電車のドアが開き、ホームに降りる。
硬いコンクリートにスニーカーのゴムが跳ねた。
二月も中頃に差し掛かってきている。雪が降るほどではないものの、冷たい空気が針のように鋭く肌に突き刺さる。京都を出る時は鉛色の空一面であったが、数百キロ離れたここ千葉は雲ひとつない快晴である。
下り方面の車内は、東京発の電車であるのに寂しいくらいに空いていた。もちろんラッシュ時を外したこともあるのだろう、ボックス席に向かい合うように座ると、香織は窓からその景色を眺めていた。
千葉と言っても特別京都と変わるところはない。強いて言うならば、山は見えないし、木々もほとんどないことくらいだろう。
「外の景色見て楽しい?」
だから疑問が口に出てしまうのも仕方ないことだ。
そして、それに対して香織は笑顔で頷く。
「だって浩介は千葉にいた頃はこの電車に乗ってたんでしょ? また昔の浩介のことを知ることが出来て嬉しいよ」
「あ––––、うん」
カーッと耳が熱くなる。目の前の彼女は無自覚で発言するあたりが罪深い。
照れを隠すように浩介も窓の外を眺めた。
***
「香織、来週千葉に行こう」
「え?」
「来週、千葉に行こう」
「いや、聞き取れなかった訳ではないんだけど。……急にどうしたの?」
二月に入ると大学受験も本格化してくるため、他の高校と同様に北宇治高校もほぼほぼ自由登校になっていた。形ばかりの授業を終えての帰り道、予備校に通う途中––––浩介は思い出したように口を開けた。
もう少し暖かくなってくれば芽吹いてくるであろう枝先に想いを馳せる。その頃にはきっと二人とも新生活に向けて準備を始めているはずだ。慣れ親しんだ日常が終わりを迎えようとしている。
「卒業する前に親父との約束を果たしておこうと思って」
浩介は頭をガシガシと掻きながらため息を漏らす。
いかにも面倒だ、そんな風を装っているが心中は異なることは香織も直ぐに察することが出来た。
「どんな約束したの?」
「親父が入院した時に話したんだ。次に会う時は彼女の顔見せに行くって」
浩介は卒業と同時にドイツへと渡ることになっているため、タイミングとしては悪くない。まだ高校生であることを考慮するとやや急過ぎる気もするが。しかし、個人的にも彼氏の父親には挨拶をしておきたい。
香織はバッグから手帳を取り出しページをめくる。
「ここなら学校の授業もないし空いてるかな? もう受験も終わってるし、晴香たちとの旅行とも被らないから大丈夫だと思うよ」
「うん、じゃあそこで行こう」
移動手段、日帰りなのか何処かに宿泊するのか等々……。色々と確認しなくてはいけない点があるものの、千葉に行くことは決定事項のようだ。
浩介の父親に会う緊張感と浩介と小旅行することの期待感––––それはきっと浩介には分からないことだ。人の気持ちを知らずして惚けている顔が憎たらしく思えてくる。
香織は浩介の手を強く握りしめた。
「マンションが沢山並んでる……。浩介の地元って栄えてるんだね」
「いや、ここは元々畑だったんだ。人も全くいなくて何もないようなところだったんだけど、数年前に地主さんが土地を売って、そこから急に発展してきた感じかな」
地元の駅に着いた頃には太陽が頂点に達していた。父親のいる家に向かう前に昼食を済ませることにした二人は近くのショッピングモールへと足を運ぶ。
平日ということもあり、比較的客足の疎らな館内。きっと休日ともなれば人で賑わっているのだろう。エスカレーターを上がり目の前に広がるレストラン街にはいくつもの飲食店が並んでおり、一つ一つメニューを確認しては隣の店に移動する。
香織はなるべく千葉でしか食べられない物を探しているようだが、残念ながらこの飲食店の並びにはそれはない。
最終的に、悩んだ末に入った洋食屋は値段相応だったと思う。満腹感から眠気が襲ってくるがこの後に重要なイベントが待っている以上誘惑に負ける訳にはいかない。目を覚ますほどに冷たい空気を求めるように二人はショッピングモールを後にした。
駅周辺は賑わいを見せていた街も、少し離れれば途端に活気がなくなってきた。冬の寒さが寂しさをより助長しているところもあるが、歩道も所々舗装されておらずタイルの剥がれている部分が目につく。
旅行バッグのキャスターが溝に嵌らないように注意しつつ香織は右へ左へ視線を動かす。
「こっちは少し寂しい街だね……」
「ここら辺は昔から変わってないね。ああ、あそこにあった本屋が潰れたくらいかな」
「遊ぶ場所もあまり無さそうだし不便だったりした?」
「結局、俺がこっちで過ごしていたのは中学生までだからね。学校や公園で遊んでばかりだったし、あまり生活に不便を感じたりはなかったかな」
「そうすると浩介の卒業した学校も近くにあるの?」
せっかくだから見てみる?
