なりぞこないのシンデレラ Des Cendrillon Manqué 作:etis
雨滴(あまだれ)が
痛むあたまにひびくかなしさ
石川啄木 「一握の砂」より
「そうですか、シンデレラプロジェクトは、いまそんな状況なのですか」
小柄な僕よりもさらに背の小さな彼は、机に置かれていた緑茶を持ち上げた。
「ああ。ラブライカのアナスタシアくんとNew Generationsの渋谷くん二人を、常務が引き抜こうとしている……。残念ながらこれは彼の問題だからね。僕たちには、なにもできんよ」
「そうですね」
一口すすった彼は、満足気に顔を緩める。
「そういえば……君のところの城ヶ崎美嘉、調子がいいみたいじゃないか」
「え、ええ。まあ」
「大人向けを指向したブランドでありながら、想定層よりも下からの評価も高いと聞いているよ」
「そ、そうみたいですね」
「なんでも聞くところによれば、カメラマンさんが絶賛したそうじゃないか。大人のようであり、子供のようでもある。まさしくこの年齢でなければ出せない魅力だとね。ぜひとも見てみたいものだ」
「……もう勘弁して下さい部長」
手を前にかざして謝る彼に、僕は声を上げて笑う。「いや、すまないね。責めているわけじゃない。どころか、痛快だなと思ってね。あれは君の差金かな?」
彼は苦笑する。
「いいえ、あれは美嘉が決めたことですよ。一応やる直前に話はされましたけど、俺がいいと言わなくてもやったんじゃないですかね、あのぶんだと」
そう言うと、彼は何かを思い出しているように目線を宙に浮かす。
城ヶ崎美嘉の新たな写真は僕も見た。大人の女性のような装いに包まれながらも、溢れ出る彼女のパッション。大人になりきれていない子供の悲哀ではなく、子供を馬鹿にしがちな大人を横合いから殴りつけるような子供である彼女の鮮烈な笑顔。
なるほど、大人なのは彼女のほうかもしれないな、と思った。
「ほう……」
「子供は、成長が早いですね……」
「年寄りのようなことを言うね」
「あの子たちと比べたら、年寄りのようなものでしょう」
「はっはっは。君たちも僕からみたら子供のようなものだよ」
「それはそうでしょうな……」
「そうだとも。だから、もっと失敗したまえ。失敗のない成功などありえないのだからね」
「……肝に銘じておきます」
僕は手酌で二人ぶんのお茶を淹れる。
「ああ、すみません。部長」
「いやいや。お茶を淹れるのは趣味でね」
湯のみを彼の前に置く。
「ありがとうございます」
そのまま、二人してお茶をすする音だけが部屋に響く。
目線を机の上の書類に落とす。美城常務肝いりの新たなプロジェクト。
「Project Krone、ですか……」
「うん。Kroneとは、北欧の言葉で『王冠』という意味らしい」
「王冠……」
「美城常務らしい名前だと思うね。イメージ戦略の中心となる大々的な企画。会社からのバックアップは当然の事ながらいまあるプロジェクトの中で最も手厚いだろう。初舞台は、おそらく秋の定期ライブになる。彼女の厳選した、彼女にとっての美城のブランドを背負うにたる少女たち。速水奏、大槻唯、鷺沢文香、宮本フレデリカ、橘ありす、潮見周子。そして、北条加蓮、神谷奈緒。彼女たちの初お披露目であり……」
「彼にとっての試練の場でもある」
「ああ。『今ライブは例外的に、各部署の今期中間発表の成果発表の場を兼ねる。なお、特定の部署においては、その成果が評価に値しない場合、部署の存続を見直すこととする』だ。シンデレラプロジェクト、そしてそのプロデューサーである彼らが部署を存続するためには、ここで成果を見せるしかない」
「悪くないことだとは思いますよ、俺はね」
「ほう?」
「こんなことを言ったらあの子たちに怒られてしまうかもしれないが……」
きっぱりと彼は言った。
「芸能界というのは、なあなあでやっていけるほど優しくはない。能力がないのなら、さっさとやめたほうが幸せだと思いますね」
「なるほど、経験談かね?」
「経験といえば部長には勝てないとは思いますが……。まあ概ね経験談ですね。芸能界にしがみつこうとして壊れていった奴らをよく知っていますからね」
「確かにそういう人は意外といるものだ。……見えないだけでね」
「そう。だから、俺としてはあの娘たち、そしてあいつがこの試練を乗り越えられずに部署を解散し、あるいは仕事をやめたとしても、それはそれでいいことだと思います」
「それでも、あの娘たちは前に進むようだ。シンデレラプロジェクトの子たちは」
「そう、ですね。なんとも、あいつと、あいつの担当してる娘らしいです」
「だがそうなると……秋のライブは、まるで常務と彼の対バンのようだね。Project Kroneのメンバー、君の部署だった娘もいるようじゃないか」
「唯と加蓮、奈緒ですね。加蓮と奈緒は、三人組のユニットを組ませると聞きましたが」
「その相手は、シンデレラプロジェクトの渋谷凛くんだよ」
「それは……」彼は絶句する。「なんとも言えない選択ですね」
「偶然その三人が自主練をしていたのを見かけて一目惚れらしい。美城常務の嗅覚の鋭さには驚くよ」
