正太の堪忍袋はさほど懐の深いものではない。それでも「前の一件」以来多くを反省し、感情的な行動を嫌うようになったため、大抵のことなら深呼吸一つでそこそこ冷静に考えられるようになった。昨日とて感情にまかせて蓮乃をぶん殴るようなことはしなかった。電話時のあれは軽くはたいただけであり、また蓮乃に怒鳴りつけたのも感情的と言うよりとっさの部分が大きい。
しかし、それにも限度というものがある。
正太は感情の見えない無表情で居間を眺める。視線の中央は、ソファーから飛び出た蓮乃の後頭部に、がっちりと固定されている。背後からでは表情は見えないが、時折アミセンを摘みラムネ瓶に口を付ける様を見れば、楽しい時間を過ごしていただろうことは簡単に予想できる。
それを確認した正太は、視線を胸の辺りで開いた掌へ移した。占い師が手相を読むように数秒ほど手のシワを注視すると、手の中の空気を握りつぶして堅く拳を形作る。そして正太は居間へと向かい歩きだした。その目はいつもとは真逆に大きく見開かれている。色のない表情の中で、血走った目だけが異常なほどに目立っている。
居間に着いた正太の視線は、近づいてきた正太に気づきもしない蓮乃の後頭部に標準を合わせていた。アミセンをかじり雑誌の上に欠片をこぼす蓮乃の姿を、正太は無色の顔と真円の両目でじぃっと眺める。玄関口からずっと拳は握られたままだ。
さらに正太は蓮乃に近づく。ソファーに腰掛ける蓮乃の体に正太の影が重なり、雑誌のカラーページに薄い影をこぼす。そこでようやく何かに気が付いたのか、蓮乃は雑誌から目を離し影の元へと振り向いた。そして正太の姿を目にすると想像通りの笑顔で、意味もなく元気よく手を振りあげる。
「もーなーっ!」
余人には理解不能な言語を用いて、蓮乃は正太に向けた帰宅の挨拶らしきものをする。だが、正太の表情は無色なままで蓮乃の挨拶(?)に対する反応は見られない。
正太からの反応がないことに、不可思議そうに首を傾げる蓮乃。それに数秒遅れて、ようやく正太は手をゆっくりと、ことさらゆっくりと振り上げた。当然、拳は握られたままで。
「ムフ~ッ」
正太の反応に、蓮乃はいつも通りのドヤ顔を浮かべて満足げに頷く。そして挨拶が終わったからもういいだろうと、ガラス机の上の雑誌に向き直る。向き直った拍子に、黒い絹糸の髪がさらさらと背もたれの上を流れた。異相となるほどかっ開いた正太の眼に、ソファーの背もたれと蓮乃の柔らかな黒髪、そのまた真ん中の小さなつむじが写る。
そして正太は、そのつむじめがけて、勢いよく握った拳を振り下ろす。
宇城家の居間に、酷く鈍くて水っぽい、柔らかな物で堅い物を殴ったような音が響いた。
*
二昔前のテレビドラマは学園物が多かったそうだ。再々々放送あたりで見たのだろうか、名前はとうに忘れてしまったが「不良生徒を更生させようとする熱血教師の奮闘物語」を正太もいつだったか見た覚えがある。その中で、熱血教師は何度か不良生徒達の頭を殴り付けて、その度にこう言っていた。
『殴られて痛いだろう。だが殴った俺も痛いんだ!』
当時の正太はその台詞をバカじゃあないかと思っていた。殴られた側ではなく殴った側が、つまりは攻撃した側が痛いなんてことあるはずがない。そう思ってバカにしていた。
清子との喧嘩では母の鉄拳が怖くて、大抵口げんかで終わっていた。「前の一件」の時は一方的に殴られるばかりで、殴り返す気力もなかった。だから他人の頭を思い切り殴りつけた実感など、知る由もなかった。
だが、実際にやってみてようやく解った。
殴った側も痛い。
