なりぞこないのシンデレラ Des Cendrillon Manqué 作:etis
このごろ思ふ
大いなる敵目の前に躍り出でよと
石川啄木 「一握の砂」より
数週間が経った。
なのに、あたしと加蓮の処遇は宙に浮いたままだった。
CDデビューの企画はすでに流されたと聞いている。
それを聞いた時にはすごく驚いたけれど、今では仕方ないのかもしれないと思っている。
そう思ったのも、いつも見ていた番組で担当だった346プロのアイドルが降板させられていることに気づいたからだった。
あたしたちは、会社の一員なのだ。上層部の意向には従う必要があるのだ。
その実感が、今更に湧いてきた。
今のところ書類的にはもとの部署の所属のままだけれど、それはすでに次の部署を決めた藤本里奈以外の大槻唯、城ヶ崎美嘉も同じことだ。
その二人が、今後もこの部署にいるかどうかは、わからない。
これまでずっと見慣れていた事務所入口の大きなポスターを下ろす作業が行われている。
あたしはそれを横目に、美嘉とプロデューサーのいる部屋、もう慣れてきてしまった小さな部屋に急いだ。
あそこに行けば、少なくともみんなはいるはずだから。
部屋の前の通路にさしかかったところで、私は見慣れない女性が二人の男性を引き連れてドアの前にいることに気づいた。
女性としては高い背をしていて、きっちりとしたスーツを着込んだ彼女は、まさしくデキる女といった風貌をしていた。
歩いてくる私に目線を向けた彼女は、何かに気づいたようにドアから離れてこちらに近づいてきた。
「神谷奈緒、だな」
「はっ、はい!?」
「私は346プロダクションの常務の美城という。今日は君と北条加蓮、そして大槻唯の三人に話があって来た」
「は、はあ」
「着いてきたまえ」
とりあえず、常務というのがどのくらい偉いのかよくわからないけれど、プロデューサーよりは偉いんだろうと思って従うのが得策か。
無言のまま部屋に入るとプロデューサーの他には、城ヶ崎美嘉、大槻唯、そして加蓮がいた。
「突然ですまない」と、まるで申し訳ないと思っているようには感じられない声音で彼女が言った。
「今回は君の部署のアイドルをスカウトしようと思ってね」
「スカウト……?」
美嘉が言った。
ちら、と常務は美嘉に目線を向けた。
「城ヶ崎美嘉。346プロからのデビューは一年と七ヶ月と十日前。渋谷系ギャルのファッションリーダーとしてのポジションを確立し、主な活動場所は渋谷、原宿など。ステージパフォーマンスは得意だが、一度アクシデントが起きると狼狽しやすい。CDや広告の売上は平均的……だったな」
美嘉は、顔をこわばらせた。
「君にはこの部署で引き続き働いてもらう。担当プロデューサーも同じだ」
一瞬喜色に染まった美嘉の心を、常務が打ち砕く。
「だが、方向だけは変えてもらう。ステージパフォーマンスがうまいことは評価するが、CDや広告での効率が悪いことは是正しなければなるまい。しかるに……」
「常務」
プロデューサーが言葉を遮る。
「常務。今日は、城ヶ崎美嘉の件でこちらにいらっしゃったわけではないと思いましたが?」
常務はプロデューサーを見据える。
彼は、常務よりも背が小さい。
それでも彼は真正面から目線を受け止める。
「……そうだったな。その件は君に任せよう」
そう言って、常務はあたし、加蓮、唯を順繰りに見据えた。
「大槻唯。君には、私が企画している新たなプロジェクトに参加してもらいたい」
「いいよー」
「えっ!?」
「そうか。では、大槻唯。君はわがプロジェクトの一員だ」
「そんな簡単に……」
口をさしはさむ暇もない。
「では、詳細はこの資料を読んでくれ。申し訳ないが、新たなプロジェクトはまだ始動していない。居室のほうはもう用意してあるが、まだ人員が集まりきっていない。あと一週間ほど待ってもらう必要がある」
「おっけー。りょうかいでーす」
「……では、失礼する」
ちょっと唯の言動に不機嫌になったのか、微妙に足音高く常務は去っていった。
唯が資料に目を通している間、プロデューサーも、美嘉も何も言わない。
一通り終わったのか、唯は立ち上がるとプロデューサーに近づく。
「一応挨拶しとくね? これまでありがと、プロデューサーちゃん」
そう言われて、彼は苦笑する。
「唯。その適当な挨拶は直しておいたほうがいいぞ。常務は怖いからな……」
「えぇ~? 大丈夫っしょ~。唯はきちんとソンケーは持ってるし~」
「ぜんっぜん信用ならねえ……」
「そんなことないし~」
軽妙なかけあい。
「唯さん、行っちゃうんですか」
あたしは、たまらず声をだす。
「うん。あたしは、たぶん行くべきなんだと思う。……ファンのみんなとか、には悪いけどね」
少し口ごもったのは、私たちのことを言おうか迷ったからだろうか?
