チチチ、と小鳥の囀りが聞こえてくる。
すっきりとした朝の目覚めは私の体だという事の証明でもある。今日は正常な私の日だ。ソファから身を起こし、洗面所で顔を洗ってツインテールを結ぶ。毎朝の儀式みたいになっている一連の動作を遅滞なく済ませて、私は寝床になっているソファに座る。テレビをつけて音量を小さくし、そして課題ノートを広げた。
和泉君と入れ替わっているためか、課題の消化速度が予定よりも遅い。本当ならお盆前には夏休みの課題を全部を終えているはずだったのに、まだ三分の一くらいは残っている。
「和泉君の時にはできないからね」
筆跡が違いすぎて、代わりに進めるなんて事ができないのだ。
初めの頃は検討したのだけど、やっぱり無理があった。
国数英のうち、国語はとうに終わらせた。英語もあまり苦ではない。三教科の中では、やっぱり数学が一番苦手だと思う。
古典だったら百点だって余裕なのに。
小さい頃から祝詞に親しんできた私にとって、古文は現代語並みに身近だったのだ。その音の響きが懐かしいとすら思うくらいで、品詞とかは別問題にしても、古文そのものを忌避する感情はない。だから、勉強が捗る。数学はその逆を行く。勉強は捗らない。
和泉君は数学、結構得意なのかもしれない。
何となく、ちらりと見た彼のノートとか見る限り、そんな気がする。その半面、古典が苦手なのはテスト失敗したと平謝りの電話を寄越した事から明確化している。
真夏のせいか早起きしても清清しいと思えないのが残念だ。
田舎なら、暑くても清清しいと思えるのだが東京は窓の外を見てもコンクリートの森がどこまでも続いているだけで、むしろ暑苦しい。
「朝早いけど、エアコン入れよっかなー」
背凭れに体重を預けて、エアコンのリモコンを手に取った。
しかしながら、ここはお姉ちゃんの家である。光熱費がお姉ちゃん持ちなので、無駄遣いは申し訳ないという気持ちがある。
リビングの入口に目を向けるけれど、お姉ちゃんが起きてくる気配はない。
取得した夏休みを存分に使って、寝通す算段なのかもしれない。
いいのかそれで。
華のない学生生活を送ったお姉ちゃんは社会人になっても灰色の生活から抜け出せないでいるようだ。
「お金も入って、一番生き生きする頃なんじゃないの」
新社会人のフレッシュさが、お姉ちゃんからはすでに失われているような気がする。
仕事で怒られた時は家でほどほどにお酒を飲んで愚痴を言い、次の日にはけろっとして出社していく。怒りも不満も寝たら忘れる単純な脳細胞のお姉ちゃんなのに、どっかしらに引っかかるものを感じているのか異姓との接点をまったく作ろうとしない。心に刺さった棘をあえて抜かないようにしているかのように、お姉ちゃんはその一点のみ、ずっと拘り続けているみたいだ。
シャーペンの先をノートに付ける。
ぼうっとしていても課題は進まない。朝の勉強時間二時間分をどこで取るのかで、その日一日のコンディションが決まるのだと私は自分に言い聞かせる。
できれば、まだ朝と呼べるうちにやり切ってしまいたい。具体的には八時半までに予定をすべて片付ける意気込みである。
黙々と、時折ニュースを眺めながら私は課題を進めていく。
分からないところは悩まずに、さっさと答えを確認してやり方を覚えるに限る。解きなおしは後でいい。まずは提出できる状態に持っていくのが夏休み課題の鉄則である。
良い感じに集中できてきた、と感じていた時に静寂を突き破る着メロが鳴り響く。
「うわ」
心臓を鷲掴みにされたような感じ。驚いて考えていた事が吹っ飛んでしまった。
画面に表示されているのは小滝和泉の四文字。
「和泉君? なんで?」
入れ替わっていない状態で連絡を取るのは、初めてかもしれない。
自分達の生活には、踏み込まないようにしていたから。
「はい、もしもし?」
『ああ、宮水? おはよう』
「はい、おはよう。めずらしーね。小滝君が、この時間に起きてるなんて」
『俺だっていつもいつも昼前まで寝てるわけじゃないからな』
「そうなんだ」
意外、と言ってやろうとしたら電話口でガツンガツンと何かがぶつかる音が聞こえてくる。『ちょ、今電話してるから! ミニカー投げんな!』と騒いでいる。思わず、私は苦笑した。
「お兄ちゃん大変だね」
『分かるだろ、宮水だって』
「元気だからね、二人揃って。でも、あれでしょ。夏休み終わったら寮に行くんでしょ?」
『そうだな。こっからだと、通うのがキツイからな』
和泉君が暮らす限界集落に高校はない。中学の分校を卒業すれば村を出て行かなければならない。高校から一人暮らしというのは私と変わりない。
