峰 理子は、この二週間強生活をしていた旅館の窓から外を眺めていた。何も考えずに頭をからっぽにしてただぼーっとしながら窓枠に肘をついている時間が、彼女は好きだった。いや、好きだったと言うより、元々は契が暇な時にこうしているのを見て真似している内に癖になってしまったというのが正しい気もする。少なくとも、この癖を直したいとか煩わしくは感じないので嫌いではないはずだ。
もう秋だからか、夜になると少しばかり冷たい風が吹く。浴衣姿故に下着を付けていない(そうするのが正しいのだと隷示が言っていたのでそうしている)彼女からすれば、寒いと感じてしまう物だけれど、しかし一緒にこの部屋に泊まっている二人一組の片割れの青年が帰ってきてから寝ようと決めていた彼女からすれば、それは我慢するべき事柄だった。
「ちぎりん、遅いなぁ……」
無意識の内に呟き、そしてはぁとため息を一つつく。この部屋に帰って来てから理子の報告を聞き、そして星伽神社に妖刀“村正”が奉納……ないし、それに準ずる扱いを受けていると判断した契は今夜……つまり今、現在進行形で……星伽神社に侵入し奪取、あるいはそれに関連する工作を行なうことを決断した。
理子とて、イ・ウーのメンバーであるのだから契の命令通りに奉納品を一挙して集めてある倉庫の位置をあの苦労人のような武装巫女、星伽 淡雪に聞いて確認してある。その場所を軽く地図に描いて、契に渡したところで、彼女の役割は終わった。なのでこうして、彼が作戦を遂行している時も蚊帳の外である旅館で一人待機しているのだ。
事実として戦闘を行なう可能性のあり、そして侵入などと言う繊細な行動をする上で理子は自分が契の足手まといにしかならないことを自覚している。自分より一回り年上のあの青年と自分が二人一組を組まされている理由は、彼が仲間を守ることを学ぶための一環であることも、幼心の中に理解はしている。
しかし、理解と納得は別物だ。自分も契と一緒に戦って、彼の役に立ちたい……しかし契に迷惑はかけたくない。そうした思考が巡るに巡って、最終的に彼が帰ってくるまで自分も寝ないという結果に落ち付いているのだ。
契が必死に戦っているかもしれないのに、自分だけがうかうか眠っていいものか、というのが自己満足だとわかっていても、理屈とか抜きにそうしたいのだ。
契は強い。イ・ウーの構成員の中で最速とまで呼ばれた彼は間違いなく、最下級の分類にしか入れない(しかもその枠内でさえぎりぎりに入っている)理子とは違って、数多の構成員の中でトップクラスの強者だろう。
「遠いなぁ……」
おもわず、口から言葉がこぼれる。その声がどこか哀愁を漂わせていたことに自分で驚きつつ、聞いている相手もいないはずなのに赤面してしまった。
今の自分の声は、少し色っぽかった気がする。それはもう、最近汐織から貸してもらっている少女漫画で主人公の少女が憧れの先輩キャラクターを想うシーンで使っているような声ではなかっただろうか。
かぁぁぁ、と頬が熱くなる。数日前、契に携帯ストラップを渡した時にお礼を言われた時のような感覚に、内心落ちついていられない。心臓が急にバクバクと鼓動を早める。
しかし、そうした思考に至るたびに、自分と契の差が大きく感じられる。それはまさしく雲泥の差だ。決して誇張表現ではなく、それは精密で精巧に分類を分かったとしても変えることのできない、一切揺るぐことの無い唯一無二の事実なのだ。
同年代の面々と比べると小柄な彼女でさえ簡単に手を握ることができるほど近くにいても、契という一人の青年の心の在り所は海岸から遠くに見る水平線よりも距離がある。彼の立っている場所は近くても遠いのだ。
しかし……これはこの二年間契の傍にいてわかってきたことだが……契本人、他でもない彼自身が人との距離を大きく広げている風潮が同時にあるのだ。
