二人の話   作:属物

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第三話、三人でTVを診る話(その四)

 結局、正太はホット豆乳を三人分作ることとなり、そいつをチビチビ飲みながら三人は番組の続きを視聴していた。

 

 画面上では、最後の一騎打ちを終えて生き絶えた「ノラ」へ、「クロ」が回想とともに鎮魂の遠吠えを繰り返している。

 物語は佳境を通り、終局を越えて、閉幕に入りつつあった。画面の端っこに映る時計をみれば五時少し手前で、三時間近くTVにかじりついていた事になる。長くかかるのを考慮して、途中からおもしろそうなエピソードのつまみ食いに切り替えたのだが、それでもこれだけ時間を使ってしまっていた。もっとも不満というわけではない。ストーリーの大筋だけをつまみながらも、結局最後まで見てしまったのだから言わずもがなだ。

 

 「ノラ」の遺言に従い町を出るべく、夕日に向かって駆ける「クロ」を背景に、画面の上から白抜きのスタッフロールが流れ落ちる。それをぼんやりと眺めていると、下から現れた「おわり」の文字と日放のロゴマークが、TVの時間の終了を告げていた。

 三人は背中一面にへばりついた凝りを落とすように、両手を組んで頭上にのばす。そしてそのまま腹周りの筋をのばすべく、同じタイミングでメトロノームよろしく上半身を揺らし始めた。

 

 「ん~、んっ! ん~、んっ!」

 

 蓮乃の口から漏れる音で拍子を取り、右へ左へと体を曲げる。十秒後、脳味噌の動いていなかった正太と清子は正気に帰り、恥ずかしさのあまり真っ赤になった顔を押さえ、痙攣じみて震える羽目になった。

 それから数分が経ち、いい加減恥ずかしさも落ち着いて真っ赤になった顔色もある程度肌色に近づいてきた。二人はお互いの顔を見合わせ、自嘲を込めて苦めの笑みをこぼした。

 

 『おもしろかったね!』

 

 二人の様子に一片たりとも頓着する様子のない蓮乃が、力強い大きな文字で冷めやらぬ興奮を表したノートを掲げた。ノートと同じことが顔に書かれた蓮乃は疑いなど全くない瞳で正太を見つめる。さっきより苦み控えめの苦笑を蓮乃に向けて、正太は首を縦に振った。清子に視線を向けると、彼女も小さく頷いて肯定を示した。

 事実、この作品は久方ぶりの大当たりだった。これを機に昭和のヤクザ映画が見たくなるくらいだ。「機関銃無頼漢」とか「任侠無き闘い」とか見てみようかな。でも、小遣いは足りるだろうか?

 

 正太が毎月の小遣いと財布の中身と貯金箱の蓄積具合を暗算し始めた一方、蓮乃は正太の顔を見つめると、なにやら思いついた顔をしてノートにペンを滑らせ始めた。

 貯金箱の切り崩しなしかつ無理のない範囲なら月二本くらいかなと、正太が頭の中で数字をこねくり回していると、九〇度横から服の裾が引っ張られた。清子は正太の真向かいで、そっちにいるのは蓮乃しかいない。それに当然そんなことをするのは一人しかいないわけで、向けた視線の先には想像通り蓮乃がいた。ただし表情は想像とは異なり、なんというか「悪戯を思いついて今それを実行するところです」と書いているような顔をしている。元々の美麗な顔立ちを相まって、正太には小悪魔そのもののように見える。

 

 ――こいつ、またまたなにかやらかすんじゃぁなかろうか?

 

 その顔を見て正太の背中に冷たい汗が流れ落ちた。ここ三日ばかりの付き合いではあるが、この娘っ子が思いつきで何かをやらかすと、大抵ろくな結果にならないことを正太は知っている。具体的に言うと、初日にやらかした「無許可大規模魔法使用」や二日目の「ノートを取りに帰って行方不明」だ。

 いやな予感に満ちた正太の目には、蓮乃の背後で揺れる悪魔のしっぽと山羊の角の幻がかいま見えた。

 

 頬を引き吊らせた正太の眼前に、蓮乃の手で大きく開いたノートが突き出された。正太は少し仰け反りながら、ノートに刻まれた文章を目で追う。いや、文章ではない。一ページの大半を埋めるのは、愛くるしくデフォルメされたブルドッグの絵とマンガチックな肖像画だ。蓮乃に絵の才能があるのか、はたまたお絵かきの習慣があるのか、犬の絵はブルドックの特徴を捕らえていて中々に上手に見える。人間の絵が巧いかどうかは、モデルの判らない正太には理解できなかった。