「……言われてみると、あの三人ならばなにかをやってくれそうな気がしますね。渋谷さんがKroneに誘われているということしか知りませんでしたが、そうだったのか」
「君は、今は直接関係がないからね」
「直接言われるとぐさっと来ますね、それ」
「そうかい? すまないね」
「本当のことですから仕方がありませんが。なんにせよ、その渋谷さんも、ラブライカのアナスタシアさんの件も、いい方向に進んでくれることを祈るばかりですよ」
「うむ……」
僕は感慨深げに言った彼の言葉にうなずく。
「こんちゃ~っす!」
そう言って部屋の中に入ると、そこには人気がない。
「ありゃ? まだ誰もいない?」
部屋をぐるりと見渡すと、ソファに女性の後姿がある。
にやりとして、唯は静かにその女性の背後に忍び寄る。
「わっ!」
「ひゃっ!?」
大声で脅しかけると、その女性――鷺沢文香――が手に持っていた小説を取り落とす。途端、ソファの横に置かれていた本の山も崩れ落ちて、大惨事になる。
「あっ……」
鷺沢文香が気づいて抑えようとするが、時すでに遅く、本が床に散らばっている。
ようやく本が落ちきって、いや、落ちきってしまったところで、鷺沢文香が後ろを振り向く。涙目になっていた彼女に、唯は申し訳なく思う。
「……あー。うん、ごめん。文香……」
「大槻さん……」
「だ、大丈夫。拾うの手伝うから」
「……はい」
そうして二人は本を拾い集め始める。何十冊もあったが、どうやって持ってきたのか。
唯は鷺沢文香をちらちらと見ながら本を拾い上げる。パーマもかけてないのにさらさらのストレート、綺麗な線を描く天使の輪が髪に輝く。
ゆったりした服装のせいでわかりにくいけれど、以前一緒に衣装を着替えたときに垣間見た身体の上半身は、インドア派だというわりには細身で、しかし適度に肉がつき、同性である唯がどきりとするほどの静かな色気があった。
垂らした前髪と長いまつげの下には、ぱっちりした二重の瞳が侵入者を待ち構える。ひと目見た瞬間に恋に落ちるような美しい瞳。捉えられたら抜け出せない、牢獄。
なるほど、常務自らが出向いて熱烈にスカウトしたという噂も納得できると唯は思った。
「あの……」
「えっ、あ、なに?」
「あの……、そんなに見られると、その」
思ったよりもじっと見すぎてしまったらしい。
「あ、あはは~。ごめんね」
「いえ……」
そんな彼女は、しかし、押しが弱いどころか、自己主張のかなり薄い女性だった。
今も本を積み上げ終えたら唯を糾弾するでもなく、すぐに本を読みはじめてしまう。
彼女がなにも感じないわけではないということはわかっている。
今も少しは苛ついているに違いない。
それを出そうとしないだけで。
「ねえねえ、文香」
「……はい?」
文香は本から目線を上げる。
「文香は、このプロジェクトについてどう思ってる?」
「……どう思う、ですか」
たぶん彼女は言葉をすごく大事にするんだと唯は思う。
今も、ずっと考え込んでいる。
唯だったら今の時間でなんでもかんでも思いついたことを口走ってるだろうに、文香ちゃんは何も言わないで、頭を巡らしている。
大学生だというし、唯と頭のできが違うっていうのはもちろんあるとおもうけれど、根本的なところで唯と文香は違うんだと思う。
それでも、彼女に出会えたことはこのプロジェクト、美城常務肝いりの新規企画――Project Krone(プロジェクトクローネ)――に参加してよかったことランキングの上位に位置している。
「私は……」
文香はあんまり饒舌じゃない。だから、集中して聞かないといけない。
「私は、わかりません。……みなさんと違って、私はこのプロジェクトがアイドルとしての初めての仕事になりますので……。比較する対象がないのです」
「あー……そっかー」
文香は、こういうとき嘘をつかない。
ぶつぎりの言葉だけれど、文香は誠実で、本心からそう思っている。
「ま、そうだよね。けどさ、初めてのアイドルがこれって、けっこうすごいよ?」
「そうなの、でしょうか……?」
「もちろん。346プロって業界の大御所だし……」と、ここまで言って文香の反応が薄いことに気づく。「……もしかして、もしかしてだけどぉ」
「はい?」
「346プロって、知ってた、よね?」
そう聞くと、文香は目線をそらす。
「嘘っしょー!? 346知らないとかどんだけー!?」
「その、……アイドルなどには、疎いもので……」
「疎いったって限度があるっしょ~……」
がっくりと肩を落とした唯に文香ちゃんはちょっと慌てた素振りを見せる。
こういうふうに素直なところが、可愛いんだよなあ。
「あの……、申し訳ありません……」
「だいじょーぶだいじょーぶ」
ひらひらと手を振るが、文香ちゃんは心配そうにこちらを見つめている。
「あの……、その、ですが。私は、ここに来れて、よかったと思っています」
「え?」
「私は、何の変哲もない普通の大学生でしたから……。ここに来れたことは、何か、私を変えてくれるかもしれないと思ったからです」
「『変わる』、か」
「どういう方向に変わるかはわかりませんが……。それでも、前に進まなければならないのだ、ということは分かるのです」
彼女は微笑んだ。
「大槻さんも、そうではありませんか?」
「え……?」
