帝国暦467年1月14日。
凍てつく空気が帝都オーディーンの下町を白く曇らせていた。
そんな日に俺はこの世に転がり出たらしい。
もっとも、生まれた瞬間の記憶などない。
覚えているのは、気がつけば母の胸の上で温もりにくるまれていたことと、「どういう悪い冗談だ」と思わず天井を睨んだ自分の内なる声だけだ。
転生。
それもよりによって銀河帝国。
平穏に生きたいと願った結果が、この貴族どもの虫酸が走る箱庭だとは、
神様だか運命だか知らんが、冗談のセンスが悪すぎる。
とはいえ両親はごく普通の平民で、家族仲も悪くない。
食うに困らず、部屋に汚物の匂いもしない。
伝染病で近所が一夜で死滅するような文明レベルではないことが救いだ。
――そんな最低限の文化水準を確認したときの安堵感は、今でも鮮明に思い出せる。
俺は子供の姿をしているが、中身は前世の大人だ。
当然、下町のガキ共よりは落ち着いているし勉強も出来る。
それが災いして、放課後にガキ大将とその取り巻き二十人に囲まれるハメになったのは、もうお約束だろう。
「おい、キルヒアイス。調子に乗ってんじゃねえぞ」
ほら来た。予想通りすぎてあくびが出る。
肥満児のクセに威勢だけはいいガキ大将が、涎を垂らしながら息巻いている。
この後の展開もまあ分かっている。
「俺のチンコ●しゃぶったら許してやるぞ!」
――ああ、はいはい。
前世なら青少年保護法とセクハラ規定で訴訟モノだが、ここは宇宙帝国。
ケンカは物理と恐怖で解決するのが一番手っ取り早い。
俺は鞄を下ろすと、ゴムのように沈んだ雪を蹴って奴の懐に踏み込んだ。
正拳突き。重い音と共にガキ大将の顔面がひしゃげる。
泣き声? 知らん。馬乗りになって容赦なく殴る。
血と鼻水と涙の混合物が頬に飛んできても構わない。
「おら、次は誰が相手だ」
気絶した肥満児の横で、震える取り巻き共を見下ろす。
誰も名乗り出ない。所詮は烏合の衆。ボスが倒れりゃ散るのが定番だ。
放課後の俺の貴重な「魔法BBAリリカル般若」視聴時間を奪おうとした罪は重い。
反省しろ。そして二度と俺に逆らうな。
それから俺は少し有名人になった。
クラスの男子は腫れ物に触るように距離を置き、女子だけが妙に優しい。
友達? 居ない。でも手作りクッキーとチョコは貰える。
ボッチ? 違う。孤高だ。
そんなある日、隣に引っ越してきたのが――俺の人生を狂わせる姉弟だった。
「お隣のミューゼルさんって、奥さん亡くされたんですって。男手ひとつでお子さん二人を……」
母が晩御飯の支度をしながら父に報告する。
俺の胃がきしむ音が聞こえた気がした。
(死神姉弟……よりによって、こいつらか)
これ以上はごめんだ。
俺は静かに生きたいんだ。銀河帝国の血まみれの政治ドラマに巻き込まれる趣味はない。
……が、翌日。
路地の角で遭遇する金髪の小僧。口を開けば生意気。空気を読まない。
「俺はラインハルト・フォン・ミューゼルだ。貴様は?」
――ああ、やっぱりお前だ。
「ジークフリード・キルヒアイスです」
「ジークフリード? 俗っぽい名前だな」
カチン、と音がした。
「ちょっと来い、ミューゼル様」
物陰に引きずり込み、股間に膝を叩き込んだ。
うずくまった所にもう一発。泣くまで蹴る。
俺は両親を馬鹿にされるのが一番嫌いだ。
そしてその日の夕方、姉のアンネローゼが謝罪に来た。
ラインハルトは姉の背後で顔を腫らし、涙目で俺を睨んでいる。
睨むな。俺だって好きでやったんじゃない。
アンネローゼは年のわりに妙に大人びた声で俺に頭を下げた。
「ジーク、弟がごめんなさいね。これから仲良くしてあげて」
ああ、俺の平穏は終わったな、と心の中で天を仰いだ。
それからというもの――
