本当にここまで来れたことが奇跡のようだ。
ステージ上の独特の緊張感に包まれて、香織はゆっくりと目を瞑る。誰かが椅子に座り直す音、観客のざわめき。様々な音が耳に入ってくる。二年前、入学した時にはこの舞台に立つことなど全く想像出来ずにいた。
いや、半年前までもそうであった。––––しかし、滝という優秀な顧問が部を変えた。
大変なことも沢山あった。
辛いことも沢山あった。
楽しいことばかりの思い出ではない。それでも、今日ここにいることは、とても幸せなことだと心から感じていた。
隣にいる麗奈をチラリと横目で見る。
ソロパートを争った彼女のトランペットの音には妬みもしたし、その実力を羨ましくも思った。何で彼女のように奏でることが出来ないのか、悔しくて泣いた時もあった。
今は違う。麗奈は北宇治高校吹奏楽部の自慢のトランペット奏者だ。今日もきっとこれ以上ない素晴らしい音色をホール一杯に響かせてくれることだろう。あのソロは何度隣りで聴いても鳥肌が立ってしまう。
左前方には深呼吸をしている晴香が目に入る。
本番前の控え室ではあの弱気な部長が、後ろ向きな発言をしなかった。部長に指名されてからも、あすかの影に隠れていた彼女はゆっくりではあったものの、確かにしっかりと成長していた。
一年生の頃から、困った時はオロオロしている姿が印象的だった。それは三年生になってからも変わっていなかったけれど、あすかが母親との問題で部活に来れない時、あすかを支えるといち早く宣言した彼女の顔は部長のそれであった。彼女を少し頼りないと感じていた後輩たちも、今では誰もが晴香を信頼している。
そして、三年生全員が今日、吹奏楽部最後の演奏を楽しみにしている。
夏の合宿では夜遅くまで、より良い演奏にするためにどうしたら良いか議論しあったことも、つい昨日のことのように思い出される。
基礎練習すらまともにやってこなかった部員は多かった。それでも関西大会が決まってからは、ちょっとした私語すらもったいない時間と練習に取り組む姿は、自分たちでも驚いているほどだ。
本当に色々なことがあった。
目を開けて上を見上げれば、ライトが眩しくこちらを照らしている。この視線のずっと先には、今全国大会を目指して試合に臨む浩介がいる筈だ。
香織は密かにポケットに忍ばせていた紙に触れる。府大会前に浩介から貰った手紙は、発表の時に御守りから出して直ぐに触ることのできる場所に置いていた。
浩介がこの会場にいないことで寂しい気持ちはあるけれど、手紙の存在が、隣で見守ってくれるような、そんな気持ちにさせてくれる。
緊張した時、気合いを入れる時、いつも浩介がやっていたルーティンを思い出す。
香織はポケットから手を出し、二回軽く胸を叩いた。
––––さあ、本番だ。
ピーッ!
主審の笛が鳴り、ウォーミングアップの時間が終了する。ピッチにいた部員はベンチへと戻り、山田を中心に半円を作る。
スターティングメンバーに入っている選手は、ユニフォーム姿になりベンチコートを他の部員へと手渡す。全員が準備が出来たことを確認し、山田は口を開けた。
「まずは初戦だ。今、誰も負けるとは思ってないだろう。俺もだ。……でも、俺たちはそれで一度痛い思いをしている」
夏の総体。
浩介の負傷退場を皮切りに相手チームに攻め込まれ敗戦した、あの苦い記憶を誰もが覚えている。あんな思いは二度としないと心に誓い、今日まで練習に取り組んできた。
油断はしない。充実した表情を見て、山田は満足そうに頷く。
「一つ一つのプレーに集中してこい!」
「はい!」
北宇治高校イレブンがピッチ脇へと向かう。審判からスパイクなどのチェックを受け、一列に並んで入場の時を待っていた。
浩介は観客席の上に広がる空を見上げる。きっと今頃吹奏楽部も本番を迎えていることだろう。
耳をすませば香織のトランペットの音が響いてくるような気がした。
決して恥ずかしい報告は出来ない。緊張をほぐすように浩介は軽く胸を叩いた。
本番を終えた後は、結果発表の時間まで自由行動である。
香織は、近くのベンチに座りスマホの電源を入れ、立ち上がりの画面を眺めていた。新着のメールは特にない。詳しい試合開始時間は分からない。ただ連絡が来ていないということは、まだ試合は終わってないのだろうか。
「香織先輩、お疲れ様です!」
優子は香織を見つけ、自然に隣に腰をかける。頰は紅潮し、まだ本番の興奮が残っているようだ。香織は、お疲れ様と返し、ブラウザを開く。
「今ね、サッカー部の試合結果を確認するところなんだ」
「あ、サッカーの大会って今日からなんですね」
『京都』、『高校サッカー』とキーワードを入れて検索すれば、現在行われている府大会予選の結果が掲載されているページに飛ぶ。
その中から、北宇治高校の名前を探す。今は前半が終了し、後半が始まったところのようだ。
途中経過ではあるものの勝っていることを確認し、ホッと一息つく。このまま終了すれば一回戦は突破だ。
「とりあえずは大丈夫そう」
「良かったです。このまま全国行って欲しいですね」
「そうだね」
優子は部員に呼ばれ、演奏を聴くために会場へと入って行った。彼女にはまだ話していないが、次期部長として部を引っ張っていって欲しい。そんな思いで後ろ姿を見送り、スマホをポケットに仕舞う。遠くの方にあすかと晴香が話し合っている姿が見える。
