なりぞこないのシンデレラ Des Cendrillon Manqué 作:etis
薄月の夜に
折りゆきしことな忘れそ
石川啄木 「一握の砂」より
島村卯月。
New Generationのメンバー。
17歳。高校二年生。4月24日生まれ。
私は多かれ少なかれ、彼女のことを苦手に思っていた。
そしてそれはおそらく、お互いに。
New Generationのリーダーである本田未央は、私たちと交流を持とうとしてくる。さらに言えば、シンデレラプロジェクトのメンバーは総じてその傾向がある。
その例外が彼女だ。
彼女は、人に好かれる。
渋谷凛を引き合いに出すまでもなく、シンデレラプロジェクトのプロデューサーもまた彼女に惹かれた人間の一人だ。
そのような、彼女が人を惹きつける力があるというのは事実である一方で、彼女は、人を愛するということについては、愛されるという才能とは不釣り合いなほどの素養しか持ち合わせていない。
そう。彼女は、人を愛するのがそんなに得意じゃない。
それは、周りの人間に対してもそうだし、自分についてもそうだ。
彼女の愛は誰に対しても惜しみなく降り注がれ、そしてそのせいで誰に対しても同じ程度大きさしかないように見えてしまう。彼女の愛は、大きすぎる。
そしてもっと大事なこととして、私は彼女と似たような者が、ある失敗を犯したことを知っている。
私の母親は、母としての愛を私に、妻としての愛を父に注いだ。
溢れんばかりのその愛は、大きすぎた。
彼女の愛は、溢れてどこかへと流れていってしまう。
消えてしまうかと思われたそれは、いつしか濁流となり、その濁流は私たちを破壊した。
私を、父を、そして母自身でさえも、その愛によって壊されていった。
彼女は誰もを愛するゆえに、愛とは何かを忘れてしまった。
彼女は世界の何もかもに対して恋をするゆえに、恋の情熱を置き去りにしてしまった。
なんのことはない、疲れ果ててしまったというだけのこと。
何かを愛する者は、その愛の源泉をどこに求めればいいのだろう?
自分の中に求めるのならば、それは無限の泉でなければならない。
人は、そのようなものを持つことはできない。
いつの日にか、彼女たちは自らすら愛せなくなる。
なにが愛かを忘れてしまう。
他人からの愛をねだろうとしない彼女が陥るその狭窄。
愛に順番を付けず、すべてを受け入れようとするがゆえの失敗。
見覚えがある。
だからといって、私にはなにもできない。
私はなにもしない。
なぜなら。
私は博愛主義者というものを憎悪している……。
街は来るキリストの誕生日を思い出す。
イルミネーションが駅の前や街路樹を飾り、人々はその下をくぐっていく。
今日の空は落ちてきそうなほどに重苦しい灰色で、ややもすれば雪が降りそうだ。
「さて、今度のクリスマスライブですが……、この二つの企画を提案いたします」
彼の目の前には執務机とそこに座る彼女、美城常務の姿。
そして抱えた二つの資料。
「一つは以前からお伝えしていたように、New Generationのライブ」
一つの資料を彼女へ手渡す。
それは彼の、凛と未央の、そして彼女を取り巻くものたちの願い。
しかし常務はそれに目もくれず、嘲るような笑いを彼へと向ける。
「君はまだ、彼女が戻ってくると信じているのか」
彼は間髪入れずに答える。
「もちろんです」
「そうか。理解できないのならば、理解できるまでやりたまえ。で、もう一つは? 以前はなかったと思ったが」
「はい。急遽取りまとめました企画です」
そしてもう一つの資料を差し出す。
一瞥した彼女は訝しげた声をあげる。「城ヶ崎美嘉だと?」
「はい。城ヶ崎さんの担当は、今月末付で退職します」
「それは知っている。それで?」
「今回私が担当になるにあたり、このライブを彼女にとっての一つの区切りとして印象付けたいというのがモチベーションです。彼女がデビューして二年が経ちます。様々な分野の広告やドラマの活動を通して、十分に彼女の認知度は高まりました。そのため、ここで彼女にとっての一年、我々にとっての一年、ファンにとっての一年を振り返る機会を設けたいと思っています。幸い、城ケ崎さんはライブパフォーマンスが上手く、さしたる準備の手間もありません。想定する観客の数も、ソロライブ、しかも急なものですからあまり多くを想定してはいません。なので、純粋な意味でのファンサービスだと言えるでしょう」
「なるほど」
彼女は背を椅子に預ける。
「城ケ崎美嘉について、私は今なんの興味もない。好きなようにやりたまえ」
「ありがとうございます」
私はそう言い、頭を下げる。
「それでは、このように進めさせていただきます」
立ち去ろうと身体を翻した私に、声がかかる。
「君が一刻も早く、もう待つことなど、彼らに期待することなど無駄だと理解してくれるように願うよ」
言い終えた彼女はすでに私に興味をなくしたように目線をコンピュータの画面に向けている。
小さく頭を下げてから部屋を出て、扉を閉める。
「……そんな時は、来ない」
小さくつぶやく。
「来させない」
訪れたショッピングモールのフードコート。
あの一件から、私たちはしばしば予定を合わせて色々なところで遊ぶようになっていた。
このショッピングモールにみりあと来るのは初めてだけれど、莉嘉と来たことはある。
フロアを歩きまわって疲れたので休憩のためにアイスを食べていたとき、彼女は聞いてきた。
「美嘉ちゃん、今度ライブするって本当?」
「うん、やるよ」
「えー! やっぱり本当なんだ……」
「どうかしたの?」
みりあは眉をハの字型にして、困った様子を見せる。
「あのね、その日、ほら、ライブが重なっちゃうでしょう?」