 よく見ればその二つの絵は「=」で結ばれ、絵の下には小さく名前が書かれている。ブルドックの絵には『トラバサミ』、人物の絵には…………『兄ちゃん』。

 

 「オイ」

 

 蓮乃が言葉を聞き取れないことを半ば忘れて、反射的に正太はツッコミを入れていた。『トラバサミ』と書かれたブルドッグが何なのかはとっさには思い出せない。たしか番組に出てきた「クロ」の仲間の一匹だろうか。

 が、とりあえず蓮乃の中でブルドックと自分と同一視されていることは理解できる。己の顔立ちがよろしいなどと思い上がりを超越したことを思ったことはないが、だからといって牛攻め闘犬と同一視されて喜ぶ道理はない。

 

 正太の顔は先とはまた異なる理由で引き吊っている。だが、正太の言葉をどう受け取ったのか、蓮乃は「=」を二重丸で囲んで「おんなじ」であることを自信ありげな顔で強調する。それを見た正太の頬は、引っ張りすぎで切れる寸前の糸のように小刻みに震えている。

 そんな正太とノートを横合いから見比べていた清子は、思わず笑いの息をこぼした。不運なことにそれは「最後の藁」であり、正太のさほど強くもない堪忍袋の底に大穴を開けてしまった。

 

 「オイ、笑うな」

 

 怒れる正太は突き出されたノートを押し除けると、真向かいの清子に向けて身を乗り出した。さらに目を剥き歯を剥いて鬼面獣面を作り、清子に挑みかかるように顔を近づける。

 だが清子に怯える様子はない。毎度見慣れた厳つい顔を少々強面に仕上げたところで、ビビりあがって腰が抜けるなんてことはあり得ない。そもそも、兄は見当違いの事で怒っているのだから尚更だ。

 

 「そういう意味じゃなくてさ。ほら、蓮乃ちゃんに理由聞いてごらんよ」

 

 「へ?」

 

 予想外の言葉に呆けた表情を浮かべた正太が、蓮乃の方へと首を向ける。間の抜けた顔の正太を見た蓮乃は、おそらく根拠の無い自信に満ちた表情で、机に置いたノートになにやら文章を箇条書きし始めた。

 

 『兄ちゃんとトラバサミが似てるとこ

 ・本が好きなとこ

 ・怒るときは怖いとこ

 ・でもいつもは優しいとこ

 ・顔』

 

 「オイ」

 

 結局、顔は理由の一つなのか。しかし、一応は褒められているようなものだし、怒るのも何か筋が違うような気がする。文句や不満や気恥ずかしさなどなど、色々なものを溜息に込めると、正太は深々と息を吐いた。その顔は苦虫をボウル一杯かき込んだような、とてもゲンナリした表情を浮かべている。

 こうやって箇条書きされてようやく思い出した。ブルドッグの「トラバサミ」は主役「クロ」の群の一員で、ご意見番みたいな役柄だったはずだ。読書好きの寡黙な働き者で、闘いでも真っ先に突撃し一度噛みついたら「虎挟み」の如くに決して離さない。ついでに言うと、怒ると容赦がなくて非常に怖い。そんなキャラクターだった。

 

 「子供の言うことなんだからさ、もう少し大目にみなよ」

 

 渋柿を口一杯に頬張った顔をしてる正太に、ケラケラと軽い笑いをこぼしながら清子が宥めに入る。

 不満はあるもののどうにも座りが悪い。正太はソファーに腰を落とすと、文句ありげな顔でテーブルに頬杖を付いた。

 そんな二人を眺める蓮乃は、すねた顔を浮かべた正太と喉の奥で笑う清子の裾を、二人同時についついと引っ張った。引っ張られた方向へと向き直った二人の目の前に、再び開かれたノートが突き出される。ただし開かれたページには絵ではなく文章が書かれていた。

 

 『姉ちゃんはパグの「キクマル」だと思う』

 

