赤い絨毯の上、若い王の隣を歩くさまは添えられた百合の花のようだった。ふたり腕を組み、目を合わせては仲睦まじく笑う。お似合いの夫婦だと民は暖かく見守った。
この日、若くして王位を継いだヨハンと、国で最も美しいとされる町娘のアリアンヌの結婚式が行われた。薄化粧に派手な衣装で着飾ったヨハンが、宝石の指輪をアリアンヌへと捧げた。絶世の美しさを伴った笑みで、アリアンヌはそれに応えた。
ヨハンとアリアンヌが恋仲であることが表沙汰になると、貴族たちはにわかに騒然としたものだった。アリアンヌの至上の美貌は貴族たちの耳にも届いていたが、彼女は城下町に住まうただの町娘である。貴族から見れば、卑しい平民と同じだった。
しかし、ヨハンはアリアンヌの家の家系図を持ちだし、貴族らにアリアンヌが王族の落胤の子孫であることを示した。そうして貴族らはしぶしぶ引き下がり、平民から絶大の支持を持つ美女のアリアンヌとの婚約が認められることになった。
若き王であるヨハンは、貴族らの信用と引き換えに、平民からは多大な信頼を得た。そののち、有能な貴族がそうしたヨハンの先見性を説くと、貴族らの信用も蘇り、皆が王の治世に喝采したのだった。
――これは、表の話である。ヨハンとアリアンヌは、結婚式を上げるまでにただの一度しか顔を合わせていなかった。
早朝、アリアンヌは日課の水汲みをしているところにローブの女から声をかけられ、城の裏口からヨハンの自室へと連れて行かれた。ローブの女がフードを取ると、ラピスラズリで染め上げたような青色の長髪と、つややかで若々しい美貌があらわになった。唖然とするアリアンヌを気にも止めず、ヨハンは女に寄り添いながら親しげに話す。アリアンヌは、王には誰にも知られぬ恋仲の相手がいるのだと知った。
しかし、席に着いたヨハンの口からこぼれたのは、予想外の言葉だった。
「君には私と婚約してもらう」。それは有無をいわさない口調で、身勝手にアリアンヌの運命をねじ曲げた。
そうしてアリアンヌは強いられた演技で赤い絨毯を歩き、誓いのキスをし、ヨハンとの虚飾の関係を作り上げることになる。拒絶した先にはどんな仕打ちが待っているかも知れない。ただの町娘であるアリアンヌには王の言葉に逆らうことができず、加えて実家に多額の金銭を恵むというのだから彼女は黙っている他になかった。
アリアンヌには思春期の頃からの想い人がいた。それは、騎士団に所属するレイモンドという七つ年上の貴族の青年だった。
アリアンヌは学校に通いながらも実家の店の手伝いをしており、休日の昼間に騎士団の屋舎へとパンを届けることがあった。アリアンヌがレイモンドと出会ったのはその時である。
レイモンドは騎士団長のノエルの一人息子であるが魔法や剣の才に恵まれず、騎士団に入団できたのも親の七光りだと嘯かれていた。対するアリアンヌは、何でも要領よくこなすと大人に褒められ、学校での成績は常に上位、美貌はその頃から多くの男の目を引いていた。平民の中でも裕福な生まれの元、一人娘のアリアンヌは両親から溺愛される。アリアンヌが店に顔を出せば客足も増え、あれが欲しいといえば男たちは喜んで財布を差し出した。次第にアリアンヌは男というものを見下すようになり、女に対しては優越感を覚えるようになった。落ちこぼれと呼ばれるレイモンドに対してはことさらで、純朴な町娘を演じながらも内心では冷ややかな目で見下していた。
ある日の夜、アリアンヌは父とともに騎士団の屋舎へパンを届けるよう言い遣わされる。天候の影響で備蓄の食材が尽き、夕食が用意されなかったのだという。アリアンヌは面倒に思いながらも両手に紙袋を抱えて父の後を追った。
そして、屋舎の外でひとり一心不乱に剣を振るレイモンドと出くわした。滝のように汗を流しながら屈強な体を動かし、真剣な眼差しで前を見据える。汗なんて汚らわしいもの、アリアンヌはそう思っていた。しかし、その腕に巻かれた血の滲む包帯を見てアリアンヌは顔色を変え、レイモンドの体にすがりながら剣を止めるよう懇願した。