金髪の生意気小僧は俺に懐いた。
懐いたというより、張り付いたと言うべきか。
「キルヒアイスさん、今日も一緒に帰りましょう」
「……好きにしろ」
ぶっきらぼうに答えながらも、内心では舌打ちしていた。
この世界線では俺は舎弟を量産する予定などない。
だが一度泣かせてしまった負い目と、背後に控える姉の慈母の笑顔が脳裏をよぎり、突き放すタイミングを悉く失っている。
放課後、学校を出れば金髪が後ろをついてくる。
途中の八百屋の前で立ち止まれば、横で手を後ろに組んで立っている。
「……何してるんだ」
「お供です」
「犬かお前は」
「犬ではありません。狼です」
……小型の狂犬だろ。
学校でも金髪の存在感は異様だった。
俺を遠巻きにしていた男子連中が、金髪の目つきにすくんで余計に距離を取るようになった。
お陰で孤高はますます孤高になったが、女子達には何故か二倍モテた。
「ラインハルト様って綺麗なお顔……」だの、「キルヒアイス君と仲良しなのね……」だの。
そういう視線は心を満たさないどころか胃を荒らすだけだ。
ある日曜日、俺は勉強机にかじりついて、帝国史の教科書を睨んでいた。
――誰が読んでも権力闘争と血と裏切りのオンパレードだ。
俺の目標はその渦に極力巻き込まれない事である。
「キルヒアイスさん、外に出ませんか」
背後から金髪。
机の後ろに正座している。
「……なあ。お前、いつからそこにいた」
「ずっと居ました」
「怖いわ!」
監視かお前は。
気を抜いたら背中に刺されそうで、頭皮がひりつく。
こうして俺とラインハルトの奇妙な共存生活が続いた。
男子達には「キルヒアイスを怒らせるとミューゼル家の金髪狂犬が飛び出す」という妙な噂が広がり、誰も俺に楯突かなくなった。
ただ、ラインハルトの姉――アンネローゼが、定期的に優しい笑顔で俺に言う。
「ジーク、いつも弟のこと、ありがとうね」
あの微笑みの裏に『この子を裏切ったらわかってるわよね?』という黒いオーラがちらついて見えるのは俺だけだろうか。
(これでいい……のか? 俺の平穏とは、こんなに胃に穴が空くものだっただろうか……)
俺のため息をよそに、金髪の狂犬は今日も俺を追いかけてくる。
転生してから十年が経った。
表向きは順風満帆――だが俺の胃はずっと満身創痍だ。
アンネローゼは予定通り後宮へ上がり、金髪の狂犬――もとい、ラインハルトは寂しさを俺への執着に変換して日々磨きがかかっている。
そんな俺達がついに幼年学校に入学した。
「キルヒアイスさん、こんなところ、僕達の居場所じゃないですよ」
校門をくぐって早々、ラインハルトが肩を怒らせて言う。
ラインハルトは、皇帝の寵姫の弟というだけで門閥貴族の注目を集め、加えて俺は平民。おまけにフルネームがちょっと格好良いので嫉妬を買いやすい。
目立つのは面倒だ。目立たないように生きるのが俺の人生の要諦だ。
「大丈夫だ。任せろ。俺達は波風立てない。むしろ立てさせない」
俺は既に手を打っていた。
入学初日の昼休み。
廊下を歩いていた俺達の前に、出た。権威と愚鈍の権化――フレーゲル男爵ご一行。
「おお、寵姫の弟殿と、その犬ではないか」
フレーゲルが鼻の穴を膨らませて、取り巻きを引き連れて立ちはだかる。
ラインハルトが何か言い返そうとした瞬間、俺は小僧の肩を押さえすばやく前に出た。
「フレーゲル閣下! 本日お目にかかれて栄光の極みです!」
廊下に響く大声で叫び、俺はさっとしゃがみ込むと、フレーゲルの履き込みの甘い革靴をハンカチで磨き始めた。
廊下が水を打ったように静まり返った。
「……おい、何をしている?」
呆気に取られたフレーゲルの声に、俺はさらに声を張る。
