敵の背後から不覚を取る形で刃を振るう霙であったが、意外なことに負傷をしたのはその霙自身であった。
突き刺さる痛みが体中を走り抜けた。目を落とせば自分の胸と脇腹の境目辺りに刃物が突き刺さっており、先ほどまで敵がいた場所には彼が着ていた上着が落ちているのみだった。
敵……契に掠って血潮を少しばかり浴びた“村正”の刀身を自分に引き寄せ、痛みに耐えながら数歩後退する。
しかしあきらかに鈍いその動きを契が見逃すはずもない。いつの間にか……きっと上着を脱ぎ捨てた時……両手に握られていた一対の金属製のトの字型の鈍器……暗器のなかの一つ、トンファーを取りだして霙に接近してきた。
霙はそれに対して、己の魔法少女としてのチカラを発動させる。直後、契のアッパーに近い掬いあげる形の攻撃は、不自然に逸れて射程の短さ故に霙のほんの目の前数センチの空をきる。
彼女の魔法少女としてのチカラ――“感撹乱”と呼ばれているそれ――によって、契の感覚が掻き乱されたのだ。
彼女の“感撹乱”を端的に言うなれば、それは『対象者の五感をしっちゃかめっちゃかに掻き回す』ということのみ一点に尽きる。
例えば視力。相手が見ている『座標A』にある『物体1』をチカラによってかき回せば、『座標A』とは全く違う『座標B』に『物体1』があるように見える。
例えば聴力。相手が『A』からの音を聞いているとして、それを掻き回しせばその音は別方向の『B』から聞こえるように錯覚する。
全てがそうだ。彼女のチカラによって惑わされた場合、ただ一点のみを除いてそれを回避することはできない。もっとも、撹乱して相手が感じている感覚は術者である彼女自身にもわからない(そういった所は絶界“小迷宮”によって補助する形でコントロールしていたのだ)。
「……
妖刀“村正”を握りしめ、トンファーを振り上げてガラ空きの腹へ刃を走らせる。もちろん一文字に斬るなどではなく、右脇腹から上へと斬り裂く。
的確な手ごたえ、生まれる傷、そして何よりも湧き出る鮮血。一撃で致命傷となり得る凶刃が雪の冷たさを想わせる白髪やモノトーン配色のTシャツを染め上げる。
振り抜いた“村正”から抵抗が消える。右脇腹から肩にかけてできた刀傷が噴水のように血を噴き出した。
いままで固く閉じられていた契の口が酸素を求めるかのように開いた。これまでの重傷を受けながら悲鳴の一つも上げないのは意地か、それとももうその余力も無いのか。不自然で人形然とした不気味な所を感じながらも、霙は“村正”の刀身を目の前に近づけて確認する。
鈍く赤黒く光っている刃。月明かりに反射して毒々しささえ思わせるその血泥を感慨も無く振るって払う。“村正”を鞘に収めようとして、いつもこの姿の時には持ち歩いていないことを思い出す。
「……結局、この程度」
目の前で倒れた白髪の男に幻滅して呟く。彼ならば……雰囲気から普通ではないとわかる彼ならば、自分の冷え切った心を熱く滾らせてくれると思ったのだが、それはどうやら期待違いだったようだ。
いったい、いつになったら……。
そこで考えるのを放棄する。頭を振って、胸と脇腹の境目に刺さっている物……契の暗器であるスティレットナイフを出血する事にも構わず、無造作に体から引き抜いた。
自身の血で鈍く光るそれを一瞥すると、霙は興味無くそれを放り捨てる。ボロボロのセーラー服の上から刺さったからか、少しばかり傷に布が擦れる感触がある。このまま無造作に放っておくと血が凝固して傷と癒着してしまうだろう。
踵を返して、契に背を向けて歩きだす。元より敗者を殺す気は無い。しぶとく生き残るのものたれ死ぬのもどっちでも良い。今の所、彼女の凶刃に倒れた者は運よく死んではいないようだが、今回は無理かもしれない、という思考があるのみだ。
今日からもどうしようか、とあてもなく漠然と考えながら踏み出して、そこで体の異変に気付いた。
体中から感覚が無くなってきている。
「な、にが……?」
無意識の内に自分に向けて“感撹乱”を使ってしまったのだろうか……いや、あくまで“感撹乱”は五感を掻き回すだけのチカラだ。五感を奪うのはチカラの勘定に入ってはいないし、そもそも自分に向けて使うことは、未だに悪夢で見ることのあるあの忌まわしい光景の記憶を封じ込めようとして、何度もやって失敗したことではないか。
なら、なぜ……?
カラン、と音がした。感覚の無くなった右手から妖刀“村正”が滑り落ちた音だ。
やがて、感覚の喪失は一つの大きな結果に変わって行った。端的に言うなれば、それは麻痺だった。体が言うことを聞かず、指を動かそうとするも失敗する。やがて砂利に混じる砂埃を上げながら、霙は地面にうつぶせに倒れこんでしまった。
その感覚の痺れ、脳からの命令を体が拒否するかのような事実。まるで痺れ薬を盛られた時のような――
(――痺れ薬……?)
