胸の上にずしんと重たいものが乗っている気がして、私は目を開けた。
「あ、おきたー」
なんと。
目の前にいたのはほんわかと笑う幼児であった。
ユキ君だった。
「おにちゃん。おっそーい」
耳元で甲高い声がして、そちらを向くと幼女がいる。こっちはミキちゃんである。ミニカーのタイヤでガリガリと頬を削ってくる。
「とりあえず、どいて……」
圧し掛かる五歳児を押し退けて、私は体を起こす。
おっぱいはなく、代わりに異物感があそこにある。確認するまでもなく、今日は和泉君の日だった。
時計を見ると、朝の六時ちょうど。
「二人とも、早いね」
「目が覚めた!」
と、ミキちゃんは言う。
「ミキが叩くから」
と、ユキ君は不平を述べる。
目覚めた順番はミキちゃん→ユキ君→私となるわけだ。ミキちゃんがすべての元凶で、朝早すぎて誰も起きておらず、かといって二度寝する気にもならなかったこの娘はまず歳の近い次兄を叩き起こし、次いで長男に突撃したというわけだ。
――――この体相変わらず、重いな。
具体的には頭が。
肉体面では体重だけでなく筋肉量も増加しているので重いとは思わない。むしろ軽い。身体能力が本来の私よりも高いせいか、目測を誤りやすいのが玉に瑕だ。けれど、それも入れ替わりを繰り返す中で解消されてきた問題である。
いまだに解消されない問題は、この寝起きの悪さだ。
夜いったい何時まで起きているのか知らないが、意識的には六時にはすっぱり目覚めてしまいたいにも関わらず体が言う事を聞かないのだ。こんな経験は、和泉君になるまでした事がなかった。私の数少ない自慢の一つは、寝起きの良さなのだから。
この寝起きの悪さは体に染み付いた癖だな、と私は思う。
意識が入れ替わっても、体質までは入れ替わらない。ならば、和泉君の体は朝寝坊に慣れ過ぎてしまっているのだと思う他ないだろう。
「朝ごはんまで何してるの?」
「えー、なんか」
二人が同時に言った。
「なんかって」
適当だな。
まあ、幼児はそんなものだろう。
その時の気分で遊びをいくらでも変えられる。明日の事どころか、半日先の事も考えず、一瞬一瞬に全力を尽くしている。そんな印象がある。この子達を見ていると、未来の事に煩わされる私自身との違いに愕然とする。
私は頭を掻いてベッドから下りる。それから、ユキ君とミキちゃんを部屋に残して一階の洗面所に向かった。
髪が短いせいなのか、寝癖がたくさんついている。そんな爆発頭が目前の鏡にばっちり映ってしまっている。
鏡の左側には備え付けの小さな棚があり、櫛や歯ブラシはそこに置かれている。でも、和泉君の櫛はない。この男はそんなものを必要とした事がないのだ。
男って楽で良い。
こんなところだけは、羨ましくなる。櫛はお母さんのものしかないのだ。だから、私は顔を洗うついでに寝癖を手櫛で直す。固い髪質のせいで、すぐには整わずドライヤーを使いつつ悪戦苦闘する事になった。私の髪と感覚が違うので、入れ替わった時の常とはいえまだうまい方法が見つかっていない。
それから私の体で朝寝坊しているであろう和泉君をラインで叩き起こし、今日一日の予定を確認し、これといって予定が入っていないので、適当に過ごせば良いという実に投げやりな回答と得た私は、引っ付いてくる下二人を相手に客間で綿の詰まったボールを投げて遊んでいる。
プラスチック製で中身のない柔らかいバットを振るユキ君が打ったボールをミキちゃんが拾う。私は二人が怪我をしないように気をつけながら、アンダースローで山なりのボールを投げる。
「うおー」
掛け声を上げて、ユキ君がバットを振る。無情にもバットは空を切り、ボールは柱に当たって転がる。
「はい、空振り三振」
「えー。もっかい!」
「ミキちゃんと交代してからね」
話しながらふと思う。
和泉君は二人を何と呼んでいたのだろうか。
多分君付けもちゃん付けもしていないのではないだろうか。私自身適当に誤魔化して、おちょくる感じでやっているので、これといって怪しまれていないようだけど、実際は呼び捨てたほうが良いのだろうか。
「ねえねえ、そういえばさ」
「ん?」
バットを持ったミキちゃんに私は話しかける。
「俺っていつもは名前にちゃんって付けてたっけ?」
