まほ隊長は笑わなくなった。
もともと笑顔の少ない人だったが、それに輪をかけて表情から感情というものが消えてしまった。
「エリカ。次週の練習メニューはどうなっている?」
「はい、こちらに」
私たちの関係性も変わった。
私が副隊長となり、隊長の補佐として傍にいることが多くなった。
そう。私は念願の立場を手に入れた。
ひとつの犠牲を代償に。
以前の私なら嬉しさのあまり破顔しただろう。
ようやく夢見た日々を手にできたと晴れやかな気持ちになっただろう。
……けれど、求めていたその座は、決して胸を張って手に入れたとは言えないものだった。
もしも
一切の不満がないと言えば嘘になる。
けれど忙しなく流れる日々は私に安息を許さない。
私はすでに責任ある立場になったのだ。役目はこなさなければならない。
組織のナンバー2というのはトップの人間よりもすべきことが多い。
悩む暇も与えない日々は、やがて私から劣等という小さな不満を忘れさせてくれる。
それでもなお残る不満があるとしたら、それはたったひとつ。
──エリカ。どうも私は、笑い方を忘れてしまったらしい。
私ではどうあっても隊長の笑顔を取り戻すことができない。
たとえ副隊長になれても、隊長が本当に求めている立場には、どうあってもなることができないのだと。
それを痛感してしまったから、私は……
私の心は──そして隊長も──あの試合以来、あの日の天候と同じように、翳り曇った雨が降り続いている。
──────
練習の後、私はノンアルコールビールを飲むことが多くなった。
黒森峰の名物のひとつであるノンアルコールビールはもとから好きだったけど、明らかに飲む頻度が高くなった。
まるでやけ酒のように飲んで飲みまくった。
ノンアルコールだから当然酔うことはない。
けれどこのビールに本当にアルコールが入っていれば、と思うときはあった。
飲酒に溺れるなんて愚かな人間の典型例だと思っていたけど、いまとなってはそういう人種を笑うことができない。
身体に害悪だとわかっていたとしても、物に頼ることが情けないと自覚していても、どうしても現実から目を背けたくなる瞬間が人にはあるのだ。
自分だけの手ではどうすることもできない、変えようのない非情な現状を前にしたとき、人は意識の逃避を試みる。
そうしなければ、変わることなく訪れる『今日』を生き抜けないから。
私はプライベートの時間、ひたすら頭をいっぱいにできるように極端なことばかりしていた。
過度なボクササイズ。過剰なネットサーフィン。そして過大な練習プログラムの考案。
思いつける限りのことにひたすら没頭した。
少しでも忌々しい雑念を消し去るために。余計なことを考えないように。
きっと、まほ隊長もそうなのだろう。
やり方は私と異なれど、彼女も雑念が生ずることから意識を切り離して、いつも通り立派な黒森峰の隊長として、家元の長女として役目を全うしている。
いや、前以上にまほ隊長は厳格な人間になった。
かたくなに、堅実に、ときには畏怖すら覚えるほどに、伝統の権化となった。
戒律を重んじ、規律を誰よりも意識し、そしてそこから外れようとする者に容赦しなくなった。
それは間違いなく多くの者から称賛される生き様だ。
西住流の未来は明るいと思わせる理想的な在り方だ。
さすがは隊長だ。私は、より尊敬の念を強めてまほ隊長の意志に従った。
……けれど心の一方では、そんな隊長を見るのが辛かった。
彼女は決して間違ったことはしていないのに、立派であることに変わりはないのに。
胸の奥で燻る何かが、隊長に小さく問いかけようとする。
──それで、本当にいいんですか?
と。
愚かな問いだ。
崇高なる隊長に間違いなどありえない。
彼女がすることはすべて正しいのだ。
だから私は隊長の指示に素直に従う。
余計なことを口出ししないように雑念を消し去る。
そうだ。
不要な事柄に構っている猶予は私にはない。
副隊長に任命された時点で、私の覚悟は決まっていたはずなのだ。
必ずこの愛する黒森峰を勝利に導くと。
副隊長になったことで、その思いはより強固なものとなった。
叶えたい目標から実現せねばならない使命に変わった。
なにより……この年は、隊長にとって最後の大会となるのだ。
負けるわけにはいかない。
私が隊長に最高の勝利を捧げるのだ。
もう二度と、
「……」
その日、思い出さなくてもいいことを思い出してしまった。
少し決意が鈍ったからかもしれない。
外で強い雨がしきりに降っていたからかもしれない。
ノンアルビールの味に意識を向け過ぎたからかもしれない。
もう、ここにはいない奴のことを思い出してしまった。
『ねぇエリカさん、本当にそのノンアルコールビールおいしいの?』
『ええ。その辺の安物とはワケが違うわ。あなたも飲んでみればわかるわよ』
『うん、じゃあちょっとだけ……コクコク……』
『……』
『……うえ~ん、苦いよ~』
『お子ちゃまな舌ねー。あなたにはこっちのミルクのほうがいいんじゃない?』
『むぅ。エリカさんやお姉ちゃんのほうがおかしいんだよぉ。女の子なのにこれをおいしいって思うだなんてぇ』
『この味の良さがわからないからお子ちゃまだって言うのよ』
『……エリカさん、なんかオジサンっぽい』
『聞こえたわよこの腹グロ娘ェ! だ・れ・が・オジサンっぽいですって~!?』
『ふにゃあっ! ご、ごめんにゃひゃいぃ! ほ、ほっぺつねらにゃいで~!』