「大槻さんも、変わろうとして、ここに来たのでは……違いますか?」
「そう、だけど。どうしてそう思ったの?」
「勘です。……勘、というよりは肌で感じ取った、といったほうが正しいかもしれません。あなたと出会った瞬間、なぜか、全く違う人のはずなのに……」
彼女は立ち上がり、唯の手のひらに彼女のそれを重ねる。
「なぜか、似ている。……そう思ったんです」
「文香ちゃん……」
「もしかしたら、ここに来た子たち、みんなそうなのかもしれませんね」
「ありすちゃんも、奏も?」
文香ちゃんはうなずいた。
「私は、ずっと変わることが怖かった……。今でも怖いです」
彼女の手が震えた錯覚。
「でも、そうじゃないんだと思います。変わることが怖い自分であっても、変われない自分のほうがもっと怖いんです。だから……」
「文香ちゃん……」
「変わることよりも、いつまでも変われないことのほうが怖い」
その独白に、手のひらから伝わる彼女の体温に、私は驚いていた。
だが、彼女は悲しそうに笑った。
「……けれど、そうじゃない娘も、いるんですね」
「あの娘たちは、変わらなければならなかった……。変わることを強要された、悲しい娘たち」
「文香……」
「変わらなければならないというのは、どういうことなんでしょうね」
彼女のその密やかな笑い顔は、乾燥しきった広葉樹のように白かった。
大学生として生活していると、自然、レポートという言葉には慣れてくる。
大まかなところから言えば大学、学部、学科、そして授業の内容、担当教員、そして年度ごとにレポートの大変さやそれが課される頻度というものは変化するけれど、私の通う大学の中間考査のレポートが、そろそろ出揃いつつあった。
文学部の二年生ともなるとそろそろ先生方も本領を発揮して、一晩や二晩では到底終わらないようなレポート課題を課す先生も出てくる。
レポートを提出しなければ当然単位は来ず、進級にも影響が出る。アイドルとしての活動と大学生として修学することの二つをきちんとこなす。これは当初の想定よりもよっぽど難しいかもしれない、と私は重い洋書を何冊か抱えてロビーを歩きながらため息をついた。
装丁の剛健なその洋書は、大学の図書館から借りてきたもので、今度のレポート課題のためには必ず読む必要があるものだった。全部を読むことは要求されてはいないが、それでも課題のために必要な範囲を読むだけでも睡眠時間が削られつつある。帰ろうと思っても、足が重い。
それに、Project Krone。
まさか自らがアイドルになるとは思っていなかったが、さらに大舞台――らしいが実感はない――が初舞台になるとは。
ふと目線を上にやる。
ロビーに飾られているプロジェクトメンバーの写真。
不自然に四人分のスペースが空いている。
そこに入るだろう人について、この前話を聞いた。四人分のスペースのうち、二人はすでに決まっている。だが、残りの二人。話によると全く別のプロジェクトのメンバーに打診をしているとのことだった。そして、その内の一人とすでに決まっている二人はユニットを組み、残り一人はソロでデビューする。
顔写真だけは見た。ユニットでデビューするかもしれないほうの人は、私と同じような長いストレートの髪の毛、けれど強い意志を秘めた瞳。それより気になったのはもう一人のほうだった。
私は、偶然にもその人のライブを見たことがある。
それは珍しく友人に連れられて買い物に行った大型商業施設でのことだった。
あの日、輝いていた彼女。
私の写真の隣にあるべき彼女。
それが、私の隣に立つのか。
そんな夢想に気を取られていたのが悪かったかもしれない。
「あっ」
誰かにぶつかった衝撃で、本を取りこぼす。
「イズヴィニーチェ!」
慌てて謝りながら、本を拾い上げる。なんだか、最近本を落としてばかりだ。
本に対して少しだけ申し訳なく思っていると、ぶつかった相手が親切にも本を拾い上げて、渡してくれる。
「ありがとうございます……?」
ただ、私はその本を受け取ることよりもぶつかった相手が、今まさに夢想していた彼女であるという事実に目を瞠った(みはった)。
彼女の名は、アナスタシア。
白皙の少女は、動きを止めた私を見て不思議そうな顔をしていた。
「文香―!」
大きな声がロビーに響いた。
ぱっと彼女の顔がそちらに向く。
私もロビーの内側の方に顔を向ける。
大槻さんが走ってくる。ああ、飴を舐めながら走るのは危ないですよ。
近づいてきた彼女も、アナスタシアさんに気づいたようだ。
「文香―! 帰るなら一緒に……って」
大槻さんが目を見開いて立ち止まる。
「唯さん、こちらは……」
「あっー! ラブライカのアナスタシアちゃん!?」
大槻さんが、持っていた飴でアナスタシアさんを指します。
「あたし、大槻唯。で、こっちが」
「鷺沢文香です」
「これからよろしくね!」
そう言った大槻さんに、アナスタシアさんは首をかしげた。
「……え? アナスタシアちゃんもProject Kroneに選ばれたんでしょう?」
驚いたように目を見開いたアナスタシアさん。
「ん、ん? アナスタシアちゃん、あれ?」
「あー、その、私は」
「すみません、唯さん、アナスタシアさん、ここだとちょっと邪魔なので」