浩介の提案に頷く。千葉に来る機会など滅多にない。あまり普段の話には出てこない、彼氏の小学生の頃の学び舎をひと目見てみたい。
連れられるままに、高架下をくぐり抜けた先の信号を曲がれば二メートルほどの垣根が視界に入る。そして、その奥へと視線を送ると歴史を感じさせる建物が腰を下ろしていた。
建てられたばかりは白く輝いていたであろうその肌は長年雨風に晒されたために全体的にくすんだ色に変化している。その中で香織の目を引いたのは独特な校舎の形であった。
丸みを帯びたその側面––––いわゆる円形校舎は一つの渡り廊下で繋げられ校庭の両脇にそびえ立っていた。
「この校舎の形、卒業するまでは特別不思議に思ったことはなかったんだ」
「私の通ってた校舎とは全然違うなー」
「各階に一つの学年が入っていて、毎年校舎と階を移動するんだよ」
「ふーん、不思議な学校にいたんだね」
小さい頃から当たり前にあった物は、何の疑いもなく自分の常識となる。方言であったり、生活習慣であったりはその代表例だろう。
そのため、少年サッカークラブの練習で他校のグラウンドを使った時に校舎の違いにひどく驚いたことを覚えている。
時間が経つのも忘れて校門から校舎を眺めていると、不意に横から声をかけられた。平日の昼間に校門前に立っている姿は職員室から目立っていたらしい。咎めるために校舎から出てきたであろうその女性は、浩介の記憶にある人物であった。
「関係者以外は立ち入り禁止なんだけど、うちに何か用でもあるのかな?」
「あ、いえ。すみません。直ぐに──」
「もしかして……。柳先生、お久しぶりです。進藤です」
香織の言葉を遮った浩介の言葉に、不審げな目を向けていたその顔が驚きに変わる。
柳の頭の中にしまいこんでいた記憶の引き出しを開けて出てきた幼かった教え子は、目の前に立つ青年と確かに面影が重なる。
「シン! 久しぶりだね!」
「ご無沙汰しています。ちょうど用事があって戻ってきていて、せっかくだから学校まで足を運んだんです」
「そうだったんだ。いやあ、懐かしいね。隣の美人さんはどちら様だい?」
シンとは小学生時代の浩介のあだ名である。当時、クラスでは名字の頭二文字を取ってあだ名にすることが流行っており、浩介も例に漏れず適応されていた。
わはは、と歯を見せる三児の母親とは思えない豪快な笑いに、思わず後ずさる香織へと視線を向ける。
「俺の彼女です」
「そうか、シンにも彼女が出来てたんだね。私も嬉しいよ」
「ありがとうございます。それより柳先生もこちらに戻ってたんですね」
「ちょうど去年異動になって戻ってきたんだ」
ここらへんの地区では、五年程度で各学校を異動することが通例になっている。浩介の代の卒業と同じくして異動になり、別の学校へ赴任していた記憶を思い出す。
「そういえば、ニュースで見たよ。プロのサッカー選手になるんだってな」
「ありがとうございます」
「月並みな言葉になっちゃうけど。私も応援してるよ」
校舎から聞こえるチャイムは当時と全然変わっていなかった。授業の終了を告げるそれを皮切りに無邪気な声が窓から放たれる。いつか自分もそうであった––––浩介は校舎へ戻っていく柳を見送りつつ記憶を掘り起こす。
騒ぐことが楽しくて、止まなくちゃいけないと分かっていても止まらなくて。授業開始時間になっても騒がしい生徒を柳が一括するまでがセットであった。それはきっと今も変わらないのだろう。
「良い先生だったんだね」
香織が呟く。浩介の耳に辛うじて入る大きさの台詞は誰かに向けた言葉ではない。緊張していたせいか、上気した香織の頰をつまみ上げる。お世話になった教師を褒められて嬉しくないはずがない。
「……何?」
「何となくつまみたくなっただけ。親父も待っているだろうし、そろそろ行くか––––痛ッ!」
「もう、待たせてるなんて申し訳ないから早く行くよ」
香織はお返しとばかりにつまみ返した。
***
レンガで作られた門をくぐり抜け、ロビーへと繋がるドアを開けると暖かい空気が二人を迎え入れる。シャンデリアのような電灯が眩しい。
浩介は部屋番号を入力し呼び出しボタンを押す。呼び出し音がロビーに木霊する間、香織はキョロキョロと周りを見渡した。
