四月。
あらゆる物事が動き出す季節。
真新しい制服に身を包み期待に胸を膨らませている新入生に混じり一人の男子––––進藤浩介が歩いていた。
今日は北宇治高校の入学式である。本来ならば三年生の浩介は、まだ春休み期間であり登校する必要はない。入学式に関わる生徒会や部活動の勧誘のために来ている在校生はいるものの、浩介の所属するサッカー部の勧誘は伝統的に二年生の仕事となっている。
––––もっとも、午後から練習があるのでどちらにしろ学校に来ることに違いはない。
それでも浩介は、若い集団に混ざり校門を目指していた。180cmを越える身長を有するために軽く集団からは目立っているが、当の本人はそれを気にしている様子もない。むしろ、これから見に行くものを楽しみにしており、今の自分の状態を考える余裕は頭にはなかった。
(入学式が九時からで、新入生の集合時間はその三十分前。部活の勧誘開始は八時からで、多くの新入生が校門を通過するであろう八時十分頃が演奏の時間のはず……)
北宇治高校の吹奏楽部は決して強豪ではない。校内の展示フロアにトロフィーが飾られていることから、かつては全国大会に出場したこともあるようだ。しかし、現在ではむしろ弱小に部類され、音楽に疎い浩介にもそこまで上手くない––––有り体に言えば下手なことは分かる。
それでも演奏を聴きたい理由があった。
中世古香織。
浩介の彼女である香織を見るためだけに、朝早くから制服を着込み、高校へと至る坂を登っていた。
今年の春は暖かくなるのに時間がかかったことも幸いし、通学路では遅く咲き始めていた桜が新入生を祝福していた。住宅の立ち並ぶ間にある階段を登り、校門へと通じる道すがら浩介は軽く欠伸をする。大きく息を吸うと土の匂いが鼻腔をくすぐる。香織の演奏を聴くためとはいえ、やはり少し寝不足気味のようだ。
「やっとついた……。部員が準備してるってことは、まだ演奏は始まってないな」
校門を通り抜けた先、広場で演奏の準備をしている彼ら––––男女比の差から正確には彼女らである––––を一瞥し、新入生の邪魔にならずに聴きやすいであろう場所を探そうと周りを見渡していると、ふと準備には関わっていない男子が視界に入った。
「あれ? 後藤ちゃん、今日は演奏しないの?」
浩介が後藤と呼んだ男子は振り向くと、眉間にしわを寄せつつ手に持っている看板を指差した。
「おはようございます、進藤先輩。あといつも言ってますが、俺は男ですから“ちゃん”を付けないで下さい」
「堅いこと言わないでよ。俺と後藤ちゃんの仲じゃないか」
「嫌なものは嫌なんですよ。そのことで何度あすか先輩に揶揄われたことか。……今日はチューバは一人で良いので、俺は看板持ちなんです」
なるほど、見渡してみると後藤の彼女––––長瀬梨子が楽器の準備をしている姿が見える。一方で可愛らしく装飾された吹奏楽部の看板を大柄の男子である後藤が持つ。……このインパクトは間違いなく新入生の記憶に残るだろう。
そんな下らないことを考えていると、吹部集合!と声が掛かる。
「では俺は戻ります。先輩は新入生の邪魔にならない場所で聴いていて下さい」
「後藤ちゃんの看板持ち楽しみにしてるよ」
後藤はため息をつくと駆け足で列に戻っていった。後藤自身目立つ行動は好きでないため、今回の看板持ちも相当嫌だったことが伺える。後でジュース奢ってあげても良いかもしれない。浩介はちょうど良い場所を見つけスマホを取り出した。
新入生に呼び掛ける指揮者––––田中あすかをしり目に、浩介は香織が中段辺りにいるのを見つけた。
目が合い恥ずかしそうに視線を逸らす香織に手を振りつつ演奏前から既に何度もシャッターボタンを押している姿は、端から見て奇妙に映っていても不思議ではない。
ふと、撮影に夢中になっている浩介の目の前で立ち止まる影があった。
胸元の赤色のリボンは新入生であることをうかがわせる。ポニーテールにしているその髪型は入学式だから気合が入ってるのだろうか。様々な楽器を前にして、目には期待が映り込んでいる。
