土曜昼、スマホ天寿まっとうをドコモで確認。
日曜昼、密林で注文した小説のページが折れた状態で製本されていたらしくぐしゃぐしゃ。
これはもうあかんかもしれん。
fgoの引継ぎさえ出来ればまあいいんだが。
夢を見ていた。
そこは日の光を弾いて宝石のように光る湖を見下ろす高台で、空の上には青い尾を引く彗星が薄らと見えている。
まだ明るいから、はっきりとは見えないけれど、夜になれば空を泳ぐ竜のように雄大な景色が見えるはずだ。2013年の十月。ティアマト彗星が地球に最も近付く日。私はランドセルを背負って、校門を出た。空も湖も、街並も山も、当たり前の景色だった。これ以外の世界は、テレビの中にしか存在しない。この当時の私にとって世界とは糸守だったし、それがこの世のすべてだった。私の世界は、輝いていた。悲しみもなければ、怒りもない。一日が一日で完結する小さな世界で、当たり前の輝きが私を包んでいた。
「彗星、今日が一番綺麗に見えるんやろ。祭やし、一緒に見ようよ」
後ろからドンと背中に飛び乗ってくる友達に私は思わずよろめいた。
「うわ、あぶな」
あははーとヨシちゃんがほんわかした笑みを浮かべている。
こんな友達も昔はいた。今、どこで何をしているのかさっぱり分からないけれど、クラスで一番おっとりしていたヨシちゃんと私は何かと一緒にいる事が多かった。この日も、ヨシちゃんは私を誘って宮水神社で行われるお祭に行こうとしていた。
「ん、良いけど、ヨシちゃんお母さんと一緒に行くんじゃないの?」
「四葉と一緒なら、大丈夫やって。ちょっとふらっとどっか行っても」
「いや、ダメやろそれ」
ふらっとどっか行くというのを過去にやらかして、大騒ぎになったのを忘れたのだろうか。
「千二百年に一度の彗星なんだもん。しっかり見とかないと大損や。私達が生きてる間に二度目はないよ」
そんな事をヨシちゃんは言う。
確かに、と私は思う。
せんにひゃくねん、何てテレビでは言っているけれど、それがどれだけ大きな時間なのか全然想像できなかった。当時の私には歴史の知識なんてなかったし、前回のティアマト彗星が何時代にやって来たのかも知らなかった。
だけど、とても大きな力を感じた。星という大きな生命の息吹、躍動が空を渡る箒星に凝縮されているような感じ。巨大な時間の流れを私は全身で感じてみたかった。
ヨシちゃんが隣を歩きながら、私に話しかけてくる。
「ねえ、神社って四葉の家でしょー、ベストスポット、ない?」
「うん? あ、なるほどね」
「神社の中なら、お母さんもおっけーしてくれると思うんよ」
「うーん、お祭の時はなあ」
糸守で神社といえば宮水神社だ。私の家が千年以上もの長きに亘って守り続けてきた神社。あの彗星が前回やって来たときには、きっとここにうちの神社は建っていたんだろう。眉五郎さんの火で、当時の建物は全部灰になってしまったけれど、宮水神社の精神は残り続けている。
「なんか、いい場所あったかなぁ。まあ、お客さんが来ない部屋もあるし、そこからならばっちり見えると思う」
「ほんと!? なあ、そこにお邪魔していいかなー」
「いいよ。お祖母ちゃんには私から言っとく」
「やった。じゃ、お祭でね」
ぴょこんとランドセルを跳ねさせて、ヨシちゃんは走っていく。私とは逆方向に家があるから、いつもここでお別れだ。
懐かしい。
こんな事もあったなあ、と私はじんわりとした暖かさを感じている。
この後で起こる災害を知っているけれど、私は安心していられる。
なのに、どうしてだろう。
怖い。
とてつもなく、怖い。
体がガタガタと震えている。夢の中なのに、寒気がする。
何かが足りない。大切な何かが足りないから、私は怖い思いをしている。
祭が始まって、空に彗星が輝く。私は友達と一緒に空を見上げて、彗星に魂まで奪われたようにその姿を目で追っている。やがて、彗星が二つに割れ、さらに砕けて無数の隕石となって大気圏で赤々と燃え上がる。
この時になっても、私は宮水神社にいる。友達と一緒に、誰も彼もが燃え盛る流星にうっとりとため息を付く。おかしい。こんなのはありえない。だって、この時には糸守高校に避難していなければならない。なのに、みんな動かない。
頭の上に灼熱の塊が落ちてくるその瞬間まで、私は動かなかった。
ハッと、私は跳ね起きた。
ドクドクと心臓が高鳴っている。
寝汗が酷くて体がじっとりと濡れているのが分かる。
朝日が窓から差し込んで、宙を漂う埃がキラキラと輝いている。
「今の……」
彗星が頭の上に落ちてくる夢。
ぎゅっと私は自分の体を抱きしめる。
怖い。