自由時間を過ごすとしたら彼女たちとだろう。自然と足は二人の元へと向かう。様々な制服が入り乱れる空間は、大会の会場にいることを実感させる。もう演奏が終わったことが少し寂しくなる。二人はこの後どうするのだろうか。
「確か近くに喫茶店あったし、そこに行こうか」
「まだ時間はあるし、良いかもね」
「部長と副部長なのに、他の学校の演奏は聴かないの?」
関西大会の時には、強豪校の演奏を聴き、自分たちに足りないものを学ぼうと必死だった。
香織の疑問に、愚問だと言わんばかりにあすかはニヤリと笑う。
「もう部長も副部長もないからね」
「そっか……、そうだね。うん、じゃあ、私も行こうかな。喫茶店」
「よし、ジャンボパフェ食べよう。スペシャルチョコバナナジャンボパフェ!」
「そんなのあるの?」
「なかったら作ってもらえば良いよ」
あすかは両腕を二人の肩に回す。笑みが溢れる。
そこにいるのは、仲の良い三人組であった。
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「お帰りなさい」
楽器を片付け、解散した後、階段を降りて行くと昇降口には浩介がいた。既に試合は終わっているのに、わざわざ香織を待っていたようだ。香織は慌てて靴を履き替える。
「こんな時間までわざわざ待ってたの?」
「今日の試合は最後まで出てないから、少し練習して帰ろうと思って」
浩介は先発出場していたが、試合が決定的な点差になった後、他のメンバーを大会の空気に慣れさせるために、交代してベンチに下がっていた。香織を待っていたのは主目的であるけれども、納得のいかなかったプレーの振り返りや練習も目的の一つであった。
驚く彼女の目の赤みには気付かないフリをする。
一緒に帰る予定であった部員に謝り、香織は浩介の隣に並んだ。ジャージ姿の浩介と歩くのも久しぶりである。
「どうだった?」
「結果は伝えたでしょ?」
「やっぱり、全国の壁は高かったか……」
悔しい。その一言に尽きる。
大会前にゴタゴタがあったとはいえ、決して自分たちの演奏が悪かったとは思っていない。実力を出すことは出来ていた。しかし、結果は銅賞だった。
半年前の自分なら、全国大会に出場することが出来ただけですごいとなっていただろう。今はそれだけでは満足出来なかった。結果発表の時に、隣りにいた清良女子高校の部員たちの喜ぶ声が脳裏に焼き付いている。思い出すだけで視界がぼやけそうになる。
誤魔化すようにコンクリートの道に落ちている小石をつま先で軽く蹴る。コロコロと不規則に転がって行くその行方を見ながらも足は止めない。
「全国大会に行けただけで奇跡なのに何故だろう、今は悔しい気持ちでいっぱいだよ」
「そっか……」
「でも、それは来年の後輩たちに託すことにしたんだ」
麗奈の、優子の涙は本物だ。
彼女たちはこれからも滝の指導を受けていくことになる。きっと全国大会で金賞を取れる筈だ。香織は強く信じていた。
浩介はその横顔を見つめる。香織の吹奏楽部の時間は本当に終わったのだと、伝わってくる。
「ここ数ヶ月の香織は、俺の憧れだったんだ」
「え?」
浩介は小さく、けれども力強く言葉を紡ぐ。
「本当に香織は強かった。苦しくて悔しくて、そんな時期があったのに、三年生になってからも結局ソロを吹けなくて」
俺なら腐ってたと思う。
その眼差しに香織は目を逸らすことが出来ない。
「でも、香織は全て呑み込んで、後輩のために、部のために頑張った」
麗奈がソロを吹くことで、パート内に気まずい空気が流れた時も香織が麗奈を陰から支えていた。
一番悔しい筈なのに。
「誰のお陰で全国大会に行けたとかはないと思う。でも俺は香織がいなかったら、小笠原も高坂さんも潰れてダメになっていたかもしれないことを考慮すれば……。香織の貢献度はすごい高かったんだと思う。そう確信してる」
「私は……、そんなこと、」
「だから、お疲れ様。そして、ありがとう」
視界が滲んでくる。
結果発表の時に泣き尽くしたと思っていたのに、今浩介の言葉に再び心揺さぶられる。本当に引退したんだと実感してくる。
「もっと続けたかった。みんなともっと一緒にいたかったし喜びを分かち合いたかった」
「うん」
「もう終わりなんて、そんなの寂しいよ」
涙は止まることなく溢れ出てくる。夜道に嗚咽が静かに響く。後輩には決して見せなかった、くしゃくしゃになった泣き顔を全てから隠すように、浩介の胸に押し付ける。
浩介はあやすように、背中を優しく撫でた。
香織の強さは、自分にはないものだ。それが羨ましく、そして誇らしい。
泣き止むのを待ち、浩介は手を引いて歩き出す。会話はなく、靴が地面に擦れる音だけが二人の存在を伝える。
コンクリートから土に変わり、浩介は手を離す。昼間と違い、夜の公園は何処か神秘的に見えた。顔を上げた先にいる浩介の目は、真剣そのものであった。
「次は俺の番。香織に見ていて欲しい」
「……うん。しっかり見てる」
目元は赤く、まつ毛は湿ってたままである。それでも香織の笑顔は街頭に照らされ輝いていた。