管理人室の入り口と、名前も知らない植物の植木だけ––––随分とシンプルなロビーである。広々とした空間の割に物が少ないのは何かしらの意図があるのだろうか。以前、友達のマンションに遊びに行った時、こことは対照的に来客者向けのソファやテーブルが置いてあったことを思い出す。
香織が物思いに更けている間にやり取りを終えたのだろう、ロックが解除され自動ドアが開いた。
「いざ、行かん」
「香織、緊張し過ぎ」
いらっしゃい。
ドアの向こうから初老の男性が柔和な表情で二人を迎えた。似ている。香織は目の前の男––––浩介の父親を一目見て確信する。この人は浩介の父親である。
笑った時の目尻が瓜二つであった。面影を感じる顔、柔らかい雰囲気に極限まで高まっていた緊張が解けて行く。
「約束通り連れて来たよ」
「は、初めまして! 浩介君とお付き合いさせていただいています中世古香織と申します」
「香織硬すぎ」
幾分かマシになったとはいえ、彼氏の父親を前に緊張が無くなる訳などない。加えて言うならば、浩介が香織の両親と初対面の時も同じくらいに硬くなっていた。
彼からしたら忘れて欲しい記憶だろうが、後で絶対にバラしてやろうと強く決意する。
父親に案内されるままリビングへと通される。ベランダ側は一面ガラス張りであり、開放的な空間が広がっていた。事前に聞いていた話では、浩介が小学生の頃から生活している家––––マンションらしい。
浩介はバッグを置くと勝手知ったるようにお茶の準備をし始めた。置いてきぼりにされた香織は所在なさげに近くの椅子に腰を掛けその様子を眺める。
「香織さんは千葉に来るのは初めてだったかな?」
「あ、はい。東京は修学旅行で来たことはあったんですけど、千葉には来たことなかったので今回が初めてです」
「初めてがこんな田舎町で申し訳ないね」
せっかくならテーマパークとかの方が良かったよね。父親の言葉を肯定する訳にもいかず、曖昧な笑みで答える。
「親父なりの冗談だから気にしなくて良いよ」
はい、お茶。
浩介はお盆に乗せた湯呑みを各々の前に置くと香織の隣に座った。
「ありがとう」
「まあ、でもせっかく千葉に来たならテーマパーク行くべきだったかな」
「それはまた今度の楽しみにとっておくよ」
「その時はホテルもパーク内のやつにしないとね」
来月には日本を発ってしまうために、当分先の話になることは想像に難くない。しかし、次の楽しみを考えることは自由であるし、素敵なことだとも思っている。
「そういえば今日は晩御飯どうしようか。香織さんもいるわけだし、何処かレストランとかで食べても良いけど二人とも希望はあるかな」
「今さっき昼食べたばかりで全然考えられないかな。香織はどう?」
「私もまだお腹膨れてるね。……でも、せっかくなら浩介がよく通っていたお店とかあれば行ってみたいかな」
「それならタケちゃんとかどうだろう?」
「悪くはないけど、香織を連れて行くならもうちょっと良いお店あると思う」
昔ながらの中華料理屋。十年来で通っている店であり味は確かである。しかし、わざわざ遠くから連れて来た彼女に案内する店として適切なのか判断が難しい。
「ちゃんとした中華料理のレストランもあるよ?」
「浩介が小さい頃から食べてたお店なんでしょ? ぜひ私も食べてみたいな」
「決まりだね。そうしたら浩介、電話してもらって良いかな」
「はいはい。七時で予約するよ」
バタン、と廊下へ繋がるドアが閉まったことを確認し、父親は香織に向き直った。
「香織さん、」
先ほどまでとは異なり、その声色は硬さを含んでいた。浩介には聞かれたくない話なのだろう、香織は姿勢を正し耳を傾ける。
––––ありがとう。
それは父親の独白であった。それは何年も抱えていた親としての想い。
「香織さんが知っている通り、浩介は学校でも明るい性格をしていると思う。……でも、それは小さい頃から今までずっと普遍的に続いてきたものではないんだ。浩介は私たちが離婚した時、大分塞ぎ込んだいたんだ」
離婚の話が出たのは浩介が中学二年生に上がる頃だったかな。それまでは上手くいっていた家庭が急に行き詰まってしまったんだ。
