キルヒアイスさん   作:キューブケーキ

2 / 5
第2話

 帝国暦483年5月。

 第5次イゼルローン要塞攻防戦が始まった――と新聞の見出しが喧しいが、俺には遠い遠い出来事だった。

 俺はと言えば、士官学校の寮で靴を磨き、制服の襟をアイロンで押さえ、予習と復習に追われている。

 要塞? 戦争? そんなものは将来の俺の胃袋を痛めるだけの厄介事でしかない。

 夕刻。

 班の連中と一緒に、現品給与の煮込みとパンをかき込み、売店で安いアイスとチョコを買い足す。

 カロリー管理は軍人の基本だ。食った分、走れ。走らない奴だけがブクブク太る――こんな単純な算数を理解できない奴が士官になれるとは思えない。

 夜。

 娯楽室のソファで新聞を読んでいると、金髪の狂犬――いや、同期のラインハルトが俺を見つめていた。

「キルヒアイスさん。叛徒共、またイゼルローンに来たそうですよ」

 言いながら電子新聞を突きつけてくる。

「力攻めしか脳のない奴らの末路だな」

 俺の皮肉を拾うように、ソファの向こうで馬鹿笑いが響いた。

「おいキルヒアイス!」

 フレーゲル閣下だ。

 俺の胃袋を大切に守る保険であり、門閥貴族の権化でもある。

「卿が叛徒の指揮官なら、どうする?」

 顔を上げると、取り巻き共の視線が一斉に俺に集まった。

 平民が何を言うか、笑いの種にしてやろうというわけだ。

「恐れながら……閣下」

 俺は涼しい顔で言った。

「イゼルローンには目もくれず、フェザーンから攻め込みます」

 即座に周りがざわめいた。

 笑い声と息を呑む気配が混ざる。

 ラインハルトだけは黙って新聞を握り締めている。

「他にもサイオキシン麻薬を使って内部を腐らせる。宗教を利用する。戦わずに落とす方法なんぞ、いくらでもあります」

 俺が付け加えると、フレーゲルが面白そうに喉を鳴らした。

「ほう、卿らしいな。卑怯だが効きそうだ」

 俺の周りで貴族共が、金と薬の話で盛り上がる。

 ――戦争なんてのは、相手と同じ土俵で殴り合うから泥沼になるんだ。

 勝てば良い。ルールなんて知らん。

 俺が囁くと、ラインハルトが小さく頷いた。

「……結局、要塞は落ちなかったんですね」

「そりゃそうだ。味方も馬鹿じゃない。俺の胃袋を守るためにも負けるわけにいかん」

 俺が笑うと、金髪の天才は視線を落とし何かを噛み殺すように唇を結んだ。

(……さて、次は何が胃に悪い目に繋がるやら)

