遠い。
あの子との距離が、今とても遠い。
──エリカさん、待ってー!
いつも子犬のように後ろにくっついてきたくせに。
──エリカさん! 一緒にがんばろうね!
いつも能天気に笑っていたくせに。
──エリカさん! エリカさん!
いつもしつこいくらいに名前を呼んでいたのに。
なのに……
──エリ……逸見、さん。その、よかったら、今度お姉ちゃんと一緒に大洗に遊びに来てね? 逸見さんが、よかったら、だけど……
遠い。
あんなにも、近しかった彼女が、
とても遠い。
遠いのなら、
もういっそのこと、私は……
──────
秋の爽やかな風が公園の木々を震わせる。
気持ちのいい午後だった。
葉の揺れる音が耳に心地いい。
ベンチに腰掛けながら私は耳を澄ます。
枝の上で二羽の鳥が仲睦まじく鳴いていた。
自然と心が穏やかになっていく。
(こんなにも落ち着いた休日は久しぶりね)
そよ風が私の長い髪を撫でる。
そよぐ銀色を手で支える。
小さい頃はこの銀髪がコンプレックスだった。
近所の男子たちによく「変な色」とからかいのネタにされた。
でも成長した今では自慢の髪だ。
美点のひとつだという自覚がある。
道行く男たちもこの色を見て笑ったりはしない。むしろ見惚れるほどだ。
単純なんだ、男なんて。だから嫌いだ。
同性から褒められたほうが私としては嬉しい。
羨ましいと言われるとすごく気分がいい。
すごく綺麗、とあの子にも言ってもらった銀髪。
「……」
そろそろ美容院に行く時期かもしれない。
伸びた前髪やモミアゲを指でクルクルと弄りながら思った。
枝から一羽の鳥が飛び立つ。
もう一羽が追うように翼を広げた。
中学までは一人で過ごす休日が好きだった。
余計な気遣いや中身のない友情を抱えるぐらいなら、いっそ一人でいるほうがマシだった。
陰で罵倒されて傷つき、自己嫌悪に陥って後悔するのはもう嫌だった。
一人なら気楽だ。
高校に上がってからはそれも破綻したわけだが。
でもそれも一瞬のことだった。
舞い戻ってきた孤独。
また私は一人きりの休日を過ごす……かに思えた。
「エリカさん、お待たせしました」
鈴の音のように弾んだ声が私の名を呼ぶ。
甘い香りが鼻腔を突く。
公園の屋台で売られているクレープを両手に持った少女がにこやかに私の座るベンチにやってくる。
「どうぞ。チョコバナナでよかったですよね?」
「ええ。ありがとう小梅」
私がクレープを受け取ると少女はまた柔らかく微笑んだ。
素敵な笑顔だった。
私には到底できない優しい笑顔を浮かべる少女、赤星小梅。
それまで何の接点もなかった相手。
けれどひとつの因縁が、私と彼女を繋いだ。
そして今、私はこうして彼女と行動を共にしている。
「この公園に来るクレープ屋さん評判らしいですよ?」
「あなたが選ぶお店に外れなんてないでしょ。心配はしてないわ」
綺麗に作られたクレープをひと口。
……ああ、至福の瞬間。
隣でイチゴホイップをかわいらしく食べる小梅もご機嫌な顔でいた。
「晴れてよかったですね」
「そうね。過ごしやすい日だわ」
「やっぱりこういう日は部屋に籠もりきりじゃなくて出かけるのが一番ですよね」
「……それ私の日課に対する当てつけ?」
「ネットサーフィンばかりしていると目が悪くなりますよ? 戦車乗りなら尚更大事しなきゃ、ですよ?」
「ブルーライトカットしているから平気よ」
私の返しに小梅は「もう」と頬を膨らます。
怒っているときまで彼女は愛らしい。いろいろ反則だ。
でも不思議と女子特有の妬ましさは湧かない。
淑女、という名称は彼女にこそふさわしいのだと私は思う。
彼女の些細な仕草や口調からは、いつも清い品性が感じられる。
作為的なものではなく、とても自然なものだ。
気配り上手で相手を立てるのもうまい。
その器量の良さには素直に感服させられる。
共学校に通っていたらさぞ男子にモテていたことだろう。
本人はクセッ毛のある髪がコンプレックスらしいけど、そんなの気にならなくなるほど彼女は魅力的だ。
一緒にいると自然となごやかな気持ちになる。
人間嫌いな私ですら、こうして一緒にいてもまったく不快に思わない時点で彼女は大物だ。
不思議な縁だ。
去年まではお互い言葉を交わすことすらなかったというのに。
けれど、
──あの、逸見さん。よかったらお昼ご一緒しませんか?
