“無限罪”という二つ名は、その凶悪性に相反してあまり知れ渡っていない。
今の世の中には武偵という職業がある。正式名称は『武装探偵』。その最初と最後の文字を取って略称の武偵というのだが、実際問題としてそれは探偵と言えるのかどうかは怪しいところだ。
武偵は国家資格なのだが、その資格を持つ者は武装の許可や逮捕権の有すなど、警察に準ずる権利を持つことができる。
それだけなら警察予備軍などと言えるのだろうけれど、しかし武偵と警察の相違点を上げるのかとても容易だ。
まず、原則として武偵は人を殺す事を許されていない。銃社会のアメリカなど一部の国でライセンスを取った者には例外が存在はするが、多くの場合自衛のためにでも殺人は禁止されている。
元々、これは武偵が存在するためへの代償ともとれる。これは警察との相違点の一つで、武偵は武偵専用の法律、通称『武偵法』によって定められていることを守れば、なんでもやってい良いというお墨付きを得ている『何でも屋』という側面を大きく持つからだ。この武偵法は国ごとに定められており、例えば日本とイギリスの武偵法の違いは殺人を許されるか否かである(イギリスは数少ない武偵に殺人を許可している国家なのだ)。
こういった野蛮ともとれる武偵という職業だが、しかしこの職業の発展は実際問題として凶悪犯罪の増える今の世の中をどうにかしようとする一種の抵抗だ。事実といて武偵制度の導入がされた国々からは凶悪な犯罪者の逮捕や拘束の数は跳ねあがり、その恩恵として凶悪犯罪によって被害を被る人々は少なくなった。第二次世界大戦以降、平和主義で有名な日本でも犯罪率を下げるために武偵制度が導入されたという話も耳に新しい。
言うなれば、多くの武偵は表社会での仕事をする者達だ。大抵の犯罪者の情報はまず武偵と警察、そして武装検事(殺しのライセンスを持つ公務員のことである)の三つの職業に入る。言うなれば必然の結果だ。
だが“無限罪”の名は、その三つの職業の中でもさらにごく一部、しかもその中で最も世界の『暗部』に近い者たちしか知ることができない。それはその“無限罪”と言う名のそれは表立てることのできないほどに脅威である存在だという証拠だ。
例を上げるなら、秘密結社イ・ウーもその範疇に存在している。その正体は不明。実際問題として、そういった集団があることはわかっていても、それが一体なんの目的を持つのか、彼らを逮捕する理由があるのか、そもそも犯罪者というカテゴリーに含めて良いのかすらわかっていない。彼らに関しては多くの国が傍観を続けており、彼らのことを知った者は即ち殺しのライセンスを持つ公務員、武装検事の手によって命どころか社会的にも消される運命にある。
それは“無限罪”と呼ばれる存在も同じだ。最も、彼(彼女?)に言えることは、それが個人で単数ということのみだ。どんな人物なのか?性別は?年齢は?そもそも人間であるのか?伝承の生んだ産物ではないのか?本当に存在するのか?