あれは、いったいなんだ。
「生きてる、私」
そう呟いて、私は口を噤んだ。
奇妙な考えが頭の中に湧き上がってきたからだ。それは考えと言うよりも疑問に近い。
――――どうして、私は生きているんだろう。
哲学者が考えるようなものではなくて、ただ単純明快な疑問だった。
今の私には死んだ実感が、ある。
何を馬鹿なと思うけれど、そうとしか言いようがない。
夢を実体験していてたという実感は、和泉君と入れ替わっていた時の感覚に良く似ている。だからこそ、私は断言できた。あの夢の中で私は確かに死んでいた。ティアマト彗星から零れた欠片で、糸守町ごと消えてなくなったのだ。これは事実だ。実際に起こった事なのだ。だけど、それはおかしい。当たり前の事だけど、私がここに生きている以上私が隕石災害で死んだ記憶も経験もありえない。私はあの日、町のみんなと一緒に避難訓練で糸守高校に行っていたのだ。隕石が落ちた瞬間を、高台の高校から見ていた。これが私の記憶であり、正しい現実だ。あの災害では誰一人として亡くなる人はいなかった。悲劇の町ではなく、奇跡の町として糸守町は全国的に知れ渡ったのだ。
だったら、あの夢はなんだ。
異様なまでのリアル。
明確な死の体験。
矛盾した二つの記憶が私の中にある。
何かが足りなかった私は、隕石で死んだ。今を生きている私は、隕石で死ぬ私と何かが違ったんだ。それが、「答え」なのだと直感する。
リビングのドアが乱暴に開けられて、お姉ちゃんが入ってきた。
「おはよう、四葉ー」
眠そうに目を擦りながら、お姉ちゃんはふらっとキッチンまで歩いていく。
「おはよう、お姉ちゃん。珍しいね、この時間に起きてくるの。出張?」
「まさか。ただ、ちょっと目が覚めちゃっただけ」
お姉ちゃんは麦茶をコップ一杯一気飲みする。朝の一杯は体の調子を整えるらしい。
「四葉もいる?」
「あ、うん。もらう」
私はキッチンまで歩いていって、お姉ちゃんから麦茶の入ったコップを受け取った。
「ん? 四葉、それ組紐?」
「え、うん」
「つけてるんだ、珍しい」
大して興味もないのか、お姉ちゃんは食パンの袋を漁り始める。
まあ、私はこういったアクセサリーをつけるタイプではないからお姉ちゃんがそんな言い方をするのも当然か。ジャラジャラとキーホルダーをカバンに吊り下げている友達もいるけれど、私はそういうのを邪魔としか思えない人間なのだ。
私は組紐の模様を指でなぞりながら言う。
「昨日も見たでしょ、これ」
「そうだっけ」
「そうだよ。私の事、慰めてくれた時にさ、触ってたじゃん」
「ん? んんぅー? そうだったかなぁ。ちゃんと見なかったから、意識してなかったのかもね」
そう言って、お姉ちゃんは皿の上に置いた食パンにいちごジャムを塗り始めた。
お姉ちゃん、昨日、しっかりとこの組紐を見ていたはずだけど、まだ寝ぼけているのだろうか。
こんな風に忘れるなんて、病気じゃないんだろうかと思えるくらいだ。
まあ、でもお姉ちゃんの物忘れは今に始まった事ではない。それこそ、高校の頃には良く――――、
『ここにいたら死んじゃうんだよ!』
誰かが怒鳴る声が聞こえた。
知っているけど、知らない声。
そうだ、あの日。
星が降った日。普段、薄らおかしかったお姉ちゃんは、いつにも増しておかしかった。
フラッシュバックのように突然に、必死になって私の肩を揺する高校時代のお姉ちゃんの顔が瞼の裏側に浮かび上がってきた。
私は静かに息を呑み、そしてお姉ちゃんの顔を凝視した。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「……隕石が落ちてきた日にさ、ここにいたら死んじゃうって私に言ったの覚えてる?」
「何それ? そんな事言った、私?」
怪訝そうな口調でお姉ちゃんは言う。
食パンにジャムを塗り終えたお姉ちゃんは、パンを乗せた皿と麦茶の入ったコップを持ってテーブルに座り、テレビを付けた。
ニュース番組が取り上げるのは、地方の選挙とか交通事故とかで和泉君の話題はもうあまり取り上げられていない。寂しいような安心するような、複雑な心境になる。
いや、そんな事より、今はもっと大事な事がある。
考えろ、思い出せ。記憶の底に沈みこんだ、宝箱を引き上げるような気持ちで私は脳みそを働かせる。
「お姉ちゃん、高校の時にさ、何か変になってたのはどう?」
「え? 変に?」
「……うん、えーと、確か……いきなりポニテにしてみたりさ、男の子っぽい口調になったりした事あったよね」
言っていて、私はドキリとした。
男の子っぽい口調?