一年生の注目を集めたあすかは、吹奏楽部員の方へと振り返り手を挙げた。
指揮に合わせて聴こえてくるのは誰もが知っている時代劇ドラマのテーマ曲。しかし、音楽に詳しくなくともあまり上手いとは言えない演奏である。具体的な良し悪しは浩介には分からないのだが何となく残念であることが分かる。
とりあえず本来の目的である香織にレンズを向ける。
「ダメだこりゃ……」
目の前にいた女子が小さく溢した呟きを浩介の耳は拾っていた。
やっぱり誰が聞いても上手くないようである。
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「香織! すごい良かったよ!」
演奏も終わり、片付けをしている香織に浩介は満面の笑みで近付いた。気分は一仕事を終えたサラリーマンである。
「もう! 恥ずかしいから写真は絶対に撮らないでって言ったのに……」
「まあまあ。あんなに近い距離で演奏している姿を観れる機会なんてなかなか無いんだからさ、大目に見てよ」
「進藤先輩! 勝手に香織先輩を撮らないで下さい!」
視界の隅から飛び出してきたのは頭に付けた大きいリボンが特徴の吉川優子であった。
吹奏楽部に存在する数多い香織信者の中でも、浩介に突っかかってくる人の名前を挙げろと言われれば、まず優子が出てくる。それ程に優子にとって、浩介は気に入らない相手でもあった。
如何にも私は怒ってますを全面に押し出したその表情に浩介は首を傾げる。
「自分の彼女の写真くらい撮ってもいいだろう? 後で何枚か送るからさ」
「あ、良いんですか? ありがと––––じゃなくて! 許可なく勝手に撮ったりしたら迷惑なんです!」
「え? でも小笠原から良いよって言われたよ?」
「部長! なんで許可してるんですか!」
「うん? 進藤は別にストーカーとかでもないし大丈夫だよ。私にも後で写真ちょうだいね」
あっけらかんとする吹奏楽部部長––––小笠原晴香に優子の怒りのボルテージは上がっていく。浩介が優子を怒らせ、それを香織が宥めるまでがいつもになっていた。
「まあまあ。優子ちゃんも落ち着いて? 晴香、そろそろ体育館に移動して入学式の準備しないと」
「あ、もうそんな時間か。吹奏楽部、準備が出来たら直ぐに体育館に移動します!」
晴香の声掛けにバラバラに返事を返すと部員はぞろぞろと移動を開始する。吹奏楽部はこの後、入学式で校歌の伴奏があるらしい。
「浩介、今日は部活何時に終わる?」
「今日は午後から練習開始で、予定では六時くらいかな。ただその後顧問と話し合いがあるから七時前になっちゃうかも」
「分かった。じゃあこっちが先に終わると思うから待ってるね?」
了解、の返事に香織はハニカミながら駆けていく。
ひらひらと手を振りながら見送ると浩介はサッカー部の方へ足を運んだ。香織のことが一杯で頭から抜けていたが、サッカー部も新入生への勧誘を行っている。せっかく学校に来ている以上、最低限顔は出しておいた方が良いだろう。
高校ともなると、サッカー部に初心者が入部することは稀である。足でボールを扱うことは、それこそ小学校から始めていないと上達は見込みにくい。
勧誘しているであろう場所に到着すれば、部員はチラシを配り終えたのか、特にやることもなく談笑しているだけの集まりになっていた。
「おはよう。勧誘はもう終わった?」
「あ、浩介先輩。おはようございます。今さっきチラシも配り終わって……。とりあえず何人か入ってくれそうな人もいました」
「そっかそっか、それは良かった。朝早くからお疲れ様。午後から練習開始だからそれまで解散してて良いよ」
––––お疲れ様です!
後輩たちの声を背に、浩介はこれからの事を考えていた。
総体予選まであと二ヶ月と少し。今年は即戦力になる人はいるだろうか。
早く体を動かしたい気持ちを抑えながらも、足は自然とグラウンドへと向かっていた。