部活が休みの日は、グラウンドの見えるベンチに座って練習を眺める時がある。日課になる程ではないけれど、最近は何となくそういう気分の日が多い気がする。
生き生きとしている彼を見る時間はお気に入りの時になりつつあった。
だけど最近は練習がハードなせいなのか、浩介の表情には以前のような余裕が見られていない。気を抜いた顔とかいう訳ではない。ただ、前に観に行った試合の時のようにリラックスした顔をしていないことが気になっていた。
素人の考えだから間違っているなら、それに越したことはない。
クラスが違うために休み時間などに話そうとチャンスを伺うも、さりげなく避けられている。確証はないけどそんな雰囲気があった。
「香織を嫌ってたりとかそういうのは無さそうだよ」
「そうかな……」
「だってメールとかはしてるんでしょ?」
「うん。でも、前よりやり取りは少なくなってるの」
机に突っ伏し、沈んだ表情の香織の頭を晴香は撫でる。吹奏楽部のマドンナをここまでにさせる男がいるなど、そしてそれがあの浩介であることなど今でも信じられない。
「あいつ結構分かりやすいよ。本当に嫌ってる人に対しては全くといっていい程話さないし、メールも必要最低限しか返したりしないから」
もう少し社交性を身に付けた方が良い。クラスメイトの晴香の意見である。普通のクラスメイトに対して人当たりは良いのに、その欠点がまだ子供だなと思わせる要因になっていた。
「晴香は進藤君のことよく知ってるんだね」
「え、そこに食いつくの」
「どうせ私は何も知らないですよ」
「香織、落ち着いて」
つーん、とそっぽを向く様子に苦笑する。我が部のマドンナもまだまだ子供のようだ。
案外似た者同士なのかもしれない。宥めながらも仲介役として出来ることはないか頭を働かせていた。
「進藤、最近プレーに余裕がないな」
「そうですか?」
片付けを終え、部室で着替えていると新部長の佐藤から声を掛けられる。少しずつ部長の立場に慣れてきた佐藤の言葉の意味が浩介には理解出来なかった。
佐藤はワイシャツに袖を通すとボタンを留める。
「前より真剣にやってるだけですよ」
「前から真剣なのは知っている。周りが見えていないんだ」
「見えてますし、ちゃんとパスは通せてますよ?」
意味の分からない指摘に少し苛つきながらも答える。しっかり周りの選手は見えているし、パスも以前より正確性は増している。何がいけないというのか。
「守備をしている人間からすると、プレーに怖さがない」
「怖さって何ですか」
「はっきりと言うと、ビビってるんだよ今のお前は。ボールを取られることが怖くて、縮こまったプレーしか出来ていない」
以前の浩介のプレーには少々の粗さはあったが、それ以上に何をしてくるのか分からない怖さがあった。多少無理であっても強引に突破するドリブル、守備の穴を突くパスセンス。ディフェンダーには気を抜けない相手であった。
しかし、今の浩介にはそれがない。無理をしなくなり、後ろの選手へのバックパスやあまり意味のないプレーしか出来ていない。パスの精度は上がっているのかもしれないが、それは強引なプレーがなくなったせいであり、ディフェンダーからは予想もしやすいし対処も容易だ。
「今のままなら次の大会は選ばれない––––いや、キャプテンマークを付ける人間としては腑抜けた状態の進藤には出て欲しくない」
佐藤の言葉に、浩介も思い当たる節はある。今までならやっていたプレーを意識的に抑えていることは何度かあった。
そしてその原因もはっきりしている浩介は俯く。
「あの瞬間が頭から離れないんです」
あの試合、軽率なプレーから奪われたボール。
自分のミスから失点することの恐怖が頭にこびり付いて離れない。ここでパスを出せたなら、ここでドリブル突破出来たなら。そう思うことは少なくない。しかしそれ以上に心に強く残ってしまっていた。
また自分のプレーで失点してしまったら––––
「まあ……、まだお前には再来年まである。どうするのか考えておけば良いさ」