「唯、別に気にするな」
「セクシーギャルズはもうないし、責任は、三分割だよ」
「えぇ~、3分の1なの~?」
「3分の1で嫌がるのかよ?」
「そりゃ責任なんていうのは……」
唯は、からからと笑う。
「自分ひとりで独占したいでしょ?」
あたしは絶句した。
これが、彼女の本質だったのか。
圧倒的なまでの欲望。
『成功』を、得ようとする渇望。
『失敗』を、誰にも渡さないという独占。
「美嘉、あたしは、もう逃げないよ。ユニットを組んだのは、楽しかった。ファンのみんなをたくさん楽しませることができた。けど……失敗だった」
「そう、だね」
美嘉は悲しげにうなずいた。
プロデューサーはなにも言わない。
「だから、あたしは行くよ」
「うん……、いってらっしゃい」
「ありがと。……プロデューサーちゃんも、じゃあね」
「ああ」プロデューサーは鼻息を漏らして、「ふん。行くなら行けよ、うちの美嘉に勝てるもんならな」
「大きく出たね……」
その言葉を聞いて、唯は楽しげに牙をむく。
「その言葉、忘れないでよね」
荷物を取り、彼女は部屋を出て行く。
そして、訪れる静けさ。
ひそひそとした声が聞こえてくる。
再編成が通達されてから二週間。事務所の中の空気は、あまり良くない。
レッスンルームの並ぶ廊下、自販機の立ち並ぶ一角のベンチに座り、二人の少女が話し込んでいる。
顔を近づけあっているけれどその意味もなく声はあたりにだだ漏れだ。
「ねえ、あのプロジェクトの話、聞いた?」
「え、どこの話?」
「なんて言ったっけかな。白雪姫じゃなくて……、そうそう、シンデレラプロジェクト」
「あたしが聞いた話だとあそこのプロデューサーがめっちゃやり手で新しい事務所立てるとか聞いたんだけど」
「はぁ? そんなの無理っしょ。というか、この会社に目付けられた状態で事務所とか立てられるわけないじゃん」
「あ、そりゃそうか」
「私が聞いた話だと、なんか新企画立てて、それがうまくいったらそのまま部署存続とか……」
「へー、そうなんだ。あたしたちのとこもそうしてくれてたらよかったのになあ」
「あ、そういうこと言ってるのがばれたら……」
「こら!」
「うひぃっ!?」
「ひゃっ!?」
肩を叩かれた二人が飛び上がる。
「じょ、城ヶ崎さん!」
「さ、さぼってないです! 休憩時間です!」
「あんたたち……」
怒られるのかと少女たちは縮こまる。
「そういう話は、外ではするな」
面倒見の良い気さくな人だと認識していた彼女の、真剣な瞳に少女たちは頷くしかなかった。
「は、はい」
「……わかったならよし」
身を乗り出していた美嘉は、身体を戻し、顔を緩める。
「そろそろレッスンに戻りなよ?」
「あ、はい。そうですね! し、しつれいします!」
「失礼しました!」
美嘉は二人がどたばたとレッスンルームに戻っていくのを見送る。
「やれやれ、といった感じだな」
「プロデューサー」
背後からの聞き慣れた声に、美嘉はぱっと振り返る。
「今見てる娘たちの調子はどうだ」
美嘉とプロデューサーの二人だけになった部署に、新人アイドルの配属はなかった。今後、状況が変わるまで二人は社内フリーランスのように時々新人アイドルのレッスンを見たりしていた。