イ・ウーの構成員で理子と同い年の“銀氷の魔女”ジャンヌ・ダルク30世と契の関係が良い例だ。
彼女の騎士道精神は、割と近しい関係にある理子も少し堅苦しいと思う所を見せている。それは彼女自身が決して変えまいとする確固たる自分の信念によって形作られた物で、彼女の心の中にどんと一本断つ信念の柱は先人たちの積み上げてきた物を尊重し、敬い、その上でその積み上げてきた物をより良い物に変えて行くという理子にとっては眩しすぎる程の立派な考え方だ。
ジャンヌのその考え方は契の“技術改悪”……先人たちの技術を改善ではなく改悪するという改変……が随分と気に入らないようで、そのせいかジャンヌと契はとても折り合いが悪い。というよりも、ジャンヌが一方的に契を嫌っていると同時に、契も何らかの解決策を講じることが無くただ漫然に不仲という現状維持が続いているのだ。
しかし、理子は知っている。ジャンヌはあれで随分と可愛い物が好きだし、契も普段は仏頂面で無愛想でも先日の携帯ストラップの件のように穏やかな笑みを見せるところがある。そして不仲という関係にある二人はお互いにそのことを知らない。
こうした、互いの普段は見せることの無い一面を見ればきっと不仲の現状維持などという不本意な状態は改善されることだろう。この不本意が理子の超個人的な問題だということはさておいて。
だがそれは同時にものすごく難しいことだ。契が不仲に対する解決策を講じない、というのはただ人のそれとは根本的な所から異なる。それが理子が彼の傍にいて感じると言う、他人との距離を広げるという風潮だ。
率直に言って、契がそういった風潮を故意的に行っているのは間違いないことだ。紛いなりにもジャンヌは一年近く前から契の数少ない理解者にして付き合いの長い天草 汐織の下に就いているのだし、極稀に彼は汐織のチーム(ジャンヌを始め、汐織より年下の少女の面々が数名在籍している)に彼女たちのサポート役としての任に就くこともある。組織に於いて個人間の不和を人一倍気にする汐織が、それこそ解決策を講じないということは契が人との関係に距離を作る風潮を無くすと言う程あり得ない話だ。
実際問題としてイ・ウーの構成員全体は無理にしろ、汐織は土御門 蓮華の下に就いている三人の構成員のその中で関わることのある範囲での人員と契との不和を解消するため自分の下に就いている部下たちを契に会わせて話をさせると言う行為を何度か行なっている。だがその努力も虚しく彼がそれなりに打ち解けることができたのはとある毒手使いの少女ただ一人だけで、残りのメンバーに関して言えばジャンヌ程ではないが良い印象を持たれていないようだ。それに打ち解けた毒手使いと言うのも、契の“暗器術”に応用できる技術を持っていたという理由があったからこそ成し遂げられたという理由ありきの人脈の構成なので、その成果を手放しに喜ぶことは到底できないことだった。
そこでふと考える。契という自分の上役にして相棒、時には兄のような存在がどのような線引きで例外を作っているのだろうか。
随分と今さらのような感じもする。しかし理子にもその理由がわからない。隷示も汐織も彼女がイ・ウーに来た時には既に契の周りにいたのを覚えているし、ブラドがイ・ウーに襲来した時に自室に匿って抱きしめて不安を取り除いてくれた汐織との出会いは他でもない契が理子のシャワーを汐織に一任したことによる。隷示は言わずもがな、契と接する上で大事なことを経験則で色々教えてくれた張本人で、ブラド襲来の際にはあの高慢ちきな電撃吸血鬼と相対して絶対的に悪い相性の差を彼自身が特別と称する体質によってジリ貧に持ちこんで退けたというのだ。