考えてみればこれまた当たり前の話だ。人体で最も重要な器官である脳を守るため、頭部は堅牢な頭蓋骨で形作られている。それをよりにもよって、非常に繊細なマニピュレーターである「手」で殴り付けるのだ。格闘技や武術のような、人を殴る専門の訓練を受けていても、頭を殴れば指の骨折を起こす場合もある。
つまりは素人が人の頭を力強く殴り付ければ、それは当然痛いに決まっているのだ。
痛みを振り落とすように殴り付けた手を振って、呆然と自分を見る蓮乃を横目に見ながら、正太はそんなどうでもいいことをぼんやりと考えていた。
人間が殴られたとき真っ先に来るのは痛みではない。心理的な「衝撃」だ。暴力沙汰に慣れていない者は、殴られたという事実そのものへのショックで、身動き一つとれなくなってしまう。「魔法」という力があってもそれは変わらない。普通の人間たちに魔法使いがリンチされることがある理由の一つだ。
では衝撃の次に来るのが「痛み」かと言えばそうではない。次にやってくるのは殴られたという事実に対する「認識」だ。ここで人はようやく、自分が殴られたということを認識して理解するのだ。
呆然と書かれた蓮乃の表情が、正太の目の前で、震えと共に段々と形を変えていった。まるで夜が明けた後の月下美人の様で、表情が萎れて潰れてゆく。そしてようやく「衝撃」が覚めて、自分が思いっ切り強く殴られたのだと「認識」した蓮乃の両目に、透明な涙が音もなく溜まる。そしてそれはあっと言う間に表面張力の限界を超えた。
「ヒッ……ズズッ……ヒッヒッ……」
柔らかな大理石の頬を伝って、雑誌の上に涙が滴り落ちてゆく。表面加工された滑らかな上質紙は皺まみれになりながら滴る涙を必死で弾こうとする。だが、次から次へと落ちてくる涙の軍勢についには押し負けて、開いた「本物以上!? 合成食品の精進料理」特集ページはふやけて膨れ上がっている。
昨日と変わらず、蓮乃は息を呑むように泣いている。鼻を啜り顔を擦り、それでも止まらない涙に繰り返し繰り返し息を呑んでは、また涙をこぼしている。涙に溺れて喘ぎながら、何度も大口を開いて切れ切れの荒い呼吸を繰り返す。
蓮乃は幼いが、年に見合わないほど美人である。その美貌が涙に崩れる様はある種の痛々しさすら帯びていた。
だが、それを悼む様子も厭う様子も正太には見られない。眼球全てが露出したかと思わせるほどに開ききった両目で、じぃっと蓮乃の泣き顔を見ているだけだ。その顔には一切の表情が揮発して、何の色合いも浮かんではいない。複眼に見えるほど開いた両の目と併せて、感情というものを持ち合わせた試しのない、百足や蜘蛛のような虫けらのようにも見える。
美麗な顔を崩し、両目を歪めて泣きじゃくる蓮乃。複眼じみた両目でそれを見つめ、厳めしい顔を能面じみた無表情で覆った正太。この異様な光景は、蓮乃が泣き止む半時間後までそのままだった。
*
ようやく涙が止まった蓮乃の両目は、昨日以上に赤々と腫れ上がっている。京都の舞妓が白塗りの顔に紅をさしたと同様に、雪のように白い肌の中で目元の赤がくっきりと存在を主張していた。もはやなにを言おうと、昨日のように睦美を誤魔化すことはできまい。先に書いた舞妓以上の地層じみた厚塗りで白粉を塗りでもしない限り、その瞼の赤腫れは誰であろう見逃しようがないほどに明らかだ。
表情もまた昨日以上に厳しい。威嚇する子犬のように歯を剥き、正太への敵意を示している。三〇分近く泣いていたためか息も荒く、表情と相まってまるで飛びかかる寸前の猫のようだ。
「フーッ、フーッ、フーッ」
一方、それを見る正太の目に変化はない。蓮乃に拳骨を落とす前から、その表情は一切の感情の色が消え失せた能面のそれだ。その上、その眼はカメラ用の無機レンズの如くに巨大化したままで、今の内面を伺い知ることはできない。