和泉君の場合も学校の寮で暮らしている。そういう学校を選んで進学したらしい。
「お兄ちゃんいなくなったら寂しくなるし、今のうちに目一杯遊んであげたら?」
『分かってるよ。今だって、痛ッ、ミニカーやめろって』
どっちにちょっかいをかけられているのだろうか。
ユキ君とミキちゃんの相手をする和泉君は新鮮で、失笑したくなってしまう。
そういえば、彼の声で、彼の口調で言葉が聞こえてくるのも、今更ながらに新鮮さがある。和泉君の声は、基本的に自分が発した音しか聞いた事がなかったからだ。
「それで、何かあった? 入れ替わってないのに、電話寄越すなんて初めてだよね」
『あー、それな。実はさ、明日、東京に行く事になったんだよ』
「は? 東京に? 何で」
『親父の実家がそっちにあるから』
「ああ、そういう事」
それは知らなかった。お母さんが糸守出身という事くらいしか、私は知らないのだ。
『それで、せっかくの東京だからってんで、途中で抜けさせてもらう予定なんだけどよ』
「んー」
『あー……どっかでさ、会わないか?』
「は?」
は? って言ってしまった。
かっと血流が速くなって、顔が紅潮していくのが分かった。
「あ、えーと」
『予定があるんなら別にいいけど』
「明日……予定、ないよ」
頭の中に予定表を作り出し、明日の予定を確認するが見事に真っ白だった。
何か予定があってくれれば良かった。予定があれば、深い事を考えずに答えられただろうに。
『そうか、なら、二時くらいになりそうだけど、四ツ谷駅前で待ち合わせ。どうだ?』
「あ、うん」
こくん、と私は馬鹿みたいに頷いた。
電池が切れた人形みたいに。
『……あー、じゃあ、また明日』
「うん、また明日」
ぷつり、と耳障りな音がして通話が途切れた。通話時間はたったの四分二十秒。だというのに、その三、四倍は時間がかかっていたような気がしてしまった。
また明日。
その言葉が脳内にリフレインする。
明日、明日、明日、明日、明日……明日、翌日とも言い換えられる。今から、二十四、五、六……三十時間後だ。
「明日!?」
何という事でしょう。
唐突過ぎる。
私は勢いよく立ち上がってしまって、椅子がガタンと大きな音を立てた。
「もー、四葉朝からなに騒いでんのー?」
眠気の名残を両肩に背負い、お姉ちゃんがリビングに入ってきた。
「お姉ちゃん、ちょっと相談があるんだけど」
「ん、何よ改まって」
「服、貸して」
怪訝そうにするお姉ちゃんの顔を私はひたすら真っ直ぐ見つめた。
■
親父の実家に顔を出すという話を俺が母さんから聞いたのは、昨日の朝の事だった。いきなり、明日お爺ちゃんのところに行くから、なんて事を言い出した時は急すぎて耳を疑った。
あの人は俺に予定があるのかどうかすら聞いてこない。事前に相談して欲しいのが正直なところだが、生憎とこんな田舎にいては予定があると思うほうがおかしいのかもしれない。田んぼと畑と山と小さな清流しかないこの村で寝起きしている以上、予定の組みようがないからだ。
親父は診療所を簡単には空けられない。だから、日程の調整をするのがギリギリになったのだとか言い訳は聞いたけれど、そんな親の都合は子どもにはまったく関係のない事だ、と反発心が鎌首を擡げる。
いや、今親と事を荒立てるのは良い事じゃない。
四葉といつ入れ替わるか分からない以上、家庭内に不和があっては迷惑をかける。
そんな考えもあって、最近の俺は母さんにあまり意見しなくなった。
おかげで、春先までちょこちょこやっていた喧嘩が夏休みになってから一度もない。
親父の実家は東京都心にある。お盆と年末年始に行くのが毎年の恒例行事となっている。今年はお盆明けにずれ込んでしまったが概ね例年通りとなるだろう。
ふと、勉強机を見る。
俺の勉強机の上に「製作中、触るな」のメッセージが二重線で消され、その隣に「完成、あげる」のメッセージが書き加えられたコピー用紙が貼ってある。四葉が俺の体で作っていたミサンガの事だ。青と白の糸を組み合わせて作ったミサンガは手作りにしてはかなりの出来だと思う。
試しに手に巻いてみるとしっくりきた。
四葉が組んだミサンガだと思うと、何と言うかむずむずしてくる。
これを貰って良いのか、会ったら聞いてみよう。
「東京にいるんだよな」
年に二回は必ず行く日本の首都。
田舎とはまったく違う光景は、見慣れたものではあったけれど、四葉が暮らしていると思うと違う景色に思えてくる。
四葉は東京で、どんな風に生活しているのだろう。