よくよく考えてみれば、理子は契のことだけではなく、隷示や汐織のことも良くは知らないことに気付いた。普段は気前の良い彼らだが、いざという時……そう、理子が正真正銘の命の危機に晒された時、彼らが動く理由が無くて……もしくは彼らが動く上で自身の命に関わるとしても、彼らは理子の事を助けに来てくれるのだろうか。
結論はわからない。考えたくは無いが、彼女の命が風前の灯になった時、契が……もしくは隷示や汐織が、助けに来てくれるという保証はどこにもない。それこそ、今この場所で、理子が襲われて人質にとられたとして……。
考えるのはそこで放棄した。考えられない、ではなく考えたくなかったのだ。彼女にとって、甘いことで子供な考え方だとは理解しているものの、契も隷示も汐織もジャンヌも、全員が全員大事な仲間だ。ドライに考えることなどできはしない。おそらくそれが、彼女が下級構成員で成長が停滞している確固たる理由の一つなのだろう。
はぁ、と再びため息をつく。契はきっと、敵に捕縛されて人質にされたところで他人を頼ろうとは思わないだろう。誰も自分の事を助けになど来ないとドライに切り捨てて、単独で脱出する方法を探り当てて見つけ出すか……というより、そもそも契が人質にとられるなどと言うヘマをするとは思えない。
窓枠に置いてあった、薄桃色の自分の携帯が目に入る。西陣織の布製ストラップ他数種類のキャラクターものの携帯ストラップがついたそれを意味も無く眺めながら、契が帰ってくるのはあとどれくらいだろうかという根拠の無い計算を始める。
……と、その時だった。
「……?」
周りの情景に、少しばかりの違和感を感じ取る。技術を共有する場のイ・ウーにて、彼女が時には師である契によって少しばかり鍛えられた感覚器官の内の第六の物が嫌な予感を募らせる。
根拠の無い、それこそ契の帰ってくる時間の皮算用よりもあてのない勘であったが、しかし心なしか体感温度が数度下がった……ような気がする。風が吹かなければ寒いとかんいることが無い気温であることは確かだが……。
「なに、これ……」
ぞくぞくと背筋にざらざらとした実体の無い砂を流しこまれたような気がした。決して痛いと感じさせることは無いが、ただ違和感という一点のみを感じさせる未経験の感覚に、自分の腕が鳥肌を立てている事に気付く。
息を呑み、開け放たれた窓から深夜の空を見上げる。特に変わったような所は無いが……。
と、その時だった。
月の光が欠けた。
その現象で理子が思い出すのは“竜悴公”ブラドの元から母親の形見であるロザリオの力を借りて逃げ出した、あの夜のことだ。
ブラドの僕たる二頭のコーカサスハクギンオオカミの追走からルーマニアの大地をボロ布一枚で逃げ惑ったあの日。彼女の目の前に現れた一人の“殺人機”は、月の光を己の体で遮って理子の目の前に現れたのだ。
だが、それとは違うことに気付く。あの夜は、あくまで一瞬影が過ぎ去っただけ。だが今起きている現象は、現象に気付きそのことを思い出してという一連の思考動作が終わっても続いているのだ。
ましてや今日は雲ひとつない夜。雲が月を隠すなどという現象が起こり得るはずもない。
なら、なぜ。
「ご、ごめんね、驚かせちゃって……」
そう、声がかけられるまで理子は背後にいた彼女に気付かなかった。
「……淡雪お姉ちゃん?」
「こ、こんばんは。また会ったね……」
どこかぎこちなさそうに言う少女……ほんの半日前に理子と星伽神社で出会ったおどおどした“武装巫女”の一人、星伽 淡雪が赤い袴の典型的な巫女服の姿で立っていた。
……なぜここに。理子が彼女を見て出した最初の感想がそんな思考だった。
あくまで彼女と理子は赤の他人だ。自己紹介をしたとはいえ、会ったのは半日前の参拝と言う名の偵察の一回のみ。親しくなった覚えなど無いし、ましてやこの旅館の場所など口を滑らせもしていないので知るはずの無いことだ。
