少年とアルレットの話し合いが済んだ後は、コルベールが場を収めた。コルベールはアルレットの料理が教師席に運ばれていたらしいのを伝えに来たところだった。
幸いにも食堂のテーブルの席には余裕があり、アルレットがルイズの隣で食事することは公認されたが、今後ルイズはアルレットの監視を怠らないようにと心に決めたのだった。
3話『はじめての魔法』
朝食が終われば一日が始まる。授業へ向かう道すがら、ルイズは思い切ってアルレットに切り出していた。
「ねえ。ここはその、ゲヘナってところじゃないんだし、それ、やめたらどう?」
「それとはいったいなんのことだ」
「それよ、それ。その無愛想な顔と、挑発するみたいなえらそーな口調。可愛げもないし、良い印象ないわよ。わざわざ作る必要ないと思うんだけど」
「作ってなどいない。余は魔王だからな」
言葉や態度によって、意識を塗り替える。
それは魔王であるために必要なことであると、アルレットは考えていた。見かけや示しの問題ではなく、心の在り方の問題だった。
「いや、嘘。絶対に嘘。作ってるでしょ、その態度。昨日、自分のこと『わたし』とか言ってたし。食堂でも素が出てわたしに泣きついてたし」
「あれは、演技だ」
ぼろぼろ泣いて瞼を腫れぼったくして、何が演技だとルイズは思う。
ただアルレットは、あくまでも認めようとしなかった。
「ここには人間しかいないの。そんな態度、苦労するだけよ。演技だか素だかもうどうでもいいけど、直しなさい」
「……うむ、わかった」
「うむ、じゃないわよ」
「う……うー……うん……」
しぶしぶ頷くアルレットを見て、ルイズは期待できそうもないと肩を落とした。
「あと……さっき、あいつに何したの?」
「この目で欲望を覗いたにすぎない。相手の望むことがわかれば、制御もしやすい」
その割にはダメダメだったけど、とルイズは思う。結果的に少年は激高して、アルレットに手をあげていた。
魔族には有効でも、人間相手にあんなことをすれば状況がもつれるのは当然だった。アルレットにはその辺りの機微が致命的なまでに見えていない。
「なんというか、王というより、魔王なのね」
「当然であろう」
「……褒めてないんだけど」
アルレットは目を凝らさなければ見逃してしまうくらいの小さな笑みで、誇らしげに胸を張っていた。
辿り着いた階段教室は、生徒たちの使い魔で溢れていた。興味を惹かれたアルレットはルイズを追い越して教室の奥へ進んでいく。中には魔族かと見紛うような異形も居たが、概ねアルレットの知っている動物に似た生物ばかりだった。
教卓の手前で立ち止まって使い魔の観察をしていたアルレットだが、その行為に満足したあとは中央最前列の席に腰を下ろしてふんぞり返った。普段は周囲から目立たない席を選ぶ傾向のあったルイズは、嫌々仕方なくその隣に座った。
前の方に座るのね、と口にしようとしたルイズは、分かりきった答えが返ってくるのを想像して踏みとどまった。代わりに、皮肉を込めた軽口を飛ばすことにした。
「あなたなら教卓に座ると思ったのに」
「どうして教卓に座らなければならぬ」
「……いや、なんでもないわ」
アルレットが教室の最前列に座ったのは、最も近くで教師の言葉を聞くことができるからという、ごくまっとうな考えからだった。ルイズの想像していた「わたしは偉いから一番前!」という浅い考えからではない。
ほどなくして恰幅のいい中年女性が姿を現した。土のトライアングルメイジである教師のシュヴルーズだった。
教壇に上がり、教卓の前に立ち、咳払いをしてこちらを振り返るのを、アルレットは姿勢を正してじっと見つめていた。
「あら?」
シュヴルーズがルイズの学年の授業を受け持つのは初めてだった。
アルレットの姿を見て首を傾げる。この教室でただ一人だけ、学院の制服ではなく、金色の刺繍があしらわれた派手なドレスで着飾っている。魔法の授業を受けに来ているのに、マントも身につけていないのはどういうことか。
「あなた、どうしたの? もしかして、制服をダメにしてしまったの?」
「いえ……その、ミセス・シュヴルーズ。彼女はわたしの使い魔です」
アルレットが余計なことを言う前にと、ルイズがすぐさまフォローを入れた。
くすくすと生徒たちが嘲笑する。「魔法が使えないからって、その辺の平民を連れてきたんじゃないか」と誰かがささやくも、ルイズは一向に気にしなかった。ルイズはアルレットが本物であることを知っていたからだった。
「……まあ。話に聞いてはいたけど、あなたがそうなのね」
「そうだ。今日は宜しく頼むぞ」
「あら、わかりましたわ。それではさっそく授業をはじめましょうね」