掘り起こした記憶が私の頭を叩いている。
「あんたまで、そんな事言うの? なんかさやちんにもそんな感じの事言われたんだよね、この前さ。うっすらおかしいのは四葉のほうだってのに」
私がおかしいというのは声を大にして反論したいところではある。が、そこは堪えた。
「ううん、さやちんが何だって?」
「さやちんが私の事、高校時代にはおかしな事してたよねってこの前会った時に言われたのよ。何か、お互いよく覚えてなかったからそれだけだったけど……ねえ、昔の私ってほんとにそんな変だった?」
なにやら不安そうにお姉ちゃんは聞いてくるので、とりあえず頷いておく。
がーん、と効果音が付きそうな感じでショックを受けるお姉ちゃん。
だって、変だったのはどうしようもない事実だから否定のしようがない。
もともとおかしなところのあったお姉ちゃんだけど、一時期本当に変になっていた事があった。そうだ、年月を重ねて朧になってしまった記憶だけれど、お姉ちゃんが唐突にいつもと違う雰囲気になる事があったんだ。
お姉ちゃんに言ったとおり、普段は複雑な編み方をしていた髪を大雑把なポニーテールにしていたり、口調や仕草が雑になってさやちんを困らせたりしたと聞いた。
それにうちの中でも料理が洋風になったり、おっぱいを揉んでいたりと、それこそ別人になったかのような変貌ぶりに小学生だった私は困惑と恐怖を抱いた。
口に出して、その時の事が鮮明に浮かび上がってきた。
どうして忘れていたのだろうかと思うくらいに、あの頃のお姉ちゃんはおかしかったのに。今まで、意識する事すらなくなっていた。いや、時折思い出す事はあっても、それを特別な事として認識できなかったというほうが正しいのだろうか。
視界には入っているけれど、焦点から外れているので注目しなかったというような感じだ。
「……ちょっと、出かけてくる」
「え、四葉? ちょっと、いきなり!?」
唐突に立ち上がった私にお姉ちゃんが慌てた。
つい最近、いきなり家を空けてしまっただけに、お姉ちゃんは余計に私を心配しているのだ。
「大丈夫。ちょっと、その辺」
「突然すぎるでしょ。ほんとに? また、いきなり遠くに行ったりしない?」
「ほんとほんと、大丈夫だって」
さすがに信用はないのかな、と思いながらひらひらと手を振った。
手早く服を着替えて外に出る。
アパートの階段を下りて、私はすぐ近くのセブンに入った。いらっしゃいませー、という気のない常套句を聞き流して、私は一番奥のドリンクコーナーの前に立つ。
適当にお茶やらオレンジジュースやらを眺めながら、頭の中では別の事を考えている。
六年前の秋。彗星が世間を賑わせていた頃から唐突に人が変わるようになったお姉ちゃん。隕石によって糸守町が無くなってからは、そんな事はなくなった。あの日を境に、お姉ちゃんは元に戻った。少なくとも表面上は。
「やっぱり、なんかあったんだ」
心臓がドキドキと高鳴っているのが分かる。
物語の核心に迫っているという感覚。六年前の隕石の日の前日に、お姉ちゃんは東京に行った。帰って来てから今度はいきなり髪を切った。何かにショックを受けていて、夕食も喉を通らないくらいだった。
頭の中からどんどんと当時の事が湧き上がってくる。
あんな事があったのに、お姉ちゃんだけじゃなくて私まで忘れてしまっていた。
どこかで、ゆっくりと頭を使いたい。思索に没頭して、バラバラに散らばったジグソーパズルを組み上げたい。
私はよく考えもしないで手に取ったウーロン茶と窓から見える空の曇り具合からビニール傘を買ってコンビニを出た。
誰もいないような静かな場所。
できれば、和泉君の故郷を偲ばせる緑豊かな場所に浸りこみたい。
そう思った。
そうして私は四ツ谷駅まで行ってから、新宿通りを南に折れる。黙々と歩いている間に、パラパラと雨が降ってきた。
傘を差すと、ビニールの膜を叩く雨音が次第に強く大きくなっていく。
ああ、これは都合が良い。
都会の喧騒が私の雑念ごと雨に洗われていくようだ。
こうして見ると、東京は意外にも緑が多い。新宿だって、コンクリートで塗り固められた常に変化する街ではあるけれど、地図で見れば分かる。新宿駅のすぐ近くに、大きな緑の塊がある。それも一つではないのだ。明治神宮やら明治神宮の外苑やらがある。一番新宿駅――――そして今の私に近いのは新宿御苑だろう。
半年前までは五十円で入れたここも、今となっては二百円の入園料がかかる。こんな小さな事で大人になったなんて思いたくはないけれど、もう子どもではないのだという現実を叩きつけられたような気にもなる。
「でも……」
まだ、希望はある。
そんな風に私は思う。
子どもの我が侭よりもずっと性質の悪い、宇宙の常識にだって喧嘩を売るような事を私は考えている。
六年前のお姉ちゃんの身に起こった異常事態。その最たるものこそが、彗星が再接近したあの日だ。ここにいたら死んじゃうんだよとお姉ちゃんは乱暴な言葉で私に言った。