そして淡雪自身もそのことを疑問に思うことは理解しているようで、理子が質問をする前に答えを理子に言う。
「ごめんね……妖刀“村正”の事を知ろうとしている理子ちゃんとそのお兄さん、本当は疑いたくなかったんだけど……でも、星伽の掟で、そうしなきゃいけなくて……」
否、答えという程に大層な物ではなかった、ただ単に、規則という一点のみの回答。その物の言い方もどこか悪戯を叱責された幼子の言いわけに似ていて、自分より一回りほど年上のはずの彼女に、どこか年下めいた物を感じた。
「で、でも、理子ちゃんには危害を加える気は無いの!これだけは本当よ、で、でも……理子ちゃんのお兄さんは、なんかとっても悪い人みたいだから……」
「ちぎ……お兄ちゃんが?なんで?」
事実の所、秘密結社イ・ウーの構成員である状態で契は悪い人間だ。というか、イ・ウーの構成員の殆どがそうなのだが、とりあえずは実兄を悪者扱いをされた実妹の怒りを演じて訊く。
「な、なんでって……私にもよくわからないよ……で、でもっ」
何かを言いかけて、そこで自分の口を両手で押さえる。
「でも、なに?」
理子はそれを見逃さずに追求する。淡雪は数瞬目を泳がせて、言うべきかどうかを迷って……そして意を決するかのように白状した。
「み、霙ちゃんが……理子ちゃんとそのお兄さんが、妖刀“村正”を狙ってる……って。だから私は理子ちゃんたちをなんとか止めようとここに説得しに来たんだよっ!」
理子の顔が強張る。星伽 霙……理子の喉笛を日本刀で貫こうとしたあの“武装巫女”。
「で、でも……それでもやるって言うなら、私は理子ちゃんと……た、戦うんだからね!これでも私は強いんだから――!」
腰に差してあった一振りの刀を抜刀する。かちゃかちゃと震えさせながら、少し腰が引けた様子で淡雪はその切っ先を理子に向けた。
「だ、だからね、おねがいだから、抵抗はしないで……私と一緒に来て?」
震える声で言う。どこか怯えたような口ぶりに、理子は違和感を抱かざるを得ない。
彼女は“武装巫女”で、理子を圧倒的に上回っていると言っても過言ではない実力があるはずだ。なのに、なぜそんなに怯えるような立ち振る舞いを見せるのか。
おかしい。あきらかに、何かがおかしい。
「一つだけ答えて」
理子は声色を強くして訊く。
「月の光が欠けた現象、あれはなんなの?」
「あ、あれは……」
逡巡する。答えるべきか否かをまたもや迷っているようだ。先ほどの躊躇からも考えるからに星伽 淡雪という少女は迷いやすいのかもしれない。
「え、えっとね……あれは、その、あの……」
「あれは、なんなの?」
「えっと、その……」
問いつめる理子の視線に、きょろきょろとあたりを見回す淡雪。
「そ、それじゃあ、教えたら私と一緒に来てくれる……?もちろん、何もしないのは星伽神社の“武装巫女”の名にかけて……」
「わかった。教えて」
少なくとも、月の光を欠けさせる『なにか』は常識を逸脱しすぎている。こうしている間にも一向に戻る気配を見せない異常事態が、目の前の星伽の巫女が関係していないとは考えにくい。
そしておそらく、契の元にはあの“武装巫女”……星伽 霙が行っていると考えて間違いは無いだろう。
ならばここで理子が勝てない相手にじたばたもがくのは得策ではない。できうる限りの情報を入手して、できれば契に合流するに近い形でその情報を与えるのが、今彼女にできる最善の策だろう。
「ほ、本当?本当なのね?」
「いいからはやく教えて」
「わ、わかったわ……あれは、『
そこで淡雪は言葉を切った。旅館の部屋の入口の扉を開けて、外に出ることをジェスチャーで示しながら、言葉を続ける。
「ま、