「香織先輩と合宿なんてすごい嬉しい!」
夏紀がジト目で見ていることなど、香織と合宿に行ける喜びに比べたら全く気にならない。
鼻歌を歌いながらバスに乗り込む。香織の横の席は予約済みだ。
府大会の時は晴香に取られてしまったが、今回は抜かりはない。あらかじめ香織と約束しておいたので、ちゃんと隣の席は空いていた。
「先輩! 合宿頑張りましょう!」
「今日は優子ちゃんテンション高いね」
「お盆休みでしっかり休みましたから!」
合宿前の二日間は学校自体が休みになるために、必然的に部活動も休みとなっていた。最近は朝早くから夜は遅くまで、ずっと身体を酷使し続けていたためか、休みに入るとむしろ元気が有り余っていた。
しかも合宿ともなれば、いつも以上に香織と一緒にいられる。テンションが上がらない理由はない。
久しぶりの早起きで眠気を感じている部員が多い中、バスの中でもその元気は維持され続けていた。
数日であっても楽器と離れている時間があることにより感覚は鈍ってしまう。休み明けの初めの練習は基礎練から始まった。
荷物を部屋に預けるとホールへと集められる。充実した合宿にしようと部員たちは誰もが真剣だ。
感覚を取り戻すようにいつも以上に長く、丁寧に基礎練は繰り返される。部員が練習の空気に慣れてきた頃に、滝は手を一度叩いた。
「では、午前中の残りの時間は十回通しを行います」
来た。
多くの部員が覚悟を決める。
課題曲と自由曲を十回連続で行うという単純ながら非常に体力を消費するため、スタートから心を強く持って臨む必要がある。
しかし、この練習は辛いものではあるが、指揮者の癖、他の演奏者と呼吸を合わせることでより一体感のある演奏に仕上がり、また個々の技術も向上するため、誰一人手を抜くことなく取り組んでいる。
後半に入ると徐々にバテる部員は増えてくる。体力的、精神的に最も辛くなるのは七、八回目頃だろう。半分が過ぎて、しかし終わりが遠く感じるそれは心に重くのしかかる。
香織はそれでも強く––––決して曲を壊さないよう––––美しくトランペットを吹き続ける。そのパートリーダーの姿に感化され、他のトランペットパートの部員も力を取り戻す。
滝は大粒の汗を額から流れることを気にせずに腕を振りながら、良い傾向にあると内心感心していた。
全員が辛い時、リーダーが頑張る姿を見せるだけで周りの人間は生き返る。トランペットパートの精神的支柱として香織は役割を十分に果たしていた。
***********************
「もう明日なんだね」
「そうだな」
「二週間もいないなんて寂しくなるね」
花火大会の翌週。
夕方までサッカー部の練習のあった浩介は、香織の練習が終わるのを待っていた。昇降口から走ってくる姿に手を振り、笑顔でそれに応える。香織の呼吸が落ち着いたことを確認し、影が並びながら坂を下りていく。
普段であればあまりにも時間がかかりそうな時は、待たずに先に帰ることはある。しかし、今日は明日から当分の間会うことが出来なくなるために、久しぶりに晩御飯を一緒に食べることにしていた。
「でも無料の通話アプリもあるし、連絡は取れるからさ」
「時差もあるし、時間が合うか分からないよ」
会えないことの寂しさと浩介の楽観的な様子に頬を膨らます香織の頭を撫でる。
気が付くといつも撫でているが、もう撫でること自体が癖になっているのだろう。この前教室でも無意識に撫でそうになった時は、勝手に動いた右腕に自分に恐怖したほどだ。
「まだ練習スケジュールも分かってないから仕方ないけど、なるべくこっちの時間に合わせて連絡取るようにするから」
「うん。でも睡眠時間削ったりとか、無理はしないでね?」
自分のせいで倒れたりした、なんてことにはなって欲しくない。隣に立ちたいのであって、決して浩介の足を引っ張りたくないのだ。
香織の危惧していることが分かっているのだろう、浩介はぽんぽんと頭を軽く叩くと優しく微笑む。
「せっかくのチャンスなんだ。何が一番かは理解しているつもりだよ」
「なら良いけど……」
「香織は心配性だな」
浩介のせいだよ。心の中で呟く。
彼は分かっていない。自分で言うのも可笑しいが、浩介は香織のことになると自らを犠牲にすることを厭わない時がある。
その気持ちが嬉しいと共に悲しくもある。
「私は全国に行くから。そのために浩介がいない間も頑張る。だから––––」