 遠い要塞戦なんぞより俺にとって怖いのは机の下の地雷と、隣の金髪と、取り巻き連中の無邪気な馬鹿笑いだ。

 新聞を畳み、売店で買った胃薬をポケットで撫でながら俺はため息をついた。

 イゼルローン要塞攻防戦の余韻が冷めぬうちに、俺の日常は何事もなく、無駄に平和だった。

 フレーゲル閣下に適度に靴を磨き、ラインハルトの無謀な作戦構想を生ぬるく聞き流し、学内売店の胃薬コーナーを荒らしつつ、課業外に励む。

 そんな俺に、ある日ちょっとした異物が割り込んだ。

 年末年始休暇を前に、荷造りをしていると寮のドアが二度ほど遠慮がちにノックされた。

「キルヒアイス、ちょっと良いかい」

 同期のイケダだ。

 真面目で人当たりも良い。だが妙に人間味が薄い男だ。

「何だ、手短にな」

 荷造りを続けながら俺は適当に相槌を打つ。

 だがイケダの声は不気味に滑らかだった。

「君は今の帝国をどう思う?」

 ああ、これはヤバいやつだ。

 教官の論文課題でもなく、貴族の陰口でもなく、いきなり帝国をどう思うと来た。

「腐ってる。それがどうした」

 荷造りの手は止めない。

「……このままじゃ人類は滅びる。魂の救済が必要だと僕らは考えている」

 ほら来た。やっぱり宗教だ。

 イケダは眼鏡を直しながらも笑っている。

 背筋がじんわりと冷えるのは、この男が理性の皮を被った狂信者だと本能が理解したからだ。

「地球教って奴だろ」

 あえて先に言った俺の一言に、イケダは嬉しそうに瞳を細めた。

「そうだ、君は聡い。力や金じゃなく、人間の内面を救うのが我々の役目だ」

「……ふーん」

 もう答えは決まっている。

「布教はお断りだ。宗教は胃に悪い」

 手を止めずに即答した。

「否定はしない。だが、いつか君に協力を頼む時が来る」

「来ない。帰ってくれ」

 ドアを指さすと、イケダは寂しそうに肩をすくめた。

「良い休暇を、キルヒアイス」

 ドアを閉めると、荷物の隙間に忍ばせた胃薬の箱が視界に入った。

 いつの世も面倒事は宗教か金か女だ。

 できる限り遠ざけて生き延びてやる。

 数時間後、俺は休暇証を受け取り、ラインハルトが新無憂宮に姉に会いに行くのを背中で見送り、一人で実家へ向かう列車に揺られていた。

 冬の帝都の空気は、まだ少しだけ俺に優しかった。

 

 

 

 帝国暦485年3月。

 士官学校の卒業は、静かに、胃に優しく――なんてわけがなかった。

 ヴァンフリート星域会戦がどうだの、グリンメルスハウゼン爺さんが敵将を捕虜にしただの、世間が戦勝ムードに湧く一方で、俺とラインハルトの辞令が届けられた。

「ガイエスブルグ補給所勤務を命ず」

「ガイエスブルグ……?」

 聞き覚えしかない名前に、胃が嫌な音を立てる。

 この要塞――未来で俺が死ぬ場所じゃなかったか?

 だが命令は命令だ。

 輸送艦の硬い座席に尻を痛めつつ、着いた先は――

 予想を裏切る形で地獄ではなかった。

 着任申告を済ませ、スラリとした中隊長フェルナー少佐がにこやかに俺達を迎えた。

「今日は荷物を整えてゆっくり休め。終礼で自己紹介を頼む」

「はい、中隊長」

 背筋を伸ばす俺とラインハルト。

 背中に刺さるのは――女性陣の視線だ。

「可愛いッ!!」

 副中隊長マントイフェル大尉を筆頭に、貴族の影が匂う女性士官と下士官の群れが俺に飛びつく。

 柔らかい。

 視界が谷間で埋まる。

 ラインハルトの顔が引き攣っている。

(……俺は何のために胃薬を携帯しているのか)

 乙女の園――

 そう呼ぶしかない空間で、俺と金髪は餌食にされた。

 だが、ただの色香に溺れるほど俺は馬鹿ではない。

 副中隊長マントイフェル大尉――巨乳、安産型、笑顔が怖い。

 中隊付のハイジ曹長――貧乳、小動物系、裏で何考えてるか分からない。

 気づけば、全員が過去に誰かのお手つきという噂を聞かされ、俺の下半身の暴走は見事に冷却された。

 一ヶ月もすると、女子トークにも生理用品の話題にも動じなくなった俺がいた。

 ラインハルト? こいつは相変わらずだ。

 真面目に訓練をこなしつつ、何かと俺の背中にまとわりつく。

 ある夜――

 士官クラブでマントイフェル大尉と酒を飲んだ。

「ミューゼル曹長、キルヒアイス曹長。慣れた?」

「まだまだ、です。大尉こそ、俺を可愛がり過ぎですよ」

 調子に乗った俺は、酒の勢いで余計なことを言った。

「大尉……俺をお持ち帰りしても?」

 言った後に、ラインハルトの姿を探すと――

 酔い潰れてトイレで死にかけていた。

(……こいつがいなけりゃ、俺の平穏はもっと楽だ)

 結局、その夜はマントイフェル大尉を女性官舎まで送り、年上美女の現実的すぎる恋愛観を酒臭い息で聞かされた。

「貧乏男爵家の次女が生きるには、現実を見なきゃいけないのよ」

 そんな大尉の首筋に触れたとき、俺はただの平民のくせに、しっかりと男であることを思い出した。

 そして――

 乙女の園は俺を鍛え、牙を研がせ、次の檻へ送り出したのだ。

 

 

 

 6月14日。

 ガイエスブルグの乙女の園を二ヶ月で卒業した俺とラインハルトは、フレーゲル閣下の鶴の一声でブラウンシュヴァイク公爵家の私兵部隊に引っ張られた。

「よく来たな、キルヒアイス曹長、ミューゼル曹長!