「下賎の生まれの私如きが、名門ブラウンシュヴァイク家の御威光に縋るなど畏れ多いこと。せめて閣下の靴だけでも、この手でお磨きしてご恩返しを――!」
我ながら芝居がかっているが、こいつらにはこれでいい。
フレーゲルの鼻の穴が一段と広がった。
「ふ、ふははは! 気に入った! お前、面白いな!」
周囲の取り巻きも大笑い。
ラインハルトは横で金髪を逆立てて青筋を浮かべているが無視。
相手を言葉の通じる人間だと思うから腹が立つ。
人語を喋る豚だと思えば摩擦は減るのだ。
俺は靴を拭き上げ、ぺこりと頭を下げた。
「閣下、いずれ元帥府をお開きの折には、末席にでもお加え頂ければ、これ以上の幸せはございません!」
「ははははは! 面白い! 考えておいてやろう!」
フレーゲル一味は機嫌良く去っていった。
残された俺とラインハルト。
無言の金髪が俺を凝視している。
「……キルヒアイスさん。どうしてそこまで頭を下げるんですか?」
鼻で笑ってやった。
「いいか、ミューゼル様。矜持と誇りで腹は膨れない。生き延びるには必要な所で豚を太らせておくことも手だ」
金髪は納得したような、してないような顔でため息をついた。
可愛い奴め。
こうして俺達は銀河帝国軍幼年学校において、フレーゲル閣下の忠実なる腰巾着としてスタートを切ったのだった。
銀河帝国軍幼年学校――。
それは門閥貴族の子弟が権力の牙を研ぐ檻であり、平民が生き延びるには、さながら猛獣の檻の中で二足歩行を覚えたウサギの如し。
だが俺には秘策があった。
フレーゲル閣下のご威光。
それを日々、せっせと磨き上げて、無駄にでかい威厳を拝借するのだ。
ラインハルトの金髪が光るたびに頭の緊張性偏頭痛がズキリと痛むが、それも胃薬で誤魔化せば済む話だ。
「キルヒアイスさん! 来週の模擬戦、フレーゲル閣下のご指導を仰げば、僕ら有利ですよね?」
授業が終わった後、木漏れ日の廊下でラインハルトが声を弾ませる。
こいつ、本当に元気だな。
昼休み返上で上級生の砂糖菓子を盗み食いするからだ。
「フレーゲル閣下に無理はさせない。閣下はお忙しいんだ」
「でも閣下は模擬戦の総責任者でしょう?」
「だからだ。顔を立てるのが礼儀ってもんだ」
俺の脳裏には、閣下がご満悦の顔で机に足を乗せ、「後は勝手にやれ!」と豪快に居眠りしている未来図しかない。
それに貴族の息子達の前で、ラインハルトが自分の正義を振りかざすのは命取りだ。
正義より胃に優しい偽善と処世が大事。
その日、生活隊舎への帰り道、ラインハルトが俺の後ろでぶつぶつ言っている。
「……僕はただで出世したくないんです」
「お前はバカか」
あまりに真っ直ぐなので、思わず立ち止まって振り返った。
「この帝国で血筋や肩書を使わずに上に行ける奴なんていない。だから使える物は全部使って、使い尽くして捨ててやれ」
「でも、それじゃ……」
「馬鹿正直だけじゃ、姉上も守れんぞ」
俺が言った瞬間、金髪の瞳がわずかに揺れた。
ラインハルトは、姉の話になると分かりやすく弱い。
そりゃそうだ。原作のルートじゃ姉貴が人身御供にされてからの野望一直線ルートだからな。
俺としては、その猛毒を薄めて胃に優しい人生にしたいだけだ。
やがて門の前で、金髪が一礼した。
「……分かりました、キルヒアイスさん。少しは……考えます」
おうおう、言うだけは言え。
俺は笑って、また一つ背中に重石が乗った気がした。
その夜、居室のベッドに潜り込みながら天井を見つめる。
(……思えば、遠くに来たもんだ)
下町の優等生が、気づけば狂犬と豚貴族の調教師だ。
俺の夢は、平穏で穏やかで胃薬を必要としない余生だったはずなのに。
枕元の棚から胃薬を取り出し、一錠を口に放り込んだ。
明日も胃痛と共に生き延びる。