蓮乃の隣のソファーに腰を下ろした正太は、能面を変えることなく、ガラス机に置かれていたノートにボールペンを走らせた。
『何で叩いたか、わかるか?』
メモの返答は動物じみたうなり声だった。「荒い息で」「歯を剥いて」「うなり声」のスリーポイントで獣らしさが一〇〇〇倍である。もっとも、美麗と表される外観と子供らしい体格のおかげで、実際は子犬か子猫のようにしか見えないのだが。
「ウゥ~~ッ」
『おまえが約束を破って、その上泥棒をしたからだ』
そんな蓮乃の返答に頓着することなく、正太はさらに蓮乃が自宅から持ってきたノートへ文字を刻む。
蓮乃は子犬のほえ声と威嚇を足して二で割ったような声を上げると、ポーチから出したペンでノートの文をグシャグシャに塗りつぶす。文字が文字と読めなくなるくらいに、大豆由来の黒インクで覆うと、その横に荒い殴り書きで否定の言葉を刻みつけた。
『してない!』
正太は視線だけを蓮乃へ向けると、否定の文を二重線で訂正し、否定の否定をさらりと書いた。
『いいや、した』
それに蓮乃が先の繰り返しと、文を塗りつぶして否定の否定の否定を荒々しく殴り書く。
『してない!』
それに正太が二重線を引いて否定の否定の否定の否定を……
『した』
『してない!』
『した』
『してない!』
やったやらないの文がノートのページを塗りつぶし、文の浸食はついに三ページ目に達しようとしている。誰がどう見ても完全な水掛け論である。いや、感情をぶつけ合っているだけであり、どこにも「論」と呼べるものは存在しない。水掛け論ですらない。水がないだけに不毛極まりない話だ。
そして不毛な言い争いが止まるのは、どちらかが暴力を振るったときか、言い逃れようのない証拠を前にしたときである。
『じゃあ、そのアミセンとラムネは何だ?』
正太は、ガラス机の端にまとめられたオキアミ煎餅とラムネ瓶を指さし、指先で机を軽く叩く。文を読んだ蓮乃から威嚇の表情が薄れ、一瞬不可思議そうな色合いが浮かぶ。その色合いはすぐに不満と敵意に塗りつぶされた。
『昨日、食べて良いって言った!』
事実、「昨日は」長い話を聞かせる為にお菓子を蓮乃に食べさせた。長い、それでいてさほど楽しくもないだろう話を聞いてくれたご褒美として食べさせたのだ。無論、正太としては「毎日おやつを食べに来い」などの言った覚えはない。なるほど、それをこう曲解したのか。
正太の指先がソファー前のガラス机の上で一定のリズムを刻みだした。爪先で刺すように、心拍と同じリズムで繰り返し机を叩く。
「ほぉーう、そーかそーか。昨日食べて良いって言ったからかぁ」
蓮乃が聞き取れないことを理解していながら、あえて正太は言葉を口にする。さらに見開いた両目を意図して糸の如くに細める。止めに唇の両端を九〇度近くまでつり上げた。
例え日本語の一切判らない不法移民であろうと、正太が何を示したか一発で理解できるだろう。そして一発で理性の糸が千切れ落ちるだろう。
その声と顔には、揶揄と皮肉と諧謔とついでに蔑意と悪意が意図的に込められていた。それも例え言葉の解らない蓮乃でも込めたものが解るくらいにあからさまに。
『悪いことしたのはそっちだから、あやまれ!』
当然、蓮乃はそれに反応した。敵を前にした子犬のようにキャンキャンと吠え猛る。だが、正太はそれに反応することなくペンを滑らせた。
『例えば、お前が睦美さんに「半分あげる」って言って、おやつを分けたとする』
先ほど以上に蓮乃は不可解な顔になる。正太が何を書いているのか、いや何を伝えたいのかがよく解らないのだ。