それはつまり、お姉ちゃんはあの日、星が落ちてくるのを知っていたという事になるのだ。
あの時点では世界中の誰もがティアマト彗星が割れるなんて考えもしなかった。テレビでももちろんやっていなくて、世界規模でのお祭騒ぎだったはずだ。お姉ちゃんが糸守町に隕石が落ちてみんな死んでしまうなんて言い出すはずがない。
開園したばかりで人気のない新宿御苑の中を私は歩いた。
日本庭園の重厚な緑の気配をすり抜けるようにして、雨粒を傘で弾きながら私は水を吸った小道を歩く。
霧のような雨に霞む灰色のビルは、木々の中から突き抜けたように見えて、ここが東京なのだと実感させてくる。でも、都会の象徴とも言えるビルですら、ここから見れば自然を豊かに彩る景色の一つに見えてしまうのが不思議だ。
数え切れない波紋を浮かべる水面を太鼓橋を渡りながら眺め、水気に煙る東屋の中で私は傘を閉じた。
ベンチに座って、私は息を潜める。
雨の音だけが、私の耳に届く。
静寂とは音がないという事ではないのだと、私は気付いた。
雨の音に満ちた新宿御苑の緑は、しかし、とても静かに思えた。雨音が景色との絶妙な調和を生み出している。私の鼓動すら、この調和を崩してしまうのではないかと感じるくらいに、今日の新宿御苑は完成していた。
夏なのに、ここはずっとひんやりとしていて肌寒い。
雨のおかげだろうか。過ごしやすい気温で、そのおかげで頭がどんどんクリアになっていくような気がする。
「お姉ちゃんだけが、隕石の事を知ってた……」
妙な話だ。
お姉ちゃんにNASAの知り合いがいるはずがない。宇宙なんて全然興味も関心も無かったあの人が彗星の核が割れる事を独自に突き止める事だってありえない。
誰かが教えた。それもかなり信憑性のあるレベルの情報で。いや、だったらどうしてお姉ちゃんなのだ。町長だったお父さんのほうがいいではないか。
お姉ちゃんでなければならない理由。
お姉ちゃん以外には伝える事ができなかった訳。
――――そもそも、あれはお姉ちゃんではなかったのだとすれば、全部説明が付く。
それこそ意味不明な、常識的にもありえない仮定であって本来ならば考慮の埒外にある選択肢ではあったけれど、私だけは、それを有力な結論候補に挙げる事ができる。
「お姉ちゃんも入れ替わってた。それも、隕石の事を知っている誰かと」
私は天井を見上げた。
悩みに悩んだ方程式が解けたような達成感が胸を満たした。
私やお祖母ちゃんにだって入れ替わっていた時期があった。だったら、お姉ちゃんにだって、それがあって当然なのだ。
その入れ替わりが、結果として私達の命を救った。お姉ちゃんは正真正銘の、糸守町全町民の命の恩人だったのだ。
それが、きっと宮水神社の本当のお役目だったに違いない。
文字だけじゃない。
残された形すらも町と共に消え去って、宮水のお役目は六年前のあの日で終わったのだ。あの時の、何かが終ったという感覚は決して間違いなんかじゃなかった。
心を落ち着けるために、私は深呼吸をして雨音に耳を澄ます。
そして目を瞑る。
空の上から落ちてくる灼熱の隕石。
私の体が焼き尽くされて、全部散り散りになってしまう夢を見た。はっきりとは覚えていないけれど、もう何度もあの夢を見てきたような感じがする。
あれは、何と言うか前世の記憶みたいなものじゃないだろうか。
私は本当に、あそこで一度死んでいる。みんなと一緒に、隕石の犠牲者に名を連ねた。それを知っている誰かが、お姉ちゃんと入れ替わったとしたら、あんなに必死になってみんなを助けようとしてくれた事も頷ける。
だって、その誰かからすればきっと私もお姉ちゃんも死んでいたのだ。
隕石が落ちてみんな死ぬ。
それを知る事ができるのは、隕石が落ちた後を生きる人だけだ。当時の私達からすれば未来の人。間違いない。今ある情報を繋ぎ合せるとお姉ちゃんは、未来人と入れ替わっていた事になる。
そして、そんな突拍子もない結論をあの日の真実であると確信するのに、そう時間は必要なかった。
これは私にとってとても重要な事実だ。
時間が一定方向に流れ続けるのなら、過去をやり直す事なんてできない。
だけど、私達の考え方は違う。
お祖母ちゃんは時間を組紐に例えた。捻れてたり絡まったりしながらムスビ付くもの。時には途切れ、そして時には戻るものでもある。それがムスビ。それが時間。私達を助けてくれた誰かは、時間を戻ってやり直したんだ。そうだ――――
私は左手首に巻いた組紐に触れた。
昨日のお姉ちゃんが言っていた事を思い返す。
あるべきようになる。自然な形に導かれる。
なら、私にとってのあるべき形とはなんだ。行き着くべき結果はどうなる。お姉ちゃんは六年前に入れ替わりの結末を知って、そしてすべてが私達の中から消えた。
「どうやって……」