「うん……。まあまあかな」
「そうか……」
「それと明日の広告撮影だが……」
「うん。明日の、広告ね」
ふたりとも、言葉の歯切れがわるい。
けれどどうしようもない。
今までの方向とはまったく逆と言っていいような、美嘉の新たな売り込み方。
大人っぽさをイメージした広告、タイアップする化粧品ブランドを、これまでのミドルからハイティーンズ向けから、大人びたい、大人に見られたいようなハイティーン向けのものに変更したのだった。
「ねえ、プロデューサー」
「なんだ」
「あの仕事、どう思う?」
彼は目線をずらす。
「……将来性のある、よい企画だ。さすが、常務のブレインが出した企画だよ」
美城常務は、海外のグループ企業での業務の後に346プロダクションの常務に就任した。その時、彼女は何人かの社員を参謀として引き抜いてきたのだった。
「ほんとにそう思う?」
「……思うさ」
「あたしが、ほんとにこの方向で、輝けるって?」
「……できるさ」
できない。彼の顔はそう言っている。
「信じて、いいの?」
常務を信じていいの?
――あなたを信じていいの?
彼は吐き捨てる。
「わかんねえよ……」
それきり、二人の間には何の交信もない。
目線が合うことはなく、自動販売機の音がしている。
秋の弱々しい光だけが窓のブラインドの隙間から二人を刺す。
よそよそしく、美嘉が言う。
「……じゃ、レッスンだから」
「おう……頑張れよ」
目線を合わせることなく、二人はそのまま別れた。
美嘉は去っていく足音に自分の神経が集中していることに気づく。
信じる人とともに、同じ方向を行きたいだけだったのに。
「……どうして、こうなっちゃったのかな」
涙だけはこぼすわけにはいかなかった。
アタシは強くなくちゃいけない。
「城ヶ崎美嘉のタイアップは、成果が上がっているようだね」
今西部長が常務に向かって資料を差し出す。
現在では彼が実務を取り仕切ることは少ない、古老のような立ち位置にいる。『美城グループ』の中核である『美城総合芸能事務所』の前社長、現グループ会長、グループの中興の祖と呼ばれた美城常務の父親との若い頃からの関係から、一種アンタッチャブルな存在となっていた。
「はい。でも、これはまだほんの手始め。……本当の改革はこれからです」
キーボードを叩く手を止めて差し出された書類を受け取る。
具体的な行動をせずとも、今西部長は影響力を与えることができる。いや、与えることができてしまうというべきか。彼に対して何かをしてもらうことは、誰にも、もちろん美城常務にも不可能なことだった。
「改革か……」
そんな彼が、なぜシンデレラプロジェクトのプロデューサーとの交友を持ち、今も常務と会話をしているのか。
常務にとって、彼は忌々しい父の代理のようなものだった。
邪険に扱うこともできず、彼女は節度ある対応をすることしかできない。無碍に扱ってしまうことは彼女に戦況を見る目がないことを表し、それは弱みだ。