「ああ……」
やっと得心がいった。
「ニュージェネ、だね」
「うん……だから、その、美嘉ちゃんのライブ、行けないかなって」
しょぼくれた様子でうつむく彼女に、私は温かい気持ちになる。
スプーンで自分のアイスをすくう。
「みりあちゃん」
「なに?」
「あーん」
「ん? あーん」
「美味しい?」
口の中で味わったあと、みりあはぽつりと言った。
「……美味しい」
「良かった」
私は嬉しくなってしまう。
彼女の優しさに。
「アタシのことは気にしないで」
「でも」
私は首を横に振った。
「アタシはもう大丈夫だから。あの娘たちのところに行ってあげて。……あの娘たちにはみんなが必要だよ」
「美嘉ちゃん……」
「なにより、アタシのほうこそ申し訳ない感じなの」
「? どうして?」小首を傾げる彼女に、得も言われぬ庇護欲を掻き立てられる。
「今回のライブやる理由は、ある一人のファンの人のためのものだから」
「一人の、ファン」
「それは、誰よりも、みりあちゃんよりも、ニュージェネより、シンデレラプロジェクトよりも、そっちのほうがアタシにとっては重要なの」
だから、ごめん。
そう私は頭を下げる。
純粋に私にとってそちらのほうが大切だから。
目指したい高み、届きたい夢があるから。
あの人と。
顔を上げずにいると、みりあの声が聴こえる。
「美嘉ちゃん……」
そっとほほに押し当てられる手のひら。
顔を上げると、やはり申し訳無さそうな顔をしたみりあ。
「ううん、わたしのほうこそ、ごめんなさい。美嘉ちゃんは、シンデレラプロジェクトのメンバーじゃないんだもんね……」
「……うん」
違い。
二人の違い。
私たちは仲が良いけれど、この娘のことが大好きだけれど、みりあも私のことを好いていてくれるかもしれないけれど。
それでも、私たちの立場は、違う。
「みりあちゃん、今までありがとう。けれど、今度のライブは、私のものだから。……私の戦いだから」
「美嘉ちゃん……」
「ニュージェネの三人も、戦ってる。私も、戦う。大切なもののために戦う。私は、あの人みたいに失いたくないから」
「それって」みりあは逡巡するように目を閉じて、顔をぐるりと回した。「楓さんのこと?」
私は目を見開いた。
「知ってるの?」
「梅雨のとき、部長さんが言っていたのって、そういうことでしょう?」
「……ああ」
「あと、楓さんとプロデューサーが事務所で出くわした時になんか様子が変だったって聞いたし……」
「なるほどね」と私はため息をつく。
そうだった。みりあはほんわかとした少女だが、意外と鋭い少女でもあるのだ。
侮ってはいけない。
「えっと……、違った?」
やれやれとおでこに手を当てて、諦めたように「合ってるよ。みりあちゃんの推測どおり」
「やっぱりそうだったんだ」
「それ、誰かに言った?」
「ううん……言わないほうがいいかなと思って」
「プロデューサーが言おうとするまで、言わないであげてね」
一応、必要はないだろうが釘を差しておく。
「うん。わかってる」
「ありがと。みりあちゃん」
ふと目線をしたに下ろすとアイスが溶けている
「わっ、アイスが」
「急がなきゃ」
そうして二人黙々とアイスを口に運ぶ。
食べ終わり、アイスの入っていたカップを机の上に置く。
「ふぅ、口の中が冷たい……」
「暖かいお茶でも買ってこようか?」
「ううん、大丈夫。それより……」
彼女の瞳は真剣味を帯びている。
「な、なに?」
だが、その力はどこかへと発散されて、
「ううん、なんでもない」
彼女の瞳は、いつもの丸みを思い出す。
その瞳の力の意味を考える前に、彼女が立ち上がる。
「ねえ。次はどこいこっか」
「え? うーん、どうしようかな」
手を取られて、困ったように笑顔を浮かべながら私も立ち上がる。
そうして、彼女の瞳を私は忘れる。
一人でここに来るのは久しぶりだ。
少し前まで、自分が使っていた部屋。セクシーギャルズの三人に加えて北条加蓮と神谷奈緒が、この部屋を使っていた。
再編成の後、この部屋を使う部署はなくなったらしい。
がらんとした部屋の中には、家具もなにもない。
電気もつけないで部屋の中に入ると、静けさが沈滞している。
部屋の中心のあたりまで進んで、窓の外を見る。
景色は変わっていない。
夜と昼の比重が変わり、空という天秤は黒に傾き始める。
それでも、人々は暖炉の火に集い、冬をあたためるはずだ。
左足を引いて、身体を窓の方から直角に回転。
ソファの置かれていたあたり。あそこに座っていた美嘉を後ろから覗きこんでいた時、唯に押されて彼女の横に転がり落ちたことを思い出す。
もう一度反時計回りに九十度。
部屋の入口。彼女たちの初めてのライブの日。終わった後一人だけ戻ってきた美嘉が悔しさに泣き崩れたのはそこだった。それが、彼女の涙を見る最後の機会だった。あれから、彼女は泣かなくなった。それは強さだったのか
もう一度。
壁際の棚があったあたり。そこに置いていた電気ポットから二人でコーヒーを飲んでいた。いつも彼女は砂糖を一杯だけ入れて、ミルクは入れなかった。
もう一度。
大きな窓のそば。二人ずっと無言で夕焼けから夜に変わりゆく街を眺め続けたこともあった。無骨なビルの外壁に体温を与えていた太陽が隠れて、街が死んでいくようだった。それでも、隣にいた彼女は、暖かかった。
今立っているあたり。デビュー一周年くらいになって訪れた地方巡業の土産物屋で、なんとなく買ったプレゼント。鈴が着いた飾りっけの薄いストラップ。飾りとしては趣味に合わないけれど、と苦笑いしながら、音色だけは綺麗だね、と彼女は言った。
思い出すことは、そんなことばかりだ。