入れ替わりに歴史を変える力がある事は分かった。そこまでは思い至った。上手く行けば、私だって和泉君を助ける事もできる。その期待が膨らんだ。だけど――――どうやって、入れ替わったら良いのか分からない。
私達は今まで一度たりとも自分の意志で入れ替わりを起こした事はない。
入れ替わりたいと思ったからといって入れ替われるものじゃない。
だけど、お姉ちゃんと入れ替わった人は意図的に入れ替わったはずだ。少なくとも、隕石が落下した最終日は私達を助けるんだという強い意思を持ってお姉ちゃんと入れ替わっていたに違いない。
「分かんない」
お祖母ちゃんに聞けば分かるだろうか。でも、あの人は入れ替わっていた時の事を何も覚えていないと言っていた。お姉ちゃんも同じだ。あれだけ強く思われて、抜け殻みたいになるくらいに思っていたのに、その時の事をぽっかりと忘れてしまっている。
自分で考えるしかない。
さっきセブンで買ったお茶のペットボトルを開けて、私は一口だけ飲んだ。喉を通って冷たい水が体の中に落ちていく。
答えのすぐそこまで来ていたはずなのに、ここに来て私の思索は頓挫しつつあるのを自覚した。明確に見えていたはずの道は茫漠とした情報の海に埋もれて消えていく。固まりかけた結論が、瓦解して行く。そんな事は絶対にダメなのに、必死になって欠片を拾い集めても腕の中から零れ落ちていく。
ぎゅっと、私は悔しさに唇を噛んで俯いた。
どうして、何でと喚き散らしたい衝動に駆られてしまう。後ちょっとが届かない。せっかく見えた希望の光が、遠退いていく。闇に落ちていく。暗闇の大海原で灯台の光を見失った小船のような気持ちで、私は雨の音に包まれていく。
そんな雨音だけの世界に、人の足音が混じり込むのを聞きとがめた。
顔を上げると、東屋の中に傘を差した女性が入ってきたところだった。
非現実的なまでに美しい妙齢の女性だった。お姉ちゃんもかなりの美人だけど、この人も負けていない。いや、大人の女性という雰囲気を纏うこの人のほうがずっと上手だろう。
傘を閉じたその人は私の顔を見て、ふと小さく笑みを浮かべた。
「ここ、いいかしら?」
鈴のような綺麗な声で話しかけられた。
「え、はい。どうぞ」
当然、私に拒否する理由も権利もない。こんな平日の昼間に、それも雨の日にやって来るなんて、この美人は一体何者だろうか。
「じゃあ、失礼して。誰かと待ち合わせしてたりしない? もし、そうなら遠慮するけど?」
「大丈夫です。特に待ち合わせる相手はいませんので」
「そう、良かった」
「どうしてですか?」
「馬に蹴られたくないもの」
音も無く、女性は斜め前のベンチに腰掛けた。そして、カバンから缶を取り出してタブを開ける。ぷしゅっと炭酸が抜ける音がした。
金麦――――思いっきりお酒だった。
「ん? お酒、だめな子?」
「いえ、そうじゃないですけど……」
平日の朝から酒びたりとかダメなヤツだ、と私は心の距離を開ける。
「こんなとこに来てまでお酒なんですね、なんて」
「ふふ、今日平日だしね」
女性は少しだけお酒を舐めてから、
「あ、私仕事はちゃんとしてるからね。今日は夏休みなの。サボりじゃないわよ」
「そうなんですか。サボってるとか思ったわけじゃないですけど、はい」
「あなたとっても真面目そう。平日の昼間から外でお酒飲んでる大人って、第一印象最悪でしょ」
良く分かっていらっしゃる。
少なくとも、お近付きになりたいとは思わない。
酒癖の悪い人=危険というのは、私の中で特に理由無く成立した方程式だ。
「家で飲まないんですか?」
恐る恐る話しかける。
あまり無口のままでも沈黙が痛くなる。さっきまで、ここはとても心地よい静寂に包まれていたというのに。
「普段はね。といっても、今の私は東京の人間じゃないから家も何もないんだけど」
「旅行ですか。夏休みを使って」
「そう。六年、いや、もっと前かな。こっちで働いてたんだ。ここは、その時に入り浸ってた事があってね」
「そうなんですか」
「うん。それに、今日は雨だから」
また一口、ビールを口に運んだ女性はどこか遠くを見つめていた。
何かここに特別な想い出があるんだろうと私は感じた。
私は立ち上がって傘の柄を握る。
「もう帰るの?」
「はい。それに、馬に蹴られたくはないので」
女性は私の答えに目を丸くして、それから笑った。けれど、かといって何か声をかけてくる事はなかった。それで、終わり。この女性と再会するのは、――――まだ当分先の話になるだろう。
傘を広げて、私は来た道を戻っていく。
足取りは軽いとはいえない。答えの直前に取り残された私は必死になって手を伸ばしている。指が届かないギリギリのところに、最後の答えがあるはずなのに、届かないもどかしさがずっと残っている。
後ろをこっそりと振り返ると、東屋の女性は一人でビールを口に運んでいる。