––––浩介もドイツで自分の全力を出して
それが新たな挑戦をする浩介への応援の言葉であった。
だから、香織は約束を果たすため全力を尽くす。どれだけ辛くとも、浩介を身近に感じる。お互いに頑張っているのだ。
それだけでいつも以上の力を出すことが出来る。
***********************
「昼休憩に入ります」
十回通しを終えた後、滝の指示にほぼ全員が返事をする元気がなかった。表情に力が残っているのは、緑輝とあすか、そして香織くらいであった。
香織は、昼食に入る前に演奏で気になった点をパートのメンバーと確認する。昼食中に確認出来れば良いのだが、あいにくパートリーダーは別に集まってご飯を食べる。そのために、今行うことにしていた。
自分の演奏が良ければそれで良い訳ではない。リーダーとして、周りのメンバーを支え、引っ張っていくことが求められる。
全国を目指す。
それを叶えるために、やれることは徹底してやっていくのだ。
合宿ともなると練習の終了時刻も普段とは異なる。夕食を済ませてからも続けられており、気が付くと十時を回っていた。
久美子は消灯までの時間に、飲み物を買いに行くために廊下を歩いていた。
中学校の合宿の時にも使用したことがある施設のため、自動販売機の場所は知っている。消灯時間が近いこともあり、やや暗くなっている廊下に少し怖がりながらも進んでいくと、自動販売機の近くに誰かがいるのが見えた。
遠くからは暗くて顔は確認できなかったが、近くまで来ると声が聞こえてくる。声の主は香織のようだ。楽しそうにスマホで会話をしているようで、お邪魔になりそうだと引き返そうとした時にふと目が合った。
香織は久美子に気付き、ちょいちょいと手招きをする。通話を終了させると香織は眉尻を下げた。
「ごめんね、飲み物買いに来たんだよね?」
「え、あ、はい。むしろ、こちらこそ通話の邪魔してすみません」
「ちょうど終わるところだったから大丈夫だよ」
そこで会話は一度途切れる。久美子は自動販売機にお金を入れるとお茶のボタンを押す。
ガタン、と受け取り口にお茶が落ちる音を聞き、手を伸ばす。ひんやりと冷たいペットボトルの感触が気持ち良い。部屋に戻る前に一度挨拶はした方が良いだろう、そう判断し香織の方を振り向く。
香織は優しげに、だけど頬を緩ませながらスマホの画面を眺めていた。
「さっきの電話は進藤先輩だったんですか?」
「うん? そうだよ。よく分かったね」
「あんなに笑顔な香織先輩は、進藤先輩といる時しか見たことがなかったので」
またやってしまった。慌てて口を抑える。
その様子が可笑しかったのだろう、香織はクスクスと笑う。浩介からも聞いていたが、確かに思ったことをそのまま口にする癖があるようだ。
「うん、浩介といる時が多分一番自然な顔してるんだと思う」
そう言い切る香織の笑顔に久美子は見惚れた。顔が熱を持つのが分かる。吹奏楽部のマドンナの名に相応しい彼女に、それだけ幸せな顔をさせる浩介はどれだけすごいのだろう。"すごい"という言葉しか出てこないのは、自分の語彙量の無さ故か、または香織の圧倒的な魅力故か。久美子は後者だと信じている。
「香織先輩幸せそうです」
「そうだね。今は毎日が充実してる」
久美子は昼間の練習を思い出す。率先してトランペットパートを引っ張っていく姿は、パートに限らず多くの部員––––死んだ魚の目をしていた麗奈は除く––––の目に焼き付いている。
積極的な姿勢に部長の晴香もやり易さを感じているようにも見え、関西大会出場に向け良い方向へと進んでいることが分かる。
「香織、そろそろ始めるよ!」
「あ、うん。今行く」
晴香が香織の姿を見つけると用件だけ伝え、部屋に戻っていく。聞くところによると、これからパートリーダー会議を行うらしい。
演奏をより良いものへと昇華させるために改善点などを話し合い、明日からの練習に生かしていく。練習後にこういったことを自主的に始めるなど去年までの吹奏楽部ではあり得ないことだ。
手を振って話し合いへと向かって行く香織を見送り、久美子は自分の部屋へと戻った。
三年生は睡眠時間を削ってまで本気になっている。そんな先輩たちと一日でも長く演奏をしたい。久美子は身が引き締まる思いに駆られた。
明日からも頑張ろう。
決意を新たに布団へと潜った。