「なんで香織が吉川を慰めてるんだ?」
ホールでの練習が終わって戻ってきた吹奏楽部。
何故か目を赤くして俯く優子を香織が隣で慰めるという、オーディションに臨んだ人間が入れ替わったのかと錯覚させる風景が目の前にはあった。
「まあ、何となく予想はつくんだけどさ」
「優子ちゃんも私を思ってくれてだからね……。私は嬉しいよ」
友達に手を引かれ校門を出て行く優子を見送り、香織はグッと背伸びをした。
浩介は頭に手を乗せる。今日はこの前のように払いのけることなく、されるがままである。
「じゃあ俺らも帰るか」
「……うん」
夕陽が沈み街灯が照らす道を歩く。近くに川があるためか、カエルの鳴き声が聞こえる。
二人は喋ることなく無言であった。浩介は横目で香織の様子を伺う。前を向いて歩く香織は以前と異なり今回はあまり落ち込んでいるようには見えない。
きっとやり切ったということなのだろう。
「浩介……?」
浩介は立ち止まると香織を抱きしめる。香織が声を掛けても無言のまま、さらに力を強くする。抱きしめたまま小さく耳元で呟く。
「俺は香織を尊敬する」
「どうしたの急に」
「ううん、何となく言ってみただけ」
「そっか……」
香織は背中に手をまわすとポンポンと叩く。まるで幼い子供を宥めるかのように優しく受け止める。
「私はね、もう後悔してないんだ。今は満足してる」
「うん」
「あんなに上手な後輩がいるんだもん。全国だって夢じゃない。それを感じさせるだけの演奏だったんだ」
浩介は手を離すと香織の顔を見る。そこには一点の曇りもない笑顔があった。
「香織……」
「なんで浩介が弱気な顔をしてるの。そんなんじゃせっかく日本代表に呼ばれたのに何も出来ないで終わっちゃうよ?」
浩介の頬をつまむと横に引っ張る。思った以上に柔らかいことに軽く驚く。少し恨めしい。
「私はもう大丈夫。今度は浩介の番だよ? 私の彼氏は日本代表でレギュラーなんだ、って自慢させてね?」
そんな顔で言われたら頑張らざるをえない。
香織の勇気を間近で見ていたのだ。自分が怯むなんて出来るわけがない。
「分かった。絶対にレギュラーになってくる」
香織は笑顔で頷くと、頰を手で抑え顔を近付けた。
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香織はスマホの画面を見ながら顔が緩んでいた。
晴香がその場面を見た時、用事があるものの声を掛けることを戸惑わせるくらいには近づきがたい様子であった。
浩介が学校を休んでいる間、会えなくて落ち込んでいるかと思っていたがそうでもないらしい。晴香は気を取り直すと香織の席まで近付いた。
「香織? すごい顔が緩んでるけど、何かあったの?」
「うん、これ」
晴香は差し出されたスマホの画面を見る。
サッカー関係のホームページのようだ。そこには今アジアで行われている世代別の国際大会の結果が表示されていた。
結果によると今日行われた試合に日本は勝利している。聞くところによると、浩介はこの大会にメンバーとして参加しているらしい。
画面を下にスライドさせていくと得点者が載っている。
「なるほどね」
「ベンチが精一杯かもって言ってたけど、ちゃんと活躍出来てるみたい」
得点者に浩介の名前があることを見つけ香織は喜んでいた。事前に浩介から聞いていた話では、同じポジションに圧倒的にレベルの違う選手がいるらしい。
香織はその選手の名前を知らないため、浩介が代わりに試合に出たのか別のポジションで出ていたのかは知らない。でも、浩介が得点したこと、それが一番の喜びであった。
「嬉しいのは分かったけど顔がダラシないからね?」
「部活までには復活するから大丈夫だよ」
「本当かー?」
晴香は香織の頬をこねくり回す。それでも嫌がる素振りを見せないあたり重症であった。
いつまでも変わらない表情に若干顔を引き攣らせていたが、用事を思い出し顔から手を離す。
「あ、そうそう。夏休み入ってからの部活なんだけど––––」
「うん」
部活の話になると切り替えるあたり流石だな、と思いつつ晴香は話を続けた。
府大会までの懸念はもう無くなった。
吹奏楽部はラストスパートをかけ全力で練習に取り組んでいた。より一つ一つの音を完璧に演奏しきることが求められる。
休憩時間ですら雑談はあまりなく、パート内で細かく確認し合う部員が多くいる。根を詰めるようであれば問題だが、誰もが自発的に意見を交換している姿は決して全国が夢物語でないことを香織にも感じさせていた。