自分も大人になったらああなってしまうのだろうか。それはちょっと、嫌だなと思った。昼間からお酒というのは、何というかだらしない印象がある。何かから逃避したいという気持ちもあるのだろうか。アルコールを口にした事がないから酔うというのがどんなものなのか分からない。酔った大人は散々見てきたが、私は酒を飲んだ事がないので記憶が飛ぶとか、体調が悪くなるとか、逆に気持ちよくなって気分が大きくなるとかそういういかにも危険そうな症状を呈する飲み物を口にする良さが分からないのだ。
「お酒か……」
お酒といえば、昔私が奉納した口噛み酒はどうなっているのだろうか。
小学生の私は本当に噛んだ米がお酒になるのか気になって、悪戯した事もあった。まあ、その時は熟成してなかったからお酒になっていなくて白濁したエグ不味い液体もどきだったわけだけど。
バチン、と私の頭の中でスパークが発生した。
「あ…………口噛み酒」
ざわ、と心が粟立った。
六年前、その口噛み酒を私はお姉ちゃんとお祖母ちゃんの三人でご神体に奉納した。私は山登りでくたくたになって、ご神体が家から遠い事に文句を言っていた。
あの時のお姉ちゃんは、確かポニーテール――――入れ替わっていた誰かだったんだ。
『そなたも口噛みの御神酒に悪戯をした口であろ』
知らない誰かの声が聞こえた。どこからか飛んできたメールのようだ。どこかで聞いたような声は、反響しながら脳裏に響いた。一瞬、私の意識がどこかに飛びそうになっていたような気がした。白昼夢、でも見ていたのだろうか。
だけど、口噛み酒には何かあると確信した。
ただの勘だけど、それを裏付けるものはいくつもあった。
お姉ちゃんと入れ替わっていた誰かはご神体の場所も口噛み酒を奉納した事も知っていた。そして、そうだ。確か隕石が落ちる前に、お姉ちゃんの姿をした誰かはテッシーの自転車に乗って山の方へ向かっていった。突然、何かに導かれるように。
そして、その後町役場で再会したお姉ちゃんはいつも通りのお姉ちゃんだった。
そうだ。元に戻った。入れ替わったんだ。あの後で。きっと、山。ううん、ご神体のあるあの場所で。それ以外に二人を意図的にムスビ付けられる接点がない。少なくとも、私が知る条件を組み合わせて得られる答えはこれが最適解だ。
糸守に行こう。
行くしかない。それが、悩みぬいた私の結論。私にとって唯一の希望だった。
■
明日、ご神体のある山に行ってくる。
夜に私はお姉ちゃんにそう言った。
お姉ちゃんは、驚いてはいたけれど意外にもすんなりと了承してくれただけでなく、交通費まで出してくれた。「四葉が納得できるまでとことんやってくればいいよ」とお姉ちゃんは言ってくれた。背中を押された気がした。結局、お姉ちゃんが入れ替わっていた誰かの事を私は聞けなかった。聞いたところで何がどうなるわけでもないからだ。何の解決にもならないまま、古傷を抉るような事はできなかった。ますますお姉ちゃんを苦しめる事になるのではないかと不安になったという事もある。
お姉ちゃんの後押しを受けた荷物を整理し、昨日のうちに購入した登山用のジャージやウィンドブレーカーをリュックに入れた。
アパートを出て、東京駅まで行く。そこから東海道新幹線に乗って名古屋まで行き、さらにローカル線に乗り換えて岐阜に入る。
後は北上するだけだ。
私にとっては故郷に帰るだけだ。道に迷うはずもなく、下りるべき駅できちんと降りた。朝一の新幹線で来たので、お昼を過ぎるくらいには何とかここに辿り着けた。
問題はこれからだ。
糸守町は山奥の集落で電車もバスもほとんどないような地域だった。そこに隕石が落ちて、町そのものが消えてしまった。当然ながら、もう糸守に向かう電車もバスも存在しない。糸守経由の電車は廃線となり、バスは会社ごと消えてなくなった。だから、タクシーで行くしかなかった。
タクシーの運転手さんに糸守までとお願いしたら、ものすごいびっくりされた。
車の後部座席に揺られながら、私は懐かしい記憶が刺激されるのを感じている。景色のすべてに見覚えがあって、この道すらも昔の私は何度か通った覚えがある。
「お客さん、学生さんだよね」
ちょっとだけ訛りの入った運転手さんに話しかけられて、私は「はい」と返事をする。
「糸守の近くまで行って、どうするのか聞いても良いかね?」
「え、どうしてですか?」
「あそこにはもう誰もいませんのでね。このままじゃ山ン中に女の子を放置して帰ってくる事になってしまうので心配なんですよ」
人の良い運転手さんなのだろう。
白髪混じりの髪が帽子から覗いている。
「お墓参りです」
「墓参り。やっぱり、糸守の人ですか?」
「はい。小学校の四年生まで糸守で暮らしてました」
「そうですか。それはまた、大変でしたねぇ。お墓参りの事はご家族はご存知ですか?」
「姉に言って、出てきたので大丈夫です」