『次の日、お前がとっておいたケーキを半分睦美さんが食べてしまった』
『お前にとってそれは怒るようなことじゃなくて、当然のことなんだな?』
そこで正太は軽く平手でガラス机の天板を叩いた。軽くとはいえ平手で板を叩けば、そこそこ大きな音がする。想像もしてなかった音に蓮乃は体を震わせて、半ば反射的に正太の顔へ視線を向けた。正太も蓮乃へ目を向けている。
二人の視線がかち合い、そして蓮乃は息を飲んで目を反らした。能面を切り欠いたように細めた眼から放たれる、凍り付くほど静かで耳鳴るほど冷たい眼光が、レーザーのように蓮乃の心を恐怖で射抜いたのだ。
『だって前の日にお前が「半分あげる」って言ったもんな』
『もし「そう」ならもうなんにも言わない。ちゃんとお前に謝る』
正太は視線を蓮乃に合わせたまま、さらに文を紡いでゆく。蓮乃はうつむいて正太の文字だけに視線を合わせている。あの目でまた見られるかと思うと、恐くて顔を上げられない。だが、標的を見定めた猛獣のように正太の視線は蓮乃から離れることはない。
『確認するぞ』
『お前は前の日に「おやつを半分あげる」って言ったら、その後ずーーーーっと半分あげるんだよな? 毎日毎日半分あげるんだよな? 何せ、前の日に「そう」言ったなら次の日だって』
『「そう」するのが当然なんだから』
そこまで書いた正太は、蓮乃の頭を両手でつかんで無理矢理顔を上げさせる。正太の能面が突きつけられ、レーザーの眼差しで蓮乃を突き刺す。
「つまり、だ」
「例えお前にとって嫌なことでも、前の日にそう言ったならずっと守るんだな?」
先ほどと同様に意図的に口から言葉を出す。先ほど以上の怒りを込めて、腹に力を入れた野太い声で蓮乃に言葉をたたきつける。
さらに正太は目をかっ開き歯を剥くと、蓮乃の眼前一cmまで自分の顔を接近させた。昨日、睦美に「子供が泣き出してもおかしくない顔立ち」だと納得された正太の面が、蓮乃の視界一杯に広がる。
蓮乃は喘ぐような荒い呼吸をしながら、半ば呆然とした表情で正太を見つめる。精神の許容限界を超えた恐怖で、泣き止んだはずの両目に新しい涙が膨れ上がってゆく。
だが、正太の能面、いや鬼面と化した顔に情けはない。
「答えろ」
正太が口頭で回答を要求する。蓮乃は答えない。いや、答えられない。大理石の頬を水晶色の涙が幾筋も伝い、顎の先から滴り落ちてゆく。
すっと正太の顔が蓮乃の視界から離れた。同時に首を固定していた太い手も離れ、ノートを涙の爆撃から避難させる。とたんに重力があることを思い出したかのように、カクリと蓮乃の顔が下を向いた。
『例えお前にとって嫌なことでも、前の日にそういったならずっと守るんだよな?』
そして正太は、もう一度、今度は言葉ではなく文章として紙に刻んだ。正太が何を言いたいか、それを蓮乃が正しく理解できるように、解らないなどと言い訳できないように、文章という形で突きつける。
『さあ、答えろ』
もう一度、要求を繰り返す。
『さあ』
ガラス机を向いた蓮乃の目からこぼれだした涙は、拭かれた机にもう一度水たまりを作り始めた。もし雑誌を机に残して置いたなら、今頃はぐずぐずに溶け崩れていることだろう。一部の涙は大渋滞の両目を迂回して、鼻孔から外へと飛び出してゆく。涙と鼻水の連合軍は机上の水たまり領を着々と広げていった。
肩を震わせ息を飲み、鼻をすすり上げては顔をこすり、蓮乃は声もなく泣きじゃくる。だが、それでもまだ足りぬと言わんばかりに、正太は強く机を叩いた。誰であろうと体を硬直させるような巨大な音で、蓮乃は風邪のようにビクリと体を震わせる。
