るような蒼白色をしていた。

 

 ……呼吸をしていない。

 ルイズは精神力を惜しみなく注ぎ込んで、水の魔法をかける。傷口は徐々に狭まっていくものの、息は戻らず、顔色は悪化する一方だった。

 

「たりない! だれか、だれか治療を手伝って!」

「僕が」

 

 ルイズの背後から現れたのは、険しい表情をしたウェールズだった。すぐに懐から杖を取り出して、ルイズとともに水の魔法をかけ始める。

 見れば、すぐ傍にシエスタやアニー、マチルダの姿もあった。シエスタは涙をぼろぼろとこぼしながらも、目をそらさずにその光景を受け止めていた。

 

 アニーとマチルダのふたりは、イーグル号の船員とともに、空のグリフォンを警戒しながら身構えている。

 今すべきことは、ワルドを捕らえること。ルイズとアルレットを失えば王党派は一気に優位を失い、敗戦は間近になる。

 それこそワルドの狙いに違いない。消耗したところを強襲し、隙をついてふたりの命を奪う。残るのは、わずか300の雑兵。

 

 人差し指を強く噛んで、ためらいなく皮膚を穿つ。そして、血が流れ出る指をアルレットの口に咥えさせた。

 空いた方の手で、ふたたび水の魔法をかける。ルイズは、この先必要になるであろう力も出し切って、アルレットの治療に当たった。さらに消耗を重ねれば、ワルドの思う壺かもしれない。それでも、ルイズは力を使い続ける。

 

「ねえ、お願い」

 

 死なないで。言葉にせず、涙をこぼしながら懇願する。

 彼女がいなくなってしまったら、どうやって生きればいいのだろう。彼女の存在に代わる「生きる目的」は、どれも見劣りしてしまうから、手に取りたくない。魔法も、名誉も、今さら欲しくない。

 その傷ついた心が、どうか安らかでありますようにと。彼女の側にいて、願いながら生きる。この旅の中で、そう決意していた。だというのに。

 

「ルイ、ズ……?」

 

 アルレットがルイズの指を吐き出して、うっすらと瞼を開いた。蒼白な顔は、信じられないほど綺麗で、作り物のような顔立ちをしていた。

 金の糸を束ねたようなブロンドと、……青い、瞳。ラピスラズリの欠片。

 

 どっと安堵感がこみ上げる。失われた血の気が戻ってくるような感覚だった。

 

「よかっ、た……」

「ルイズ……?」

 

 かすれた声。焦点の合わない瞳で、アルレットは目の前に居るはずのルイズの姿を探していた。

 

「見えない、の?」

 

 直前までアメジストのようだった瞳が、青色に染まっている。

 あるいは、紫色がそこから抜けていた。

 

 今まで接していたアルレットと、どこか決定的に違う。

 瞳の色がそうまで印象を左右するはずがない。それ以外の何かが違うはずだった。

 

「聞こえる? アルレット」

「……おかあさま」

 

 見えていないし、おそらく聞こえていない。しかし、アルレットの瞳は確かに何かを見ていた。

 

 背後を振り返れば、風の遍在で分かれた4人のワルドが、アニーとマチルダを相手に攻防していた。羽根帽子の下に覗く血走ったワルドの瞳は、わずかの隙でも逃さずに、ふたりの首を取らんとこちらを睨みつけている。

 

 しかし、すぐにその表情は変わった。ある一点を見つめて、動かなくなる。それはイーグル号の甲板に居るすべての人間が同じだった。

 闇色のもや。煙のようにも見えるが、空気のような軽さを感じさせない。それには、重さも形もなかった。甲板の中央で、言い知れぬ気配を放ちながら、海で揺れるくらげのようにたゆたっていた。

 

 アルレットが青色の瞳で見つめているのは、まさしくその闇色のもやだった。

 静寂。誰もが我を忘れて呆然とする中、ワルドひとりが素早く動き出す。周囲の景色が、わずかに揺らいだ気がした。

 

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