あっという間に、車は山を登る一本道に入った。
糸守町まで続く国道だ。
通る車は皆無で、私達の乗るタクシーだけが走行音を山に響かせている。
きっと、この道路も使われるのは久しぶりに違いない。
糸守町はもう人が住んでいないから、ここを通る人は行政の人がほとんどなんだろう。
タクシーの窓からは新糸守湖が見える。ひょうたん型になってしまった湖の周りには、未だに崩壊した家や鉄骨、電車の残骸などが転がっている。ここに私達が住んでいたなんて、未だに信じられない。
タクシーで行けるギリギリのところまで行って、私は下車した。
「本当に大丈夫か?」
「はい。ありがとうございます」
支払いを済ませた私に、運転手さんは名刺を差し出した。
「ここまで電話一本で来るのは難しいからなぁ。帰るときは私に連絡を寄越せば飛んで来る。気をつけてな。六年も経てば、知ってる道も想像以上に変わっているかもしれない」
「本当にありがとうございます」
ぺこり、と私は頭を下げた。名刺をジャージのポケットに入れて、チャックを閉める。これで、落とす事はない。
タクシーを見送った私は、山道を登り始めた。
大丈夫だ。小学生の私でも、うんざりしながらも昇りきれた山なのだ。険しくはなく、体力があれば走って山頂まで行けるだろう。
だけど、
「うわ……」
私は倒木に道を阻まれていた。
それもそうか。六年も前から誰も通っていない道なのだ。この山の頂上は隕石が落ちたらしいクレーターができているのだが、そこに作られたご神体を祀る祠を知っている人はほとんどいない。だから、ほとんど人が通る事のない山道は荒れ放題で、草木が好きなように枝葉を伸ばしている。
夏の盛りだ。雑草も背を伸ばす頃である。木々が太陽光をほどほどに遮っているので、視界を塞ぐほどの下草が生える事はないけれど、確かに記憶にある山道とは勝手が違う。
倒木を乗り越えて、私は進む。時に草を踏み折って、時にぬかるみに足を取られながら登り続ける。
筋肉が痛い。
特にふくらはぎと太ももがすでにグロッキーだ。
「私、体力ない……」
お姉ちゃんはこの山を全力で駆け下り、泥だらけになりながら町役場まで走ってきたんだろうに、今の私は都会に毒されたのか山の中腹辺りで息を切らせている。
和泉君の体なら、あっさりと踏破できたはずなのに。
あの男の子の高性能な体なら、この程度の山道は屁でもないに違いない。
いつの間にか、私の額や背中は汗に濡れている。手の平は転んで手を突いた時に擦り剥いたのでヒリヒリとしているし、頬は何かの葉っぱで切ったのかすっぱりと一文字の切り傷が出来ている。
やがて、樹木は途切れて岩場が出現する。
ここは昔と何も変わっていないみたいだ。
私は一旦、立ち止まって息を整えてからもう一踏ん張りとばかりに力強く足を踏み出した。盛り上がった岩場を昇りきると山頂となる。そこにあるのはグラウンドくらいのくぼ地で雨が溜まりやすいのか湧き水があるのか、小さな小川が流れている。その周囲は湿地帯となっていて、小川の向こうには六年前と変わらない姿の巨木が一本だけ生えている。
「懐かしい」
不意に押し寄せてくる郷愁の念に私は胸を締め付けられる。
きゅん、と息が止まりそうになる。
くぼ地の中に足を踏み入れて、真っ直ぐに進んでいく。
小川の岸辺で足を止め、私は巨木の根元にある洞穴を見つめる。
「ここから先はカクリヨ」
お祖母ちゃんが言っていた。カクリヨとは彼の世の事だ。向こう岸はこちら側とは別の世界なのだと。だけど、だったら尚の事都合が良い。
何せ、私が探している人は彼の世に行ってしまったんだ。
だったら、私から出向いて取り返すのが筋だ。神様にだって喧嘩を売ってやる。それくらいの意気込みで私はここまで来たのだ。
だから、言い伝えなんかにビビッたりしない。
小川から顔を出す岩の上を歩いて向こう岸に渡る。
その川の向こうの巨木は、六年前に見上げた姿そのままに立っている。ここだけ時間の流れが止まってしまっているかのようだ。糸守を偲ばせるモノはそのすべてが消し飛んでしまったものと思っていたけれど、ここがそのまま残っていたのだ。忘れたわけではないけれど、自然と足が遠のいてしまっていたのも事実ではある。
私は巨木の根元にある洞窟に入る前に一度、二礼二拍手一礼をする。六年もの間、遠ざかっていた事を謝罪した。
私は氏子としても巫女としても大失格だろう。
何せこんな風に困った時にしか神頼みに来ないのだ。だけど、それでも縋るしかない。
洞窟の中に入った私はそのひんやりとした空気に体を震わせる。
何をしにきたのだと、強い口調で問われているような錯覚すらしてしまう。
階段を下りた先に祠がある。
私が小学校四年生の時、隕石が落ちた年の秋に私とお姉ちゃんの分の口噛み酒をここにご奉納したのだ。
