北宇治高校吹奏楽部の演奏は午後の部に行われる。
そのために午前中は早く集まり、合奏を行うことになっていた。
本番前最後の合奏。
本来ならば気合いが入る筈なのに、どこか力が入らない。香織は昨日からため息が止まらなかった。
昨日の夜に優子から、浩介が関西大会に応援に来ると約束してくれた、そうメールがあった。
しかし、浩介は父親の付き添いで今日は病院から離れられない。つまり優子を落ち着かせるために嘘をついたのだろう。浩介の優しさがついた嘘だ、そこに怒りなどは生まれない。
なのに、もしかしたら、と期待してしまう自分が嫌だった。
課題曲と自由曲を通しで終えると、滝は移動の指示を出す。トラックへ荷物を積み込むために、吹奏楽部員は男子部員を中心に楽器を運び始める。
香織は楽譜に目を落とした。
楽譜には他の部員同様に何枚か写真が貼られている。あすかと晴香と写っているもの、トランペットパートで撮ったもの、そしてーー浩介と一緒にいる時のもの。
去年、浩介が全国大会出場を決めた試合の後に撮った写真は、アルバムに挟み部屋に仕舞っていた。
楽譜に写真を貼り付ける話が出た時に、どうしてもこの写真を貼りたかった。この写真が力をくれるような気がしたから。
今なら分かる。
浩介の隣に立ちたいと思っていたけれども、それは結局依存していただけなのだと。
浩介がいないだけ、ただそれだけなのに、演奏に影響が出かねないほどに気持ちは沈んでいる。
思っているよりも弱い人間だったらしい。パートリーダーとして引っ張っているつもりになっていたが、それも全てまやかしだったのかもしれない。
積み上げていた物が崩れるような感覚に陥る。譜面に書かれている文字が知らない国の言葉に見える。
もう何も分からない。何も見たくない。
香織は強く目を瞑った。
気がつくといつの間にか関西大会の会場に到着していた。
いつバスに乗ったのか、いつ走り出していたのか。記憶に微かに残っているような気がする程度である。隣には心配そうに顔色を伺う優子がいた。
ちょっと乗り物酔いしちゃっただけだよ。
嘘をついて笑顔を見せる。多分、その嘘には気付いているのだろう。優子は、やや強引に近くのベンチまで香織の手を引いた。
ベンチに腰を下ろすと優子はお茶を渡す。
「優子ちゃん、ごめんね」
「いいえ。それにしても浩介先輩はどこにいるんですかね?」
「あのね、浩介は––––」
来ない。
そう言おうとした時、ポンと頭に手を置かれた。
香織はこの感触を知っていた––––いつもの暖かさだから。
「顔色悪いな。乗り物酔いした?」
「え、嘘……」
「浩介先輩遅いですよ!」
「ごめん、ごめん。尼崎は来たことなかったから少し迷っちゃって」
「なんで……。なんで浩介がここにいるの?」
「本当は俺も来れない筈だったんだよ。でも昨日、香織の可愛い後輩から直訴の電話があってね」
浩介は頬をかく。本当に浩介がいる。幻ではない。
目が潤み、喉が熱くなる。
「電話の内容が父さんにも聞こえていて、俺のことはいいから行ってこいって」
「お父さんが……。え、じゃあ、お父さんは病院に一人で大丈夫なの?」
「従兄弟が来てくれることになって、何とか目処がついたんだよ」
「そっか。そうなんだ……」
目の前に浩介がいることが、まだ信じられない。
優子が言っていたことは嘘ではなかったのだ。優子の方を向くと、可愛いと言われたことが嬉しかったのか一人ニヤついていた。
他の女の子に可愛いと言ったことに若干の嫉妬はあるけれども、それは後でいい。
香織は優子に頭を下げた。
「優子ちゃん、ありがとう」
「い、いえ! むしろ勝手に行動しちゃってごめんなさい!」
「ううん。優子ちゃんが言ってくれたから、浩介は来てくれたんだもん。感謝以外の言葉はないよ」
「私は、ただ……、香織先輩に笑顔でいて欲しかっただけなんです」
優子は顔を赤くし目線を下げた。いつもと違う恥ずかしそうな姿に浩介はクスクスと笑う。
「まあ、あんなに泣きつかれたら断るなんて出来なかったしな」