偉そうな物言いにも、シュヴルーズはやんちゃな孫でも見るような優しげな笑みで答えた。
子どもに見られているわ、と内心面白がるルイズだったが、容姿の幼さで言えば自身もアルレットとほとんど変わらないことに気づいていない。貧相な体かつ童顔はなによりも一致した共通点である。真実は無情で、ルイズは学年によって色分けされたマントにかろうじて助けられているだけであった。
授業が始まれば、アルレットは熱心にシュヴルーズの言葉を聞いた。アルレットにとって退屈なのではないかとルイズは考えていたが、どうやらこちらの世界の魔法については素人らしい。時おり、小声でアルレットの質問に答えていた。教師の前で話をするのは抵抗があったが、アルレットの熱心な姿に心を打たれたシュヴルーズがにっこりと笑って暗に許可を下した。
授業も中盤になると、座学から演習形式へ移っていく。シュヴルーズが小石を真鍮に変えると、アルレットは無表情ながらも声を漏らして感嘆した。
「あなたもやってみますか?」
「よいのか?」
「ええ。失敗しても構いませんから」
アルレットは立ち上がると、見られることを意識した流麗な振る舞いで教壇に立った。生徒たちの多くが、目を奪われたようにその姿を追っていた。
「呪文は、イル・アース・デルだったな」
「ええ、よく覚えていらっしゃいました……それよりあなた、杖は?」
シュヴルーズはアルレットを当然のように貴族だと認識しており、マントは羽織っていないものの杖だけは持っているものと思っていた。しかし、アルレットは首を横に振る。
メイジは必ず、己の契約した杖を持って奇跡を成す。なにも、傍に落ちている樹の枝でそれが出来れば苦はないのだ。
「必要ない」
アルレットは右の人差し指を立てて、教卓の上の小石へかざした。
「イル・アース・デル」
そこには、起こるはずのない変化が起こっていた。
ごつごつとした無骨な小石は、つやのある真鍮へと姿を変えたのだった。教壇のシュヴルーズは開いた口を手のひらで隠し、生徒たちはざわめいた。
「おい、インチキするなよ、ルイズ!」
ルイズの後方から、男子生徒が言った。シュヴルーズはそれを咎めようとしたものの、彼の言葉を否定すれば目の前で起きた現象を認めてしまうことになると気付いたあと、口をつぐんで当惑した。
「インチキって……どうやってインチキするのよ、こんなの」
「わからないからインチキなんだろ! その辺で捕まえてきた平民だってバレるのが怖いんだ」
教師のシュヴルーズと生徒全員が見守る中、アルレットは指一本振れることなく小石を真鍮にしてみせたのだ。最前列とはいえ、席に着いたままインチキでそれをどうこうできたのなら、今ごろ手品師にでもなっているだろう。ルイズは嘆息した。
一方で、シュヴルーズや生徒にとってはそれをインチキと決めつけるほかになかった。そこに一片の悪意もなく、もっと単純に、彼らにそうさせてしまう常識外の現象だった。
「インチキなどではないぞ。そうだ、坊主。おまえの好きな宝石を言ってみよ」
「宝石? 僕は……そうだな。母なる大地の色をしたトパーズさ。なんと言ったって僕は土のメイジだからね」
このあとアルレットがなんと言おうとしているのかをルイズは察した。そして、素早く立ち上がった。ルイズは学習していた。
「ほう。では、おまえをその大好きなトパーズへ変えてやろう。余が新しく覚えた魔法……黒魔術でな」
「や、め、な、さい!」
ルイズはアルレットの手を引いて教壇から降りさせる。恥ずかしい思いを抱え込みながら、いそいそと元の席へ戻った。
どうしてこの使い魔は自分と違って学習しないのだろう。黒魔術ってわざわざ言い直すな。いっそのこと、決闘をけしかけられてゴーレムに痛い目に合わせられてしまえばいいのだわ。そう思った。
「お騒がせしました。授業を続けて下さい、ミセス・シュヴルーズ」
「ええ……でも……」
「ほら、彼女は耳も尖ってないし、翼も生えていないでしょう。何かの間違いです」
耳の尖っているエルフや翼の生えた翼人らは杖も無しに魔法を扱えるが、それ以外に人間とまったく同じ姿をした吸血鬼も同じく杖を用いずに魔法を扱う。もしや、とシュヴルーズは考えたが、それこそまさかだとその考えを振り払った。
ルイズの言うとおり、これは『何かの間違い』に違いない。
あるいはインチキ。この少女による手品か何かなのだ。シュヴルーズはそう自分に言い聞かせた。
「余の魔法が嘘だというのか?」
「黙ってなさい。ご飯抜きにするわよ」