 既に中尉に昇進しているフレーゲルは、あいかわらず大声で笑いながら俺の肩を抱いた。

「お久しぶりです、フレーゲル閣下。閣下の馬前で戦えるのは、我が名誉です」

 こういう時は平伏するに限る。

 閣下の足元を磨いて生き延びるのが、平民の正しい生存戦略だ。

 ラインハルトは無言だったが、横目でちらりと俺を見て、諦めたように一緒に頭を下げた。

 こいつも少しは学んだらしい。

 こうして俺達は、私兵という名の公爵家の下僕としての勤務が始まった。

 とは言え、フレーゲルの側近は楽だった。

 側近としてフレーゲルが無駄金をばら撒くのを遠回しに止め、その間に周囲の女官や女性兵を口説いて仕事を忘れる。

 平和だ。

 俺の理想だ。

 夜――

 フレーゲルが催したパーティーで、俺の目に止まったのは白いドレスを着た一人の令嬢だった。

 長い睫毛。すべらかな白い首筋。

 場違いなくらい無垢な目で、俺のカルーアミルクを覗き込む。

(……これは、上物だな)

 俺はそっと微笑み、穏やかな声を落とす。

「貴女も一杯、いかがですか? 私の故郷に伝わる特製カクテルです」

 社交界で女を落とすコツはただ一つ。

 がっつかない。ただそれだけ。

「私……エリザベートと申します……」

 自分の名を告げる時、頬を赤らめる彼女の柔らかさ。

 久々に、俺の心が下半身と一緒に躍った。

 二人きりになるのに時間はかからなかった。

 艶のない客間の隅。

 控えめに化粧された唇に触れるだけで、彼女は小さく身を震わせる。

「君に相応しい、美しい名前だ」

「……私のこと、何も知らないのに」

 彼女の頬を撫で、手の甲に口づける。

「知ればいい。今夜、これから知り合おう」

 令嬢エリザベート。

 後で知ったが、ハルテンベルク伯爵家の妹だとか。

(……ああ、また俺はフラグを立てたのか)

 思ったが、後悔はなかった。

 シーツの中の彼女は、確かに俺を現実から解き放ってくれた。

 パーティー会場では、

 ラインハルトが熟女のババアに囲まれて、魂を抜かれた顔をしていたが、その夜、俺はもう知らん。

 こうしてフレーゲル閣下の信頼と、社交界での甘い罠を両手に抱えて――

 俺の胃袋は、再び静かに軋み始めた。

 

 

 