『ふんっ、なによこの赤ん坊みたいに柔らかいほっぺは! やっぱりミルクがお似合いよあなたには!』
『い、いいもん! ミルクのほうが栄養たくさんあるんだもん! だからエリカさんもビールばっかりじゃなくて健康にいいミルクを一緒に飲むべきだよ!』
『ちょっ、だからってなんでふたつのストローで一緒に飲まなきゃいけないのよ!?』
『お子ちゃまってバカにした仕返しだもーん。ほらビールばっかり飲んでるエリカさん? 一緒にチューってミルク飲んで健康的になろう? ホラ、このストローでチューして飲むの。チューって♪』
『チューチューって連呼すんな! みんな変な目で見てるでしょうが!』
ほんの数か月前にあった、彼女とのやり取り。
実にくだらない。
思い出すだけでも呆れの溜め息しか出てこない、バカバカしい日常の断片。
でも、いまとなってその断片すらも実現することは二度となくて……
「……」
口にしていた瓶を床に投げつけた。
割れようが知ったことではない。
なにもかもゴナゴナに砕けてしまえばいい。
くだらない。
本当にバカバカしい。
黒森峰を去っていった人間のことなど、もうどうでもいいというのに。
思い出す必要など、一切ないというのに。
あの日、降りしきる豪雨の中、私たちの関係性は決まったのだ。
もう二度と戻ることはない。
許せないから。
なによりも、誰よりも、私が彼女を一番許せないから。
勝手な行動をした彼女を。
敗因の一躍を担った彼女を。
……それを認めた彼女を。
黒森峰を敗北させ、黒森峰を見限り、そして戦車道を捨てた。
そんなに人間に情を寄せる必要などない。
もう彼女は私たちの世界には関係のない存在だ。
忘れるのだ。
忘れて前に進むべきなのだ。
それなのに。
なのに……
「……どうしてよ」
誰が聞き止めるわけでもない。
誰に向けて言っているのかもわからない呟きを、私は吐き出していた。
まるでもう巻き戻すことのできない時間を惜しむように、未練がましく、泣きじゃくる子どものように。
──ねえ、その程度のものだったの? あなたにとって、この場所は……
──────
黒森峰を優勝させる。
その気持ちだけは隊長と同じだ。
隊長と私なら、去年の雪辱を晴らせる。
そう確信している。
……でも、ときどき隊長を遠く感じる。
私たちはお互いを信頼し、尊重もしている。
けれど見えない壁のようなものがある。
そんなはずはないと主張したい。
けれど事実、隊長は私に本心を明かさない。
あの日以来……
『エリカ。お前は私を正しいと思うか?』
それは
隊長はあたかも求道者のごとく、真理を請うように、私にそう尋ねた。
私は答えに詰まった。
いつもならすぐに「当然です」と返すはずなのに、そのときは唇が動かなかった。
それは、多様な意味を含んだ問いだった。
戦車道の隊長として正しいか。
西住の娘として正しいか。
人として正しいか。
……姉として正しいか。
私は答えられなかった。
伝えたい言葉があるはずだった。
でも、その伝えたいはずの言葉は相殺し合って、ただの沈黙と化した。
何も口にできない私に、隊長はただ申し訳なさそうに、本当に申し訳なさそうに、不器用な微笑みを浮かべた。
『すまなかった……』
それ以来、隊長は笑顔を消した。
いまとなっては私に見せるのは、あくまで黒森峰隊長としての一面だけ。
最初の頃はそれでいいと思っていた。
でも、隊長の背中を見ると、どうしようもなく切なくなるときがある。
孤高で凛々しいその立派な背中を、時折寂しいと感じてしまう。
私はその背中にしがみつきたくなる。
そしてこう伝えたい。
『私じゃ、代わりになれませんか?』
私は一番が好きだ。
だからまほ隊長にとっての特別でありたい。
その思いは変わらない。
でもいまは、その感情が何倍にも膨れ上がっている。
彼女を支えられる、ただ一人の理解者になりたかった。
私がいる限り、あなたは決して孤独じゃない。そう伝えられれば、どれだけよかっただろう。
でもわかっていた。
私じゃ隊長の心を開くことはできない。
彼女の暖かな笑みは、いつだって
結局、私はどこまでも
──────
隊長が笑わないというのなら、私も笑顔を消そう。
勝利に執念を燃やす一匹の猟犬となろう。
私たちが笑顔を取り戻すとしたら……それは黒森峰が再び王者に再臨した瞬間。
その日を夢見て、私は副隊長としての務めを果たそう。
それは決して──それだけは絶対に──間違いではないはずだから。
そう決意を固めた。
なのに……
──ほら、みぽりん! このケーキもおいしよ?
──ありがとう沙織さん。あーん……うん、おいしい♪
なのに……
──わたしにも分けてくれ。
──麻子ったら行儀悪いよ?
──大丈夫だよ沙織さん。はい麻子さん、わたしのあげる。アーン♪
ああ、どうして……
──それにしても今日の練習試合とても白熱しました! 聖グロリアーナとあそこまで接戦できるなんて、さすが西住殿です!
──あはは、結局負けちゃったけどね……でも、ありがとう優花里さん。私もすごく楽しかった気がする!
どうして、あなたは……
──わたくし、今度こそ確実に当てられるよう努力いたします!
──華さんならきっといい砲手になれるよ!
どうして、どうしてそんなに……
何もなかったかのように笑っていられる!!
燻った感情は明確な敵意に。
劣等は憤怒に。
嫉妬は憎悪へと形を変えた。
私はもうひとつの決意を固めた。
黒森峰を見限り、大洗という無名校で戦車道を始めた裏切り者を……
西住みほを、必ず倒すと。