何度も入れ替わっていても、俺は結局四葉がどんな風に人と接し、どんな風にあの都会を生きているのか全然知らないのだ。あの町にいる時、四葉は俺になっているのだから当たり前だ。
いつの間にか、四葉が四葉の体で四葉の心で生活しているところに触れてみたいと思うようになっていた。本当の宮水四葉と話をしてみたかった。
「和泉ー、準備できたー?」
「できたよー」
一階から、母さんが声をかけてきたので返事をする。
母さんには東京の友だちに会うから途中で別れると伝えている。糸守の人だと言うとあっさりと了承してくれた。母さんが糸守出身だという事は、四葉とラインで連絡を取り合うまで俺の中からすっかりと抜け落ちていた事だった。
四葉に頼まれてコピーした、アイツの母親が写っている写真をビニール袋に入れて折れないようにファイルに挟み、リュックサックに入れる。
四葉は母親の顔をほとんど覚えていないらしい。物心付くかどうかという時に病気で死別し、写真も隕石の落下で全部無くなってしまったからだという事だ。
そんな辛い経験を俺はした事がない。親戚はみんな元気にやっているし、葬式だってほとんど縁のなかったひい爺さんのヤツに顔を出したのが最初で最後。それも、ずいぶんと前の話だ。
だから、四葉になんて声をかけたらいいのか分からない。できる事といえば、アイツに母親の写真を届けてやる事くらいなのだ。
俺は、多分今までにないくらい大切なものを背負っている。
駅に向かう車の中でも、俺は一刻も早く東京について欲しいと願っている。
早く東京に行って、四葉に写真を渡してやりたい。それで、できる事なら笑うところを見せて欲しい。アイツの笑顔が見たい。そう、思っていた。
■
『もしかして、デートぉ~』などというお姉ちゃんの余計な詮索を華麗にスルーして、私は家を出た。
天気予報は晴れ。降水確率ゼロパーセント。見た感じでは、空には雲ひとつない快晴で、概ね天気予報の通りだ。ゲリラ豪雨がなければ、このままの天気が明後日までは続くはずだ。
服はお姉ちゃんからの借り物だ。ベージュ色のフレアミニのワンピースと夏物の黒いカーディガンを羽織った。もう少し細部に彩があってもいいんじゃないかとお姉ちゃんは言ったけれど、そこまでしなくても良いと固辞した。
マンションから出た私は、そのまま約束の四ツ谷駅前に向かって早足で歩いた。
途中、路肩に停まっている車のサイドミラーで髪型が崩れていないか確認しつつ、徒歩二十分の距離を寄り道せずに踏破する。
平日だけど、夏休みという事もあるのだろう。駅前はなかなかの人混みだった。邪魔にならないように端っこに寄って、建物の影に逃げる。
ショルダーバッグからスマホを取り出して、スリープモードを解除した。時刻は十三時三十分。約束の時間まで、後三十分もある。
和泉君は今、どこにいるのだろう。
昨日の夜の時点の情報だと、昼前には都内の父方の実家についているはずだ。そこから電車で四ツ谷駅まで来る。だから、きっと今は電車の中にいるだろう。出てくるとすれば、駅の中からやって来るに違いない。
「熱い」
天気が良いという事は、それだけ気温が高いという事だ。
私は手を額の上に翳して空を見上げる。中天から傾きかけた太陽の光がビルの向こうから射している。窓ガラスはキラキラと煌めいて、憎らしいくらいに綺麗に光っている。
スマホをつける。
十三時五十三分。
「後、七分」
ラインを起動して、昨日のやり取りを読み返す。
相手から何か着信がないかチェックする。
そんな行動を、何度も繰り返している。
そわそわしてしまっている。
我ながら、忙しないと思う。
ここに、和泉君が来ると思うだけで心臓がおかしくなるのだ。
道行く人達の視線が気になる。この服が似合っていないのではないかと不安になってくる。何度も体を取り替えて、言葉を交わした相手なのに面と向かって話をするのはこれが初めてなのだ。
和泉君が和泉君の視点で私を見るのは、これが最初。何度も見られているはずなのに、本当に不思議な事になっている。
約束の時間が近付くにつれて私はどんどんと体が固くなっていくのを自覚した。どうしてこんなに緊張しているのだろうと自問自答しながら、和泉君を待った。
この服、和泉君に奇妙に思われないだろうか。もしも、変な風に思われたらどうしようか。不評だったら、さすがにがっかりする。でも、もしも誉めてもらえたら、きっと嬉しい。
和泉君が来たら、まずどんな話から切り出せば良いだろう。
