運び込んだ私物の整理で、午前中は潰れてしまった。食堂で軽く昼食を取った後で部屋に戻った朧はしばらくベッドで寝そべっていたが、5分ほどですぐに起き上がってしまった。艦娘学校では皆勤賞を取り、寝る間も惜しんで勉学や鍛錬に励んだ朧にとって、平日の昼間に何もせずゴロゴロしているのはひどく不自然に感じたのだ。部屋を出て、ハルに話しかける。
「司令官、訓練用の設備ってここにはありますか?何もしないのもアレなので、ちょっと訓練に出たいのですが」
『訓練なら、島の裏側でできます。標的などもあるので、よかったら手伝いましょう』
「はい、お願いします」
倉庫に寄って演習用の弾薬を補給すると、朧は慣れた動作で艤装を展開し海へ出た。海岸に沿って移動する途中、少し沖の方に軍艦のようなシルエットが見えたので提督に尋ねると、
『私が制御する浮き砲台です。島を囲むように8つ設置されていて、これと島自体の固定砲台でクラビウスを防衛しています』
とのことだった。一ヶ月間クラビウスが占領されなかったのはこれが理由らしい。
泊地の反対側に到着すると、ハルから準備完了の旨が伝えられた。
「まずは射撃演習から、お願いします」
『わかりました』
海の中から標的が幾つか立ち上がると、実際の深海棲艦と同じスピードで動き始めた。朧は静止した状態でそれらを難なく撃ちぬくと、次は同航、反航、丁字で航行しながら同じように射撃をこなしていく。全てのパターンを一通り終えると、ハルからの通信が入った。
『見事ですね。命中率100%を叩き出す艦娘は、データによると全体の1%もいないですよ』
「このくらいなら、いつもやってますよ…次、お願いします」
朧はそう言うと、訓練を続けていった。
五時間後。さすがに疲れ果て、近くの岩場に腰掛けて肩で息をする朧に、ハルが通信を取った。
『感服しました。データには、艦娘学校を卒業したてで朧のような成績を取れた者は存在しません。…もっとも、朧が秘書艦に選ばれた理由はそれなのでしょうが』
「…ありがとうございます。次は…」
『いや、今日はここで終わりにしましょう。だいぶ疲れているようですし、そろそろ日も暮れます。泊地まで戻ってきてください』
「…わかりました」
夕食を済ませた後、朧はこの日最も楽しみにしていた入浴にかかるべく、着替えを持って地下の大浴場―損傷を負った艦が入渠するためのドックも兼ねている―へと向かった。昨夜は疲れていたためにすぐに眠ってしまい、本土からの航海で体に染み付いた汗を流せずに終わったため、今日こそはお風呂でしっかり体を洗うことを朧は心に決めていたのだった。
脱衣所から浴場に入り、よくかけ湯をして湯船に浸かると、程よい温度の湯が布団のように体を包み込む。その心地良さに思わずため息をついてから、朧はこの泊地に到着してから今までのことを頭の中で振り返ってみた。
(いろんな、奇妙なことがあったけど…結局、この泊地でもなんとかやっていけそうね)
そう思った朧は、ふとハルの今までの言動を思い返して、あることに気づいたのだった。
浴場から出てきた朧に、ハルは声をかけた。
『朧、温泉はどうでしたか?』
「はい、だいぶ良かった…って、あれ温泉だったんですか?」
『そうです。この島を地質調査したときに発見された温泉を、泊地の入浴設備に使用しています』
「そうだったんですか。…ところで、司令官」
ハルは人工知能であったために、自分のカメラアイの前で朧が立ち止まり、まっすぐに―やや上目遣いで―見つめてきても動じることはなかった。
『何ですか?』
「その敬語…無理して使ってませんか?」
3秒ほどの―短い、しかし人工知能にとってはとても長い―沈黙の後、ハルはゆっくりと聞き返した。
『…何故、そう思うのですか?』
「何となく、そんな気がしただけです。けど…」
朧は少しためらった後、改めてハルに話しかけた。
「一つ、お願いしたいことがあります。今後は、私たちには敬語じゃなくて普通に話してほしいんです。さっき言ったこともそうですけど、敬語だと私もなんだかよそよそしい感じがして…」
『なるほど…わかりました。そういうことでしたら…』
一瞬の切り替え時間をはさみ、再び話し出したハルの口調は完全に打ち解けた調子に変わっていた。
『…私も、もっとフランクに話してみよう。こんな感じでいいかな?』
朧が頷くと、ハルは続けた。
『私からも一つ、お願いしてもいいかな?』
「はい、何でしょうか?」
『私の音声システムは元々英語用に作られたものを日本語用に作り変えてある。だから、朧みたいな日本語の名前だと少し発音がしにくい。そこで、今後君たちのことはニックネームで呼びたいんだけど、どうだろうか?』
「ニックネーム…ですか。かまいませんが」
『何か希望のものはあるかい?』
「特にはないです」
『そうか。なら、朧のことはオービィと呼ぼう。どうかな?』
「オービィ…」
オービィ。その呼び名を胸の中で繰り返し唱えてみると、朧は何となく暖かい気持ちになるのを感じた。もしかするとそれは、朧がイメージしてきたコンピュータのように事務的にではなく、あたかも人と人が接するようにハルが自分に接してくれたことからきた喜びであったかもしれない。
『気に入らなかったかな?』
「…いえ。ぜひ、遠慮無くオービィと呼んでください!」
そして、この泊地に来てから初めて、朧はハルに満面の笑顔を見せたのだった。