「もう何度も言ったことだが、やはり、今回の再編成。……急すぎるのではないかな? 我が社にアイドル部門が出来てからまだ数年。各部署も、それぞれのやり方で成果を出し始めていたところじゃ……」
常務が立ち上がる。
「それぞれのやり方」
窓の外を彼女は見つめる。
「それぞれのやり方、そんなものは必要ない。私も何度も言ったはずです。アイドルの個性に合わせ、企画を立て、進行させていたのでは成果が出るのが遅すぎる。なにより、そんなやり方は美城の名に相応しくない。我々の使命は、どことも知れぬお姫様にもなるかわからない少女たちを拾い上げることではなく、私達の理念に見合った、美しい少女を探し当てることです」
これは彼女にとっての挑戦でもある。
海外で成功を収めた彼女が、日本でも、父の影響下であっても花を開くことができるか。
「できて数年と言えど、美城プロダクションは歴史ある総合芸能企業『美城グループ』の一部なのです」
その発言には、彼女の能力に対する自負も隠されている。
「アイドルたちの特性を伸ばす。大いに結構。しかしそれはあくまで、この会社にふさわしいものでなければ。アイドルの頂点という美しい城には、それに見合うお姫様を……」
言外に、私はあなたの指図など受けないという意図。
「私は、そう考えています」
そう言い切った常務に、
「……ふぅ」
やれやれと今西部長はこわばっていた顔を緩めて、笑った。
「頑固に育ったものだ。誰に似たのかな……」
「今の私を形作っているのは、これまでの私です」
「やれやれ。その言い草、まるで君の父上の若いころを思い出させるよ」
そう言うと、常務は不機嫌そうに眉をひそめた。
「その感情を隠そうともしないあたりも、よく似ているよ」
彼は言い残すとそのまま部屋を出て行く。
美城常務は、腕組をして、自分の怒りの感情をコントロールしようとする。
十秒ほど経ち、自分はもう精神を切り替えたという錯覚だけを頼りに、常務はやりかけていた仕事に戻っていった。
アイドルという虚像。
そいつを高値で買わせるためにゃどでかい投光機がいるんだよ。
当時、彼は、美城は飲み会の席でそう言った。
美城常務の祖父から会社を受け継いだばかりだった彼と僕たちは、襲い来る高度成長の高波にもがいていた。
夢はでっかく、けれど会社は今にも潰れそうで。
場末の小さな居酒屋で、夢と郊外の撮影場の砂埃にまみれた毎日だった。
投光機がでかけりゃでかいほど広い面を照らせるし、それが近ければ近いほど大きな影を作ることができる。
そうすりゃどでかい影、売り物の出来上がりだ。
等身大の女の子、なんてウリ文句、誰も信じちゃいない。
テレビに出てるやつらがあんなふうな言葉遣いして生活してるのを考えても見ろよ?
ほれ、鳥肌が立ってきやがった!
今日のあの女優は特にひどかった……。
けどな。そんなの信じちゃいないけどな。
俺たちだけは信じてなきゃいけないんだよ。
だってそいつのいいところも悪いところも、俺たち自身が投光機で、そいつを照らしているんだから、丸見えなんだよ
そいつ自身を俺らが見てやらなくて、誰が見てやれるってんだ?
みーんな、そいつの影をみて喜んでるっていうのに!
