ルーマニアは東ヨーロッパにある共和制国家だ。
北海道とほぼ同じ緯度にあるルーマニアは日本と同じく四季がある。夏の気温は三十度を超えることがあるが、湿気が少ないことで日本の夏に比べれば随分と過ごしやすい反面、秋からは随分と肌寒くなる。
……とは言っても今は七月の後半。実に過ごしやすい陽気に包まれた、それはもう丁度良い気温に街中の人々は心地よさを感じていた。
だが、だからといって少女の出で立ちはそんな季節だとしてもこう言うことができた。
――『おかしい』。
それは面白いという意味の『おかしい』ではなく、異常という意味の『おかしい』だった。
歳は十歳くらいだろうか。風が吹いたら今にも折れてしまいそうな弱々しさを見せる細い四肢に、本来なら綺麗な金色であろう傷み煤けた長い髪。瞳に生気は無く、足取りもどこかふらふらとしたもので、身に着けているのは服などでは無い。全裸の上からボロ布一枚を手で押さえているという状態だった。
少女は衰弱しきっていた。事実として腹は鳴りやまず、喉は干上がっている。そもそも、まともな食事どころか綺麗な水すらこの数年間飲んだ記憶が無い。むしろ泥水と残飯のような食事でここまで生きていたことが奇跡に近いとも言える。
……そう。少女は監禁されていて、そしてそこから逃げ出したところなのだ。
蛇行する足取りの中で少女は考える。これからどうすればよいのだろう?
逃げ出すことができたのは良かっただろう。しかし逃げ出した今となっては後悔ばかりしかない。
なぜなら、事実として彼女には頼れる人物などどこにもいないのだ。
仮に彼女が頼ることのできる人がいたとすれば、その人の所に逃げ込めば良いのだろう。その人は彼女の状態を見て、慌てながらもきっとかくまってくれることだろう。距離とかが無理ならば警察に頼ればよいだろう。
だが、前述の通りに彼女にとってそもそもの前提が違う。少なくともそんな頼れる人物などこの世界に一人として存在しない。
彼女は名家出身の一人娘、つまりはお嬢様だった。父は数々の秘宝を手中に収めた怪盗一味のリーダー。母は父の一味と協力したり、敵対したりしていたらしい。そしてなによりも曾祖父は歴史にも残る大怪盗だ。
そんな由緒正しき伝統のある怪盗名家に生まれた彼女。だが彼女に不幸なことがあるとすれば、彼女は周りの人間から『大怪盗の曾孫』としか見られなかったことと数年前に両親が亡くなったことで家が没落した際に血縁者を名乗る者に監禁されたことだろう。
それからは苦痛の毎日だった。その日々を思い出すという行為自体も拒否したくなるような、苦痛、苦痛、苦痛。こんなボロ布を衣服として与えられ、暗い牢屋の中に閉じ込められた数年間。唯一の心のよりどころは、監禁した者たちに獲られないように口の中に隠していた母の形見のロザリオだった。
そのロザリオが、彼女が逃げ果せた理由でもあった。
つい最近気付いたことだった。理由や理屈があるのかは定かでは無いが、このロザリオは彼女に不思議な
霞む視界の中、月の光だけを頼りに弱々しく歩く彼女の耳に聴き慣れた、聴き慣れてしまった息づかいが届く。
間違いない。追手だ。
「……っ!」
悲鳴どころか声も出ることはなかった。年端もいかない子供なら恐怖で心臓が潰れるような状況なのだろうけど、しかし彼女はそれに慣れきってしまっていたのだ。
望むことの無い、そして望まれることの無いはずの事実に胸が痛む。しかしそんなことにかまってられるほど状況は良くは無い。少しでも、一歩でも遠くに逃げなければならないと彼女の生き物としての生存本能が叫ぶのだ。
それでも現実は非情だった。追跡者の、体長1メートルを超える銀狼の息づかい……そして足音が確実に近づいてくる。
逃げろ。
逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ!!