私は壁際のソファを指差す。
「あ、そうだね!」
「そうですね」
と、二人は素直に移動する。
アナスタシアを中心に三人でソファに座る。
「えーっと、それで、アナスタシアちゃんもKroneでやるんでしょ? ねえ、いつからくるの?」
「Kroneのお話、なんですが……」
続く言葉を、私は若干の驚きと大半の納得で受け止めました。
「まだ、参加するかどうかをまだ決めていなくて」
「えーっ!?」
ばねのように跳ね起きた唯さんが、アナスタシアさんの前に立って大声をあげる。
「まだ決めてないって、なんでなんで!?」
「突然、だったもので」
「いっしょにやろーよー。衣装もキメキメでかっこいいしさー。迷うことなんかないってー」
言いながら唯さんはソファに勢い良く身体を預けます。
「文香もそう思うでしょ?」
私はその言葉を肯定するようにうなずいてから「でも、アナスタシアさんが迷う気持ちもわかる気がします」
彼女のこれまでを思うと、そうそう気楽にKroneに参加すると決めるのは難しいのだと思います。シンデレラプロジェクトという一つの、いうなれば部活のようなものの中でみなさん頑張ってきた。それをいきなり別のところに入れと言われても、そう簡単には行かないことでしょう。
私自身が、そうだった。
「私、スカウトされるまではアイドルには興味なくて」
スカウトされたときだって、全然アイドルをする気はなかった。私はこのまま親類の古書店を手伝いながら大学を卒業し、どこかで勤め始めて、そのまま日々を普通に過ごすものだと思っていたから。それから大きく外れることになるアイドルというものは、まず、怖かった。
「え? そうだったの?」
「はい、だからアイドルをやると決心するまで随分悩みました」
今もまだ、少し迷っている点はある。けれど、
「けど、やってみたら楽しかったっしょ?」
アナスタシアさんの脇に顔を寄せた唯さんが言ったその言葉に、私は顔を上げる。
「ええ。初めてのことばかりで戸惑うこともありますけど」
手元の本の表紙を優しくなぞる。
「でも、それが読んだことのない本のページをめくるように、ドキドキして」
Kroneのメンバーに会えたことも。
アイドルとして活動することも。
「だから、今回のプロジェクトも、やってみればまた新しいページが開けるんじゃないかと思って」
見上げたその先にある何かを目指して、私たちは走らなくてはいけない。
「文香って、頭いいよね」
「と、突然なんですか?」
唯さんは身体を戻している。
「本読む人って頭いいじゃん」
「そ、そうですか?」
「そうだよー、ねえアナスタシアちゃんもそう思うっしょ?」
「え、あの……」
「あっ、そっか、アナスタシアちゃんも本たくさん読む系?」
「その、少し、読みます」
「そうなのかー」と唯は脱力する。
「美嘉も里奈も読まなかったからなー。っていうか、あれ?」
はたと気づいたふうに、唯さんは起き上がる。
「もしかしてKroneで一番馬鹿なのって、あたし? うわー! ねえ文香! どーしたらいいかな!?」
「えーっと……」
「あっ、そうだ! 本読めばいいんだ! 文香後で本紹介してよ! あたしでも読めそうなの!」
「それくらいなら、お安いご用です」
「うわーい! ありがとー文香! あ、文香はね、本屋さんやってるんだよ!」
「本屋さん、ですか?」とアナスタシア。
「正確には、親類の古書店を手伝っているだけですが……。何か本を紹介して欲しいなどの要望があれば、お答えできますよ。小説でもミステリィとか時代小説とか……」
「恋愛小説とかも?」
聞かれて、一瞬言葉に詰まる。
「……一応、ありますが」
「あたしは恋愛小説は読んだことないけど恋愛経験あるよ!」
「え? 今恋人がいらっしゃるのですか?」
「ううん。今はいないよ。というか、いたら常務に怒られちゃうよ。文香とアナスタシアはどう?」
「どう、とは?」
「恋愛経験、あるの?」
「いえ、私はその、ずっと女子校だったもので」
「ああ、そうなんだ。アナスタシアちゃんは?」
「恋愛経験、ですか。私も、ないです。昔は、もっと日本語下手、でしたから……」
「あー……そっか……」
眉尻を下げて唯は申し訳無さそうに言う。
「けどさ! 今はこんなに話せるわけじゃん? 男の子と話したりしないの?」
「アー、私の周りに、あんまり男の子来ませんね」
「ふーん? なんでだろ」
「それは、たぶんアナスタシアさんが綺麗だから萎縮してるんだと思いますよ」
「え?」
「そう、ですか?」
「そういうのが、恋愛小説だとよくあるんですよ」
「へえ、そうなんですか」
唯さんがちょっと残念そうに言う。
「けどさー、アイドルになってイケメンに会えるようになったのに、意味がないんだよねー」
「どういう意味です?」
「あたしちょっと前まで藤本里奈と城ケ崎美嘉っていう娘とユニットやってて、あ、今は対外的には休止ってなってるけどね? でさ、いろんな現場に行って、あ、イケメン! って思っても大抵同じアイドルだったりして恋愛とかダメなんだよねえ。仕方なくなのかわかんないけどプロデューサーと恋愛するような娘もいるけどね」
最後のほうを冗談めかして唯さんが言った。