アルレットの三食は厨房のマルトーらが用意する手筈である。ルイズの言うご飯とは、彼女のうなじに噛み跡をつけたアレだった。昨晩は眠れずにアレのことで頭をいっぱいにしていたアルレットはすぐに察した。
アルレットは不満げに顔をそらすも、授業が終わればこれをネタにすぐにでも食事を迫ってやろうと計画して溜飲を下げた。隣に座ったルイズが身震いするのを、追い詰められたうさぎを見る猛獣の気分で見つめた。
「こほん……ええー……では、仕切りなおして……」
シュヴルーズは立ち直った様子だった。そして、続く演習の実演にルイズを指名した。
「ミス・ヴァリエールに、やってもらいましょう」
立ち直ったようで立ち直ってないなとルイズは思った。先ほどのことを忘れて仕切りなおしたいなら、アルレットの主人であるルイズを指名するのは違うのではないか。まったく無関係の生徒を指名すべきなのだと、恨みがましい気持ちで杖を手にとった。
爆発して教卓の破片でも飛んだら、アルレットはまた泣き出すだろう。それでも他の生徒と同じように避難しろとは言えず、ルイズはとうとう教壇を登り、教卓の小石を見下ろした。
「先生! ルイズに魔法を使わせるのは危険です!」
「錬金の魔法が危険なものですか。さあ、気にせず、思い切りやってごらんなさい。失敗しても私は笑いません」
ごめんなさい、ミセス・シュヴルーズ。わたしの錬金は危険かもしれません。
心の中で謝りながら、ええいままよとルイズは杖を振った。
「イル・アース・デル」
♪
トリステイン魔法学院の敷地内にある雑木林の、ある拓けた場所に二人は居た。
そこはルイズの秘密の特訓場だった。彼女の失敗魔法は当然ながら場所を選ぶ。普段は、破裂音も爆発の衝撃も問題にならないこの場所でルイズは杖を振っていた。
ルイズにとっては苦い思いが染み付いた場所であったが、正午を過ぎた今現在、自身の使い魔によってさらなる苦い思いの上塗りが行われていた。
アルレットは背後からルイズの肩を掴んで、そのまま傍の大木まで距離を詰めていった。ルイズが大木の表面に両手を付けたところで、アルレットの歩みが止まる。大木の表面の硬い凹凸が、ルイズの手のひらを白くしていた。
ルイズの嫌がる顔も、アルレットからは伺えない。もとより、アルレットの視線は一点を見つめて動かなかった。その視線の先にあるのは、ルイズの桃色がかったブロンドに覆われた首元だった。やがてアルレットの細い手によってブロンドがかきあげられ、痛々しく残るうなじの赤い傷跡が外気にさらされた。
ルイズはこれから行われるであろう行為で、うなじのものがとうとう消えない傷跡として身体に残ってしまうだろうことを覚悟した。それは仕方のないことだと思った。彼女は悪魔を使い魔にしてしまったのだから、アルレットが自身の骨まで喰らおうと逆らえないのだった。
「ルイズ、好き……」
息のかかる距離で、そんなことを言う。アルレットの目にはルイズのうなじ以外は映っていなかった。彼女の暖かく柔らかな舌が傷跡をなぞるのを、ルイズは身震いしながら耐える。
やがてアルレットの言葉の意味を理解したルイズは、気分を害したように唇をとがらせる。
「……わたしの血のことしか、見えてないくせに。好きなんて」
「拗ねた……?」
恍惚な表情の口元が、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「……早くしてよ」
「ルイズ、してほしいんだ?」
「違うって……早くすませちゃってほしいの」
ルイズの苛立たしげな声に、アルレットは表情を歪める。
「ルイズは、して欲しくないの?」
「当たり前でしょう? あんなこと、して欲しいわけないじゃない……」
「ひどい、ひどいよ、ルイズ」
泣きそうな声で訴えながら、アルレットはルイズの肩を掴む力を強めた。けれどルイズは、その訴えを軽くはねのける。
「泣いたって無駄なんだからね。わたしは人間なんだから、思い通りになると思ったら大間違い」
「……わかった。わかった、もう」
「分かってくれた?」
「うん……」
一度は安堵したルイズの表情が、一刹那の間に苦悶へと変わった。それは、首筋に走る激痛によるものだった。
苦しげに喘いで、焼けるような痛みから逃げようとするルイズを、アルレットは肩に爪を立ててその場に釘付けにする。まるで、猛禽類が小動物を捕食するような光景だった。
アルレットは頬を染めながら、ルイズの首筋に歯を突き刺した。
首の血管が小さく裂け、白い肌から血が溢れ出る。アルレットはそれに舌を這わせ、口元から顎にかけて真っ赤な筋を垂らしながら、ごくり、ごくりと、グラスのワインを飲み干すように喉を鳴らした。ルイズの制服は、徐々に赤黒く染まっていった。