俺があの少女のことを少なからず思い、想っていることは、明らかだ。
それが、許されないことであるし、なにより自身がそれを許しはしない。
だから俺はここを離れる必要がある。
自分自身を崩壊させる、その熱から。
崩壊から生まれる熱は、崩壊を早めてしまうだろう。
「早かったね」
聞こえた声に俺は振り向く。
逆光で表情はよく見えない。
「唯……」
「久しぶり。プロデューサーちゃん」
彼女は覚えている様子そのままだった。
部屋の中に入ってくる足取りは軽い。
それでも、言葉だけは軽くなかった。
「元気だったか」
「元気だったよ。プロデューサーちゃんと違ってね」
「違いないな」
お世辞にも今の俺は元気とは言いがたい。
目の前で立ち止まった彼女。
トレードマークのキャップはしていない。ヴィヴィッドな彩色の服装。シャツにパーカー、ホットパンツ。スニーカーだけはよく見える。赤い色。
「お前、寒くないのか」と聞くと、
「女の子だからね」
大丈夫なんだ、と笑い混じりで返ってきた。
俺は苦笑する。
「なら仕方ないな」
「プロデューサーちゃんは、寒くないの?」
「俺か? 俺は……ちょっと寒いな」
「そうだよね。ねえ、行くのはいつだっけ?」
「年開けたらすぐだよ……」
俺は、背広の中を探り、小さな紙片を取り出す。
「今度の仕事の連絡先だ」
唯はそれをおとなしく受け取る。
「……美嘉ちゃんにはこれ、教えてあげたの」
「いいや」
教えていない。
小さな声で言い添える。
そうすると、唯もまた小さな声で言い返す。
別に。
「別に、怒ってるとかじゃないんだけどさ」
「ああ」
「唯にも、思うところはあるんだよ?」
「……ああ」
俺はうなずいた。
だが、続く彼女の言葉は予想外だった。
「美嘉ちゃんのことだけだと思ってる?」
何も返すことができず、濁すように自分の喉から呻くような声が出る。
「やっぱり、そうだった」
唯は、俺を中心に時計回りに移動し、反対側で足を止めた。
今度は、俺の影で彼女の顔が見えない。
「プロデューサーちゃんさ、里奈のこと、見に行ったりした?」
「いや、行ってない」
「……こっちも、Kroneも一度も見に来なかったよね」
「そう、だな」
「Kroneの美城常務ってさ」
くるりと方向転換して、今度こそまったく彼女の顔もなにも見えなくなる。
「すごい人なんだ。唯だってアイドルとしてけっこう頑張ってきたつもりなのに、文香ちゃんみたいな娘を探しだして、デビューさせちゃうんだもん」
「文香……、鷺沢文香か」
「うん。あの娘を見つけ出して、トライアドを結成させて、アーニャちゃんもシンデレラプロジェクトから連れて来て……」
「唯だって、俺のとこじゃできなかったことができた。わかっているさ、常務の凄さなんていうのは……」
自らの力のなさ。それは、よく知っている。
壁を蹴り破れるような、鋼鉄の扉を破砕できるような腕力があれば、俺はここに残れた。
そんなことは、そんな夢想は、幾度と無くした。
「でもね」
「え?」
後ろで組んでいる手が、きつく結ばれる。
「唯たちのこと、見ようともしないんだ。唯が常務と顔を合わせたのって、たぶん十回もなくて、あの人、なに考えてるかわかんない」
「常務は、そういうやり方なんだろう」
「……唯は、あんまり好きになれないな」
「じゃあ、どうするんだ」
「そんなの、決まってるよ」
唯がまた方向を帰る。
廊下の光が、肩越しに彼女を白くする。
「唯は、常務のこと好きになれないけど。Kroneにいる。Kroneで、続ける。好きになれないけど、見てるものは多分同じだから。信じてみたいって思ったから。でも、じゃあ、美嘉は? 美嘉は、誰を信じるの?」
「美嘉は……」
「里奈も、新しい居場所を手に入れた。プロデューサーちゃんも新しい居場所を手に入れる。でも、美嘉の居場所は、プロデューサーちゃんがいなくなったらなくなっちゃうんだよ?」
「美嘉なら、美嘉ならもう大丈夫さ」
欺瞞だ。
薄く微笑む。
唯が? 俺が?
「俺がいなくても、美嘉ならやっていけるさ」
「そうかもしれない。そうかもしれないけれど。ねえ?」
あなたは、どうなの?
その言葉はコーヒーに注がれたミルクのように、姿を消す。
それは、一瞬のこと。
「俺が?」
「そう、プロデューサーちゃんは、どうなの? 美嘉がいないところで、やっていけるの?」
「そりゃ……、そりゃ当然だろう。お前は忘れてるかもしれんが、俺は何人もプロデュースしてきたし、いろんな仕事をしてきたんだから」
「けど、ここ何年か美嘉とずっと一緒に仕事をしてきたんでしょう?」
「それはそうなんだが、別にだからと言って……」
俺は苛立ちながら言葉を返した。
「だからといって、美嘉がいなきゃ仕事ができないなんて言うわけないだろう」
唯は、その言葉を聞くと大きなため息をついて、肩をすくめた。
「ねえプロデューサーちゃん。これはプロデューサーとかそういうの抜きにして答えて欲しいんだけど」
「なんだ」
「ある女の子がいます」
「ああ」
「その女の子が好きな男の子がいます。そしてさらにその男の子も女の子が好きです。さあ、ハッピーエンドになるとしたらどういうもの?」
「当然、二人がくっつくんだろうな」と、ここまで来て俺は思い至り、「待てよ、美嘉がそうだったとしても、俺はその気はないぞ」
「プロデューサーちゃんが美嘉に気がないとしても、ねえ?」
猫のような目をして唯が聞いた。
「気がないなら、なんで美嘉に言わないの?」
「それは……」
言うべき本音など、もとよりない。
言える建前をなくし、俺は立ちつくす。
ただ、適当なごまかしをすればよいだけなのに。
俺は、何を遠慮しているのだろう?