その日からだった。どうしてだか、陰口を叩かれても暗い表情の一つもせず、何喰わぬ様子でパンにかじりつくレイモンドの顔が浮かぶ。アリアンヌは生まれて初めての決心をして、彼に話しかけてみようと思った。
どうしてここまで頑張れるのでしょう? 血豆だらけの手を取って、アリアンヌは問いかけた。その問に彼はただ、父のようになりたい、とだけ答えた。
多くの人々を救ってきた英雄のノエルとレイモンドとでは天と地ほどの差がある。それでも彼は、真っ直ぐな眼差しで言った。実らない努力を続ける理由も、苦悩から逃げ出そうとしない姿勢も、アリアンヌには分からなかった。
分からないからこそ、知りたいと思った。真っ直ぐな眼差しが心に焼き付いて、焦燥のような胸のざわめきが収まらない。彼の隣にいて、彼を理解するたびに、ざわめきが大きくなっていく。
しばらくして、あの日と同じように夜の時間にパンを届けることになった。そして、同じように汗を流しながら剣を振るレイモンドと出会う。用意してきたタオルで額の汗を拭ってやると、レイモンドはアリアンヌに初めて笑みを見せた。
そのときの胸の高鳴りを、アリアンヌは今でも覚えている。生涯に一度の初恋を意識した瞬間だった。
アリアンヌは皮肉な話だと思った。
名もない町娘と、貴族の騎士。身分違いの恋に、アリアンヌはレイモンドへ自分の気持ちを打ち明けられず五年が過ぎた。どんな美男の甘い言葉もアリアンヌには届かない。絶世の美しさと謳われた彼女は、ただの一度も男性との交際をしなかった。それがどうだろう。すべてをあざ笑うように、王の妃という身分がアリアンヌの元へと降りてきた。恋に懊悩したすべての時間を、ヨハンはいともたやすく踏みにじったのだった。
城で暮らすことになったアリアンヌは、それでも騎士団の屋舎へ通い続けた。アリアンヌを身勝手に扱ったヨハンは、自室でローブの女と身を寄せ合っている。それは内にくすぶる反抗心だったかもしれない。町ではありつけなかった高級な料理を堪能し、ヨハンの持つ資産から上質なドレスやネグリジェも手に入れるなどの贅沢を尽くした。
ある日、アリアンヌは衛兵を介してヨハンの部屋へと呼びつけられる。普段は持ち前の演技力で妃らしい振る舞いをこなしていたが、ヨハンの前では慇懃無礼に、レイモンドの前では乙女のように様変わりする。その日も例外ではなく、アリアンヌは好きでもない彼から呼び立てられたことに口を尖らせ、どんな皮肉を言ってやろうかと考えを巡らせていた。
しかし、ヨハンの部屋で出迎えたのは彼との恋仲らしいローブの女だった。女はまるで部屋の主のように堂々と豪奢なソファに腰掛け、アリアンヌに向かって言い放った。
「レイモンドと子を成しなさい」
「それは、いったいどういうことでしょう?」
「王は虚無の子を悪魔に仕立て上げるつもりなのです。あなたの子が虚無であってはなりません」
アリアンヌは信じられない思いで女の話を聞いた。ヨハンはアリアンヌと子を成し、悪魔の力を手にしようとしている。虚無の血を受け継ぐ赤子の命から、悪魔を作りだそうというものだった。これはそのための婚約であると、女は語った。
女は賢者ノエリアを名乗った。透き通るような青髪と一点の曇りもないつややかな美貌。百年以上も変わらぬ美貌で教皇の座に座り続ける、決して偽ることの許されない賢者の名前。彼女の編み出す聖具は悪魔を退け、あらゆる国で人々を悪魔の手から救った英雄として崇められる存在であり、この国の平和も彼女の聖具によって成り立っていると言っても過言ではなかった。
ローブの中から取り出された教会の首飾りを見ると、アリアンヌの猜疑の眼差しはまたたく間に消え去り、顔色が蒼白になる。そこには身に付ける者の教皇位を証明する紋章が刻まれていた。