だから、俺はそういうふうなことをしてやれる会社を作ったんだ。
そう言って、彼はおちょこを一気に傾ける。
何十年も前の記憶だ。
その理想は、いつしか形を変えてしまった。
ついさきほど出会ったばかりの女性……少女だった彼女を思い出す。
初めて見たのは自慢気に彼が写真を撮ってきたときだろうか。小さな小さな、まだ1歳にも満たないころだった。それから、写真だけで見る時期が何年も続いたが、ある日から、頻繁に彼女の姿を仕事場で見るようになった。
最初はただの物見遊山の見学だろうと思っていた僕や僕以外の社員も、一年が過ぎてもまだ足繁く通う彼女を見て意見を改めた。
彼女は、小学校に入る頃にはこの道に進むと決めていたのだった。
当時、まだ美城は盤石とは言いがたかった。社長も、戦前から続いた会社とはいえ、家族経営にしようとは思っていなかった。本人もそれはわかっていただろう。
だが、それは彼女にある方法を与えていることに等しかった。
すなわち実力による簒奪である。
社長ですら気づくことはできなかったうちに、彼女は着々とその準備を続けていた。
気づけば彼女は大学を出たあとアメリカに渡り、現地の企業で芸能業界に飛び込んでいた。社長も、僕達もそのときまだ彼女の目的に気づいておらず、全員彼女がずっとアメリカで働き続けるものだと思っていて、戻ってくるとは思ってもいなかった。
だが驚いたことに346プロダクション、つまりは『美城グループ』のアイドル部門が設立されてすぐ彼女は『美城グループ』への転職を希望してきた。
社内での議論の末、最初は現地法人のアイドルとは無縁の部署に配属された彼女。
何年か経って、彼女の強い配属希望から、彼女は日本へと帰国した。
そう。『346プロダクション』常務として。
僕は、自分の部屋の椅子に腰掛け、緑茶をすする。
いまではすっかり会うことの減った彼が、いまでも理想を捨てていないことは知っている。
けれど、ここまで大きくなった会社の全員が理想を共有することは、難しいということもまた当然の事実だ。
ひとつ、悲しいのは彼の娘であった彼女が、彼とは違った方向に進み、それが僕には間違っているように見える、それだけだった。
つまり、僕は彼女のことを子供のように見ているのだな、そう思うと笑えてきた。
僕は彼の話がシンデレラプロジェクトだけでなく、彼女のためにもなるのではないか、なってほしい、そうなんとなく思った。
正直なところ、穴があったら隠れたい。
夜、隣の部屋の莉嘉は昼間のテレビの撮影ではしゃぎすぎたのか、よっぽど良かったことがあったのか、もう寝てしまっている。
昼前、シンデレラプロジェクト所属のアイドルである赤城みりあ――妹の城ヶ崎莉嘉と三人ユニットを組んでいるうちの一人――が、事務所の中庭のベンチに座りかけていたのを見て、アタシは声をかけた。
なんの気なしの行動だったけれど、アタシは、それで救われた。
何歳も下の、小さな女の子に高校生が情けなくも頭を胸に抱えられ、泣いた。
……恥ずかしい。妹に知られたらなんて言われることか……。
なにはともあれ、アタシが悩んでいたこと、それは、ただ単に思うようなことができないというだけじゃない。それまで信じていたプロデューサー、そして会社それ自体に対して不信感が湧いてきてしまったことだった。
私はそれを出すわけにはいかない。
出すわけにはいかないから、妹の莉嘉に八つ当たりしてしまった。
莉嘉は、莉嘉もまた、苦しんでいた。
莉嘉が、新しく出るテレビ番組で求められているキャラと、ギャルとしてのキャラを出したいという自分で悩んでいた。それでも、自分のキャラを信じて、スモックを着たギャルというアイドルで、逆に意外性を出すことができた。
……とはいえ、中学生にスモックを着せるのは正気を疑ったし、実はあのプロデューサーこそが犯人じゃないかという気もする。
さておいて。
みりあちゃんだって、苦しかったはずなんだ。
みりあちゃんは、最近妹ができたらしい。