 夏の始まり。

 ブラウンシュヴァイク公爵家の私兵としての務めは、想像以上に胃に優しかった。

 少なくとも――フレーゲル閣下が機嫌よく笑っている間は。

 俺はと言えば、戦場から遠いこの暇な後方拠点で、ごく自然に新しい楽しみを増やしていた。

 令嬢エリザベートだ。

 パーティーで一夜を共にしてからというもの、彼女は俺を危険な恋の相手とでも思っているのか、人目を忍んで会いたがった。

 カフェの涼しいテラス。

 テーブルにはカフェオレとカスタードタルト。

 昼間から貴族様は優雅なもんだが――

「……会いたかったわ」

 エリザベートが伏し目がちに言うと、

 俺は無言でその手を取って口づけを落とした。

 キルヒアイス、平民出、士官候補生の曹長。

 彼女にとっては、手軽で退屈を忘れさせるロマンス。

 俺にとっては可愛くて柔らかくて、そしてちょっとした貴族世界への人脈だ。

 お互い様だ。

「貴方って、不思議な人……」

「君も、だ。俺を退屈させない」

 微笑み合い、唇を重ねる。

 こうしていれば、権謀術数も戦争も何も関係ない――気がした。

 だが社交界はそう甘くない。

 エリザベートを迎えに来た使用人の視線。

 俺を値踏みする男爵家の縁戚達の噂話。

 ――あれはハルテンベルク伯爵家の妹を狙ってる平民の軍人だ。

 貴族社会では、噂ほど安くて凶悪な武器はない。

「大丈夫、私、誰にも言わない」

 ある夜、俺の胸に抱かれながらエリザベートは囁いた。

「そうか……でもな、俺が生き延びるには、君が一番の地雷だ」

 ベッドの中で囁く台詞じゃない。

 でも言ってしまうのが俺の弱さだ。

 彼女はくすりと笑い、濡れた髪を俺の頬に絡めた。

「じゃあ……私を地雷ごと、抱きしめて」

 翌朝、フレーゲルの側近部屋で、俺は地雷を抱えた胃をさすりながら、

 取り巻きの前で人畜無害な顔を作っていた。

「卿、最近浮かれているな?」

 フレーゲルの疑い深い目が、カルーアミルクを口にする俺を捉える。

 笑ってごまかす。

 胃袋の中で、また一つ新しい潰瘍が育つ気がした。

 俺とエリザベートの関係は、噂や好奇の視線をものともせず、静かに、しかし深く育っていった。

 あれほど厄介だと思った火種は、

 フレーゲル閣下の意外すぎる一声で、むしろ守られる形となった。

「卿と令嬢がどうなろうと構わん。むしろ貴族の令嬢を落とした平民など面白いじゃないか。応援してやろう!」

 酒宴の席で、肩を組まれたあの夜を思い出すと、何とも言えない笑いがこみ上げる。

 フレーゲルは、自分が鍛えた子飼いの幕僚のロマンスを、ほとんど父兄のような顔で祝福し、必要があれば小遣いまで与えてくれた。

 有象無象の取り巻きどもは、閣下の顔色を見て俺達に口を挟むことすら出来ない。

「貴方と居ると、息が楽になるの」

 ある夜、俺の肩にもたれたエリザベートが夢見るような声で呟いた。

 彼女の髪を指先でほどいて梳かす。

 甘い香りが心の奥の淀みを洗ってくれるようだった。

 平民と伯爵家の令嬢。

 そんな肩書など、二人の間ではもはや何の意味もない。

 俺は彼女の頬を親指で撫で、静かに口づけを落とす。

 心が繋がっている――

 まるで蓮の根が水底で絡み合うように、ほどけない。

 そんな俺達の関係を、フレーゲルは笑って見ていた。

「卿が望むなら、後ろ盾になってやろう。面白いものを見せてくれるなら私の顔も立つ」

 閣下は意外といいやつだ。

 お人好しで、少し馬鹿で、でも義理堅い。

 俺が出世を焦らぬ限り、あの人は俺の一番の味方だ。

 ――そして、その後押しで。

 俺とラインハルトは少尉に任官した。

 貴族社会の後ろ盾付き、恋人の伯爵家の影響も薄くない、フレーゲルの肝いりだ。

 望み通りの平穏とは言えない。

 だがこの瞬間だけは彼女の指が俺の手を握っていてくれる。

 甘く優しく揺らがない。

 蓮理のように絡み合った絆が、戦場よりも強い支えになる――

 そんな不思議な確信があった。

 彼女を愛しているのだろう。

 夜の帳の下で、髪をほどいて微笑む顔を何度見ても新鮮だ。

 眠りにつく前に「おやすみ」と唇を触れ合わせるたびに、

 俺のどこかが、確かに彼女に染まっていった。

 だが現実は残酷だ。

 平民のキルヒアイスに、伯爵家の妹を娶る資格などない。

 帝国の法と社交界の掟が、俺と彼女の間に透明な壁を立て続けている。

 彼女は何も言わない。

 いつものように笑い、紅茶を注ぎ、両手を伸ばしてくれる。

 だからこそ余計に苦しい。

 下級でもいい。フォンの称号を得られれば形の上では並んで立てる。

 そのためには――出世が必要だ。

 戦場に出て武勲を立て、閣下や彼女の家の顔を立て、憎いほどの功績を奪い取ってこなければならない。

 それがどれほど胃に悪いか。どれほど危険か。

 俺自身が一番よく分かっている。

 本音を言えば、そんなものはいらなかった。

 フォンなど要らない。

 肩書も、家名も、後ろ盾も、何一つなくていい。

 ただ、二人で。

 この手を離さず、生きていければ良かった。

 帝国の重力が、俺の胃袋と、彼女の柔らかな夢をゆっくりと押し潰していく。

 それでも、笑わなければならない。

 彼女が「誇りに思ってる」と言ってくれるうちは、この笑顔を曇らせてはならない。

 俺は帝国軍少尉。

 平民出の少尉。

 いつかフォンを名乗るその日まで、笑って戦場に立つしかない。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。