存在が確認できていないだけ、集団であることによって厄介なイ・ウーよりも性質が悪い。存在するか自体怪しい“無限罪”の二つ名を持つ『何か』は、ある一種の『恐怖』の根源として扱われていた。
……しかし、その存在すら疑われるまで畏怖の念を抱かれる“無限罪”と呼ばれる『それ』は、拍子抜けするほどに人間らしく、激昂していた。
月夜の晩に、腹に響く雷のような轟音が響き渡る。
これを聞いた人々は、いったいその声をどう思うのだろう。ある人は落雷と思うかもしれないし、ある人は悪魔の笑い声だと断定するかもしれない。少なくとも生き物が口から発する物とは思えない『それ』は、事実として生き物の口から発せられる怒りの声であった。
体長は二メートルくらいだろうか。全身焦げ茶色の肌や体毛とオオカミのような頭部を持つ“無限罪”の二つ名を持つ『それ』は、不気味に光る真っ赤な双眸を目の前にいる彼らに向けた。
彼ら……自分の元から逃げ出した繁殖用の牝犬を連れ戻すために向かわせた自分の下僕である二頭の銀狼は一丁前に恐怖で顔を歪めて自分を見上げている。まるで許しを乞うかのような顔だ、と“無限罪”は思った。
オオカミのように大きな口が、愉悦に歪む。許されたとでも思ったのか、二頭の銀狼は少し安心した様子だ。
そして“無限罪”は、容赦なく一頭の頭を踏み砕いた。
鮮血が舞う。踏みつぶした裸足の足が真っ赤な血に汚れる。脳みそだったモノがびちゃびちゃと零れおちる。
「ゲゥババハハハ!!許されるとでも思ったか、この役立たず共!!」
一緒にいた銀狼が無残に殺されたことで、もう一頭の銀狼は慌てたように駆けだした。一歩でも多く“無限罪”から遠ざかるように、瞳を恐怖に色付けて、生存本能に従い、必死に逃げ惑う。
しかし、その逃避行はバチリと瞬いた一筋の光によって呆気なく終わった。
その身に光を受けた銀狼はびくびくと痙攣する。逃げようともがくが、立てない。いつもならば普通にできたはずの立って走るという行為そのものが、やり方を全て忘れてしまったように。
地面に響く足音が近づいてくる。虚ろな目で見れば、自分の主がすぐそこに立っていた。
「よくやったぞ、ヒルダ」
「お父様から逃げようだなんて、下僕のくせに生意気なのよ」
目の端に、一人の女が映った。銀狼は知っている。彼女は自分の主の娘だ。
「ゲバババ!その通りだな。だったら、その生意気な下僕はちゃんと粛清しなければならない」
“無限罪”が足を上げる。月明かりに照らされ、銀狼の頭の上に影が差す。
ボタボタと血が落ちてきた。自分と一緒にいた奴の頭を踏み砕いた足だった。
足が振り下ろされる。一頭の銀狼の頭を踏み砕いたそれは、もう一頭の頭も簡単に踏み砕く。
再び血に濡れる。ぐにぐにとした感覚が足をつたう。球体のナニカが足の下からはみ出てゴムボールのように脇に逸れて転がって行った。
それは神経のついた眼球だった。
銀狼を殺した張本人が短く舌打ちをする。殺したとはいえ、眼球一つでも自分から逃げ出したのは気に食わなかった。
下僕のくせに。下等種族のくせに。
「あら、随分と苛立っているわね“無限罪”」
だから、その声の主の言葉が的確に的を射ていた。
「誰だ!!」
声のした方向に首を向ける。巨大な口を大きく開き、月光に大牙を鈍く光らせ腹の底から吠えるように叫ぶ。
「あら。これは予想以上ね。あの子を自分の元から奪われたことがそんなに気に食わなかったのかしら?」
その声の主は、案外近くにいた。と言うより、銀狼の眼球が転がり、静止した位置でそれ拾い上げていた。
「案外考えないで行動するのね。私の記憶が正しかったら、コーカサスハクギンオオカミって随分と希少価値の高い絶滅危惧種じゃなかったかしら?」
黒髪の女だった。肩あたりで切りそろえられたその髪は随分と手入れされている様子で、少し紺色に近い。着ている服はというと薄紫色のシャツに色落ちし始めたジーンズ。その上から何故か白衣に袖を通していて、しかしボタンは留めていない。少し力が抜けがちな表情から合わせて、イメージとしてはだらけた研究員のような雰囲気だ。
「なにを言っている。それは俺の下僕だ。使えない下僕は殺すのが当り前だろう」