アナスタシアが、「プロデューサーと……」とつぶやく。
「ま、Kroneのプロデューサーは常務だからそんなの起きようがないんだけどね」
「常務は、かっこいい人ではありませんか?」
唯さんは不満気に口を尖らせて、
「ええー? いや、確かにかっこいい、デキる女って感じはするけどさあ」
ここまであまり口を挟んでこなかったアナスタシアさんが、唐突に言った。
「お二人は、常務のことは好き、ですか?」
「え? 好きか嫌いかで言ったら、うーん。嫌いでもないけど、好きでもないかなあ」
「私は……、私も、似たような感覚です」
「そう、ですか」
言ったきり、彼女はまた黙りこむ。
常務に対して彼女が何を想っているのか。少しは想像できる。
シンデレラプロジェクトを壊そうとした敵として。
Kroneに誘いをかけて新たな可能性を見せる者として。
常務に見える二つの側面。
その二つに、アナスタシアさんは翻弄されているのだろうと思う。
「アナスタシアさん」
「はい?」
「常務は、悪い人ではありませんよ。そう、真面目な人、なんです」
「真面目過ぎて、怖いこともあるけどね」
唯さんが入れた茶々に、完璧な人なんていませんから、と苦笑いを返してから、「アナスタシアさん、だから、常務のこと、私たちのこと、そしてProject Kroneのことも、きちんと真正面から見て、そして決めて欲しいんです」
「真正面から……」
「はい。向き合っていただけて、それでもKroneに来ないことを選んだのあれば、私はそれを受け入れたいと思っています」
「えー! 文香、それでいいの?」
「もちろん、そうなったら悲しいですよ」
ですけど、と一息置いて、私は微笑と共に言った。
「そうならないだろうと、思っていますから」
「おお、文香が珍しく強気だ」
「唯さんも、そう思っているのでしょう?」
「えー?」目線を向けると唯さんも笑っている。「まあね、Kroneは、楽しいよ」
もう一度、アナスタシアさんと目を合わせる。
少し前なら、アイドルになる前ならこんなに近くで目を合わせるなんてことはできなかった。
「だから、アナスタシアさん。楽しみにしています」
何かが彼女に届いただろうか?
確信はないけれど、もうそろそろ行かないと。
「では、そろそろ帰りましょうか。唯さん」
二人立ち上がり、座っている彼女を見下ろす。
「ありがとうございました、アナスタシアさん。また、機会がありましたら会いましょう」
「待ってるからね!」
頭を少し下げて私は歩き出す。
すると、後ろから声をかけられる。
「あの!」
「はい?」
振り返ると、腰を浮かせた彼女が手を伸ばしかけている。
「いえ……」
手がゆっくりと降りていく。
「なんでも、ないです」
彼女の中の葛藤は、私には理解できないけれど。
「唯さん、行きましょうか」
「うん」
もうこれ以上何もすることは、できることはない。
「鷺沢さん」
後ろからかけられた声。
「……橘さん」
振り返ると、そこにはジャージに身を包んだ橘ありすの姿があった。
彼女もProject Krone所属のアイドルだ。Kroneのアイドルとしては最年少の、小学6年生。それでも、常務の眼鏡に適ったということもさることながら、理路整然とした思考をする大人びた少女で、なかなかアイドルというのは面白い人がいるものだと初めて会った時思ったのを覚えている。
今日も彼女は抑えられた調子で聞いてくる。
「はい。こんにちは、鷺沢さん。レッスンですか?」
首肯する。
私も彼女と同じように、空色のジャージを着ている。レッスンを受け始めたころは高校生のとき以来のジャージ姿で社内を歩くということで少しだけ恥ずかしい気持ちもあったが、最近はそれにも慣れてきた。
「わたしもレッスンなので、一緒に行きましょう」
「わかりました……」
二人、レッスンルームに向かって歩き出す。
私たちはさして口数が多いわけではない。大槻さんがいれば話は別だが、基本的に私たち二人だけでいるとき、会話はほとんどないと言ってもいい。事務的な連絡が大半で、それ以外のものと言えば……。
「そういえば鷺沢さん」
「なんでしょうか」
「この前お借りした本ですが、読み終わったのでレッスンの後お返ししますね」
「へえ……読むのが早いんですね、橘さん」
結構分厚い推理小説を貸したのだが、まだ二週間と経っていない。
素直に感心して声を上げると、彼女は不自然に咳払いをして、「ま、まあ、そんなに早くはないですよ」
「そうですか?」
「そうですよ」と彼女は言葉と裏腹に自慢気だ。
私はくすりと笑ってしまう。
それに気づかなかった彼女は、ちらちらとこちらの顔をうかがいながら話しだす。
「で、ですね、その……あの……」
「続き、ですか?」
「はっ、はい……」
わかりやすい。
よほど面白かったのだろう。本を薦めた側としてはとてもうれしくて、自然と笑顔になる。
「そう言うと思って、続きを持ってきてありますよ」
「本当ですかっ!」
きらきらとした瞳で見つめてくる彼女。
「ええ。続刊を、二冊」
「二冊も!? うわぁ、ありがとうございます!!」
そう言うなり彼女は鼻歌混じりに歩き方を少し変える。
飛び跳ねながら廊下を進む彼女の髪の毛が跳ねる。
スキップかな?