だが唯は俺が何かを、それこそ何かを言い出す前に追求を止める。
「ま、なんでもいいよ」
それは、俺がどうでもいい建前に逃げることを妨げるように。
「え……」
「別に、プロデューサーがなにを考えてても、唯はいいんだ。今日の唯は、メッセンジャーだからね」
「メッセンジャー?」
「シンデレラプロジェクトのプロデューサーと、美嘉から」
そう言うと、さっきとは逆に唯が紙片を手渡してくる。
「美嘉とあいつ? なんだって言うんだ……」
広げられたそれには、城ケ崎美嘉クリスマスソロライブと書かれていた。その日付は当然、クリスマス。
「こいつは……!?」
どこでやるのかと目を走らせる。
高垣楓のファースト・ライブの場所。
そして……美嘉にとっての初舞台でもあったライブハウス。
紙片から顔を上げると唯の笑い顔が見える。
「ちなみに、二人は当日までプロデューサーと顔を合わせるつもりはないし、会ってもなにもいう気はないってさ」
笑っている唯に、俺はなにを追求しても無駄だと悟った。
「……こういう時、いたずらをしているときのお前の口は、堅いからな」
唯は変わらず微笑みながらうなずいた。
「唯からは、もうこれでおしまい。あとは、プロデューサーちゃんの番だよ。そのライブ、行ってあげてね」
「わかったよ」
結果は、変わらないと思うけどな。
そう吐き捨てながら俺は部屋を出る。
苦笑いしている様子の唯に、憤慨しつつ廊下を歩きながら、そういえば、と俺は思う。
今日、最後の最後まできちんと唯の顔を見ることがなかったな、と。
「あれ。唯、さんですか?」
私がそこを通りがかったのは全くの偶然だった。
使われていない部屋。
珍しく開いていた扉から見えた中に、見慣れた姿があった。
「ああ……文香ちゃん」
唯の顔は、ちょうど廊下の光が届かなくて見えない。
「唯さん、どうかされたのですか」
いつもと様子が違う。明るい声、明るい性格は、かくれんぼをしている。
「うん、ちょっとね」
何歩か部屋の中に入る。
「ねえ、文香ちゃん」
「はい?」
「前、踏み出さなかった後悔をしたくないって言ってたよね」
「ええ……それが?」
「唯も、踏み出した。踏み出したと思っていた……」
唯が懺悔のように言葉にする。
「けど、踏み出したつもりだったんだよ、文香ちゃん」
「えっと、どういうことでしょうか」
彼女は、私と会話する気がないのかもしれない。
ただ言葉を発したいだけなのかもしれない。
その証拠に、彼女は言葉を発するだけだ。
会話を、私に向けてはいない。
顔を、私に向けてはいない。
「もしかしたら、踏み出した方向を間違えたのかな……。けど、結局それでも踏み出せなかった後悔には変わりないか。だって、望んだ方向に踏み出せなかったっていうことだもん。うん、そうか、これが踏み出せなかった後悔なんだ」
「あの、唯さん?」
「文香ちゃん。唯は、唯には好きな人がいたの」
いた。いた、という言葉の表す意味。
「けどね」
唯は、過去に向かって話している。
「友達もその人が好きで、その人も友達が好き。その友達は、親友で、私はその親友のことを、好きな人と同じくらいに大好き」
自らの過去に向かって。
「だから、唯は」
「唯さん!」
私はいてもたってもいられず、唯さんに近づき、抱きしめる。
「……文香ちゃん」
「唯さん。私は、その、何も言えませんけれど、言えることがありませんけれど、でも……!」
抱きしめたその身体は、どれくらいこの部屋にいたのか、冷えきっている。
「唯さん、私は、あなたのことを大切に思っています。だから、でも、だから……!」
私はなにも与えることができない。
好きな人からの愛を与えることも、友達との親愛も。
「私は、唯さんの後悔がどんなものなのか知りません。それが、どんな人との関係なのかも、どうしてそんなことになってしまったのかも、なにも知りません。私は、あんまり人と話すのが得意ではありません。私にはなにもなくて、なにもできなくて、なにも知らなくて……」
本当の人とふれあうことが、こんなにも悲しいことだなんて知らなかった。
唯さんの心の痛みを、他人の痛みを、自分がこんなにも共感できるなんて知らなかった。
気づけば、私の声は、涙色をしている。
「けど、唯さんは私と、友達になってくださった……!」
本当の友人と抱き合うことが、こんなにも温かいなんて知らなかった。
唯さんへの想いが、こんなにも伝わらずもどかしいなんて知らなかった。
「私があなたを大切に思っていたところで、なんの足しにもならないと、わかってはいるんです。でも、それでも!」
私の腕の中で、ずっと横向きに立っていた唯さんが私のほうに身体を向けた。
「唯さん」
光が横から彼女の顔に差し込む。
唯さんは泣きはらした顔で、それでもうっすらといつものように笑う。
「ごめん。ありがとう」
そういって、唯さんは私の背中に腕を回しました。
目をあわせることはできませんが、身体のあたたかさはわかります。
私は祈りながら、目をつむる。
力強く彼女を抱きしめて。
彼女を心配する心が、この熱が彼女へと届くようにと。
私たちはそのまま、数分か、数十秒か、抱き合っていました。
「……文香ちゃん、もう、大丈夫」
身体を離したとき、唯さんは恥ずかしげに笑っていました。
私も、なんだか熱血なことを叫んだような気がして、恥ずかしい気がして顔が赤くなっていると思います。
でも、あれが本音だから。
「唯さん、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫、じゃないけどさ。うん、でも。大丈夫」
彼女は弱々しく、けれど、少しだけいつものように笑っていました。
「大丈夫だと思って行かないと、なにもできないからね」
「唯さん……」
たぶん、私の行動は何も解決していないんでしょう。
そんなことはよくわかっています。
それでも、何かをせずにいられない。誰かのために心を砕きたくなる。そういうことを、私は知らなかった。本の中でそういうことを書かれていても、自らの心の形としてそれを間近で見つめたことはなかった。
始めた目の当たりにしたそれは、真っ赤で、いびつな形をしていました。
でも、それは誰かの心へと届こうとする、誰かを救おうとしている、優しい想いでした。
問題も解決できなかったこの想いに、何ができたのでしょう?