「わずかでも御身を疑ってしまったわたしをどうかお許し下さい」
「かまいません。明日にもレイモンドの元へ向かうのです。婚約した王族は次のマルディグラの日に子を成すしきたりがあります。それまでにあなたはレイモンドの子を身ごもっていなければなりません。忌まわしきヨハンの子と、レイモンドの子をすげかえるのです」
「わかりました、賢者さま」
「この秘薬を授けましょう。虚無の力は生命そのもの。ふたりがそれを口に含めば、神はかならずやあなたに祝福の子を授けるでしょう」
「感謝いたします」
「アリアンヌ。虚無の子を悪魔にしてはなりません」
千年を生きたといわれる賢者を前に、アリアンヌは恭しくかしずいた。
レイモンドはアリアンヌの言葉を一片たりとも疑わなかった。五年の堰が解かれたアリアンヌは、吹っ切れたようにレイモンドへ恋慕の情をぶつける。ヨハンへの恐怖がアリアンヌの心をひどくかき乱していた。
レイモンドへの恋が芽生えたあの夜は、悪魔が生み出したものといってもよかった。食材の備蓄が切れたのは隣町で発生した半月も降り止まない大嵐のためである。戦争も紛争もないこの国で血を流すのは、暴漢か怪異によるものと決まっている。アリアンヌが夜に騎士団の屋舎へ食料を届けることになったのも、レイモンドが腕に包帯を巻いていたのも、原因はひとつしかない。
悪魔に恐怖心を抱かない人間は少ない。居るとすれば、もはや彼らと同じ類の存在か、心を病んでしまった者だろう。たとえ焦がれるような恋の原因になったとしても、アリアンヌは悪魔を生み出そうと言うヨハンの企てに身を震わせずにはいられなかった。
それから謝肉祭が訪れるまで、アリアンヌは毎夜レイモンドの元へと通い続けた。賢者の許しのもとで行われる不倫行為はふたりに背徳感を与えず、恐怖から目を背けるように欲望のまま互いを求め合う。抑圧され続けたアリアンヌにとって、それは熟れた桃のように甘美な日々だった。
ふと現れては消える名も知らぬ焦燥に首を傾げながらも、時は過ぎてマルディグラの日が訪れる。賢者の話であれば、ヨハンは今日のうちに必ず子を成そうとアリアンヌを部屋へ呼びつけるはずだったものの、夜がふけても一向に声がかからない。何事もなくマルディグラの日が終わり、このまま時が経てばレイモンドの子を身ごもっていることが知られてしまう。深夜になると、焦りにかられたアリアンヌは自らヨハンの部屋を訪れた。部屋からは人の声と物音がしており、扉は施錠されていない。おかしいと思ったアリアンヌはドアの隙間からこっそりと部屋の中を伺うと、その光景に全身が粟立つような感覚に襲われた。そして部屋にいるヨハンへ一声もかけず、そこから漏れる嬌声を後に、震えた足で誰にも気付かれぬよう自室へと逃げ帰るのだった。
ほとんど眠れずに夜は明け、アリアンヌが隈を作りながら朝食の席につくとメイドがひっそりと気遣わしげに話しかけてきた。
「そのひどい顔、さてはヨハンさまと何かあったのでしょう?」
「いいえ、なにも」
「婚約してから初めてのマルディグラの日ですから、なにもないわけがございません。子を授かるのに、恥ずかしがることはないのですよ」
「いいえ、本当に、本当になにもなかったのです」
「まあまあ。無かったことにしたいほど、ヨハンさまにお怒りなのですね」
同じ平民の身分だったアリアンヌに、メイドは気安く笑いかける。しかし、アリアンヌは曖昧に誤魔化すしかなかった。アリアンヌは昨晩、ヨハンからの誘いがかからなかったことに不安を覚えたが、王族がマルディグラの日に子を成すという賢者の言葉は偽りではなかった。しかし、それがどうでもいいと思えるほどに今のアリアンヌの精神は憔悴していた。