そこで、ようやく一つの結論に至る。その真偽を確かめるために全神経を集中させ……そして一つの事実がそれを肯定した。
簡単な話。どこが一番異常事態の感覚が強いか。
“感撹乱”という感覚を改竄する彼女だからわかったことだろう。
だとしたら最悪だ、とそこで砂利を踏む音が耳に飛び込んできた。
幸い、聴覚も視覚も嗅覚もやられていないのでその事実を瞬時に理解した。足音のした位置、月に背中を向けている故に見える影、鉄臭い血の匂い。
足音が近づいてくる。動こうとしても、落ちた“村正”を拾おうとしてもそれを体が拒否する。無い感覚を精一杯伸ばしても動くことが無い。まるで、自分の体が鉛になったかのようだ。
「無駄だ」
冷たい声が背筋を舐めた。硬直する体から、かろうじて動かせる目の端にその声の主の姿が映った。不気味な白髪を後頭部で一つにくくった例の男……契だ。
契は体の動かないままの霙に一歩一歩近づいてくる。深い傷を負っているにも関わらずその足取りは嫌という程しっかりしたもので、まるでその身は無傷であると言わんばかりに易々と動いている。そこには彼女以上に人間としての雰囲気が存在せず、そこにあるのは受けた命令をただ実行するだけの機械であるかのような無機質さだけだった。
契は地面に無残に転がっている妖刀“村正”を右手で拾い上げた。空いている左手で探知の十字架を取り出し、それを近づけるとそれに反応して十字架の水晶が発光する。
「……」
こうして間近で舐めるように観察してみると、“村正”は分類的には大太刀になることがわかった。普段契が使っている二振りの太刀よりは大型の物で、常人が片手で振るうのは難しいだろう。
契は“村正”の刀身を、これまたどこから取り出したのか厚手の包帯のような布で包み始める。防刃性に優れた粗い布地故に刀身に斬られることのない頑丈なそれは、契の手際の良さもあってかすぐに長年の時を刀と連れ添った鞘であるかのようになじませる形で刀身を視界から隠した。
そのまま踵を返し、“村正”携えて帰還する。それが今回の任務における契の最後の課題であり、こうして回収を済ませた結果それは九割九分九厘完遂されたと考えてよいだろう。
「かえ、せ……」
そこで、彼の足もとに倒れ伏している霙の喉から自然とそんな言葉が出てきた。相も変わらずに掠れた声だが、その言葉の中に含む芯は彼が聴いた中で最も攻撃的な物だった。憤怒と言うのは甚だおかしいだろうが、少なくとも今の彼女は気が立っていると考えて間違いないだろう。それこそ、言葉の鋭さだけで人一人殺せてしまいそうな声色であった。
だからこそ、戦いの中では無感情な契は足を止めることができた。命乞いや覇気の無い声だったのならば聴く価値無しと彼なら断定づけるはずである。
「無駄だ」
敵意を向ける少女に、契は先ほどと同じ言葉を投げる。まずは端的に短く、その後に続けて彼女の言葉の中の攻撃意思をへし折ることを主目的とし、契は彼女自身が現在におかれている状況を……より正確に言うなれば今、彼女が動けない理由を口頭で説明する。
「お前を蝕んでいるのは“魔宮の蠍”手製の麻痺毒だ。解毒剤無しで時間の経過と共に解消される物だが……もう一度動けるようになるには一時間はかかるだろう」
「そんなこ、と……」
「ある」
霙の確固たる意志を突き放すかのように、現実は非情だった。契の言う通り、彼女の体は脳からの命令の中枢機能は強制的な阻害を受けて、指一つ動かすことすらを拒絶させられている。
だが霙は諦めない。
「かえせ……」
すがりつくように……あるいは噛みつくかのように、霙は契を逃がそうとはしなかった。
そして同時に、何故か契はその声に無意識の内に足を止めているのである。
詰まる所、機械のような人間である契にさえ、感情の欠落の存在を肯定せざるを得ない彼でさえ、そうしてしまう程に彼女の言葉には拘束力があったのだ。
それは彼女の“感撹乱”ではない。
そこで、気付く。その拘束力の
(……“村正”)
契は己の手元にある一振りの大太刀に目を落とした。見たところ何かしらの力が働いてはいない――ようにみえる。しかし事実として、彼女がこの妖刀に対しての執着心を燃やしている事により契を逃がさまいとし、その言葉についつい足を止めてしまうという事実にこの妖刀が何も関係していないと断言して良いのだろうか。この妖刀は紛れも無く妖刀である故に、非科学的な現象を引き起こすトリガーへと成り得るのも確かな事実なのだ。ましてや、この妖刀が未だに星伽 霙を主人と定めていた場合――妖刀が力を与えるのは持ち主なのだ――、不可思議な現象を生み出してもおかしくは無い……だろう。
「か、えせ……かえせ……かえ、せ……!」
そして、霙は動きだした。
とは言っても立ち上がれたわけでもなければ契の足を掴んだわけでもない。ただ漫然と、自分の体を芋虫のように引きずるようにして、前へ進もうともがくのだ。
そんな麻痺毒すらも撃ち破らんとする目の前の少女を見て、
(――どうしてだ?)