そして、私自身になにができたのでしょう?
唯さんが、もう一度私に向かって言ってくれます。
「ありがとう、文香ちゃん」
わかりませんが、ただ、今はこれでよかったのだと信じています。
変だな。
こんなにも緊張しているだなんて。
初めてのライブのことを思い出す。
あのときと同じくらいに緊張しているだろう。
手のひらにかいた汗はぬぐってもぬぐってもまた出てくる。
衣装の小さなほころびすらも、糸が少し、本当に少しほつれているだけでも駄目だ。
髪の毛の流れはこれでいいだろうか。不自然なところはないだろうか。
私は、今までで最善の私だろうか。
初めてのライブのとき、私はそのときの自分の最高を出せたと思っている。
それは、今の基準からしたら拙いものだった。
それでも、そのときそのときの最高を出せるかどうか、それが重要なんだと彼は言った。
その言葉を、私は信じている。
今日は特別な日だ。
いつもよりも早く寝ようとした昨日は、結局寝付けなくていつもより遅くに眠りに落ちた。
朝も普段通りに学校に行くよりも早く起きて、妹の莉嘉が起きるよりも早かった。
家の中はまだ静かで、親も寝ている。
暇を持て余して、家の周りを散歩した。
いつもと違う日でも、世界は普通だった。
特別な日であっても、変わらず冬の寒さがコートの向こうから襲ってくる。
そこにあるのは、いつもどおりの朝だった。
今日はクリスマス。
私の、何かが終わる日。
だから、睡眠不足で疲れているはずなのにそんな気はまったくしなかった。
学校は、今日は短縮授業だ。午前の授業だけで終業。口々に愚痴をこぼす学友たちを無視して私は一目散に走りだす。教師に怒られても今日の私は止まらない。
あの日も、そうだった。
初めてのときも、浮足立って私はライブの始まる何時間も前に現場に着いてプロデューサーに呆れられた。
今日は、そうならない。
プロデューサーは、私のそばにはいない。
そうだ、あの人は私のそばにはいない。
それがたまらなく悲しく、寂しい。
けれど、戦っているのは私一人じゃない。
シンデレラプロジェクトのNew Generationの三人も戦っている。何があったのか、よくはわからない。それを聞き出すこともできない。けれど、卯月ちゃん――島村卯月――が、戦っているものはよく知っている。
それは、自分という虚像。
心の中にだけ現れる幻想。
実体を持たない肖像。
私には、どうすることもできない。ただ祈りの一言を星形のメッセージカードに託すだけだ。
けれど、戦っているのは私一人じゃない。
それは、それだけでも嬉しい。
私は先達として、彼女たちを超えなければならない。
それが先達としての義務であり、そして早くにこの道へと進んだ者の権利だ。
私は、負けたくない。
私は負けない。
あの人がいなくなるのは、いやだ。
あの人がそれを望むなら、仕方ないかもしれない。
あの人が、私と進みたくないのなら……。
そんな弱音も、ある。
それでも。
そんなものは、認めない。
ライブの会場の後ろのほうに陣取っているスーツ姿の男性、というのはやはり目立つのだろう。
スタッフでもないのにスーツを着ている俺に対してのファンの視線は、結構冷たかった。
城ケ崎美嘉のファンっていう同じ穴のムジナなんだから、仲良くしようぜ、と音もなく胸の中でつぶやく。
告知が突然だったにもかかわらず、小さなインストアのライブハウスは人の熱気で蒸し暑いくらいだった。
このぶんだと、チケットは完売だろうな、とポケットに入れた右手でチケットの半券に触れる。この箱の使用料はあれくらいで、人件費はこれくらいで、機材の費用が、というところまで考えて、自分に対して苦々しく思い、そして同時に呆れた。プロデューサーという仕事が染み付いてしまっているらしい。
「なーに笑ってんの。プロデューサー」
「おっと」
いきなり頬につきつけられた何かに驚いて振り向く。少し薄暗い環境でその女性の明るい髪の毛がよく映えたが、目元は彼女が付けているサングラスのせいでよく見えない。
けれど、そんなことは関係ない。俺にはわかった。
「唯か」
「あったりー」
飴ちゃんあげる、と彼女はつきつけていた飴を手渡す。
「お前も来てたんだな」
「まあね。あたしとしても、見なきゃいけないかなって。いろいろとケリつけたいし」
「ふうん?」ケリ? 何の話だ?「まあ、よくわからないが。とりあえず俺の周りにいると目立つぞ」
「ん? どうして?」
「いや、スーツだから……、と思ったがお前のほうが目立ってるな」
金髪のソバージュで、しかもデニムのホットパンツで惜しげも無く足をさらけ出している彼女は、先ほどの俺なんかよりはるかに目立っていた。アイドルとしては当然なのだが、少しは自分の容姿の良さを考慮して行動してほしいものだった。サングラスが、考慮した結果なのだろうが。
「へっへっへー、アイドルだからねー」
「そのサングラス、外すなよ?」
「もちろん、面倒はやだからね」
唯は、そのまま隣の壁にもたれかかる。
「里奈は、来ないのか」
「里奈ぴょんは来ないよん。邪魔したくないんだって」
「邪魔? 誰と、誰の?」
そう聞くと、唯は身体を起こす。
もったいぶるように俺の目の前にまで歩いてきて、サングラスを下にずらす。
「お、おい……」
