八月六日。
その日は晴れていた。まさに夏の晴れの日を体現した空の明るさである。
朝起きた時の早朝の少し冷たい空気が心地よく、いつもより心を明るくしてくれているように感じる。
北宇治高校吹奏楽部は毎年、大会には冬服の制服––––これが正装らしい––––で参加することになっている。クリーニングに出しておいた制服に身を通すと母に声を掛け家を出た。
六時半に学校に着けば大丈夫。
スマホで時間を確認し、ノンビリと通学路を歩く。まだ気温が上がりきっていないため、冬服でも汗をかくような暑さではない。通い始めて三年目の道なのに、何処か目新しさを感じる風景は早朝の空気が生み出す幻にも見えた。
学校が近くなるにつれポツポツと冬服に身を包む学生が見えてくる。香織はその一人に声を掛けた。
「おはよ、優子ちゃん」
「香織先輩! おはようございます!」
優子のリボンはいつも以上に自己主張しているように見える。表情からも気合が入っていることが容易に分かった。府大会を突破することで何かのキッカケにしたい、何処かそんな風にも見えた。
学校へ着くとグラウンドから活気のある声が聞こえてくる。既にサッカー部の練習は始まっており、今は二つのチームに分けて試合が行われているようだ。
香織は足を止めるとグラウンドへと目を向けた。二十人を超える部員がコートにはいるが、浩介は直ぐに見つけられた。大きな声で味方に指示を出しながら走り回るその姿はとても格好良く目に映る。
ずっと見ていたいがそういう訳にもいかない。香織には香織のなすべきことがある。
「香織先輩?」
「ううん、何でもないよ。行こっか」
香織は首を振ると笑みを浮かべた。
『おみくじ入りの御守りです』
吹奏楽部員は楽器などをトラックに積み込む作業を終えると部長、パートリーダーの指示でバスへと乗り込んでいく。自身のパートの部員が全員乗り込んだことを確認した香織は同様にバスに乗り込み座席に腰掛けると外を眺めた。グラウンドが見える位置であり、さっきまで試合を行っていたサッカー部はちょうど休憩に入ったようであった。
部員たちが水分補給に向かっている中、浩介が山田と話している姿が確認できる。
こっちを向いたりしないかな。
ぼーっと眺めていると隣から声が掛かる。
「香織、隣良いかな?」
晴香は香織の了承を得るとバッグを上の棚へと持ち上げる。
まだ点呼の確認が済んでいないために晴香は荷物だけ置くとバスを降りて行った。その姿を見送るとまたグラウンドへと目を向ける。
まだ二人は話し合っているようだ。
「流石に気付かないか……」
「何に気付かないんですか?」
独り言に反応されるとは思っていなかった––––振り返ると優子がバッグを抱えて通ろうとしているところであった。
優子は香織の隣の座席に誰かの荷物が置いてあることを確認すると少し落ち込んでいた。やはり隣を占領したかったようである。
「ううん、何でもないよ」
香織は優子を見送り、これが最後のつもりでグラウンドの方へ首を向ける。
話し合いは終わったようで浩介も休憩に入るところのようだ。
––––浩介
香織の念が伝わったのか、男子生徒は立ち止まるとバスの方を向いた。
浩介は目が合ったことに少し驚いた様子であったが、直ぐ笑顔を見せる。そして、握りこぶしを作ると軽く胸を叩き香織へと腕を伸ばした。
応援してくれている。
それだけで無性に嬉しくなる。
香織は浩介へと手を振ると、ちょうど点呼が終了したらしく松本と晴香が乗り込んだ。
「あ、私大吉だ!」
「私も!」
バスが動き出すと部員は御守りの中のおみくじを確認していた。声を聞く限り全員が大吉のようである。
香織はふと御守りを渡されたときの言葉を思い出す。
『香織先輩のは特別です!』
隣を座る晴香のおみくじも他の部員と同じである。何が特別なのか、実際に開けてみないと分からないようだ。
香織が御守りの中から紙を取り出すと、何故か二枚入っていた。間違えて二枚入れた可能性もあるが、多分これが先ほど後輩の言っていた特別なのだろう。