あ、一瞬はっとした顔をしてやめちゃった。
と思ったら顔を真赤にした。
無意識だったらしい。
またもこちらの様子をうかがってきたので、まったく見ていなかったふりをすると、視界の端で彼女は胸をなでおろしていた。
わざとらしい咳払いのあと、真面目くさった彼女が言った。
「……鷺沢さん。レッスンのあと、おねがいしますね」
「ええ、大丈夫ですよ」
「絶対ですからね!?」
「ええ。絶対ですよ」
そんな会話をしていると後ろから「おやぁ、元気だね。ありすちゃんは」という声がかけられる。
橘さんはきっと後ろを睨みつける。
「ありすじゃないです!」
そこには大槻唯さんの姿があった。オレンジにクリーム色のラインの入ったジャージで、右手にシュシュを嵌めている。
「こんにちは、大槻さん」
「やっほ、文香ちゃん、ありすちゃん」
彼女もレッスンなのか。ありすじゃないです、と再び激昂するする橘さんを抑えながら、三人並んで歩き出す。
「大槻さんもレッスンですか?」
「うん、そだよ。あと奏と周子とフレちゃんも」
さっき、あたしより先に来てたっぽいよ、と言う。
「皆さん、レッスンなのですか? 珍しいですね、Kroneのメンバーが揃うなんて。何かあるんでしょうか」
「さあ? わかんない」
私たちはその話題については一旦棚上げをして、普段通りの雑談をしながらレッスンルームに向かう。
レッスンルームの中に入ると、そこにはKroneのメンバーが勢揃いしている。
「ああ、みんな来たのね」と速水さんが言う。
速水奏。Project Kroneのまとめ役。私より歳下のはずなのにしぐさや言葉遣いが艶めいていて、驚かされるばかりだ。もっとも、私のような人間がまとめ役などできるわけはないから、適役であろうとは思うけれど。
奏のそばでは、塩見さんと宮本さんの二人がなぜか男子小学生がやるような手遊びをしている。
塩見周子。肌の白い、京美人。狐のような目をして、その容貌通りに柳のような性格だ。宮本さんと仲が良くて、今みたいなわけのわからないことをよくして遊んでいる。けれど、案外と中身は私や橘さんに近いのではないかと疑っている。
宮本フレデリカ。フランス人とのハーフらしい。言動が、ちょっと、その、突拍子がないことを言うようなことがあってあまり得意じゃない。
「北条さんと、神谷さんは来られないんですか?」
「あの二人は別件。ほら、シンデレラの渋谷さんを勧誘しに行ってるのよ」
「勧誘、ですか」
「そ。だから、今日はあの二人は来ないわ」
「奈緒と加蓮が来ないのはいいけれど、じゃあなにするの?」と唯。
「私もレッスンとしか聞いていなかったんだけど、どうしてかみんな来ているのよね」
「不思議だよねー」と周子が奏の肩に腕をのせて言った。
「周子、きちんと立ちなさいな」
えーと唇を尖らせた周子がもっと脱力してしなだれかかる。
「はぁ……、なんにせよ、そろそろ時間よ」
「まだ五分あるじゃん」
「五分前行動しなさいって、言われなかった?」
「えー? もうレッスンルームに五分前に来てる時点でもう十分じゃん?」
瞬間、レッスンルームの扉が開く。
珍しく常務の姿。
いつもどおりのトレーナーさんと、常務の部下が二人書類を持って付き従っている。
そして、それだけではなくその後ろには銀髪の少女の姿があった。
「アナスタシアさん……!?」
「皆、揃っているな」
驚いてるメンバーをよそに、常務がいつものように仁王立ちをして、話し始める。
やはり、彼女がいるだけで空気が張り詰める気がする。
「以前にも話したと思うが、今後、ここにいるアナスタシアがKroneに参加することになった」
おお、という声がどこからともなく沸く。
「目の前に迫っている秋のライブに向かって、一層練習に励んで欲しい」
そう言い放ち、彼女は付き添っていた部下と短く言葉を交わしてまた忙しなくレッスンルームを出て行った。
一瞬弛緩した部屋の中で、唯さんがため息をついて大きく姿勢を崩す。
それを見て「大槻ぃ、しゃんとしろしゃんと。普段からきちんとしないといざってときにできないぞ」とトレーナーさんが言って、そして「まあいい、さあ」とアナスタシアさんの背を押した。
「あの、みなさん。私、アナスタシアと言います。その、よろしくお願いします」
ジャージ姿のアナスタシアさんが、折り目正しくお辞儀をする。
「わーい! アナスタシアちゃん!」
アナスタシアさんに唯さんが抱きつきました。
「わっ! 大槻さん」
「唯でいいよ、ね? アナスタシアちゃん」
「よーし、アナスタシアも入ったことだし、さっそく今日のレッスン始めるぞー」
「えー? アナスタシアちゃんとお話したいのにー」
「それは後の楽しみにしておけ。アナスタシアはソロだが、お前らはユニット練習もしないといけないんだからな。よし、まずは準備運動だ!」
唯さんはちぇーと不満気にしながら、アナスタシアさんに近づいていく。
二人一組で準備運動をする必要があり、いつもなら唯さんとやっていたのですが……。
橘さんはトレーナーさんとやるので、私は速水さん、宮本さん、塩見さんの誰かとやらないといけないけれど。
そう思っていると、速水さんと目が合ってしまった。
彼女は、やはり年齢に不釣合いな笑みを浮かべて距離を縮める。
「鷺沢さん。今日は、よろしくお願いしますね?」
「……ええ。おねがいします、速水さん」
二人無言で準備運動を進める。