「ね、プロデューサー」
上目遣いで見つめてくる。胸元が緩いせいか、下着が見えそうだ。
こんなふうにいたずらをされたことも、前はよくあった。けれど、今日の様子はなにかおかしい。
そういえば。
今日、俺のことをプロデューサーちゃんとは呼んでいない。
「終わったら、ちょっと話があるんだ」
「あ、ああ」
「社員証、あるでしょ? 後で裏に来てくれない?」
「……真剣な話、なのか?」
彼女は答えないで、ただ顔を歪めるだけだ。
笑っているような、痛みをこらえているような。
身体を起こして、彼女はサングラスをかけ直す。
「じゃ、また後でね。あたしは前のほうに行くから」
「ああ」
後ろ姿が闇にまぎれていく。
そろそろ、ライブが始まるか。
腕時計を見ると、開始時間が迫っていた。
ライブは完璧だった。
シンデレラプロジェクトのプロデューサーに美嘉のことを託したのは、やはり正しかった。
人の波に押されてライブハウスの外の廊下に出る。
少し外れたところにある楽屋裏へのドアのあたりは自販機も置かれていて、人通りがすくない。そこまで出てから唯を探そうと思うが、いまいち人混みがひどくて動きにくい。
そうしていると、スーツの裾が引っ張られた。
「プロデューサー」
「唯」
どうしたものか、困ったがとりあえず唯の腕を掴んでみる。
唯は少し驚いた顔をする。
少しずつ身体が近づく。
そして、人の流れから抜けだそうともがく。
細い腕だ。
美嘉もそうだったが、こんな細腕であんなライブをできるのだから、彼女たちは強い。
俺は、結局逃げるわけか。
そんなことが千々に頭をよぎる。
やっと人混みをかき分けて、出られそうだというところ。
唯が、勢いをつけすぎたせいか、俺の背中に抱きついてくる形になる。
「おい、唯……」
掴んでいた手を離して、俺は無理矢理に唯のほうに首だけを向ける。
「ね、プロデューサー」
それは、小さな声だった。
ライブで大きな音を聞いたあとだということを差し引いても、聞こえづらかった。
唯は汗をかいていたらしい。
俺の手のひらが湿っている。
サングラスを外した彼女は。
彼女は。
何かをつぶやいた。
「ねえ、プロデューサー」
「なんだ、唯」
離れろ。ひっつくな。暑苦しいぞ。
そんなじゃれあいのつきあうような言葉が生まれては、死んでいく。
ゼロとイチのあいだに、俺たちはいる。
そう思っていた。
曖昧でない言葉は、すべてを破壊するから。
「プロデューサー」
「唯」
汗だと思っていたそれが、なんなのか。
「プロデューサー」
「なんだ」
そうか、もしかするとあいつもこんなことを思ったのかもしれないな。
数年後俺はこの時をどういうふうに想い出すんだろうか。
どこか、崖の上から見下ろすような感覚。
自死を望む、敬虔な気持ち。
「プロデューサー、あたしは」
「唯」
あなたのことが、好きです。
唯が、つぶやいた。
誰に言うでもなく、俺に言うでもなく。
瞬間、瞳から涙がこぼれた。
ずっと泣いていたのだろう。
俺の心がどちらを向いているか知っている彼女は、泣いていたに違いない。
俺と、ステージ上の美嘉の中間で、彼女ははしゃぎながら泣いていたのだ。
汗と涙を腕で拭いながら、ライブの高揚感におぼれていたのだろう。
それが、自らの恋を徹底的に破壊するものだと知っていても。
彼女が顔を歪めた。
俺は、その歪め方に見覚えがあった。
さっきも、ライブの前にも同じ顔をしていた。
それよりもっと前、俺と美嘉がじゃれていたときによく横目で見た顔。
俺は、いたずらを楽しんでいる顔だと思っていた。
俺たち二人を見て、笑っているのだと思った。
違った。
歪んでいただけで、笑ってなどいなかった。
「俺は……」
彼女は首を横に振った。
「さよなら」
なんの未練も後悔もないかのように、唯は俺の腰に回していた両手を解いて、人混みにまぎれていく。
それは瞬く間のことだった。
引き止める暇もなく、引き止める勇気もなく。
どっと力が抜けて、俺は壁に倒れる。
呆けたように流れていく人を見つめる。
歩いて行く人々の服装。
今は冬だ。
自分がずっと抱えていたコートのことを思い出す。
コートの毛羽立ちが手のひらを削る。
俺は、唯のことを。
同じ言葉だけが頭の中をこだまする。
答えもなく、質問にすらならず、言葉だけが意味もなく。
いつの間にか、人だかりは消え去っていた。
かすかに甲高い鈴の音色。
楽屋裏からドアが開き、人影。
なぜ、この音にだけ俺は反応したのか。
ああ、そうか。
聞き慣れた音。
当然だよな。
また、同じ鈴の音。
「よう」
「プロデューサー……!」
ここで会うとは思っていなかった。
俺はストラップを指差しながら、
「まだ、そのストラップ付けてるんだな」
「うん」
コートに見を包んで、帽子を被った彼女が鞄に付けられたストラップを、他のストラップの間から上に持ってくる。
「これは、あなたがくれたものだから」
素直な、好意の言葉。
俺はそれに答えるわけにはいかない。
愛おしそうにそんなに心を向けないでくれ。
「美嘉、俺は」
「ダメだよ。プロデューサー」
「え?」
近づいてきた彼女の頬は、まだ少し上気しているように赤い。
美嘉はさっきの唯のように上目遣いで言った。
「今日はクリスマスなんだから」
デート、しよ?