契はそんなことを胸中に抱いた。
“暗器術”によって体中に凶器を大量に隠し持つ“暗器使い”たる彼からしてみれば、彼女のように特定の一つの武器に固執する意味を理解することができない。契には武器と言う物は相棒ではなく手段の権化であり、壊れればいくらでも代替の効く消耗品に過ぎないのだ。
なので、彼女が(かなり貴重な物とはいえ)妖刀“村正”……それこそ世界中に複数存在する銘を持つこの大太刀に固執する意味がわからなかった。
「なぜ、妖刀“村正”にこだわる?たかが刀剣一振りだろうに……それに命をかけると言うのは些か非効率的だと思うが」
自分の考えを率直に質問する。が、
「かえ……せ」
と、霙はその質問に答えない……と言うよりは、答える余力が無いと見えた。
当然か、と自己完結する。
夾竹桃、と名乗る少女がいる。秘密結社イ・ウーの中でも下層ランク(実際的に言うなれば一対多の戦闘にて十分勝利を収める程の力を持つ者が多い逆の意味で名前負けした枠組みだ)に属する少女である彼女は、“魔宮の蠍”という二つ名を持つ毒手使いだ。
彼女の毒に関する膨大な知識と、同時にさらなる毒を欲する貪欲な探究心に契は好意を持っている(無論、プライベートな意味ではなく仕事に対する真摯な趣に関してだ)。
今回、彼のスティレットナイフに仕込まれた麻痺毒は、彼女が直々に調合した物を彼が譲り受けた物である。その効力は首から下の感覚器官及び運動能力の大幅な阻害、条件にして後遺症を残さない物であった。後遺症を残さない、という最大の難関を最もダメージ結果によって後遺症が遺される可能性のある脳、すなわち首から上の方向への効力をなくすことによってクリアしたのだが、その過程によって同時に体の方への麻痺効力がかなり強い物となったのだ。
その麻痺毒をまともに受けたのだ。本来ならば喋ることも無理だろうに。その中で喋るなどと言う行為ができるというのはただ単純に気力の問題ではない。
いったい、この“武装巫女”はどうして……。
怪訝な顔をする契に、そんな時に異怪な現象が発生した。
月が欠けた……それ即ち、
「か、返して!」
戸惑いを含みながらも、やや強気な色の第三者の声が耳に入った。赤い袴という典型的な巫女装束に身を包んだ黒髪の大和撫子、傍らに金髪の少女を伴った星伽 淡雪だ。
「……理子」
ぽつりと契が金髪の少女の名を溢す。その様子を見てか淡雪は懐から三十センチにもならない小刀を取り出して、理子につきつけた。
「い、今すぐ、霙ちゃんに“村正”を返して……そうしないと、理子ちゃんが、ど、どうなっても知らないからっ!」
欠けた月――それは星伽 淡雪の絶界“神隠し”の内部である事を意味している。周りからの関係を断ち切る“絶界”、その中でも隠密性に秀でた“神隠し”が、契と霙の居る場所をも範囲内として展開されたのだ。
「……どうなっても、とは?」
契は冷めたような目で淡雪に目を向ける。粗布に巻かれた“村正”片手に、無防備の状態で淡雪に問う。
「俺がこれを返さなかったら、理子に危害を加えるのか?」
「そ、その場合は仕方ないわ……」
「喉笛を掻き切るのか?頸動脈を切り裂くのか?目を潰すのか?脇腹をかっ裂いて内臓でも引っ張りだすのか?それとも心臓を一突きでもするのか?」
契はさもあたり前のように、淡雪ができる理子への危害を加える方法を列挙する。まるで犯罪を助長させるような物言いだが、彼の言葉は今現在の状況で彼女ができる選択肢なのだ。
それを踏まえて、契は言葉を続ける。
「べつにかまわない。理子をどうにもしようともお前の自由だ」
その冷徹な物言いに、淡雪は怯んだ。
「そ、それは理子ちゃんより“村正”を優先させるってことなの……?」
さも当然と言った様子で、契は肯定した。
「そもそも俺の第一目的はこの“村正”だ。何を一番優先すべきかは誰の目にも明らかだろう」
その言葉に揺らいだ。つまりは、目の前の男は理子を見捨てることに抵抗が無い、ということなのか?
淡雪の小刀が揺れる。どうするべきか逡巡し……そしてそれが、本来ならば気付くであろう
背後から、胸に槍を
契ではない。もちろんのこと傍らにいる理子でも、ましてや倒れ伏している霙でもなかった。
妖刀“村正”をめぐる……否、これより始まる『奇奇怪怪』の幕開けである。