『泣くな、答えろ』
正太は涙に逃げることを許さない。
『例え何であれ、前の日にそう言ったならずっと守るのか? そうじゃないのか?』
容赦なく返答を求める。
『答えろ』
赤一色に腫れた目をさらにこすりながら、蓮乃は小さく小さく首を横に振った。
『それは「そうじゃない」という意味でいいんだな?』
今度は縦に小さく振る。よく見ていなければ、見逃してしまいそうなほど小さく。
『改めて聞くぞ。俺はお前にお菓子を食べていいと「今日」言ったか?』
首を横に。
『つまりお前は俺から「食べていいよ」と言われていないのに食べたんだな?』
肯定の縦。
『じゃあお前は何をしなきゃならないんだ?』
水たまりに涙を追加しながら、蓮乃は米粒より小さい掠れた文字で、ノートの隅に返答を書き付けた。
『あやまる』
正太は「よし」と口の中で小さくつぶやくと、今まで睨みつける用に大きく開いていた目を、常の細さへ戻した。
『何をして謝っているんだ?』
一応ではあるが、判っているだろうことを確認する。もしもこれを理解できていないなら元の木阿弥。否、それ以上に悪い。何も理解できてないまま謝罪するようになれば、反省も自省もやらなくなる。その行き着く果ては、特殊刑務所での「犯罪傾向の脳外科的治療行為」だ。
『勝手におやつを食べたから』
蓮乃の返答に満足したように、正太は小さく首肯した。ちゃんとこの娘は原因を理解している。問題はないようだ。
『そうだ。なら何を言わなきゃいけない?』
新しいページを正太が開いた。未だ涙の止まらない目を擦りながら、その一番上に蓮乃は初めて謝罪の言葉を書いた。
『ごめんなさい』
それを見た正太はようやく顔を緩め、鬼面でも能面でもなく人面へと表情を戻した。その顔にはありありと安堵の色が浮かんでいる。
一方、蓮乃は変わらずうつむいたまま、ノートの罫線と机の傷を数えている。その表情を見ることはできないが、未だ机へ降り続く涙の雨がどんな顔をしているか容易に想像させた。
蓮乃の様子を見て取った正太は考え込むように何度か顎をさすると、両手で蓮乃の頭をつかみぐいと持ち上げた。先の恐怖を思い出したのか、蓮乃はまぶたを強く閉じて目を瞑る。閉じるまぶたに押されて、逃げ場のない涙が勢いよくこぼれ出た。何も見たくないと目を閉じた暗闇の中、見えるのはまぶたの裏で踊る極彩色の影だけ。蓮乃自身の荒い呼吸の音が頭に響く。
その時、蓮乃の背に何かが触れた。子供が初めて動物に触れたときのように、恐る恐る触れたと思うと距離を取る。おっかなびっくりしながらも繰り返し繰り返し、何かは背中に触れてきた。それは何度か背中に触れるうちにその動きを変えた。肩口から背筋を通り中程で離れる。背中を撫でているのだ。
そこでようやく蓮乃は背中を撫でている物が、正太の手だと気がついた。ざらついた感触の角張って節くれ立った手が不器用に、それでいて出来るだけ優しく、怯える子犬を落ち着かせるように、自分の背中を撫でている。
蓮乃はゆっくりと目を開く。まぶたの隙間に残った涙で微妙に歪んだ視界の中、先ほどまで怯えていた厳つい顔が九〇度右にあった。でも、今は恐ろしい表情をしていない。心配しているような、困っているような、疲れているような顔だった。その顔は蓮乃と目を合わせると、安心したように、安心したことを伝えるように、大きく繰り返し頷いて、蓮乃の背へと左手を伸ばした。
*
台所の食器棚の下は、家族共用のお菓子スペースになっている。昨日、蓮乃に半分近く買い置きの菓子を食われたが、まだ少しは、ほんの少しは余裕はある。