いや、無言なのは私だけで、速水さんがそれに合わせてくれているだけか。
「速水さんは」
両手を合わせて脇腹を伸ばしながら、私は話かける。
「はい?」
「速水さんは、どう思いますか?」
「……なにを?」
伸ばす方向を逆にして、もう一度。
「速水さんは、以前からアイドルをしていらっしゃったのでしょう?」
「っ……ええ」
艶めかしい吐息。
「その、アナスタシアさんや渋谷さんを……」
「ああ……」
手を組み替えて、背中の筋肉を伸ばすために私が彼女の背にのっかかる。
「私も、納得が言っているとは言いがたいわ、ねっ」
「やっぱり、そうです、かっ」
息をついて、向かい合う。
「けど、そうは言ってもいられないから……。鷺沢さんは、どう思うの?」
「私も、正直なところを言えば納得がいかない……というより、難しい話だな、と思います」
「でしょうね……」
「けれど、さらに本音を言ってしまえば」
「鷺沢! 速水! 無駄話する元気があるなら最初にやるか!?」
ずかずかと近寄ってくるトレーナーさんに、速水さんは何事もないように後ろを指差しながら、「あら、トレーナーさん。元気さだったらフレデリカと周子のほうが余っているみたいですよ」
「あん?」
「昨日、トレーナーさんのこと、鬼教官って言ってましたから」
「ほおう?」
剣呑な瞳でトレーナーは二人のほうに振り向く。
塩見さんは素知らぬ顔で笑いかけて、
「鬼教官って、なんかハートマン軍曹みたいでかっこいいじゃないですか」
「塩見ぃ……」
「フレちゃん的には、トレーナーはもうちょっと楽にすればいいんじゃないかなーって思うんだけど!」
「宮本! 何様のつもりだ!」
ぎゃあぎゃあ騒ぎ始めた二人を無視して、私はいいかけた言葉を速水さんに告げる。
「本音としては、それどころじゃない、です」
「どういう意味かしら」
私は苦笑する。
「速水さんや大槻さんとは違って、私はアイドルになったばかりですから」
「ああ……。そういえば、そうだったわね……」
「だから、アナスタシアさんに気を配りたくても、そんな余裕は……」
「鷺沢さんらしいわ」
「そうですか?」
「ええ」速水さんは、また笑みを浮かべて「鷺沢さんらしい、選択だと思います」とだけ言った。
私は、大人じゃない。
大人じゃないから、うまい解決方法なんて思いつかない、知らない。
だから、直接的に問題に突っ込むしか方法を知らない。
誰かを傷つける方法であったとしても、自分が傷つく方法であったとしても、私はそれしかしらないから。
「ごめんね、急に付きあわせて。ちょっと、話があってさ」
「……うん、わかってる」
健康を害しそうな味のハンバーガー。
それが乗ったトレイはプラスティック。
四人がけ。
がたついた椅子。
照明は狭い店内を白く沈める。
外は秋。
夕暮れが空を大きくする。
「トライアドプリムスのことだね。……いろいろ考えてみたんだけど、私は参加できない。ごめん」
「……やっぱり、そうだよね、凛にはニュージェネがあるんだよね」
にじんだ青の、奈緒の声。
凛は白い。
三原色が混じりあう。
私の色は青。
峻厳な青。
「でも私、このチャンスを逃したくない」
青の貴き(たっとき)こと。
私は知っている。
「デビューしたいってのももちろんだけど、私、凛と奈緒の三人でもっと歌ってみたい」
大気の振動が三人の耳に触れる。
くすんだ青を、白を塗りつぶすように。私の色で塗りつぶすように。
「この前三人で合わせたときすごくいい感じだった。この三人ならきっとすごいことができる。そう思えた」
トイレの扉の開く音。
蝶番の悲鳴。
「凛はどうなの、あの時」
認知できない速度の蛍光灯の明滅。
人よりも時間の感覚が遅い生物にとっての世界は、どんな世界だろう?
「それは………」
色の交じり合いが、境界が揺れている。
「あしたの五時、レッスン室に来て」
もう一度三人で合わせてみよう。
そうすれば、きっとわかる。
二人は横断歩道の上で立ち止まる。
車のヘッドライト。
闇が二人を明るく照らす。
「来てくれるかな、凛」
「来なかったらしかたがないよ」
「そんな……」
「凛の立場を考えれば、簡単に決められることじゃないのはわかるし」
「そりゃまあそうだけど」
「それでも私はかけてみたいんだ。私と奈緒、そして凛の三人で歌うってことに。私たちが感じたなにかは、本物だって信じてるから」
「加蓮……そういうことなら、私だってとことん賭ける。三人のトライアドプリムスに!」
空は、晴れている。
痛いくらいに晴れている。
あたしと加蓮が、二人で曲を聞いている。
頭のなかのどこかの自分が、この部屋でレッスンしてきた三ヶ月前の自分だった。
汗にまみれて、目の前のガラス窓に寄りかかって人型に汗が付いて、加蓮に笑われた。
「来てくれたんだね、凛」
今凛が立つそこにはいつもトレーナーさんがいた。
あたしたちの何倍もの運動量でも平然としているトレーナーさんが、いつもいた。
「それが、その?」
このパソコンにはあたしと加蓮が、曲を持てないまま流浪している間に練習していた何十という曲とその振付、そして練習ビデオが入っている。
「うん! トライアドプリムスのデビュー曲!」
今加蓮が凛に手渡している楽譜の、自分のそれは渡された次の日にはメモでいっぱいになっていた。
「に、なるかもしれない曲」
あたしは夢見ていた。
「Trancing Pulse……」