私が
小梅はどこか不安げに、しかし何か譲れない意志のようなものを宿して、私の元へ来た。
最初は鬱陶しかった。
どうして
……でも、今の私は彼女に対してある種の尊敬の念をいだいている。
そのお淑やかな印象とは裏腹の、根強い強かさを内に秘めていることを私は知っている。
だから彼女に注意を受けても激することなく素直に受け止められる。
いつしか、私たちはそういう間柄になっていた。
「今日みたいないい天気の日は、確かにPCと睨めっこしているより外に出たほうが健全かもね」
気持ちのいい日の下で食べるスイーツはいつもより極上の味に感じる。
私の発言に小梅は嬉しそうに微笑む。
本当にかわいらしく笑う。
「そうですよ。疲れているときほどお出かけして何か刺激を受けたほうがリフレッシュになるんですよ?」
「そうかもね。部屋で惰眠貪ってるほど疲れって抜けないのよね」
「そうしたい気持ちもわかりますけどね。ここ最近、お互い引き継ぎで大変ですし……」
「隊長と副隊長の宿命ね」
私と小梅の関係性は友人とは少し違う。
どちらかと言うとトップと副官だ。
先日、まほ隊長は正式に引退した。
隊長の座は私に委ねられ、そしてかつての私の座は隣にいる小梅へと委ねられた。
私が隊長になることは誰も驚かなかった。
ただ副隊長の委任には多くの者が、そして小梅本人も驚愕した。
でも、私は一瞬で納得した。
確かに副隊長になるべきは、この娘しかいないと。
──なぜなら、彼女が一番黒森峰の闇をその身と心で……。
副隊長という言葉を聞くと、小梅は不安げな顔を作る。
「正直、今でも信じられません。本当に私なんかが副隊長でいいんでしょうか?」
「いいも何も、あなたがふさわしいと判断されたから選ばれたんでしょうが」
「光栄ですけど、なんだか恐れ多くて……」
「私はあなたみたいな人間こそ適任だと思うわよ」
お世辞ではなく本音だ。
結局のところ私が副隊長として部隊に貢献できたことなんて少ない。
隊長を補佐し、部下に指示を送るという縁の下の力持ち。
正直、私にその役目は合っていなかったのだろう。
組織のトップ2というのは中立的な立場で部隊を統制しなければならない。
その人間が感情的では話にならない。
振り返ってみれば部下には随分理不尽な指示ばかりをしていた。
よく文句も言わず従ってくれたと思う。
その点、小梅のような落ち着きのある娘なら要領よくその役目をこなすだろう。
小梅は謙遜しているが、彼女はとても優秀だ。
一年前の試合以来、その実力は急激に上がった。
決して私情に走らず、常に冷静に状況を観察した上で判断し行動できる。
チームメイト一人ひとりの個性を考えた上での指示も飛ばせる。
個人の意思が尊重されるというのは、気持ちがいいものだ。
それが証拠に、小梅が車長として乗るチームはいつも穏やかな笑顔を浮かべている。とても楽しそうに戦車に乗る。
「自信持ちなさい。あなた、自分が思っているよりも輝くもの持っているんだから」
「……ありがとうございます。そうですね。少なくとも先輩たちの判断を信じないとダメですよね」
信頼を裏切らないために堅実に努力する。
小梅はそういう人間だ。
そんな面もまた評価されたのだろう。
立派だと本気で思う。
「私なりに、頑張ってみようと思います」
「ええ。期待してるわ」
彼女なら過ちは犯さないと私は確信している。
副隊長に関して心配事はない。
けれど……
「恐れ多いのはむしろ私よ」
隊長。
部隊のトップ。ナンバーワン。
幼い私だったら喜んでその座を引き継いだことだろう。
でも成長した今の私はそのことに喜べなかった。
あれほど一番になることは好きだったにも関わらず。
「……不安よ。あの人の代わりなんてできるのか、ってね」
普段なら決して口にしない弱音を私は吐き出していた。
小梅相手だとついそうなってしまう。
返しにくい発言でも小梅は困惑することなく、むしろ打ち明けたことを歓迎するかのように微笑む。
「お気持ちお察しします。でもエリカさん。元隊長とまったく同じことをする必要はないんじゃないでしょうか?」
あの人と同じこと。
しようと思っても、できるわけがない。
だから悩んでいた。
でも小梅はそんな私を静かに嗜める。
「大事なのはむしろ『エリカさんだからこそできることがある』ってことだと思います。西住元隊長は、それを期待しているんじゃないでしょうか」
「私だから、できること……」
「確かに西住元隊長が築いてきたものを守りたいお気持ちはわかります。だけどあの人が望んでいるのは伝統に縛られない新しい黒森峰の姿なんじゃないでしょうか?」
新しい黒森峰。
隊長が私たちに最後に残そうとしたもの。
「エリカさん。その新しい黒森峰には、あなたのような人こそ必要だと私は思います」
「どうしてそう言い切れるのよ?」