個人的には昨日食いそびれたアミセンを食いたいところだが、蓮乃は昨日も今日もアミセンを食ったし、買い置き分はもう無くなっている。ならば、今日はチップスでいいだろう。
そう考えた正太は、ガサゴソと紙の擦れる音を立てながら目当てのお菓子を引き出した。正太の手に摘まれた狐色の油紙袋には、「デンプンチップス:コンソメ味」のカラー印字がでかでかと存在を主張している。紙袋を摘まんだ手で食器棚の観音開き戸を開き、大きめの平皿を逆の手で掴み出すと、行儀悪く肘と足で食器棚の上下を閉めた。
ソファーに座る蓮乃は、赤く充血した腫れぼったい目で、ぼんやりと虚空を眺めている。正太は蓮乃の前のガラス机に無地の皿を置くと、「馬鈴薯澱粉三〇%使用!」の飾り文字が目立つ紙袋を開けて、皿の上に流し出した。
蓮乃は皿に盛られた薄黄色の薄っぺらいチップに視線をやって、それから正太に涙で真っ赤な目を向けた。蓮乃は正太におずおずと許可を求める。
『食べていいの?』
『ああ、「今日は」食べていいぞ』
ゆっくりと大仰に首を縦に振り、正太は肯定を示す。書かれた文章にはちょっぴり毒が入っていて、蓮乃の顔に恨めしそうな色が微かに浮かぶ。
だが、それも一枚目のチップを口にするまでのこと。さくりと軽い音が響くや否や、蓮乃は昨日のカスタード大福の時と同じくらいに目を丸くして、次の一枚に手を伸ばした。
さくさくと繰り返し軽い音が響いて、皿の上の小山がその高さを減らしてゆく。どの年代からも愛される定番のコンソメ味に、どうやら蓮乃は食べるのを、やめられないとまらない状態となったようだ。
そんな蓮乃をぼんやり見ながら、正太は安堵と疲れの混ざったため息を一つ吐いて、口の中にチップスを一枚放り込む。たとえ材料がブイヨンから調味酵母に変わっても、昔変わらぬコンソメ味が口中に広がった。慣れ親しんだ味にほっとしながら、次の一枚に手を伸ばす。その手の下を、調味粉だらけになった蓮乃の手が、素早く通り抜けていった。その手を見て正太の頭に疑問符がぷかりと浮かぶ。そういえばこいつどこからアミセン出したんだろうか。
――ああ、今日食べようと思って母さんに買ってきてくれるように、頼んだの忘れてた。
疑問は蓮乃が次の一枚を口に差し込むより早く自己解決した。おそらく、母は雑誌と一緒に購入したアミセンを帰宅後にしまうつもりでテーブルの上にでも置いておいた。それを発見した蓮乃がさっきの理屈に従って、雑誌読みつつラムネ飲んでアミセンを摘むこととしたのだろう。それを思い浮かべると、連鎖的にさっきまでのことが思い浮かぶ。それと同時に頭の裏側から染み出してきたような強い疲れが正太の脳味噌を包み込んだ。
『お手拭き持ってくる』
汚れていない手でメモを書き残すと、グシャグシャになった雑誌を掴む。口にチップスを詰め込む作業に夢中の蓮乃を残し、正太は洗面台へと向かった。
*
洗面台の前、コップに蓄えた水で顔を洗う。涙でふやけた雑誌は洗面台下のゴミ箱に放り込んだ。洗面所に行きがてら、台所から持ってきたお手拭きはタオルかけに引っかけてある。
顔を洗って頭がシャッキリとしたところで、指を組んで腕を思いきり延ばした。肩と背の筋肉と緊張がほぐれてゆくのを感じる。さらに、腕を十字に組んで二の腕の筋をのばしながら、正太はさっきの一件を思い返す。
――怖い顔や怒った顔を「してみせる」のは結構難しいもんだなぁ
実の所、正太は蓮乃に怒っていたわけではない。
無論、怒りの感情が一切ないかといえば嘘になる。事実、奈落の底に落ち込んで帰ってきた正太が蓮乃を見た瞬間、正太の堪忍袋の緒は焼け飛んだ。「人が散々走り回って探し回って見つからなくって、ご家族に腹切る思いで連絡しようと帰ってきたら、雑誌読んでラムネ飲んでアミセン食ってご満悦たぁ、どういうこったこのクソガキふざけんじゃねぇぞ」という気分で蓮乃の頭を殴りつけた。