「んん?」
ミキちゃんは首を捻る。それはそうだろう。そんな事を聞いてくるような人間は基本的にいないものと思う。ぴょんと跳ねた短いポニテが可愛らしいミキちゃんは、私の事をじっと見つめて口を開いた。
「それ、どっちのおにちゃんの事?」
「え、どっちって」
私は言葉に詰まる。
透き通ったミキちゃんの瞳が、空恐ろしく思えてしまって私は背筋に冷や汗をかいた。
「違う人の時?」
「えーと……」
純真無垢な目が逆に恐怖を誘う。この娘、私達が入れ替わってる事にばっちり気付いている? いや、いつものお兄ちゃんと感じが違うな、程度の認識? どうなのだろうか。もしも、ばれているのならお母さんとかはどうなのだろうか。
そんな事を私は焦りながら考えていると、
「もー、早くー!」
沈黙に堪り兼ねたユキ君が物の見事にちゃぶ台をひっくり返してくれた。
色々と助かった。
男の子のこういうところは普段アホやな~と思うのだけど、今回に関してはグッジョブだ。
「よーし、ミキ行くよー」
「あい」
舌足らずに答えるミキちゃんは、さりげなく呼び方を変えた事に不信感を抱いただろうか。実はかなり察しがよさそうなので、内心で違和感を覚えているかもしれない。
ボールを投げてはバットを振るを繰り返す。
四歳くらいの子どもでは空間認識能力がきちんとできあがっていないと聞いた事がある。だから、ミキちゃんもユキ君も結構空振りをする。その度に男の子のほうは不服そうに顔を歪め、女の子のほうは楽しげにきゃあきゃあと笑顔を浮かべる。
気温が上がってきて、うっすらと汗をかき始めたあたりでお母さんが朝ごはんの仕度ができたと呼びにきた。
さくり、と音を立てる焼き立ての食パンが、私の空っぽの胃袋に次々と納まっていく。この体の難点は何といっても食欲にあると思うのだ。朝からがっつり食べてしまうのは、乙女としては気にかかるところなのだが、今は男だ。腹ペコを徹底的に退治するのは、うん、男子高校生的にも重要な事ではないだろうか。
「何かこれ、買ってきた感じじゃない」
「あ、分かる? 味音痴のあんたにしては、鋭いじゃない」
食器を洗っているお母さんが嬉しそうに言った。
「ちょっとね、テレビで見て、作ってみちゃった」
「作ってみた? へえー、パンの手作りか」
「ん? パンはね、これからなのよ。小麦が足りなくてね。これから午後から買いに行くわ」
「ん? 今手作りって言わなかった?」
「今更何言ってるのよ。石窯の事に決まってるでしょ」
「うん? ……うん?」
今更って事は和泉君は知っていたのだろう。
多分、私達が最後に入れ替わってから今日までの間に作ったんだろう。前に入れ替わった時には、こんなものは存在しなかった。
庭の端っこにでんと設置された見事な石窯を私は唖然として見ている。
お母さんはこれを一人で作ったらしい。なにそれすごい。
大分手を抜いたし、簡単作成キットを利用したとか言っていたけど、見た目はなかなか立派な石窯だ。それにパンもしっかり焼けていたので性能的にも申し分ない。
お母さん、すごいですね。と言ってみたかったが、それはきっと和泉君の台詞ではないのだろう。喉からでかかった言葉を私は飲み込み、曖昧に笑みを浮かべる事でその場をやり過ごす。
DIYなんて、私は――――ああ、小学生の頃にテッシー主導でお姉ちゃんが手作りカフェを作っていた時以来だろう。
あの時はハーゲンを奢ってもらう代わりにジャージを持っていってあげたんだった。
そういえば、あの時のお姉ちゃんはアクティブだった。
丸太を親の仇のように踏みつけて、ギコギコとノコギリを酷使していた。
あの手作りカフェも、隕石で消えてなくなってしまったんだ。
「もったいないなぁ」
「何が?」
「あ、いや、なんでもない」
後ろにいたお母さんに聞かれてしまった。
愛想笑いで私はお母さんの疑問を受け流す。
「今日の夕飯も、これ使うの?」
尋ねると、お母さんは得意げに胸をそらした。
「当然」
うん、まあそうでしょうね。
そして、その発言の通りにその日は石窯を使ったピザをメインにした夕食になった。雰囲気を楽しむんだと外で食べる事になり、私は男手を理由にテーブルや椅子を運ばされた。