佐藤は部室を出るとため息を吐いた。北宇治高校サッカー部が全国大会に出場するには浩介の力は必要不可欠であり、個人的にも浩介が復活することを願っている。彼はさらに上の舞台で活躍する力のある選手になれるはず、そう思ってやまない。
しかし、今回のことがトラウマとなり以前のようにプレーが出来なくなるのであれば、それまでの選手だったということだ。こればかりは周りがどうこうするよりも自分で立ち直るしかない。
ふと、練習をよく見に来ている女子がいることを思い出す。時々浩介と仲良く話している姿も見たことがある。
「いや、もしかしたら––––」
誰かに期待してしまうのは、自分が何も出来ないことへの罪悪感かもしれない。
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『サッカーが怖い』
こんな気持ちになったのは初めてである。幼稚園に入る前からボールを蹴り始めて十年以上サッカーをやってきて、決して試合に負けることが初めてな訳ではない。
ただ、明確に自分のミスで負けたことはなかった。それも先輩たちの夏を、もしかしたら最後のサッカー人生を終わらせてしまった。
誰も責任をなすりつけてくる人はいなかったが、それでもその事実が重くのしかかっている。
「何のためにサッカーやってるんだろう」
口から出た呟きが心を波立たせる。全てを投げ出して、部活を辞められたなら楽になるのだろうか。そんな考えがふと頭に浮かんできた。
だから人が近付いてきても全く気付かなかった。
「進藤君」
顔を上げると険しい表情の香織が立っていた。
その言葉が聞こえた時、何故か分からないけれども悲しくなった。
別に部活を辞めることは選択肢の一つだ。悪いことではない。
私が好きになった顔。
それが見られなくなるのが嫌なのだ。例えそれが自分勝手な意見であったとしても。私はこれからも彼の笑顔を見ていたいと思っているのだ。どうしようもないこの想いを、初めて抱いた強い感情をそのままにしておきたくない。
だから気持ちを伝えよう。もうあの顔を見られなくなるのかもしれないのなら、それより前に私の答えを聞いて欲しい。
「サッカーやめちゃうの?」
その言葉を聞いた時、浩介は心を鷲掴みにされたような感覚に陥った。
本心からの言葉ではなく、何となく口にしたものではあるが、他人から復唱されるとまるで自分の存在意義が否定されたかのような残酷な発言にも聞こえた。
それだけサッカーが自分の人生の中で大きい存在になっているのだろう。
俯く香織の手は強く握りしめられている。
「本当はね、今言うべきことじゃないと思うんだけど」
香織は深く深呼吸をすると浩介の目を見る。
その真剣な眼差しに、吸い込まれるように浩介は目を逸らすことが出来ない。
「私は進藤君のことが好きです。サッカーをやっている進藤君が好きになりました」
「えっ……?」
予想外の一言に浩介は反応が遅れる。
想い人からの突然の告白––––嬉しいことには違いがない。しかし、急な展開についていけてないためか、心はあまり喜んではいない。
固まった浩介に、香織は若干顔を赤くしながらも首を傾げる。
「進藤君……?」
「あ、ああ。ごめん、ビックリしちゃって」
「急にごめんね。どうしても今伝えたかったの」
告白された人間が言うのも変だが、もっと良いシチュエーションはあった筈だ。軽くネガティブ気味になっていることが端から見ても分かる現状で、何故告白しようとしたのか。
一度落ち着くため二人は近くのベンチに座ると、香織はスマホを取り出した。
「いつから好きって自覚したのかは分からないんだ。でも、サッカーをやっている時の進藤君はカッコよくて。目が離せなくなってたの」
スマホを操作すると一つの画像を浩介へと向ける。初めて香織が観に行った試合の時の写真だ。試合後の挨拶の時の浩介は笑顔である。勝利したこともあるだろうけど、純粋にサッカーが好きなんだと思わせる表情に香織はいつか惹かれていた。
「もし、進藤君がサッカーを辞めるなら……。それより前に、どうしても伝えたかった」
寂しそうにポツリと呟く。
その様子に浩介はガシガシと頭を掻いた。
「あの……、すごい言い辛いんだけどね」