やがてアルレットの口がルイズのうなじから離れると、支えを失ったルイズがその場にくずおれた。
昨日よりも、ずっと多い量の血を吸われた。ともすれば、出血だけで意識を奪われる寸前まで。こんな日が続いては体が持つはずがない。はっきりと抗議をしようと、そう考えた時だった。
「ルイズ、ごめんね。これでもう、終わりにするから」
ふと弱々しい声を聞いて、ルイズはアルレットの方を振り返る。
先ほどまでの熱に浮かされたような態度は、どこかへ消えていた。後ろめたさに居心地を悪くしたような様子で、アルレットはルイズから顔をそらしていた。
「もうしないから。ルイズが嫌なら、もう、わたしは」
「アルレット……?」
「ごめん、なさい」
徐々に意識が判然として、なにが起こっているかを理解する。胸の底から、激しい後悔の念が湧き上がってくる。
ルイズは貧血でおぼつかない足元を気にしながら立ち上がり、うつむいたままのアルレットのそばに寄った。
「謝るのはわたしの方だから、そんな顔しないで」
「ルイズ……」
アルレットの肩を抱いて、今にも失いそうな意識を保ちながら言葉を続けた。
「あんな態度取って、ごめんなさい」
「……でも」
「あなたは、わたしの願いを叶えてくれた。なら、わたしもあなたの願いを叶えてあげなきゃいけない」
魔法を使えるようになること。それが、ルイズの希求していたもの。
シュヴルーズの授業で、ルイズは錬金の魔法を爆発させなかった。失敗魔法が爆発しなかったのは、初めてのことだった。
それを進歩と見たルイズは、昼食の時間を返上して魔法の訓練を始めた。結果は、系統魔法こそ扱えなかったものの、様々なコモンマジックを正確にマスターしたのだった。
ルイズはそれについて、今でも夢心地に近いような、信じられない気持ちでいた。
「アルレット。あなたのおかげで、魔法も爆発しなかった。コモンマジックだって成功するようになった」
それは違う、とアルレットは首を横に振る。
アルレットから有り余った精力を奪われたために、魔法の力加減を覚え、結果的に失敗魔法の爆発がなくなったにすぎない。コモンマジックはそもそも、アルレットが召喚された際にサモン・サーヴァントとコントラクト・サーヴァントの2つを成功させている。
それでもと、ルイズはなだめるようにアルレットの背中を撫でる。
「分かってる。でもね、もう、嫌なんて言わないから……あなたのこと、拒絶しないから。だって、こうしないと生きていけないんだものね。ごめんね」
アルレットはルイズの肩に顔を埋めた。ルイズはそれを嫌がることなく、やさしく受け止めた。
アルレットが精気を求める理由は、それが不足しているから。
彼女にとってその行為を非難されることは、呼吸を咎められるようなものだった。そうしなければ生きていけないこと。彼女のそばにいるなら、肯定しなければいけないことだった。
不足している理由はわからない。けれど、それを認めてやらなければ、生きている命を否定することにつながってしまう。
ルイズはアルレットを一度でも拒んでしまったことを、後悔した。
「ありがとう、ルイズ。わたしも……ルイズが望むこと、叶えてあげるから」
「わたしが、望むこと?」
「魔法をあげる。ルイズが、本来使うべき魔法。わたしと同じもの」
アルレットはルイズの両目を右手で覆って、瞼を閉ざすように促した。
それから、目をつむったルイズの唇にそっとくちづけをした。触れ合った唇は離れることなく、アルレットはそのまま血で汚れた口元をゆっくりと押し付けていく。ルイズの身体がのけぞろうとするのを大木が妨げた。
アルレットの口内は、血の味がした。それと同時に、ルイズは身体の芯の部分に暖かいものが降りてくるのを感じていた。
血と精力を奪われて消えかけていた活力のようなものが、戻ってくる。貧血の症状もみるみる解消されていった。
まるで水の魔法のようだった。しかしアルレットは杖を持っていない。いったいどんな奇跡なのだろう、と考えずにはいられない。
唇が離れると、アルレットは唾液でべたべたになった赤い口元を手の甲で拭った。
「ルイズはかならず、すごい魔法使いになる。約束する」
アルレットがルイズの手を引く。
「授業、遅れちゃう。早く行こ?」
「待ちなさい」
そう言って、ルイズはアルレットの手をほどいた。
「こんな格好で、出られるわけないでしょ」
ルイズはポケットから白いハンカチを取り出して、唾液にまみれた口元を拭いた。生地の白色に赤がべったりと付いた。アルレットの口内から移った自分の血液だった。
真っ赤に染まった自分の制服を見下ろして、ルイズは頭を抱えた。