洞窟の中は寒くて思わず身震いする。温度差は、外の世界とは異なる場所なのだと実感させるには十分だった。私はウィンドブレーカーのポケットからペンライトを取り出して、洞窟の中を照らす。
濡れた石段を滑らないように気をつけて、私は石段を降りる。昔、あんなに大きくて怪物の口みたいに思えた洞窟は、四畳程度の広さでしかなかった。こんなに小さかった事にまず驚いた。
「あった」
グレーの社には六年前に私とお姉ちゃんの中に入った誰かがお祖母ちゃんと一緒に奉納した口噛み酒の瓶子が置いてあった。
左側がお姉ちゃんの口噛み酒で右側が私の口噛み酒だ。そうだったはずだ。
だけど、並んでいない。
二つ並べて置いていたはずの瓶子は、お姉ちゃんの瓶子だけ地面に転がっている。私はドキドキしながら駆け寄って、緑色の苔に覆われたお姉ちゃんの瓶子を拾い上げた。苔の感触が気持ち悪いと思いながら、状態を確認する。
コルクの栓が開いていた。
瓶子の栓はしっかりと押し込んだ上、陶器の蓋を被せて組紐で縛っている。仮に地震や風で倒れたとしても、瓶子の蓋だけでなく栓まで抜けてしまうのはありえない。それこそ、人為的に蓋を開けなければ、そんな事は起こらないはずだ。
「やっぱり、そうだったんだ。誰かが、お姉ちゃんの口噛み酒を飲んでる!」
それはきっと、あの人だ。お姉ちゃんの中に入っていた誰か。お祖母ちゃんと私以外だと、あの人だけがこの口噛み酒の存在を知っている。いつ、組紐の封を解いたのかはさすがに分からないし、私の予想が正しければその時点で歴史が変わってしまっている。私達が死んだ未来から過去をやり直した誰かが、その後どうなったのかは分からない。けど、口噛み酒を飲んだという事実だけは、きちんと残っている。
「だったら、私も」
同じように、口噛み酒で戻れるのではないか。
残っているのは私の口噛み酒だけだ。お姉ちゃんの口噛み酒は、蓋が開いたまま何年も放置されていたせいで中身が無くなってしまっている。
だから、私は自分の口噛み酒を飲むしかない。
お社の前に座って、私の瓶子を取り上げる。瓶子の表面に生えた苔をティッシュで剥ぎ取り、ピカピカの陶器に再生した後で、私は組紐を解いた。
蓋を外して、コルク栓を抜いた。
うっすらとアルコールの匂いが立ち上る。
「ほんとにお酒になってる」
六年越しの答え合わせができた。昔、私が悪戯をした時とは全然色も匂いも違う。
瓶子を傾けて、蓋の中に注ぐ。
自分の口噛み酒を自分で飲んだら、魂がひっくり返ってどこに結び付くか分からない。
そんな事を言われた事がある。誰に、どこで言われたのかは判然としないけれど、上等だ。
あの時よりも前に戻れるのなら、それで構わない。誰と結びつこうが関係ない。もしも、本当に神様がいるのなら、奇跡があるのなら、一度で良い。一度で良いから。そう願いながら、私は口噛み酒を飲んだ。
熱いアルコールが喉から体の中に染み込んでいく。
これがお酒。
アルコール度数がどのくらいなのか分からないけど、良いものじゃないなと思った。
アルコールの熱が体に広がっていくのを感じながら、私は目を瞑った。
一秒、二秒と時間を数え、お酒の熱が外気で冷えていく実感に焦りながら、私は入れ替わる事を一心に願い続ける。
だけど、どれだけ待っても、そんな気配はなかった。
ぼんやりとした浮遊感が頭の中に少しだけあるだけで、それは特別なものじゃなくてお酒を飲んだからであって、入れ替わりとは無関係だ。
落胆と失望が私の胸を満たした。
ここまできて、何も起こらなかった。直前までの期待が大きかっただけに、失意も大きいものとなった。
やっぱりダメだったのか。
私じゃダメなのか。
何がいけないのだ。
瓶子を置いて私は覚束ない足取りで石段を上がる。
お姉ちゃんの時は糸守町の町民全員の命がかかっていた。だから神様も奇跡を許したのか。私がしようとしている事は、ああ、確かに私の我が侭だ。たった一人に生きていて欲しいというただそれだけの願いだ。
「五百人も一人も命には変わらないじゃない……私達がよくて、和泉君はダメなんてそんなのおかしいのに」
悔しい。
私は口噛み酒で助けられたのに、和泉君がダメだなんて。お姉ちゃんは入れ替われて、私は入れ替われないなんて。
その理不尽に涙が溢れて頬を伝った。
許せない。
こんなにも無力な自分が呪わしい。曲がりなりにも巫女なのに。いや、巫女だからこそ六年もの間お社を放置していた罰を受けているのだろうか。
無力感に苛まれながら、私は石段を上がりきった。
仄暗い洞窟から外に出た私の目には太陽は眩しすぎた。突き刺さる日の光が視界を真っ白に染める。その瞬間、後ろのほうに引っ張られるような感覚がした。
突然の眩暈にも似た不快感があって、頭の天辺から伸びた見えない組紐がどこか遠くにムスビついて自分をそっちのほうに引っ張っていこうとする感覚。お酒に酔ったかな、と思った時には私の意識は何やら大きな渦の中に吸い込まれていた。