外に出るとあたりには夜が舞っていた。
たぶん、上空からこの街を見たらば、ビーズのような輝きが散らばっているのだろう。
その中から、一つの欲しい輝きを見つけ出すことは大変だ。
それはまるでじゅうたんの上にビーズをこぼしてしまったときのような徒労感。
「今日は、ニュージェネもライブするんだよ」
「……そうなのか」
「ちょっと今から行っても間に合わないけれど、別にいいよね」
「……別に、いいんじゃないか」
美嘉がプロデューサーに話しかけても、会話が続かない。
わかっていたことだ。
こんな気持ちになるなんて。
二人、口を閉じて黙々と歩く。
街はクリスマスに染まっている。カップルの姿も多い。目の前を大学生くらいの男女が恋人繋ぎをして通り過ぎた。楽しそうな笑い声が、後ろに流れた。
ちらりと美嘉がプロデューサーの顔をうかがう。
いつもどおりの、怒ったような、笑ったような表情。
目線を戻して、また歩くことに集中する。
ブティックの店頭で、聞き覚えのあるクリスマス・ソングの一小節を耳にした。
私がクリスマスにほしいのはあなただけ。
確かにそのとおりだ。こんなにも歌に共感を覚えたのは、初めてかも知れない。自分の持ち歌だって、ここまで心を注いだことはない。
駅までは十分とかからない距離だ。
普段のように改札機を通り抜けて、電車に乗る。
時間帯のせいか、車内は混み始めていて二人はドアの前に立って乗ることになった。
プロデューサーは彼女のことを隠すように自然と位置を取った。
電車に乗るときに彼は大抵彼女のことをかばうようにしていた。美嘉はそれを思い出した。
普段より近い距離から、彼がささやいた。
「で、結局どこに行くんだ」
「ん。秘密」
彼は憮然とした表情で美嘉を見つめるが、美嘉は何も答えずに目を閉じてしまう。
その後、電車を乗り換えて、ある駅にたどりつく。
「ここは……」
彼がつぶやく。
降りる人々はみな、カップルばかりだ。
改札を出て駅舎を出る。すると、観覧車が遠くに見えた。
ゆっくりと、回っている。
海が近い埋立地。建物はぽつぽつとしかない。
それでも、いろいろな光が世界を明るく染めていた。
心臓が早鐘を打つ。
「さっ、行こっ」
プロデューサーの腕をとり、私は歩き出す。
ここには一回下見に来たことがある。それは一年くらい前のはなし。
私が、彼に告白をしようとしていたとき、彼が私を受け入れるつもりがないと知らなかったころのこと。
目的の場所は、駅からそう離れていない。
彼の身体に密着するように、彼の体温を感じられるように。
そんなふうに身体を押し付けるようにしても彼は何も言わない。
そう。この態度が悪い。
私を受け入れないといいつつ、私を拒まないこの態度が。
それは換言すれば彼の優しさであり、彼の愚かさであり、彼の甘さである。
希望がないのであれば、そう言って欲しかった。
希望がないのであれば、私を拒絶して欲しかった。
そして、もっと言えば。
希望がないということを忘れていた自分。
拒絶されないということを免罪符にすがりついた自分。
それが、今のこの状況をつくりだしたのだ。
幅の広い橋。
埋立地の間にかかった大きな橋の上。
たくさんのカップルが、デートを楽しんでいる。
そんな中、カップルではない、なりきれていない、なれない私たちが歩いて行く。
舗装のブロックに、ヒールと革靴が音を立てる。
私たちは、ここにいるのだと。
ぴたりと、彼の足が止まった。
一瞬遅れて、私も足を止める。
そしてそのまま身体を離す。
自然と二人は向き合った。
久しぶりに見た彼の顔は、やつれたような気がした。
「……行く準備、忙しい?」
「……ああ」
街灯の光が、彼の顔を照らしている。
私の顔は、見えているだろうか?