時が経てばアリアンヌの腹部のふくらみはごまかしが利かなくなっていく。婚約の日から、アリアンヌはヨハンとキスの一度もしていない。間違いなくそれはレイモンドとの子であり、アリアンヌはヨハンに知られてしまうことを恐れ、食事が喉を通らないまでになっていた。目元に隈を作りながらうつむきがちに生活する様は城のいたるところで話の種にされた。これではヨハンに問い詰められてしまうとアリアンヌが怯えていたところで、ヨハンは突然、外交のために遠くの国へ遠征に繰り出すと言い出し、城からしばらく姿を消したのだった。
一度は安堵したものの、その頃にはアリアンヌの腹部のふくらみは見て取れるまでに大きくなり、城のものたちは揃ってアリアンヌを祝福した。やがてアリアンヌが身ごもった事実は城の外まで伝わり、王の子が生まれると国中が沸き立つことになる。もはや取り返しの付かない状況にアリアンヌはいっそう目元の隈を濃くして苦悩した。
アリアンヌがとうとう産気づこうかというころ、まるで示し合わせたかのようにヨハンは城へと舞い戻る。帰還の報せを聞いたアリアンヌは自室のベッドでただ震えていた。日が落ちると、ヨハンはアリアンヌの自室を訪れ、鬼気迫る表情でベッドの上のアリアンヌへ詰め寄った。
「聞いたぞ。子を身ごもったとはどういうことだ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「謝って済む問題じゃない。私にどこの誰とも知れぬ猿の子を愛せというのか、忌々しい!」
激高したヨハンは端正な顔を赤くしながら怒鳴り上げて、毛布に身を隠そうとするアリアンヌをベッドから引きずり降ろす。ヨハンは泣きながら謝罪の言葉を繰り返すアリアンヌへ執拗に暴力を振るった。
「これで済むとおもうなよ。汚らわしい女め」
息を荒くして部屋を後にするヨハンを、アリアンヌはうつろな目で見送った。アリアンヌの顔や腕に目立った傷はないものの、妊婦服に隠れて見えない箇所には青あざが広がっている。それは大きく膨らんだアリアンヌの腹部も例外ではなかった。
そのまま起き上がることが出来ず床の上で寝入っていたアリアンヌは、強烈な吐き気と腹痛に目を覚まされる。窓の外には変わらず暗い闇が広がっており、未だ夜が明けていないことを示していた。
アリアンヌが視線を下にやると、ヒールの足が自身の腹部を蹴りつけていた。ヒールの主はアリアンヌが目覚めたことに気付き、暗闇の中で口角を釣り上げる。そして部屋の外に向かって何事かを叫ぶと、扉から兜と甲冑を身にまとったひとりの兵士が現れ、アリアンヌの体を横抱きにした。部屋を後にするヒールの主を追って、兵士はアリアンヌの体を抱えたまま暗い城内を歩き出す。やがて月明かりも届かないじめじめとした空間でヒールの主は立ち止まり、兵士はアリアンヌを冷たい石畳の上へと優しく転がした。強烈な吐き気と腹部の痛みにアリアンヌはそれまでわずかも抵抗できなかった。
石造りの空間に反響するヒールや息遣いの音と、血液やカビの臭いが篭った空気に、アリアンヌはここが城の地下牢であることを察する。兵士が壁がけのカンテラのひとつに火を灯すと格子の銀色が照らされた。
アリアンヌは困惑し、青いヒールの主を見上げる。自分と同じように大きく膨らんだ腹部と、ドレスのような青色の妊婦服。そして、賢者の証である透き通った青髪がそこにあった。
「どうして……」か細い声でアリアンヌは賢者ノエリアへ問うた。
「マルディグラの日、ヨハンの部屋を覗いてもらえたかしら」
「あなたのせいで、あなたのせいでわたしは、お腹の子は……」
辺りに警備もなく鍵のかかっていない扉に、廊下へと漏れる女の嬌声。王の自室というにはあまりにも不用心だった。そのような作為的な状況において、アリアンヌがヨハンの部屋を覗くのは必然の出来事だったと言ってもいい。
ノエリアは気味の悪い笑みを浮かべながら、アリアンヌの腹部を青色のヒールで踏みつける。アリアンヌの口から力ない悲鳴が漏れた。
