冷たい澄んだ空気が皮膚を刺激する。冷たいという感覚は痛みのそれであると言っていたのは友達だっただろうか。確かに風が吹くたびに皮膚がピリピリとする。
暖房の効いた部屋でぬくぬくと過ごしていたい気分が強い。しかし、今日も今日とてサッカー部の練習は行われる。
スマホに表示される日付は十二月二十四日。
至る所に飾られている電飾やクリスマスツリー。仲睦まじく歩くカップル。仕事帰りにおもちゃ屋さんに寄ったのか、包装された箱を持つスーツを着た男性。
世間はクリスマスイブに踊らされていると浩介は思う。もっと粛々と過ごすべきである。
いや、本来ならばそのうちの一組であったのだから、毒づくのも御門違いか。浩介はため息をついた。
虚しさが増すだけなので、街中をいつもより早歩きで通り過ぎる。
全国大会は一週間後に迫っていた。
来週の今日、大晦日に全国大会の初戦を控えている北宇治高校サッカー部は、二学期を終えて冬休みに入ると当然のように練習内容は濃くなり、かつ量も増えた。大会前の最後の追い込みだ。
負けたら文字通り引退である。
たった二週間の短い大会期間であるが、高校サッカーで最大の大会でありもちろん最後の試合まで勝ち進みたい。部員の誰もが勝ちを強く渇望している。練習にも気合いが入っていた。
しかし、世間はクリスマスイブである。
少しくらい期待してしまうのも無理はない。白い吐息は空気に溶けていった。
「え、今日進藤に会わないの?」
予備校の冬季講習は、朝から夕方まで行われる。冬休みに入ってから、みっちりとカレンダーを埋め尽くすそれは、気分を落ち込ませるおまじないにすら見えてくる。
来年の受験に向け、晴香と香織は勉強に追われていた。現在の時間は十二時を回った昼休み。卵焼きを持ったまま、晴香は信じられないと香織を見つめる。
クリスマスイブである。確かに勉強は忙しい。受験生なのだから仕方がない。
でも、クリスマスイブである。少し時間を作り、ご飯を食べるなりはすると思っていた。
香織は少し寂しそうに笑う。
「もちろん、会いたい気持ちはあるんだけどね。最近のサッカー部の練習が今まで以上に大変みたいで、終わる頃にはいつもヘトヘトになってるの見てたら、ご飯食べに行くより早く休んでもらいたいなって」
全国大会で優勝するために、必死に練習している浩介の足を引っ張りたくない。来年もクリスマスイブはあるのだ。受験生の今年くらいは我慢しよう。そう心に言い聞かせ、香織は自分の気持ちを押さえつけていた。
「それにほら、こっちが終わるのは七時だけど、向こうはもっと早く終わってるし。私も帰って復習しなくちゃいけないから、どちらにしろ厳しいんだ」
「それはそうだけど……」
釈然としない。晴香は白米をつつく。
本人たちが良いと言っているなら、他人が横から口出しする訳にもいかない。けれども、やっぱり寂しそうにしている香織を見て、一友人としてこのままで良いとは思えない。
晴香はこっそりスマホを取り出した。
冬は暗くなるのが早い。夕方五時を過ぎる頃には、ほぼ陽は沈みボールを扱った練習はグラウンドを照らす照明がないと行えない。
山田の方針で、冬の放課後以外では、照明をつけてからボールを扱った練習は基本的には行わない。基本的に高校サッカーの大会では照明の下で試合を行うことはない。だから、やるなら昼間にやりきる。照明をつけてからは、走り込みなどの時間になっていた。
今日も最後のメニューは走り込みであった。激しい練習を行った最後の走り込みに体が悲鳴をあげる。
ゴールする頃には、顎は上がり汗だくになっている。
「よし、今日の練習は終了だ。しっかりダウンしておくように」
山田は明日の練習メニューを確認し、グラウンドを後にする。これからコーチ陣と初戦の対戦相手の研究を行うらしい。
部員は動き回っているから寒くはないが、監督、コーチは立って指示を出し続けているため、いくらコートを着込んでいるからといっても体はかなり冷えるはずだ。サッカー部のために体を酷使しているのは監督たちも同じだ。朝早くから夜遅くまで教員としての仕事の他に取り組む姿を部長の立場から目の当たりにした浩介は、一生頭が上がらないなと感じていた。
グラウンドの整備を終えて部室に戻り、バッグからスマホを取り出す。