まずはおみくじと書かれている方の紙を広げる。
こちらは他の部員同様に大吉が書かれていた。ではもう一枚には何が書かれているのか。
晴香に気付かれないようにこっそりと広げた。
名前も書かれていない。たった数行の言葉。
でも、誰が書いたのか香織には直ぐに分かる。何年も見てきた見慣れた字は確信を与えた。
「確かに特別だよ」
手紙を折り畳むと胸に当てた。
頑張れ、ではないところが浩介らしい。
香織は御守りへと二つの紙を仕舞うとバッグへと取り付けた。気持ちを奮い立たせてくれる強力な御守りだ。
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心臓がバクバクと強く鼓動している。
浩介は自分の試合の時以上に緊張していた。今演奏している学校の次が北宇治高校吹奏楽部の番である。自分ですらこんなに緊張しているのだ、舞台袖にいるであろう吹奏楽部員は更に緊張しているかもしれない。
会場に入る前、既に演奏を終えたであろう高校を見掛けた。まだ結果が出ていないのに激しく泣き崩れている様子から本番で致命的なミスをしたことが想像出来た。
いくら練習で上手くいっても本番のそれは、また独特な雰囲気があるのだろう。誰もが予想をしていないミスをすることがある、香織からも聞いたことがあったが、目の前の生徒はその雰囲気に呑まれてしまった。
それは一生後悔が残る演奏になるかもしれない。
きっと大丈夫。
どこか楽観的に考えていたが、もしかしたら––––そんなことが頭を支配していた。
グルグルと悪い方向へと考えは進んでいく。気が付くと前の高校の演奏は終わっていた。浩介も周りに倣って拍手を送る。退場と入れ替わるように北宇治高校吹奏楽部が入場してくる。
見覚えのある姿が何人も準備をしている様子は遠い存在にも見えた。
そしてその中に香織もいる。
緊張を含んだ表情をしている香織を見ていると胸が苦しくなる。
無事に終わって欲しい、今はそれしか考えられなかった。
「あの、隣空いてますか?」
不意に声を掛けられ見上げると、何処かで見たことあるような女子が立っていた。
殆どの席が埋まっており中々空いている席が見つからないようだ。
「どうぞどうぞ」
「ありがとうございます」
女子はお礼を言うと席に着いた。見た目から高校生のようであり、北宇治の演奏を聴きに来たのだろうか。若しくはこれから演奏予定の高校の応援の可能性もある。
手を組むと小さく呟く。
「頑張って、みぞれ」
浩介の耳には何と言ったかまでは分からなかったが、北宇治の誰かを応援しているのかもしれない。
吹奏楽部の準備が終了し、アナウンスが流れる。
滝が指揮台に立つ。
空気が震えていた。
心臓にまで響くような演奏––––これが北宇治高校吹奏楽部の本気。低音の鋭い音が会場を鷲掴みにする。
春の頃に聴いた演奏ですら以前とレベルが異なっていた。しかし、その時よりも更に次元が違う。浩介でも分かるレベルの高さに言葉が出ない––––いや呼吸をすることすら忘れてしまう。
あっという間に課題曲が終わり、そして自由曲の番になる。
香織がオーディションで逃したソロパートがある『三日月の舞』。
浩介は息を呑む。
滝の指揮に合わせトランペットがホールいっぱいに鳴り響く。
それだけでもう目頭が熱くなる。演奏が終わるまでは泣かないと決めている。決して目を逸らさずに演奏に、香織の音に耳を傾ける。
曲が中盤に差し掛かると一瞬の静寂があり、トランペットソロが始まる。
演奏が終わるまでは––––そう思っていたが無理だった。
香織の顔を見たとき、涙は止まらなかった。満足そうに見えるその顔を、演奏している時の本気の表情を絶対に忘れないと心に刻みつける。それが今の香織の姿なのだと。
そして『三日月の舞』はクライマックスへと盛り上がりを見せていく––––
八月六日は小説に合わせてみました。