「あなたは悪くありません。あなたはただ、賢者である私の指示を聞き入れただけなのですから」
「悪魔のようなあなたが、賢者であるものですか」
「ええ。三日前、私が生まれてちょうど三百と三十年になりましたが、どんな秘術を用いたとしても人間は三百年も生きられません」
まるで自分が人間で無いかのようなノエリアの言葉に、アリアンヌはぞっと身を震わせる。
ちょうどその時、ノエリアの背後で兵士が剣を抜いた。そして、無駄のない洗練された動きでノエリアの背に剣を振り下ろす。甲冑が擦れる音だけが無音の地下牢に響き渡った。
剣は確かにノエリアの背を切り裂いたように見えた。しかし、ノエリアは無表情のままアリアンヌを見下ろしている。蒼色の妊婦服が派手に裂けているものの、血の色はノエリアの体にも剣の刃にも見当たらなかった。
「ヨハン!」
ノエリアが叫ぶ。地下の牢獄に疾風が吹きすさんだ。アリアンヌがまぶたを開けたときには、兵士は地面へ倒れ伏していた。兵士の兜がごろごろと石畳を転がっていく。アリアンヌはうつ伏せになった兵士の髪型に見覚えがあった。
こつり、こつりと足音が近づいてくると、アリアンヌは反射的に顔を上げた。そこには杖を右手に持ったヨハンの姿があった。
「ノエルの子とはいえ、王の妃に手を出した者には極刑を与えねばならなかった。諦めてくれ、アリアンヌ」
ヨハンの言葉に、アリアンヌは絶叫した。アリアンヌは同じ目線で倒れ伏すレイモンドへと手を伸ばす。それも届くことはなく、ただ指先がぬめついた生暖かい液体に触れるだけだった。
「そして、君も同罪だ。しかし妃を殺めることはできない」
こつり、こつりとヨハンは歩を進める。杖の先に火を灯しながら地下牢を練り歩くようにして壁掛けのカンテラに灯火を与えていく。アリアンヌは涙で歪んだ視界の向こうに、見てはいけないものを見た。
「両親は残念だったが、君の罪を考えれば致し方ないことだ。諦めてくれ、アリアンヌよ」
アリアンヌはもはや声も発することが出来なかった。三つの亡骸から目をそらし、涙を流しながら何かを言おうと唇を動かす。
「親族が共に罪を被るのは当然のことだ。これだけでは君の罪は洗われない」
こつり、こつりという音がアリアンヌの耳朶を叩く。アリアンヌは地面に伏せったまま腹部を抱え、ただひとつ残ったものを必死で抱きしめた。
アリアンヌと同じ腹部の膨らみを撫でながら、ノエリアはおかしそうに笑い声を上げる。ヨハンの靴がアリアンヌの腹部付近を強く蹴り上げた。
「ノエリアから聞かされただろう? 私はもうひとり虚無の子が欲しかったんだ。だから私はマルディグラの日、虚無の家系であるノエリアと子を成した。そして君もまた、私たちと同じ虚無の家系だ。けれど、新たに子を成す必要なんてない。
君の家系は、君こそが虚無の子だ。だから君が悪魔になってくれればいい。ここにいる猿の子は、君を悪魔にするための工程のひとつだ」
翌日、王の生誕祭が行われた。華々しく行われた祭も、赤い絨毯を歩くのはヨハンひとりであった。しかし、王妃の姿がないのは恒例のことでもある。王の生誕日を祝う裏には常に新たな王族の誕生があった。
アリアンヌには、人を悪魔に仕立てあげるという意味がわからなかった。どのようにして悪魔が生まれるのかも知らない。ヨハンが虚無の子を求めた意味も、今となっては知ることは叶わない。
それでも、お腹の中で息づく命を感じる。ろくに物も食べず、睡眠も取らず、体中が痣だらけになってもそうだった。例え産むことができたとしても、健康な体を望めないだろうことはわかっている。目が見えなくても、耳が聴こえなくても、父のように真っ直ぐ前を向いていてほしい。薄暗い地下牢の中、黒く深い傷にまみれ、闇に蝕まれ続けるアリアンヌの心に、ただひとつ残った人間の感情だった。
in deep darkness "Shaytan" END