妹が出来てすぐ、お母さんは家にいつもいるけれど、私のことは見てくれない。
そう嘆いた彼女。自分が悲しいことすらも気づかない彼女。
懐かしいなあ、莉嘉が生まれてからもそうだった。
自分の居場所が奪われていくようで、莉嘉に憎しみを持ちかけたことすらある。
けれど、それでも。
あの子の顔、小さくてあったかい手、恐ろしいほどに純真な瞳。
それを見て、嫌うことなんて、ましてや憎むことなんて、できなかった。
これが愛というものなんだってアタシは思った。
ママのことも、パパのことも大好きだし、アタシとその三人の他には誰かがいるなんて想像したこともなかった。妹が欲しいと思っても、妹が出来たとしても、自分への愛の量だけは変わらないと思っていた。
それはある意味で間違っていたけど、ある意味で正しかった。
ママとパパは忙しくなって、アタシを見なくなった。
だから、そういう意味ではアタシの愛は減った。
与えられる愛は減った。
そうだけれど、アタシの与える愛はすごく増えた。
アタシは、ママもパパも、そして莉嘉のことも、もっともっと好きになった。
アタシが悩んでいたこと、それは、アタシが悩んでいるってことに気づかなかったから。
今はもう気づいた。
気づいたら、あとはぶち壊してでも進むだけ。
息を吸って、吐いて。
十分以上握りしめていた携帯電話の画面を睨みつける。
そこにある電話番号は、プロデューサーの私用の番号。
えいっと発信。
すぐに応答がある。
「……もしもし、どうした?」
いつもの声。低い声。プロデューサーの声。
「あ、あの美嘉です」
「……いやそりゃわかるよ」
いつもよりも険しい声。アタシがそう思ってるからかも。
「あっ、あのね……」
なにを言おうとか、最初は謝ろうとか、いろいろ考えていたことは頭から吹き飛んでいた。
「明日、明日の撮影、来てほしいの」
「明日……? 一人で行くはずじゃ?」
「ううん、来てほしいの」
マイクの向こうで少し、考えこむような物音。
「……美嘉。今日、何かあったのか?」
「べ、別に? ちょっとみりあちゃんと遊びに行ったくらいかな?」
「そうか……」
言ったきり、黙ってしまう。
なにか言おうとしたところで、「ならいい。明日な」と彼が返す。
「うん。来てくれる?」
「俺はお前のプロデューサーだからな」
「ありがとう……!」
「じゃあ、明日現場で」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
通話を終えた携帯電話を机の上に置いて、ベッドにダイブ。
蛍光灯の光の向こうに、カメラのフラッシュを見る。
明日が、勝負だ。
目を閉じる。
そろそろ潮目かな。
男はそう思った。
あの娘は、俺の力なんて必要なく立ち上がったらしい。
彼女の新たな宣材撮影の現場で見たのは、以前とは違った魅力にあふれた彼女だった。
俺では引き出すことのできなかった彼女。
最近の俺はもうだめだな。
もう俺は不要だ。
彼女を支えるのは、もう俺の仕事じゃない。
「あっ、美嘉ちゃんのプロデューサーさんだ!」
背後からかけられた声に、俺は振り返る。
するとそこには小さな、といっても俺自身が小さいからそんなに小さいとは思えないのだけれど、小学生の女の子が走ってきているのが見えた。
「お、みりあちゃんじゃないか」
「えへへ~」近づいてきた彼女が目の前でにこにこと笑っている。
「あっ、じゃなかった」
「どうした?」
「おはようございます。だよね!」
俺は少し吹き出して、笑ってしまう。
「ぷっ、はは。そうだな。挨拶は大事だもんな。おはようございます。みりあちゃんは、これから仕事かい?」
「そうなの! これから、テレビ局で『とときら学園』の収録なの!」
彼女はシンデレラプロジェクトのメンバーの一人であり、三人ユニット『凸レーションズ』のメンバーでもある。