「はあ、いつもは男子の仕事なのに……て、私が男子か、はあ」
男だからって力仕事は納得いかない、という話はあまり男子からは聞かない。影で言っているのは知っているけれど、実際にそういう状況になったらなんだかんだで男子は力仕事かあるいは火の当番を受け持つ。男子にはそういう性質があるみたいだし、社会的にそういう圧力が存在している事を私は知っている。そして、私の知る限り、そうした常識に逆らう男子はあまり多くない。
そういう男子の性質をあからさまに利用しようとする女子は影で男子の反発を買う。だから、私は率先して動いてくれる男子にさりげなくお礼を言ったり「すごいね」くらいの軽い声かけをするようにしている。あからさまな誉め方は男子に警戒心を抱かせるらしいので、さりげなさが大事なのだと経験則で学んだのだ。そして、そういう声かけは男子達のやる気を喚起して、さらに仕事を率先してこなしてくれるようになる。
お互いに気持ちよく一日を終えるには、互いにすっきりとした仕事をこなすのが大切なのだ。いやいやではなくWin-Winの関係がベストなのだ。
という事で、今日の私は男子だ。男子らしく率先して力仕事をこなさなければならない。きっと、それは和泉君の家庭内での評価にも関わってくるはずなので、私のせいで和泉君の家庭内カーストが低下するのは避けたいところ。
物置から持ち出したプラスチック製の折りたたみ式テーブルを広げ、折りたたみ式の長いすを用意する。後は食器類を運び出して、とりあえずの仕事は終了。石窯に火を入れるのは、もうちょっと後になるらしいが、その辺りはお母さんのさじ加減に任せる。
「お、良い感じだね」
玄関から出てきたお母さんが、私の仕事の出来をそう評価する。彼女の手には大きな皿があって、その上にピザの生地が乗っかっている。
「あれ、何にも乗ってないけど」
「これから乗せるのよ。ユキとミキがね」
「あー、そういう事」
納得。
うん、子ども達にとっては良い勉強になるだろう。
ピザだし、嫌いなんて事もまずない。ユキ君とミキちゃんなら、心の底から喜んで具を乗せる。その姿が目に浮かぶ。
チカッと目に日光が飛び込んでくる。
橙色の光が山の彼方に消えていく、その瞬間の光だった。
東の空から伸びる群青の膜が太陽の光を絡め取り、山の向こうまで包み込んでいく。びっくりするくらいにはっきりと日が沈む姿を見る事ができる。
綺麗な夕日に目を奪われる。
「もうカタワレ時なんだ」
小さく、私は呟いた。
「あんた、今なんて?」
「え?」
振り返ると、大皿をテーブルの上に置いたお母さんが驚いたような表情で私を見ていた。
■
ピザをたらふく食べた後の片付けを終え、重ねた皿を持って私はキッチンに向かった。
洗い物をしているお母さんの後ろのテーブルに皿を置く。
「ここ、置いとくから」
「ありがとねー」
お母さんは振り向かずに返事をする。
「あ、そうだ」
「うん?」
「さっき、何を驚いてた、んだ?」
「さっきって……ああ、カタワレ時ってあんたが言った時の事?」
私は頷き、お母さんの返事を待った。
気配だけで、私が頷いたのが分かったんだろう。お母さんは、話を続けた。
「カタワレ時なんて言葉をあんたが知ってたのに驚いただけ。それ、私の故郷の方言だからさ。どこで聞いたの?」
私の鼓動が一気に跳ね上がった。
耳の奥がドキドキと五月蝿い。
「どこでって……故郷?」
「糸守。今はもうないけどね。ほら、彗星の町」
私は息を飲んだ。
和泉君のお母さんの生まれ故郷が、糸守だったなんて。
「あんたは糸守に行った事ないし、私はふだんは訛ってないと思うからどこで聞いたんだろうなって。カタワレ時って糸守以外では使わない気がするのよねー」
「えと。…………多分、糸守出身の知り合いから移ったのかも」
「え! 糸守の子、いるの? 知り合いに?」
「いる。まあ、彗星って六年も前の事だし、あまり話には出ないけど」
「うん、まあ、そうだろうね。私だって、当事者だったら話したくないだろうし」
カチャカチャと音を立てて、現れた皿が水切り台に乗っていく。流れるような作業を見つめながら、私は尋ねた。
「母さんはさ、糸守から何で離れたんだっけ?」