何が原因なのか、私たちは必死に探した。別にお互いを嫌っていた訳ではないからね、最初は直ぐに解決すると楽観していたけど溝は深まるばかりで、一向に改善されることもなく焦りが募ってきて。
気付いた時には手遅れだった。
そして、それは浩介にも大きく影響を与えていたらしい。
愕然としたよ。仕事から帰って来たら部屋の電気も点けずにテレビゲームをやっているなんて、それまでの浩介からは想像もつかなかったからね。夫婦の関係が拗れたことで、ここまで浩介に負担を強いていたんだって。
でも私たちにしてあげられることはなかった。
それはそうだよね、私たちが原因なのだから。
父親は深く息を吐き窓の外へ目をやる。少しずつ赤く染まる雲が二つ並んで流れていた。近付くこともなく離れることもなく、寄り添うように手を取り合うように。
「サッカーは浩介の唯一の救いだったのかもしれない。幸い、あの子には才能があった」
ちょうどゲームにも飽きたのか、家でのことを忘れるように外で練習する時間が増えていった。それに比例するように技術も向上していって、浩介が中学三年生の時、サッカー部は関東大会に出場することになった。
お祝いの意味も込め、普段より豪華な夕食を前にして浩介の表情は浮かなかった。家庭に自分の居場所はない、チームの仲間だけが浩介の居場所であると多分そう考えていたのだろう。
流石にその状況から急に転校などしても良い方向には転ばない。離婚することが決定的になってからも浩介のために卒業までは共同生活は続いた。
「結局、浩介は母親についていったんだ。仕事であまり家にいない父親よりも、祖父母も一緒にいる京都の環境の方が良いだろうって」
そして、中学を卒業したタイミングで京都へ浩介はやって来た。それが香織と出会う数ヶ月前の出来事である。
「家に誰もいなくなって寂しさはあった。でも代わりに嬉しいこともあった」
浩介が高校生になって初めての夏休み。千葉に帰って来た浩介の表情は数ヶ月前と異なっていた。
形だけの笑顔ではなく、心から幸せなのだと。父親でも母親でもない誰かが浩介をそうさせた。
父親はジッと香織の目を見る。先ほどの二人のやり取りを見て理解した––––香織こそ浩介を救ってくれた存在なのだと。
「だから。ありがとう」
私たちの未来を救ってくれて。
香織は鼻の奥にツンとした痛みを感じた。気を抜けば視界がぼやけそうになる。
高校生になって、偶然知り合って、いつの間にか惹かれて––––好きになって。気が付いたら居なくてはならない存在になっていた。浩介が隣にいて、それが当たり前で。世界に新しい輝きをもたらしてくれた。
「私は……。私は、ただ浩介君とお付き合いさせていただいて、むしろ私の方が助けられたりで、」
「香織さん、あなたで良かった」
──これからも浩介のことをよろしくお願いします。
父親からのバトンを香織はしっかりと受け取った。
「何でか分からないけど声だけで俺だって分かったみたいで、店長のおっちゃんに長電話付き合わされちゃったよ」
浩介が部屋に戻ると、到着したばかりのやや硬い雰囲気はなくなっていた。香織が視線を落としているそれは浩介の成長記録であることを理解した瞬間、浩介は慌ててアルバムを取り上げる。
「あ、お帰りなさい」
「何見てるのさ」
「お父さんがどうぞって言ってくれたから」
「他にもあるから後でゆっくり見ると良いよ。何なら何冊かお土産に持って帰っても良いからね」
「ありがとうございます!」
「いや、本人に許可取れよ」
諸手を挙げて喜ぶ香織の無邪気さに毒気を抜かれ、表情を緩めて椅子へ腰を下ろす。ふふん、と鼻歌を歌いながらページを捲る姿は穏やかな時間そのものであり、何年も浩介が求めていた未来でもある。
浩介の視線に気付いたように顔を上げ、どうしたのと首を傾げる。
何でもないよ。
そっか。
ただ短い言葉のやり取りが心地良く胸に染み渡る。きっとこれが二人の幸せの形なのだ。
「浩介、」
だから伝えよう。受け取ったバトンを持って走りだそう。私たちの未来へと。
次の映画に香織先輩が登場するかなぁ。。
シーン的に登場してもおかしくないけど、カットされそうな気もするなぁ。。