気になることがあるとすれば、優子の元気がないことである。ミスをしている訳ではないため、様子を見ていたけれどもやはり心配だ。もしかしたらまだオーディションの件を引きずっているのかもしれない。
「優子ちゃん、今日一緒にご飯食べに行こっか?」
もし悩みがあるなら一緒に解決方法を探すのも先輩の役目だ。香織は優子をご飯に誘うことにした。
学生が帰りにご飯を食べるといっても基本的には安いところになる。
しかし、せっかくの後輩とのご飯だ。ファストフード店よりは少し高いが、ご飯の美味しい喫茶店に二人はやって来た。
あまり学生には知られておらず、浩介と学校帰りに時折通っている隠れ家的な喫茶店である。
「こんな所に喫茶店あったんですね」
「裏道に入るからね、地元の人ばかりでなかなか学生は来ないよ」
物珍しいのかキョロキョロと周りを見る優子に、初めて来た時の自分の姿を重ねる。
「ここのパスタが美味しくて、時々食べに来るんだ」
「パスタのメニューは本日のパスタ……。一種類だけなんですね」
「何が出るかは店員さんに聞くまでのお楽しみだね。ダメな食材あったら伝えると抜いてくれるよ」
香織は店員を呼び本日のパスタを確認する。今日はカルボナーラであった。
二人は本日のパスタとコーヒーセットを注文し一息つく。香織は水で喉を潤すと優子に向き合う。カランと氷がぶつかった。
「今日は元気なかったね」
「すみません……」
「別に怒ってたりはしてないよ? 自分勝手なんだけど、私が優子ちゃんの力になりたいなって」
柔らかい表情に優子は俯く。数十秒が経っただろうか、悩んでいた顔を上げた。
「実は……、この前のオーディションの時に進藤先輩に酷いこと言っちゃったんです」
あの時、優子は香織にソロにやって欲しかったあまりに、周りが見えていなかった。
今となって振り返ってみれば、浩介が香織のことを大切に思っていない筈がない。香織の抱えていたであろう辛さなど優子以上に分かっていた筈だ。
「なのに……、私は失望したって……」
「……そっか」
自分勝手に行動して香織にも呆れられたかもしれない。優子は唇を噛んだ。
お待たせしました、と店員からコーヒーが二人の前に置かれる。
「大丈夫だよ」
「え?」
「浩介は優子ちゃんの気持ち分かってたから」
香織は運ばれてきたコーヒーにミルクと砂糖を入れスプーンでかき混ぜる。
その仕草に見惚れていた優子もハッと我に帰ると動作を真似た。
「羨ましいって言われたんだ」
「羨ましい、ですか?」
「うん」
優子が香織に啖呵を切ったその日、帰り道で浩介はそのことを話題にしていた。
––––そこまで先輩を思ってくれる後輩がいることの幸せを噛み締めないとね。
「怒るどころか笑顔で言ってて、可笑しくて私も笑っちゃったもん」
思い出すようにクスクスと笑う香織が嘘を言っていないことは直ぐに分かった。でも何故あれだけのことを言ったのに少しも責められないのか、むしろ罪悪感が募る。
「あの人はいつもそうだよ。全力で頑張っている人を否定しないんだ。優子ちゃんも私のために全力だった。もちろん、方法が適切だったかと言われると違うけど、それでもその気持ちを認めていた」
「気持ち……」
「気にしないで、って言っても多分優子ちゃんは気にしちゃうよね」
だから、もし悪いことしちゃったなら謝れば良いよ。
その言葉が欲しかった。
胸にストンと落ちる言葉に優子はモヤモヤが晴れていくのを感じた。そうだ、悪いことしたなら謝る。何故当たり前のことを考えつかなかったのか。
ソロを香織に担当してもらいたい––––その気持ちは純粋な願いであり、そのために行動していた。それは悪いことであると認めるのはプライドが許さなかったのかもしれない。
「進藤先輩が学校に戻ってきたら謝ります」
「うん」
じゃあ食べよっか、の言葉を合図に二人はフォークを手に持つ。
スッキリした後のカルボナーラは絶品だった。
「これを機会にさ、浩介のこと名前で呼んだらどうかな?」
「進藤先輩をですか? 浩介先輩……なんかしっくりこないです」
「でもいつか私も進藤姓になるかもしれないし、慣れといて損はないよ?」
「香織先輩?!」
何故浩介が絡むと急に爆弾発言をするのだろう。優子は驚きすぎてむせた喉を落ち着かせるため水を流し込んだ。