それでも、拳骨落として半時間も泣き顔を眺めていれば、いい加減頭も冷めてくる。後は謝らせて反省させてそれでお仕舞い、本でも読んでゆったりしようと考えていた。
だがしかし、蓮乃は謝罪以前反省以前に、自分が何をしたかを全く理解していなかった。だから正太は「蓮乃に怒る」のではなく「蓮乃を叱る」こととしたのだ。
正太自身が他人を叱ったことは、幼い頃の妹を除けば全くと言っていいほどない。そもそも正太自身、自分が他人を叱れるような偉い人間だとは思っていない。それでも叱らなければならないなら、他人の方法を参考とするのが一番だ。
すぐに思いつくのは母親同様に拳骨の雨を降らせて、自分のしでかしたことを物理的に理解させる方法だ。しかし、昨日の蓮乃の意固地さ加減を考えるに、拳骨を落とすやり方では効果は薄いか逆効果だ。ならばと、正太は物理的な暴力を一切用いない父のやり口を参考にすることとした。
父は自分や妹を叱るとき、母のように拳骨を振るわない。かといって優しく諭したり情に訴えたりもしない。将棋のように「詰める」のだ。しかもそこに容赦はない。なにせ母は「泣くまで拳骨」だが、父は「泣いても説教」だ。
発言の矛盾をつき言質を取って、あえて自分たちに理解できる形で論理を積み上げてゆく。逃げ口上は言う前に潰され、泣き言は理屈と道理で解体される。ついには、泣きながらやらかした悪行を理解させられて、「自分の意志」で謝罪させられる。偉大な兄弟も青ざめるだろうその徹底ぶりは、自分も妹も母に拳骨をもらうより父の説教を恐れるほどだ。正直、中学二年にもなって父の説教はまだ怖い。
しかしながら正太には、父親同様の論理制圧をするだけの「脳」力はない。だから、その代わりに父より数段怖い顔立ちで、蓮乃を脅しつけて理解させることにした。
結果から見て、多少効なりとも果はあっただろうと正太は思っている。少なくともそう信じたい。一応、謝らせることもできたのだから。にしても蓮乃の奴、あんだけ泣くってやっぱり怖い顔なのかそうなのか。そもそも何で自分はそこまで蓮乃の面倒をみてやっているのだろうか。自分で自分がよくわからない。
「あ」
顔をタオルで拭いつつ先ほどのことを思い返していた正太は、唐突に声を上げて頭足類のような目を大きく見開いた。
――そういえば約束破ったこと叱るの忘れてた。
蓮乃を叱るべきだと考えた事柄は「勝手に菓子を食べたこと」と「『待っているように』という約束を破ったこと」、その二つだ。前者は自ら謝るまで叱りつけたが、後者は話の頭に上らせただけでそれ以後最後まで出すのを忘れていた。
どうしたもんかと首をひねりながら、濡らしたお手拭きを絞り、居間へと向かう。一度蓮乃を叱った以上、二度三度と叱りなおすのは筋が通らない。蓮乃にしても、チップスを出された時点でもう終わったと考えていることだろう。実際、正太もそれで仕舞いだと考えて皿を出したのだから。だからといって、約束を破ったことをお咎めなしで放っておくのもなにか違う。
一応、口頭で話すだけでもやっておくか。そう決めた正太が居間に足を踏み入れた。その目に入ったのは、空っぽになった皿と、行儀悪くも満足げに指を舐める蓮乃。
――ちょっとくらいは残せよ。
昨日今日で昨月の総数を超えただろうため息の数に、もう一つ追加された。せめてもの救いは袋の中にまだチップスが残っていることだ。なんだか色んなものが脱力した正太は、首を落とし顔を手で覆った。