帝国軍幼年学校の年次恒例――模擬戦。
これは門閥貴族の子弟が他家の手駒を見極める社交の場であり、平民が命をすり減らしながら無事を祈る運試しでもある。
……そんなものに俺が本気で付き合うはずがない。
「キルヒアイスさん、敵陣を強襲する許可を!」
模擬戦開始二時間後。
作戦室の奥、仮設の指揮卓に仁王立ちする金髪の狂犬が血走った目で訴えている。
周りの貴族坊ちゃん達はドン引きだ。
その後ろ、机に足を乗せて高いびきをかいているのが我らがフレーゲル閣下である。
俺はラインハルトに近寄り、そっと耳打ちした。
「……な、言っただろう。閣下はお忙しいんだ」
「忙しい……? 寝てるじゃないですか!」
「お忙しいんだよ」
これ以上の説明は不要だ。
相手が人語を解さない豚の場合、説明しても胃が痛くなるだけだから。
模擬戦では、俺とラインハルトの担当は偵察小隊の指揮。
教科書どおりの陣形とフレーゲル閣下の寝言みたいな方針をうまく繋いで、とにかく死人を出さずに貴族の面子だけ立てて終わらせるのが俺の目標だ。
「敵情、右前方に偽装陣地あり! どうしますか、小隊長!」
斥候班長が無線を握りしめ、俺を振り返る。
ラインハルトが目を光らせる。
「奇襲で蹂躙してやりましょう!」
生粋の戦狂いか、お前は。
俺は呆れ顔を隠さずに小さく首を振った。
「退け。ここで突っ込んだら閣下が目を覚ます。そうなったら模擬戦が血の雨になる」
俺の言葉にラインハルトが口を噤んだ。
その後ろでフレーゲルが気持ち良さそうに寝返りを打つ。
俺は無線機を掴んで、監視所の斥候班に落ち着いた声を送った。
「こちら偵察小隊長。敵陣地には構うな。監視だけ維持して、記録撮影しろ。点数稼ぎは他の馬鹿共にやらせとけ」
「了解!」
こうして模擬戦は、フレーゲル閣下の豪快なイビキをBGMに、俺とラインハルトの胃に優しい偵察とで幕を閉じた。
状況終了後――。
「……キルヒアイスさん。こんなの、武勲とは言えません」
拗ねた犬みたいな顔で言う金髪に、俺は肩をすくめる。
「勝てばいいのは戦争だけだ。模擬戦は演劇なんだよ。貴族連中の手柄帳にハンコ押して回る作業だ。余計な血は要らん」
「……いつか、全部ぶち壊してやる」
目の奥で、銀河の果てまで突き抜けるような光が確かに揺れた。
――ああ、やっぱりお前は死神だ。
俺の腹の奥で胃が静かにきしんだ。
帝国暦472年、春。
幼年学校を無事に卒業した俺は、再び校門をくぐっていた。
次の檻――士官学校。
平民がまともに士官になれる数少ない切符だが、所詮は貴族社会の延長であることに変わりはない。
胃の薬を増量して挑む覚悟はできている。
「キルヒアイスさん、これでやっと戦場に行けますね!」
隣で嬉しそうに語る金髪狂犬。
相変わらずだ。
こいつが夢見るのは、血と火薬の先にある栄光だけだ。
俺の夢は、安定と胃腸薬の先にある穏やかな老後だ。
理想の方向性が真逆すぎて笑える。
「お前なあ……士官学校を飛ばして戦場に出て何が出来る」
俺がため息混じりに言うと、ラインハルトは不満そうに唇を尖らせる。
「だって、机で学ぶより敵を叩いたほうが――」
「敵を叩くにも計算が要る。お前が天才だろうと指揮官・幕僚の基礎はすっ飛ばせない。何より……失敗したら死ぬだけだ」
俺は自分の言葉で、自分の首を絞めている気がしてならない。
入学式を終えた教室。
窓際の席に腰かけた俺の元へ、懐かしい顔が現れた。
「おお、キルヒアイス! また会ったな!」
フレーゲル閣下。
幼年学校の阿呆貴族が、阿呆のまま士官候補生になってやってきた。
「閣下、ご機嫌麗しゅうございます」
「ははは! お前のおかげで幼年学校は退屈せずに済んだぞ!これからも私を楽しませろ!」