浩介が口を開く。一瞬の静寂の後、香織の驚きの声がグラウンドに響いた。ちょうど部活が休みであったためにそこまで目立つことはなかったが、声を出した本人は恥ずかしさで赤面する。
同様に浩介も顔は赤い。
あまりの大きな声に驚いて、落ち込んでいた気持ちを何処かへ飛ばしてくれたような、そんな雰囲気にさせる彼女に感謝しつつ、浩介は頭を下げた。
––––サッカーが好き。
久しく忘れていた感情。いつからか上手くならなくちゃいけない、勝たなくちゃいけない。そんな気持ちばかりが先行し、簡単なことの筈なのに、大切なことを忘れてしまっていたのかもしれない。
言葉に出して心に沁みる。サッカーが好きなんだと再確認する。
『サッカーを楽しめ』
大会に敗退した最後の日、前部長から言われていたことを思い出す。いつか浩介が楽しめなくなることに気付いていたのだろうか。
引っ張り出した昔のアルバムのサッカーをしている浩介はどれも笑顔であった。楽しい気持ちが見ているこちらにも伝わってくる。
勝つことも大切だけど、もう少し自分に正直にプレーしても良いのかもしれない。
自分の考えるサッカーをやり抜いて、それで全国に行きたい。
甘いと言われてもやり通せるだけの実力を身に付けたい。そして、今なら出来ると信じている。
「ごめん、お待たせ」
今日も吹奏楽部の方が練習は遅く終わった。関西大会出場が決まってから、全体練習後に自主練をしている部員が結構いるらしい。
香織も多分に漏れず自主練を行っている。去年までの吹奏楽部からは全くもって考えられないことだ。
「そういえば、今日雑誌のインタビューあったって聞いたけど、どうだったの?」
「そこまで大したことは聞かれてないかな。今の北宇治についてとか、代表経験についてだったよ」
「そっか。でも個人でインタビューなんて凄いね」
「うん。評価されることは嬉しいね」
そこまで言うと浩介は香織の顔を見る。キョトンとする表情にクスリと笑うと香織の頭を撫でた。サラサラと指の間を髪が流れて、癖になる気持ち良さがある。
「どうしたの?」
「ううん、ちょっと昔のことを思い出しただけ」
「昔?」
「香織が勘違いして告白してきたこととか」
「あ! それはもう言わないって約束したじゃん!」
香織は顔を赤くしながら抗議する。彼女の中では忘れ去りたい過去の一つになっているらしい。
「十年経っても、二十年経ってもきっと忘れないよ」
突拍子もない行動ではあったが、それが浩介には大きな意味をもたらしていたことは、今後の人生においても忘れることのない大切な思い出となる。
ソッポを向いて拗ねた様子の彼女の手を引くと浩介は歩き出した。
「中世古のことが好きです」
後出しはズルいことは承知している。それでもキチンと自分の気持ちを伝えたい。
香織がサッカー部を辞めると勘違いして告白してきた次の日。浩介は仕切り直すために答えを保留していたが、今日改めて自分の気持ちを告白した。
「多分一目惚れだったんだと思う。でも、話してる内に内面にも惹かれていったんだ」
好きな音楽の話をしている時、サッカー観戦でお好み焼きを食べている時、勉強をしている時。
様々な香織を目にして、その度に好きになっていった。
大げさな言い方になるが、香織がいなければサッカーを好きであることを再認識出来なかったかもしれない。
「サッカーの楽しさをまた思い出させてくれたのは中世古のお陰なんだ。だから、もし良かったら、そんな俺のことを隣で見ていて欲しい」
頭を下げながら、気持ちが重いと思われても仕方ないことを言ったと若干後悔する。
それでも、言いたいことはしっかり言いたかった。
これでフラれたとしても後悔はない。……いや、フラれたらショックで立ち直れない自信はある。
「私はサッカーをしている進藤君の一番のファンでありたい」
静寂の中、香織の声は小さいながらもしっかりと耳に響く。
浩介が顔を上げると微笑む香織がそこにはいた。
「じゃ、じゃあ……」
「うん、こちらこそよろしくお願いします!」
––––それは二人が一年生の夏のこと。二人の物語はここから始まった。