ユキ君やミキちゃんの事かな。それともお母さんの石窯の話もネタとしてはアリじゃないか。もしくは、私の家の事。可もなく不可もないから、うちをネタにするのは難しそうだ。
道行く人達の中に私はたった一人の姿を求めている。
アトレから出てくるのが和泉君ではないかと視線を向けて、違うと分かって落胆するのをもう何回した事だろうか。
乱反射する足音、シャワーのように降り注ぐ蝉の声。全部耳障りだった。
スマホを見る。
14時35分。
約束の時間を35分も過ぎていた。
私はラインを読み返して、約束の日が今日だという事、集合時刻が2時だという事、待ち合わせ場所が四ツ谷駅のアトレ前だという事を再確認する。
条件は何も間違っていない。
和泉君の姿だけが、ここにない。
次第に、私だけが周囲の景色からはぶられているような気がしてくる。
ただポツンと立ち尽くしている事に堪り兼ねて、ラインを使って和泉君に電話をかけた。
『おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため……』
発信音の後に流れてくる機械的なメッセージを聞いて、私はだらりとスマホを持つ手を下げた。
■
ドアを開けて、家の中に入る。
真っ直ぐリビングに入ると、お姉ちゃんが椅子に座ってドラマの再放送を眺めていた。
冷房が入っているので、ひんやりとした空気が汗をかいた私の体温を急速に奪っていく。
振り返るお姉ちゃんが、私を見て言った。
「あれ、四葉お帰り。早かったね」
「うん」
どうしようか。
お姉ちゃんの言葉が頭に入ってこない。
壁にかかっている時計の短針は5の数字を指していて、窓の外からは傾きかかった太陽がオレンジ色の光を投げかけてくる。
結局、あの後何回かけても和泉君の携帯には繋がらなかった。
ラインメッセージにも、既読がつかないままだ。
連絡は取れず、和泉君が現れる事もなかった。
「夕ご飯、どうする?」
「……いらない」
「そう」
お姉ちゃんはそれっきり話しかけてこなかった。
それがありがたい。
今は、口を開くと溜め込んでいた何かが出て行ってしまいそうだから。
でも、
「ねえ」
「ん?」
「服、洗濯機に入れておけば良い?」
過呼吸になりそうな喉を押さえつけて、私は尋ねた。
「そうして。……四葉、あんた汗かいただろうし、さっさとお風呂入っちゃいなさい」
「うん」
私は頷いた。
「そうする」
何でだろう。どうしてだろうという疑問ばかりが頭の中を渦巻いている。別に和泉君から何かを言われたわけではない。むしろ、何も言われていない事が、何の反応もない事が嫌だった。
シャワーでは汗は流せても胸の中に溜まった濁った水までは流せなかった。私は夕ご飯も満足に食べず、ソファで丸くなった。タオルケットを被って、背中をお姉ちゃんのほうに向けて、柔らかい背凭れに顔を埋めるようにして小さくなる。
目を瞑る。
真っ黒な視界の中で、きっと和泉君にも想定外の事情があったんだろうと念じる。そうやって、納得しようと頑張る。それでも、連絡くらい寄越せと腹立たしい気持ちが湧き上がる。約束を破られたと、ショックに打ちひしがれる自分もいる。私はこんなにもあっさりと心をかき乱される人間だったのかと愕然とするほどだった。たった一回約束を破られただけで、こんなに悔しい思いをするなんて思ってもいなかった。
ホント、一人で勝手に舞い上がってアホみたいだ。
明日になったら問い詰めて、色々と言いたい事を全部吐き出してやる。
そう思った。
翌朝、本当に久しぶりに昼前まで寝て過ごした私は、和泉君が昨日どうして約束の場所に現れなかったのかを知った。
同時に、もう二度と和泉君と連絡を取り合う事も入れ替わる事もできないのだと理解した。
だって、そうだろう。
いつも眺めているだけのニュース番組に目が釘付けになってしまう。
見た事のある顔がテロップ付きで表示されている。
アナウンサーが読み上げる原稿が雑音にしか聞こえない。
通り魔、無差別、弟を守って、十六歳の、逮捕されたのは、病院に運ばれましたが、死、死、シ――――。
ただの日本語が、刃物となって私の内面を斬り裂いていく。
なんだ、約束、破ったわけじゃなかったんだ。
「四葉?」
お姉ちゃんの声がすごく遠くから聞こえる。
ガラガラと足場が崩れていくような気がして、息が詰まる。
お姉ちゃんが、焦ったような顔で駆け寄ってくる。
そんなに慌ててどうしたの、と尋ねようとして言葉が出てこなかった。
ああ、今、私、ほんと、どんな顔しているんだろう。
二人とも頭の中では名前で読んでるのに、口に出すときは苗字っていうヤツ。