「んー、あんたがそんな事聞くなんて珍しい。最近、何かあった?」
「いや、別に」
「ふぅん。まあ、うちは代々糸守ってわけじゃなくて親の転勤で糸守に居ついただけだったからね。お爺ちゃんの転勤の時期と私の大学進学の時期が重なって、丸ごと外に出ちゃったのよ」
もしも残ってたら、どうなっていたかな、とお母さんは呟いた。
彗星が落ちて、この世から消えてなくなった町。だけど、誰一人として死者が出なかった奇跡の町でもある。お母さんにとっては、幼少期から高校までを過ごした故郷と言っても良い町であり、そして私にとっては故郷そのものの町だ。
こんなところで繋がりがあるなんて思いもしなかった。
「ねえ、もしかしてさ」
「何?」
「アルバムってないかな。……糸守ってもう無くなっちゃったんでしょ。彗星が落ちる前の写真、あれば見てみたいなって」
恐る恐る尋ねてみると、お母さんはあるよーと軽く返事をしてくれた。
洗い物が終わったら見せてもらう約束をして、私は和泉君の部屋に戻った。
それから、二十分ほどが経っただろうか。
扉がノックされ、返事の後にアルバムを持ってきたお母さんが入ってきた。
「はい、これ。糸守時代のアルバム」
「ありがと」
「お爺ちゃんのところに行けば、あと何冊かあったと思うんだけどね」
今家にあるのはこの一冊だけ。
青い表紙のアルバムは、お母さんが糸守にいた頃のものなのでそれなりに年季が入っている。
開いてみると、時間経過で茶褐色に変色しつつある写真がたくさん貼り付けられていた。
お母さんの若い頃の写真で、部活動だろうかバスケットボールに汗を流す姿や、日常の一コマを切り取った姿が生き生きと写っていた。
私は食い入るように写真を見る。私の目が吸い寄せられるのは、人ではなくて背景がほとんどだった。私の記憶にあるものと細部は異なっているけれど、懐かしい故郷の姿を留めている。隕石で消えてなくなる前の糸守町の姿がここには残っていた。
まだ綺麗な円形だった糸守湖。私が通っていた糸守小学校。そして、宮水神社。
「……これって」
「ん? ああ、懐かしいな。糸守にはさ、でっかい神社があったのよ。それで、コイツ――――この神社の跡取り娘だったのよ」
ああ、そうだろう。知っている。どことなくお姉ちゃんによく似た女の人だった。高校の制服に身を包んだ、和泉君のお母さんと腕を組んで、宮水神社の石段の前ではにかむこの人は、私の――――。
目の奥がジンと熱くなる。ダメだ。和泉君の姿で感極まってはいけないと私は必死に言い聞かせる。
「仲、良かったんだ」
「ま、同級生だしね。小さい町だったから、大抵が幼馴染だよ。私は小学校の時に転校してきたんだけど、この娘、二葉っていうんだけどね、すごい良くしてくれて、おかげで町に馴染めたんだよね」
「この人、優しかったんだね」
「そりゃね。美人だし、頭いいし、それに頼りになる人だった。この人が大丈夫って言えば、とりあえずなんとかなるって気になるんだよ。そういう不思議な気配っていうのかな、そういうのがある人。町のお爺ちゃんの中には神様扱いするようなのもいてさ。巫女が神様になってどうすんだって話。ほんと……ほんと、神様になんの早すぎなのよ、この馬鹿はさ」
「そっか」
何を思ったのか、お母さんは何も言わずに部屋を後にした。
私はその後もしばらくアルバムを眺めて時間を潰した。
若い頃の――――私のお母さんの写真。
うちの写真は六年前に全部無くなってしまったから、私はお母さんの顔もほとんど思い出せないままこの歳になってしまった。
顔も声もほとんど思い出せない。けれど、確かにお母さんだと分かる人が写真の中で楽しそうに笑っている。それが、こんなにも胸に響く。苦しい。苦しいのに、嬉しい。
「……組紐だ」
私は私と同じくらいの年齢のお母さんの写真を指でなぞる。
和泉君のお母さんと『糸守高校入学式』の立て看板を間に挟んでいる写真で、私のお母さんの手首には宮水の組紐が巻かれている。
私はそれを見てから和泉君の勉強机に向かった。アルバムを横に置いて椅子に座り、この前入れ替わった時に作りかけていた組紐作りを再開した。
眠りに落ちるまで、ずっと。休む事なく何かに取り憑かれたように私は紐を組み続けた。