他のメンバーの一人『諸星きらり』は、高校生であり、平均を遥かに超えた高身長でありながらも特徴的なキャラクターで、一部でカルト的人気がある。また、いわゆる『KAWAII』に類するファンシーなファッションや小物についてのモデルや企画でも人気を博している。
もう一人、『城ヶ崎莉嘉』は『城ヶ崎美嘉』の妹だ。中学生になりたての彼女は、姉とくらべてまだまだ女性らしさはなく、実際虫取りが好きとインタビューに答えたことがある。彼女の彼女らしさ、美嘉へのあこがれから始まる格好つけた言葉遣いや振る舞いは、一部の大きなお友達に大人気なようだ。担当プロデューサーは大変だろう。……特に無意識に煽るような言動をしがちな彼女を抑えるのが。
最後に、目の前にいる『赤城みりあ』。その矮躯から発せられる元気の熱量は、ダイナモが入っているようだと評判だ。そして、無邪気な笑顔と真面目な性格、そして最近は妹ができたらしく、おねえさんであろうと背伸びをしている姿もまた、彼女を魅力的にしている。
そして、美嘉を救い出してくれた、恩人だ。
詳しいことは聞いていないけれど、美嘉が立ち直ったのは、彼女と一日遊んだと言っていたその日からだった。
「最近、美嘉はどうしてるかい?」
「え? プロデューサーは美嘉ちゃんのプロデューサーでしょ?」
「あー、いや、そうなんだが……」
自分が格好の悪いことをしているのはわかっている。
単なる嫉妬なのだから。
美嘉は、自らのやりたいことと部署の方針から押し付けられた方向性、その二つに推し挟まれていた。そんな彼女が最後に頼ったのは俺じゃなくて、こんな小さな女の子だったのだから。
そりゃあ嫉妬もするだろう。
俺はそんなに頼り甲斐がないか。いや、ないけれど。
ないとわかっていても感情が納得するわけじゃない。
「ほら、俺がいないときに俺の悪口言ってないかな~とか」
「あはっ! 気になるの? プロデューサーさん」
「そりゃあそうさ! あいつのことだ、あることないこと俺の悪口でも言ってるんじゃないか?」
「そんなこと美嘉ちゃんはしないよぉ」
彼女は困ったように笑う。
ああ、こんなふうに気を使わせているのはどこのどいつだ。
俺だ。
「いやあ、わからんぞ。あいつは俺と話してるときはな、悪口ばっかりなんだから……」
「美嘉ちゃん、悪口なんか言うの?」
「え、言わないの?」
みりあはこくりとうなずいた。
「……あいつとは1回きちんと話をしないといけないようだな」
「あはは……」
みりあはまた苦笑いをしている。
だが、ふと気づいたように真顔をすると、
「けどね、プロデューサーさん」
「ん?」
「美嘉ちゃん、お姉さんなの」
「え……」
どういう意味だろう?
「美嘉ちゃん、我慢するの、すごく得意なの。お姉さんだから」
彼女は、胸の前で両手を握りしめ、目をとじる。
変装用の眼鏡の奥、小さな瞳が閉じられる。
「わたしもね、そうなの。妹ができたの。いろんなラジオとかでも言ってるけど。だから、お母さんはわたしよりも、妹のほうばっかり見るの」
「それは……」
「けどね、仕方ないんだ。わたしはお姉さんで、あの子は妹だから。お姉さんは、我慢して、がんばらないといけないの。悪口だってお母さんは聞いてくれないから、言う相手もいない……」
俺は、絶句する。
「けどね、いまね、すっごく安心したの。美嘉ちゃん、悪口が言える人がいるんだな、って」
ぱっと彼女が目を開けた、その笑顔。
ああ、なるほど。
美嘉が頼ったのは、同じ姉だったから、か。
「……みりあちゃんは、悪口言う相手はいるのかい?」
「えっ!?」
「ほら、今の話だとみりあちゃんも悪口言いたいんだろう?」
「え、いや、あの。み、美嘉ちゃんにそういうのは聞いてもらおうかな……」
「いやいやいや、例えば城ヶ崎莉嘉の悪口とか、そういうのは言えないだろう? だから、俺が……」
「え、えんりょします! ありがとうございました!」
俺が言い終わる前に、みりあは走り去ってしまう。
「……わんこみたいなやつだな」
確かにすばしっこい。小型犬かな。
ふっと笑い飛ばして、俺はまた歩き始めた。