「気づかれてないんですか? 練習に新しく訓令戦術を取り入れてから、エリカさんすごくイキイキしていましたよ」
「私が?」
最近の練習を振り返ってみる。
隊長の座に恥じないようにと意識を張り詰めてばかりいたから、正直ちっとも記憶に残っていないが……
なるほど、確かに以前よりも「私らしく」振る舞っていたのかもしれない。
記憶の残らないということは、それだけ普段どおりの自分でいたということだから。
……だが、隊長としてそれでいいのだろうか。
「エリカさんはエリカさんでいいんだと思います」
心を読んだように小梅は言う。
「みんな口にはしないけど、エリカさんについていこうって気持ちを持った人は多いんですよ?」
「そうなのかしら」
「ええ。だって、私たちはもう……」
──西住流に頼ることはできないのですから。
「……」
それは私たちとって、最も重い真実だった。
「みんな、必死です。一人ひとりが強くなっていくしかない。もうそうするしかないんだってことを、わかっているんです」
そうだ。
私たちはもう……西住流不在の黒森峰でやっていくしかないのだ。
「伝統は確かに大切です。だけど、それで自分で考えることを私たちは放棄してきた。その結果……」
その先は口を噤んだ。
ああ、わかっている。
そのせいで私たちは負け続けたんだ。
去年の決勝でも、今年の決勝でも……そして、あの戦いでも。
「あの試合……」
「え?」
「大学選抜との試合……何も、できなかったわね。私たち」
ひと夏の激闘。
あの試合、私たちは何かひとつでも誇れる成果を出せたのだろうか。
「……エリカさんはちゃんと役目を果たしたじゃないですか」
「それでも、思い知らされたわ。圧倒的な『差』ってやつをね」
もう二度と実現することはないだろう、各強豪が集った異例中の異例チームでの試合。
そこでも私たちは王者として活躍することはなかった。
ただ改めて西住流の凄まじさを知っただけだ。
島田流を撃破した彼女をより遠く感じただけだ。
「急造チームでも、ブレない奴らはホントにブレなかったわね」
どんなチームでも、どんな編成でも、どんな相手でも、常に自分たちのベストを引き出す。
それこそが強者たる
私たちは伝統に従うことこそが黒森峰の強さだと信じていた。
……でも、それだけでは、足りなかったのだ。
私たちはお互い、あの日の戦いに思いを馳せた。
心地いい風は、いつのまにか止んでいた。
「エリカさん」
強い意志と後悔を宿した瞳を、小梅は私に向ける。
「正直に告白すると、私すごく悔しいんです。何も貢献できなかった。私はもっと力になりたかった……」
思い起こされるのは天から降り注いだ破壊の鉄槌。
信頼と共に乗りこなしてきた鉄の獣たちは、たったの一撃で瞬く間に散っていった。
「……誰もあの展開は予想できないわよ。まさかあんなトンデモナイ代物が試合に使われるなんて」
「それでも、戦い抜いた人たちはいます。私もああなれたらって、すごく羨ましくなりました」
「……ええ、わかるわよ。とても」
「もっと、強くなりたいです」
強くなりたい。
それは誰もが持つ共通の思い。
けれど、いま隣の少女がかかえるその情熱の丈は計り知れない。
「強く、成長したいです。
穏やかな彼女の中で燃え上がる信念。
それを肌で感じた。
「あの人が教えてくれました。言葉ではなく、戦車道で示してくれました。本当の、強さというものを」
小梅の言葉に熱が込められる。
そこに決して折れない強さが宿っていた。
私は悟る。ああ、彼女もまた、『自分の道』を見つけているんだと。
「だから私も……」
私は「この娘は本当に立派だ」と心の底から賞嘆した。
「──強くさせてみせるわ。私が」
いつのまにかそんな言葉を口にしていた。
彼女のような副官にふさわしい隊長にならなくてはいけないと、そう感じたから。
「小梅。来年こそ私たちが勝つ。必ず優勝させてみせる」
「はい」
決意を口にする。
小梅も力強く頷いた。
私たちの心はひとつに重なっていた。
「私も精一杯がんばります。部隊を、そしてエリカさんを支えてみせます」
風がまた吹き出した。
少し強めの風。
いまの私たちにはそれが心地よかった。
ふぅ、と私はひと息吐く。
重苦しいものがやわらいだ気がする。
「感謝するわ小梅。おかげで吹っ切れたわ」
「いえ、そんな……」
「やっぱり副隊長はあなたが適任よ」
今日みたいなやり取りを、きっと私たちはこの先何度も繰り返すのだろう。
心強かった。
小梅のような少女が隣にいてくれることに私は深く感謝した。
不思議だ。
もう
今は支えてくれる存在がいることをとてもありがたく思う。
小梅は私にそう思わせてくれる人間だった。
(……こんなところあの子が見たら、なんて思うかしらね)
大人しいくせに、恥ずかしがり屋のくせに、意外と独占欲の強いあの子のことを思い出す。
──なに今朝からふくれてるのよ?