「な、泣いてなんかないですよ!」
「そんなに泣いてたの?」
「すごい泣くもんだからさ。香織は愛されてるなって、嫉妬しちゃうくらいだよ」
「自慢の後輩だからね」
浩介と香織に弄られ、これ以上ないくらいに赤面する。耳まで真っ赤になっているところを見ると、本当に恥ずかしいらしい。
「そろそろ席取りも兼ねて会場に行くよ」
「あ……、うん」
「府大会からどれだけ上手くなっているのか楽しみにしてるから」
「うん、期待してて」
「浩介先輩、失礼かもですけど違い分かるんですか?」
「そりゃあ、もう。府大会の演奏は毎日五回くらいは聴いてたからちょっとした違いも分かるよ」
「え、」
府大会のCDを購入して毎日聴いている。
吹奏楽部員は、府大会終了後に、府大会の演奏を確認しながら一つ一つ細かい指導を滝から受けていたために、粗が随所に散見されていることは知っている。
言い換えるとまだ未完成な演奏を毎日聴かれていたということだ。気恥ずかしい感覚が体を駆け巡る。
「俺には細かいミスとかは分からないけど、きっと今日の演奏で上手くなったところはいっぱい分かると思ってる。それだけの演奏をしてくれると信じてるからね」
「それはプレッシャーですよ……」
優子は頭を抱える。
笑顔でプレッシャーをかけてくる目の前の先輩が今は憎い。しかし、そのプレッシャーを跳ね返し、完璧な演奏をしてみせる。その気持ちも強くある。
会場へと向かっていく浩介を見送りながら思う。
「私たちもそろそろ戻ろうか」
晴香の周りに人が集まり始めている。集合がかかったらしい。
香織の顔に先程までの弱さは見えない。夏の強い陽射しに負けない覚悟が現れていた。
舞台袖で出番を待つ時間は緊張感が高まる。いつだってそうだった。普段と違う会場、普段と違う空気感、普段と違う視界……。同じなのは手に持つトランペットと部員だけ。多くの目に晒され鼓動は早くなり手も震えてくるその緊張感を楽しむことが出来るか否かで結果は大きく異なる。
でも、今は不思議と緊張感はない。手のひらを開いたり閉じたり、震えは全く出ることはなく落ち着いていた。
浩介に会えるだけで、別人のように体調は回復する。それは嬉しくもあり、でも悔しくもある。
まだ私は足りないものがある。
「優子ちゃん、」
気が付けば勝手に口が開いていた。
それは独白。
「これからも吹部をよろしくね」
浩介が来てくれた。
もしかしたら、もう会えないかもしれなかった浩介に演奏を聴いてもらえる。それだけで満足であった。
香織はトランペットパートの面々を見つめる。
「みんなも、こんな私についてきてくれてありが––––」
「香織先輩」
感謝の言葉を遮ったのは優子であった。
浩介と会って表情は明らかに変わった。そのことは喜ばしいことである。しかし、そこで満足してはいけない。
「ここで終わりではありません」
まだ北宇治高校吹奏楽部の夏は終わっていない。決して終わってはいけない。
「私たちが目指しているのは全国です」
「優子ちゃん……」
「香織先輩も言っていましたよね。全国に行くって」
そうだ。優子の言葉にハッとなる。
勝手に物語を終えるところであった。まだエンドロールを迎えるには早過ぎる。
香織は周りを見渡す。誰一人沈んだ顔の人間はいない。誰もが強い決意を目に浮かべていた。
「ここで終わりではありません。私たちは、香織先輩と一緒に全国に行くんです!」
優子は自分の気持ちを言い切る。
久美子が、麗奈が、みんなが同意する。
目頭が熱くなる。いつでもみんなはついてきてくれた。そのことを忘れ、浩介に固執していた。
これだけ心強い仲間がいるのだ。全国に行けない理由はない。
香織は一つ胸を叩いた。
それを合図に、トランペットパートの部員は人差し指を高く掲げる。
久美子や麗奈、後藤や梨子、全員が腕を高く伸ばす。
「行きましょう、全国へ」
––––プログラム十六番。京都府代表、北宇治高等学校吹奏楽部の演奏です
全国への扉が開かれる。