一件の通知が入っていた。
メールの差出人は晴香である。全くもって内容に見当がつかないが、とりあえずは確認をしないことには始まらない。首を傾げつつも画面をタップする。
『香織寂しそう。今日は七時に講義終わるよ』
ただそれだけの短い文であった。件名すらもない。
正直なところ、体は泥のように眠りたいほどには疲れている。これから試合に向けて少しずつ調整メニューに入るため、今が疲れのピークである。直ぐにでも帰宅して、早く風呂に入ってベッドに倒れこみたい。
しかし、晴香がわざわざメールを送ってくるくらいだ。相当な状態なのかもしれない。
「そういえば、最近ご飯一緒に食べてなかったな。それに––––」
七時までに一度帰って着替える時間はありそうだ。疲れた体に鞭を打つとバッグを肩に掛けた。
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「では、今日の講義を終わります。また明日もありますので、しっかり復習しておいて下さい」
講師が教室を出て行った途端に、受講生の話し声で教室内はざわめく。会話の節々に聞こえる、晩ご飯食べて行こうか、の声にズキンと胸が痛む。最近は大会が近くなり、また練習の終わる時間が遅くなることも重なって、さらには香織が吹奏楽部を引退したために、滅多に会って話すこともなくなった。でも、せめて今日くらいは会いたかった。
「約束も覚えてないのかな……」
二年前に交わした約束。
きっと浩介なら––––
そこまで考えて頭を振る。
期待すれば落胆が大きくなるだけだ。今日もいつもの日常と変わらない。何でもない日なのだ。
他の友達と会話している晴香に別れを告げ、香織は教室を出た。
スマホには浩介からのメールは来ていなかった。練習で疲れ過ぎて、メールする体力もないのだろうか。空虚感が体を支配する。
予備校を出ると、夜空は真っ暗であった。空気が澄んでいるために星の瞬きはよく見える。一緒に夜空を見上げて、一緒に笑いたい。ただそれだけで良いのだ。
「浩介……、会いたいよ」
目が潤むのは、空気が冷たいせいだ。心が寂しいのは冬だからだ。
そう自分に言い聞かせて、駅までの道を歩き出す。
「香織!」
浩介の声が聴こえる。
寂しさが幻聴を生み出したのか。幻聴でも声が聴こえるだけ少し嬉しくなる。
「おーい、香織さん?」
浩介の姿が見える。
幻聴だけでは飽き足らず、幻覚まで見えてきた。
心が寂し過ぎて、もうダメかもしれない。
「せっかく会いに来たのに、ぼーっとし過ぎじゃないですかね」
ポンポンと頭を叩かれ、そこで初めて浩介の目を見る。呆れを含んだ顔には若干の疲れが出ていた。
香織はペタペタと浩介の顔に触れる。
「本当に浩介なの? 私の幻覚ではなくて?」
「勉強のし過ぎで頭がダメになったか……」
「浩介!」
「おっ、と」
浩介の胸に飛び込む。触れることが出来る。本当に浩介がいる。
胸に額を押し付ける。背中に回した手で、離さまいと強く抱き締める。
浩介はあやすように、優しく頭を撫でる。
「ごめんな、最近一緒にいれなくて」
「ううん、それは仕方ないから。でも、どうして会いに来てくれたの?」
「だって、」
––––約束したでしょ?
浩介は約束を覚えていてくれたのだ。もちろん、忘れているとは思っていなかったけれども、それでも嬉しい気持ちは強い。
顔を上げ浩介を見つめる。
「何食べようか?」
「ハンバーガーが良い!」
「せっかくのイブなのに良いの?」
「浩介がいれば良いんだよ。何を食べるかじゃなくて、誰と食べるか、だから」
そっか。
浩介は小さく呟くと香織の手を取る。冷える指先を暖めるように包み込む。
寄り添うように、離れないようにゆっくりと二人は歩き出した。
「クリスマスイブは一緒にご飯食べたいんだ。別にプレゼントを渡したり、高い料理を食べたりとかしなくて良いの。浩介と二人で、何でも良いの。ハンバーガーでもパスタでも、ラーメンでも……。毎年、この日だけは一緒に過ごしたいんだ」
「分かった。じゃあ、約束しよう。何があっても、この日は香織に会いに行くから。一緒にご飯を食べよう」
「うん。約束だよ」
––––クリスマスイブの約束