頭の中では、そんな言葉がぐるぐると回る。体に電流が走るような感覚が蘇る。
このまま再び捕まれば、あの牢獄の中へ逆戻りだ。あの寒い独房へ、あの非情な暴力の中へ。
足音はどんどん近付いてくる。元々人間と狼の足の速さなど比べるに値しないものだ。そして少女は衰弱しきった女児。
無理だ。
そう悟ってしまうと、彼女の中にあった決意がガラガラと音を立てて崩れて行く。
ガサリ、という音が聞こえた。体全体が硬直する。首を無理矢理動かしてその方向を見れば、見慣れた銀狼が二頭、姿を見せた。
コーカサスハクギンオオカミ。絶滅危惧種にして成獣だと100キロを超える体重を持つようになる、オオカミの中でも巨大な種だ。
「ぁ……」
小さく、ようやく小さな呻き声のような悲鳴が口から零れる。だが、それで二頭の銀狼が身を引くなどという行動に出るはずがない。彼女を逃がせば、自らの主に彼らが殺されるからだ。
二頭の銀狼はジリジリと詰め寄る。彼らは別に少女を食い殺すために追って来たのではなく、あくまで彼女を『回収』するのがその身に課せられた任務だ。下手に動いて彼女を殺してしまえば、彼らの主の大事な『コレクション』の一つを失うことになり、それはすなわち彼らの死に直結する。
だからあくまで銀狼の動きは慎重だ。丁寧に、無駄な傷をつけることをなるべく無くして少女を主の元に連れ帰る。できれば、彼女自身の足で歩かせれば牙や爪で傷つけることが無いのでなお良い。
一方の少女も、二頭の銀狼からの重圧に屈しそうになっていた。月の光を受けて鋭く光る爪牙に傷つけられるぐらいなら、いっそのこと自らの足で歩いて檻に戻った方が、最終的に痛めつけられる回数は格段に減るのではないか。
少女の憔悴した顔に、諦めの色が見えた。
きっと、ここで帰ってしまえばもう二度と逃げ出すチャンスは無いだろう。彼女が逃げ出した方法をあの手この手を使って暴き、そしてその方法を……少女の宝物であるロザリオを奪うだろう。
ならば、と考える。ならば、いっそのことここで死んでしまおうか、と。
自分をこんな目にあわせた奴へ、一矢報いることができるのではないか。復讐はできないけれど、自分の中で支えていた一本の柱は果たせないだろうけど。それでも、家畜として無意味に生きるよりは、ここで散った方が楽なのではないか。
……そうしよう。
即決した。そっと目を配らせれば、お誂え向きに尖った石が転がっていた。
少女は、それを手に取る。鋭利な、鏃のようなそれを自分の喉元へ向ける。
それを見た二頭の銀狼は、焦ったように足を躍らせた。その光景に、少女は少しおかしさで口の端を歪める。自分の命が果てるのに、最期に見たのが憎き相手の僕の慌てた姿だとは、随分と安く、滑稽なものだ。
そこで、一つの影が少女に降り注いでいた月光を遮った。突拍子もないいきなりの出来事に、少女は思わず上を見上げる。しかし空には鳥などの姿は無く、あるのはただ黙々と太陽の光を反射して夜の世界に光をもたらす月だけだ。
そして我に返った少女は後悔する。石で喉を裂こうとする過程で、反射的にとはいえ自分の行動に隙を作ってしまった。
たった数秒の隙とはいえ、隙は隙。バケモノに飼いならされた下僕は同じくバケモノだ。元々狩猟本能を持つオオカミたちが、獲物の決定的な隙を見逃すはずもない。
だが事実として。二頭の銀狼は少女に
そこで、少女はやっとその存在に気付いた。
少女と二頭の銀狼を分断するかのように立ちはだかる、一つの人影。月光に照らされることによってその人影の後ろ姿は克明に見ることができた。
身長は170センチくらいだろう。やや細身の体型で、モノトーン色の衣類をその身に纏っている。左右の腰にはそれぞれ一振りずつ日本刀の鞘を掛けており、両手にはそこから抜刀した物と思われる日本刀を握っていた。
そして……腰辺りまで伸びに伸びた、一つ結びにされている長い髪は冷たささえ感じさせるように、雪のような白さを持っていた。
「動くな」
その人影が、言葉を発した。少女より少し年上の、青年とまではまだ行かない歳の少年の……しかしそれにしては随分と冷たく感じる声が、静寂の夜に静かに冷酷に響く。
「そして平伏せ。そうすれば、俺はお前たちを殺さずに済む」
その言葉は、どうやら少女を追ってきた二頭の銀狼に向けられた物らしかった。しかしそれでも、少女の背筋には悪寒が走った。
それは彼女が今まで感じてきたあらゆる恐怖とは別の恐怖。別に少女に向けられた言葉では無いはずなのに、しかしその声に乗せられた少年の意思は彼女に伝わってきた。
『殺意』。もし妙な真似を、それこそ自分に反抗すると言うのなら迷わずに殺すという、少年の心の声。
少年が躍り出た瞬間こそ警戒の念で唸っていた二頭の銀狼だったが、彼らも少女と同じことを感じ取ったか、あるいは動物としての生存本能からか、少年の言葉に従う他なかったようだ。そっと、二頭の銀狼は地面に腹をつけて投降の意を示す。
「……そうか。良い判断だ」
白髪の少年はそう納得したように言って(しかし少し残念そうな様子で)、次はその体を少女に向ける。
「一つ確認をしたい」
少女に目を向けながら、少年は問うた。
「君がリュパン4世か?」
少女の顔が屈辱に歪む。そうだ。いつも彼女は、そのレッテルを貼られて接されてきた。だから、少女は、リュパン4世はその呼び方が嫌いだった。
黙りこくったリュパン4世の姿に、白髪の少年も何か思い当ったようだ。
「訊き方が悪かったか?ならば、それを変えよう」
白髪の少年は、まるで機械のように言葉を改める。
そして、少女が一番言ってほしい呼び方をした。
「君が、峰 理子か?」
こくん、と頷く少女、改め理子を見て、白髪の少年は言葉を続ける。
「そうか。俺は秘密結社イ・ウーの構成員、契。率直に言おう」
――君を、助けに来た――