──ふくれてないもん……。
──どう見ても不機嫌じゃないの。
──むぅ。だってエリカさんが……。
──私が何したって言うのうよ?
──……別のクラスの子と仲良くしてた。
──はあ? ……ああ、アレはなんていうか、その……。
──エリカさん?
──……告白、されたのよ。
──告白!?
──も、もちろん断ったわよ!? 当然でしょ! 女同士でそんな……
──じゃ、じゃあなんであんなに笑顔だったの!? エリカさんのあんな優しい顔向けられるなんて羨ま……じゃなくて、どうしてなの!?
──それは、向こうは必死の思いで告白したんだから、やんわりと断らないと可哀相じゃない。……あの子の気持ちもわからないでもないし。
──むぅ……。
──なんで余計に拗ねるのよ?
──エリカさん他の人にはそんなに優しいんだ……。
──あのねぇ……。
──むぅ~。エリカさん! もっと! もっとわたしにも優しくして!
──はあ!? 普段から菩薩みたいに慈悲深く面倒見てあげてるでしょうが!
──ちーがーうーのぉ! わたしにもあんなエリカさんの優しい笑顔向けて欲しいんだもん!
──ちょっと! ひっつかないでよ!
──やあ! エリカさんエリカさん! もっと構って~!
あのときのあの子は一日中、私にベッタリだった。
呆れを通り越して動揺する勢いの甘えん坊ぶりだった。
まほ隊長に聞いたことがある。
あの子も昔はやんちゃで今よりもずっと気の強い子だったらしい。
確かにお嬢様特有のワガママな一面をその日に見た。
後から冷静になって「あうあう」と恥ずかしがっていたけど。
「ふっ……」
どうしてか笑みが浮かぶ。
あの子のそんな一面があることを
そう考えるとなんだか愉快な気持ちになった。
ただ、やはりそれは過去の話……。
今となってはなかったも同然な出来事。
(だけど、もう……)
今の私には、もう必要のないものだ。
私にはすでに、こうして新しい関係性がある。
それはこれから強めていかなければならないものだ。
だから、これでいいのだ。
ようやく、私も前に進める。
「ありがとう小梅。今日は誘ってくれて。充分リフレッシュになったわ。これで……」
これでもう本当に後腐れなく、
「心置きなく、自分の道を進めるわ」
万感の思いを込めてそう宣言した。
たったひとつの感情に蓋をして。
これで、これでようやく私は……
「──本当にそうですか?」
「え?」
蓋は、閉じられなかった。
「本当に心残りはないんですか?」
「小梅? 何を、言って……」
「私には……」
小梅の瞳に切なげな光が滲んだ。
「私の目には、まだエリカさんが無理をしているように見えます」
「……」
なぜ。
なぜ、そんなことを言うの。
やっと、やっと私は未来に向かって進もうとしているのに。
「エリカさん」
怖い。
頼もしい彼女の瞳が、今はとても怖い。
「──少し、私のお話を聞いてくれませんか?」
小梅がどうして今日私を誘ったのか。
お互い多忙な日々の疲れをリフレッシュするため。
それも理由のひとつだったろう。
でも、本当は……。
私はその日、小梅という人間の深さを真の意味で思い知らされることになる。
そして後に私は追憶する。
この日の小梅とのやり取り。
それが私の運命を大きく変える転換期だったのだと。