「伝わった?」
「何が」
「私の気持ち」
去年あんなに考えた告白の言葉は、もうなんの役にも立たなかった。
聞かれて、彼はこともなげに言った。
「知ってた」
「うん、そうだよね」
大きな深呼吸を一つ。
恐ろしいほどに早かった心臓が、嘘のように落ち着いている。
ざあ、と血液が流れる音が耳に聞こえる。
そうか、心臓の音がわからないくらいに私は緊張しているのか。
ぎゅっと握りこんだ自分の両手が冷たいことしかわからない。
力が入りすぎて、白くなっている。
まるでステージに上がる直前のような。
ひとつ前の演者のパフォーマンスがいつまでも続いて、この緊張が終わらない。
けれど。
「プロデューサー」
もう何度も何度も想定を繰り返したこの状況。
彼の一挙手一投足すらもよく見える。
彼がどのように私の告白を断るかどうかすらも。
そして。
それを受けてなにを言うかも、決まっている。
「好きです」
彼は、思った通りに目線を外した。
そして、彼は予想した時間だけうつむいて口を開いた。
「……すまん」
もう、私の勝ちだ。
「唯からの告白も、そう答えたの?」
跳ねるようにして彼は顔を上げる。
苦しげな顔、後悔の溢れる顔。
「なぜ……」
「気づかないわけ、ないじゃない」
唯があなたのことを好きなことに。
「ユニットのリーダーの私が、そんなことにも気づかないわけないよ」
唯の気持ちに私は、なにも言わなかった、なにも言えなかった。
唯が彼を好きになってしまったことに気づいたのは、彼が私たちを受け入れないことがわかったあとだった。
それは、ある種の安心を、そして、仄暗さをも、もたらした。
「だったとして、だとして、なんでお前は……」
「けど」
まだなにか言おうとしてくる彼に、私は声をかぶせる。
「気づいてたんでしょう?」
彼は、苦しげな顔を消した。
今度こそ、彼の顔は感情を映さない。
彼のすべてをさらけ出させてやる。
「私の心も、唯の心も。気づいていたんでしょう? 気づいていて、見ないふりをして、なかったことにして、放置して」
このことに気づいたのは、私だけの力じゃない。
シンデレラプロジェクトのプロデューサーが言っていた。
本当の彼は、こんなことをするような人ではないと。
「放置して、無視して、投棄して、曝露して。私たちの心が擦り切れるのを待っていた」
卑怯なひと。
臆病なひと。
「本当はそんなつもりはなかったさ」
そして。
可哀想なひと。
「けど、他に方法がなかった。あの時期に、お前らをプロデュースできる人材はいなかった。俺がやめたら、自前でやるしか……、いや、これもただの言い訳か……」
「うん……」
「俺は、お前らの行先を自分の手で作りたかった、作れると思っていた。自分ならできると思っていた。俺なら、俺たちならゆける。目指すところへとたどり着ける。そう思っていた」
「そうだね」
あの頃の気持ちを思い出す。
「あの頃は、夢見がちの私たちだった」
「そうだ、だから、俺は、どこかで放り投げることを考えすらせず……」
凍りついた瞳をしている。
瞳に、ライトアップされた観覧車。
「だから、逃げるの?」
「……そうだ」
「私から?」
「ああ」
「唯から?」
「ああ」
「みんなからも?」
「ああ」
「逃げて逃げて逃げて、どこにたどり着けるの?」
「さあ、わからんが。たぶんどこかで野垂れ死ぬんだろうな」
彼は笑った。
ああ、これが本当の彼なのか。
何もかもを捨てた瞳。
諦めた瞳。
欲を捨てた瞳。
「もう、疲れたんだよ。俺は。愛すのも、愛されるのも、愛に気づくのも、愛に気付かされるのも」
だから、俺のことなんか忘れてくれ。
放っておいてくれ。
一人で、幸せになってくれ。
その言葉が、遠くにいる船の汽笛を鳴らす。
視線を二人がそちらに向ける。
同時に、風がふく。
その音が終わるのを待った。
もう、これ以上待つことはない。
「やだ」
「美嘉……」
「やだったらやだ」
あなたのことを、諦める?
そんなの私は、アタシは許さない。
「アタシは、やだ。あなたのことが好き。あなたが逃げるというなら地の果てまででも追いかける」
「アイドルはどうするんだよ」
「もち、トップアイドルとして成功しながら追いかけるに決まってんじゃん」
ふふんと腕を組み、笑う。
「なにを、言ってるんだお前は。そんなことできるわけないだろう」
「アタシのことを、舐めてるよね。プロデューサーって」
「舐めてなんか……」
「舐めてるよ。アタシのこと。アタシの思いを。それだけじゃない」
近づいて拳を彼の胸に押し付ける。
「あんたの心も、ほら、潰れて痛がってる」
「俺の……?」
「あんたはアタシのことを好きだから。それでどうしてこんなことをして辛くないって言えるの?」
「俺は、辛くなんかないさ」
「口だけならどうとでも言えるよ。それに、痛みっていうのは、慣れてしまえばないようなものだから。あんたは、忘れてるだけだよ。自分の心の傷を」
「俺は、辛くなんか」
「心の傷は、時間が経てば癒やしてくれるけれど、それは傷が深くならなければのはなし。今みたいに自分で自分を傷つけ続けているのは、遠回りの自殺だよ」
だから。
私は拳を外して、倒れこむようにして彼の耳元に唇を近づける。
渾身のリップグロス。
私の唇が、彼の顔の脇で小さな水音を立てる。
開いた唇から紡がれる悪魔のささやき。
ねえ。
堕落しちゃおうよ。
抱きしめた彼の身体は、想像よりも小さかった。
「アタシは、城ケ崎美嘉は、あなたのことが好きです。大好きです」
「俺がそれを認めちまうと、俺は今までなんのために頑張ってきたか、わからなくなる! 俺は、俺には無理だ」
「そうかもね。でも、どちらにせよ無駄だよ。遅かれ早かれ、プロデューサーはアタシのことを求める。目をそむけるでもなく、唯でもなく、このアタシを」
「……どうして、そんなことが言える?」
抱きしめていた手を、彼の顔にそっと添える。
くっきりと彼の顔が見える。
アタシの顔が瞳に映る。
観覧車のイルミネーションは、どこかに消えた。
「アタシのことをあんたが好きになるほど、こらえきれなくなるほど、感情を抑えられなくなるほどに魅力的だって、どうして不思議があるの?」
アタシの髪が海風にひときわ強くそよいだ。
「だって、アタシはあんたが育てたアイドルなんだから」
当然でしょう?
アタシはそう言い切った。
それに対して彼は、驚いた様子も見せずに、なにも言わない。
風が、また強くそよいだ。
彼の短髪は、風に揺れない。
その代わりに、距離のせいか彼の付ける香水の匂いがする。
アタシが、プレゼントした香水。
ビター・オレンジ。
彼は大きく息を吸い込み、ため息をついた。
「そうだよな。もともと、負けが決まってる戦いだったんだよな」
ポケットに入れていた手を出して、アタシの手を包み込む。
「なあ、美嘉」
「なに?」
「俺は、誰か他人に負けたわけじゃないさ」
「え?」
それってどういうこと、と聞こうとして開いた唇は。
「俺は、お前みたいな最高のアイドルを作った俺に負けたんだよ」
彼の唇に塞がれていた。