「ははっ、身に余る光栄」
心の中では正座で土下座している俺の胃袋に、きしみが走る。
フレーゲルが去ると、机の隣の金髪がそっと呟いた。
「キルヒアイスさん……閣下のお守り、続投ですか」
「そうだ。あのお守りがある限り、俺達は馬鹿の小間使いだが、豚共の標的にはならない。……つまりは安い保険だ」
ラインハルトは面白くなさそうに頬杖をついた。
「閣下みたいな豚をいつか踏み潰してやりたい」
「言うのは勝手だが俺を巻き込むな。お前の大義名分より、俺の胃袋の平穏の方が大事だ」
教官室前の廊下から、声が漏れている。
「シュターデン教官」と呼ばれる老練の理論派が、新入生相手に基礎戦術の講釈をしているのだ。
貴族連中は鼻で笑うが、俺は違う。
基礎は宝だ。
どれだけ要領が良くても、いざという時にすがれるのは丸暗記の基本理論だけだ。
俺はラインハルトの背をぽんと叩いた。
「いいか。俺達は頭を低くして基礎をかき集める。華麗な突撃は、教官室の前じゃなくて戦場でやれ」
金髪が小さく、でも確かに笑った。
「……分かりました、キルヒアイスさん」
士官学校の朝の光の中。
黒服の平民と金髪の死神見習い――
俺とこいつの奇妙なバランスは、まだ保たれている。
問題は……いつまで保てるかだ。
士官学校の生活は、幼年学校の百倍は退屈しない。
つまり胃痛の種が百倍あるという意味だ。
フレーゲル閣下は相変わらずで、
授業中は高いびきか、妙な講釈をぶち上げては居眠り。
取り巻きは相槌を打つだけの置物。
ラインハルトはそいつらを殺したそうな目で見つめている。
俺はと言えば、朝から胃薬と共に教室に座り、
戦術理論の板書を一言一句もらさず写すだけの人形だ。
「……そこで、戦列の左翼をわずかに退かせることで、敵の突破衝動を利用し包囲殲滅が可能になる――。分からん者はいるか?」
教壇のシュターデン教官が視線を巡らせる。
古株の理論家だが、授業態度が地味すぎて門閥貴族どもからは「時代遅れ」と嘲られている。
だが俺は好きだ。
この人の講義だけは金を払ってもいい。
「おい、ミューゼルの犬、また板書か?」
後ろの席から鼻で笑う声が聞こえた。
声の主は典型的な門閥貴族の倅。フレーゲルの腰巾着の腰巾着だ。
俺は振り返らず、筆を止めず、ただ一言。
「記録は武器だ。馬鹿に刃物を持たせるのと同じだ。無駄でも無意味でもない」
貴族の子弟は鼻で笑うことしか出来ない。
それでいい。
授業後――
珍しく、シュターデン教官が俺を呼び止めた。
「キルヒアイス候補生」
「は、はい!」
緊張で声が裏返った。
まさか課題の答えが間違っていたか。
シュターデンは目尻の皺を一つ増やして笑った。
「君の板書、実に正確だ。授業後に写させてくれんかね」
「……はい?」
「いや、私も歳だ。黒板を消す前に自分でまとめるのが骨でな。君のノートを拝借したい。だめかね?」
その時、背後でラインハルトの声がした。
「教官、キルヒアイスのノートは宝物ですから。褒めてやってください」
ああ、やめろ。
お前のそういう素直な笑顔が一番胃にくる。
放課後の廊下を歩きながら、金髪は機嫌良さそうに言った。
「キルヒアイスさんって、そういう地味なことに全力ですよね」
「地味じゃない。これが平民の生きる術だ。お前みたいに金髪で目立つだけの奴と違ってな」
「……だから僕が目立つ役をやります。あなたは後ろで支えていてください」
俺は返事をしなかった。
したら、何か大事なものが決壊しそうだったからだ。
夕暮れ、生活隊舎の居室。
机の上、板書のノートの隣に置かれた白い錠剤。
(……胃痛と金髪の世話、どっちが先に終わるんだろうな)
俺は苦笑しながら薬を飲み込んだ。