「あら、使えないからと言って切り捨ててばかりじゃ最後にはたった一人になるわよ?」
威嚇するような“無限罪”の言葉にひるむ様子も無く、女は力の抜けた笑みを浮かべる。
「“無限罪”……いえ、ここは『ブラド』と呼んだ方がいいかしら?」
白衣の女はそんな事を言う。まるで“無限罪”と呼ばれる自分の事を全て見透かしたようなたち振る舞いに、“無限罪”改めブラドは鼻で笑う。
「随分と余裕だな、女。俺の名を知っていて、そんな態度をしている奴に出会ったのも随分と久しぶりだ」
「あら、
「だがな――」
どこか緊張感の感じさせない白衣の女に、ブラドは拳を振り上げる。
「そんな態度で俺の前に立った奴らは、みんな同じ運命を辿ることになるんだよ!」
小柄な人間一人がすっぽりと入るほどに巨大な拳をそのまま打ち出す。風を引き裂く音が鳴り、その拳は白衣の女に襲いかかる。
白衣の女は、糸の切れた操り人形のように体中の骨を歪に折り曲げて地面を滑るように転がる。二転三転と体中に傷を生み、白衣をズタズタに引き裂き、近くにあった樹木にぶつかってやっと静止する。
「……なに?」
そして、己が目を疑った。自分に逆らい、殴り飛ばされて無残な死体となったはずの白衣の女は、歪に全身の骨がおかしな方向に折れ曲がって傷だらけなのだが、しかし一滴たりとも血が流れていない。
ブラドは竜悴公の名の通り、吸血鬼だ。血に過敏に反応することのできる彼が、血に関して間違うはずもない。
「あら、驚いてくれたのかしら?」
白衣の女の声が聞こえた。それも、自分が殴り吹き飛ばした体がある方向とは見当違いにも程がある程に違う方向からだ。
ボンッ!という間抜けな音が鳴る。さっきまで白衣の女の体があった場所からで、それは一枚の紙切れになっていた。
長方形の『偽』と書かれたその紙きれは、次の瞬間には塵になっていた。
「貴様……!!」
声のした方向を向く。と、途端にブラドの左胸に光が突き刺さった。
「あら、状況判断を鈍らせるから焦りは禁物よ?」
『攻』と書かれた数枚の紙切れを、トランプを広げるように持ちながら白衣の女は近くの樹木の太い枝に木登りして遊ぶ子供のように腰かけていた。
「ついでに娘さんには眠っておいてもらったわ。この娘は吸血鬼として若い分、タフそうだものね?」
ブラドは気を失うように倒れているヒルダを見やり、
「娘をどうやって無力化した?」
「あら、そんなの簡単よ。私の偽者に気を取られている間に不意打ちをさせてもらったの。眠っているだけだから気にすることは無いわよ?」
「俺やヒルダが吸血鬼ということを知っているということは、どうやら自分が誰に喧嘩を売っているかはわかっているようだな」
「ええ、それはもう。私の個人的な意見としてはあなたたちに関わりたくは無いのだけれどね?」
ふふっ、と白衣の女は困ったように笑うと、
「でも、それは仕方ない事なの。あなたは私たちを下等種族として見下しているようだけれど、結局あの方にとって私たちは同等の存在でしかない。あの方が
白衣の女は続ける。
「私もあなたもさっき死んでしまった二頭のオオカミも、さらに言うならあなたの所から逃げたあの子もそれを助けた契くんも、全員が全員平等にあの方の掌の腕で踊っているだけ」
「ふざけるな!」
ブラドが白衣の女の言葉を遮る。
「俺が掌の上で踊っているだと?馬鹿馬鹿しい、下等生物の貴様らに、俺の研究を邪魔することなどできはしない!」
「なら、それを覆してみたら?少なくとも、あの方はこれから何年も先に起こる万物を全て知っている。少なくともあの子があなたの所から逃げ出したのを都合よく契くんが助けることができたのも、あの子が今日という日に脱走するという事実を推理し、知っていたからよ?」
それを踏まえて、と白衣の女は薄い笑みを浮かべる。
「あの方の推理した事実を覆すと言うなら、イ・ウーに彼女を取り返しに来なさい。いつでも私たちは待っているわ」
次の瞬間、白衣の女は一枚の紙を放る。『輝』と書かれたその紙は宙を舞うと同時に閃光弾のような輝きを放ち、ブラドの視界をくらませた。
「楽しみにしているわよ。あなたが既に決定した未来を覆せるのか」
やる気の無さそうな、力の抜けた声が耳に届く。光が消える頃には、白衣の女はどこにもいなかった。