あの日から。
「まず私と奈緒で歌うから。最初はそれを聞いてみて」
トライアドプリムスの話を聞いた時から。
「あ、うん……」
加蓮と、凛と。三人で歌える日を。
あたしが、前に進める日を。
加蓮の操作で曲が流れ始める。
何度となく二人で練習した入り。
初手で人の心をつかむ。
初めて聞いたとき、デモ音源であってもあたしが心打たれた、この曲を。
凛に、届くようにと。
軽快な旋律がスピーカーから溢れる。
楽譜の上のただの言葉を、私の声にして。
もう覚えてしまった歌詞。
いまはまだ二人だけの空かもしれない。
凛が飛ぶ空ではないかもしれない。
その空にあたしと加蓮は飛びたい。
あの日を、数えきれないほどの瞬間を、これまでに重ねてきた。
いつの日にか空へと飛び出すことを。
遥か彼方へとたどり着くことを夢見て。
あたしは気づく。
それが一瞬のようであっても。
それは一瞬でなく永遠に続いてほしいと思った。
歌い出す。
確かに凛が歌い出す。
凛が足でリズムを取る。
三人の足が揃う。
声が繋がる。
過去(きのう)と今(きょう)が、未来(あす)へとつながる。
二人で目を合わせた。
あたしと加蓮は凛の隣に移る。
それが自然だった。
三人の肩が並んだ。
瞳と瞳。
見合わせる。
それは言葉が伝える感情よりも強く。
そして歌が伝える心のほうがそれよりも強く。
言葉を交わす必要も、目を合わせる必要もない。
歌う。
歌った。
歌うだけだった。
赤い空が、青くも見える。
ふたりだけじゃない。あたしたちの空だ。
眩しくて、目をあけていられなかった。
歌うだけだった。
ずっと、歌っていたかった。
いつまでもこの曲が続けばいいのに、と思った。
「彼女たちは決めたようだね」
「ええ、当然の結果です」
美城常務の執務室。僕が入り口のあたりで立ち止まり、勝手に淹れた紅茶を飲んでいるのを常務が忌々しく睨む。
社内は秋の定例ライブに向けて忙しさを増している。
そんななかでもこの部屋の中だけは静かで、そして静かだからこそその存在感を増していた。
「Project Krone……あの娘たちの準備も、」
「もちろん。進んでいます。最高のトレーナーたち、最高のスケジュール、メンタルケアの体制も万全です」
言葉をかぶせた常務に今西は口を閉ざす。
「……今西部長、Kroneは私のプロジェクトです。口をだすのはやめていただきたい」
やれやれと首を振る今西。
「首を突っ込もうとは思っていないさ。あの子たちを見かけたときに会話がなさそうで、不安に思ってね」
「同じプロジェクトであろうと、仲が良くなければならないというわけでもありません。まあ、よいほうが、円滑にことが運ぶというのはあるでしょうが、私たちが管理すべきことですか?」
「君は、彼女たちを管理する対象だと考えているのかね?」
「それ以外の何だと? 彼女たちに私たちが管理されているとでも言うのですか?」
「いや、そうは言わないさ。同僚だとは思わないのかね?」
「同僚? 庇護すべき立場である彼女たちを?」
彼女は鼻で笑う。
「私はあの娘たちを管理していますが、個々の人間としてその尊厳を貶めることはしたことはありません。それは、私の信義にもとる。あの娘たちの心に土足で入り込んでゆくのが正しいのか、それを考えねばならない」
「ふむ……」
常務は自らのぶんの紅茶を淹れる。
いれようか、と聞くが、無視して自分で淹れるようだ。
「……私は、シンデレラの物語を読んだ時に思ったことがあります」
静かな一時。茶器の音しかしない。
小さく、湯を注いだティーポットで茶葉を蒸らしながら彼女が言った。
「シンデレラの姉は、本当に意地悪だったのか、と」
カップに琥珀色の液体が注がれていく。
湯気が、常務の顔をぼやけさせる。
「その当時の世情を考えるに、現代のように女性が独り身で生きていくのはまず難しいことだったはず。誰かのところに嫁ぐのが女性としての当然の結末だったはず、だとすると、厳しい姉たちは、彼女に花嫁修業をさせていただけなのでは、シンデレラ、彼女がそれをわかっていなかっただけなのでは、そう思ったことがある」
「ほう」
常務は一口紅茶を飲むと、部長に身体を向けて机によりかかる。
腕を組んで、話しだす。
「もちろん、小さいころの考えで、民俗学的にその考えが正しいとは思っていない。だが、重要なのはまさしくシンデレラ・ストーリーが起きなければ彼女はシンデレラにはなれなかったということです。私たちに必要なのは今シンデレラでなくても、いつの日にかシンデレラになることのできる少女を見つけることです」
「……君は、継母のように嫌われても構わないと?」
「好かれるために仕事をしているのではありません。今西部長、あなたならよくわかっているはずです」
「なるほど」
続けてなるほどと三回ほど言ってから、彼は紅茶を一息に飲み干した。
「君がなぜ彼を排除しなかったかの理由がわかったよ」
彼女はなにも答えない。
「では、彼のプロジェクトのメンバーは?」
「……私は、アナスタシア、渋谷凛、この二人には可能性を感じたが、他のメンバーについては否定的だ」
「そうかい」
ごちそうさまと彼はカップを机に置く。
「いい話し合いができたよ。今度の秋のライブが楽しみだ」
「ええ、私もです」
僕はそのまま外に出る。
常務の考え、彼は理解できるだろうか? それはわからない。
僕は僕のやりたいように。