 蓮乃の書いた文章を読んで、正太は記憶の中から「キクマル」の名前を引っ張りだした。

 たしか「キクマル」は「サクラ」の群で副官を務めていた雌のパグだ。涙もろく感傷的で理想主義の傾向の強い「サクラ」に対し、現実主義かつ実用主義で沈着冷静な「キクマル」は群に不可欠な人材ならぬ「犬」材だった。どの犬よりも「サクラ」の理想を理解し、群を支える「キクマル」を「サクラ」は誰よりも信頼してた。またその冷静さ冷酷さ故に、どの群にも深くは馴染めなかった「キクマル」を受け入れた「サクラ」を、「キクマル」もまた強く慕っていた。

 まあ、似てるといえば似てると言えなくもない。具体的にいうと、「サクラ」の理想論に対する容赦ないツッコミや、ぶちぶち文句をボヤきながらも結局は手助けするところとかが似てる。

 

 正太がつらつらと考えていると、蓮乃もまた似たようなことをノートに書き連ねている。自分について解説されているのがこそばゆいのか、清子はくすぐったさを我慢するような顔を浮かべていた。

 そして蓮乃は最後に(非常に余計な)一文を書き加えた。

 

 『あと、太ってるとこ』

 

 空気が凍った。

 

 そういえばキャラ付けなのか、「キクマル」はずいぶんと食い意地が張っている犬でもあったなぁ。半ば現実逃避で正太は無為な思考を進める。だが正太の思考の逃避行は、当人である清子の呼びかけによって中止させられた。

 

 「兄ちゃん」

 

 「なんだ」

 

  ひきつったような顔で正太はとりあえず返答する。清子はスマイリーマークも青ざめるような満面の笑みを浮かべた。

 

 「子供に躾って必要だよね!」

 

 その一言で正太の顔に疲労と頭痛を混ぜたような表情が浮かぶ。そして深く息を吸い、長いため息を付いた。ボケる清子とツッコむ正太。いつもと立場が一八〇度逆転している。

 

 「子供のやることだから、大目に見るんじゃなかったのか?」

 

 

 「わかってる。冗談よ、じょーだん」

 

 正太の顔と声は呆れたような色合いを帯びていた。文句ありげな顔をした清子は、蠅を散らすように手を顔の前で振った。

 表情と言動が見事に矛盾した清子の様子に、正太は小さく嘆息した。そして頬杖を止めると、不意に蓮乃へと向き直る。

 

 『そういうおまえは何なんだ?』

 

 『「サクラ」!』

 

 正太の手でノートに書き込まれた質問に、蓮乃は自信満々で答えた。 

 「サクラ」は主人公の片割れである「クロ」側の群を率いる雌シェパードで、物語における「クロ」のパートナーでもある。理想主義で潔癖なところもあるが、同時に愛情深く強い信念を持ち、弱い犬たちを守り率いる女傑なのだ。言うなれば「ノラとクロの物語」のヒロインの一人とも言えるだろう。

 

 そんな「サクラ」と自分が似ている、いや同じだとこの娘っ子は言っているのだ。そんな蓮乃は得意満面のドヤ顔で、自分の発言に一片の疑いもなさそうである。

 正太と清子の二人は一瞬視線を交わした。言いたいことが解るわけではない。しかし何をするかは判っている。伊達に生まれてから今の今まで家族として一緒に過ごしてきたわけではない。正太と清子はノートに同時に書き込んだ。

 

 『いや、おまえは柴犬の「風車」だな』

 

 『それか秋田犬の「ハチ」かもしれないね』

 

 「風車」は雌の柴犬の子犬だ。判りやすくアホの子で、自分のしっぽを追いかけるのが趣味でライフワーク。グルグル回っている様子から名前が付いたと番組のページに紹介されていた。

 もう一方の「ハチ」は雌の秋田犬。悪い奴ではないが基本的に間が抜けており、何かと「うっかり」をやらかすのが特徴である。

 詰まるところ、二人は蓮乃を「アホの子」「間抜けのうっかりさん」と表しているのだ。

 

 数秒ほど蓮乃の時が止まる。そして再起動と同時に、蓮乃の頬は焼き餅よろしく見事に膨れ上がった。その様子を見て大きな声で笑い出す二人。蓮乃の頬はさらに膨れる。

 

 『私あんなにバカじゃないもん!』

 

 ノートに刻みつけた反論も二人の笑いを増幅する効果しかない。膨れ上がった蓮乃の頬は、焼きすぎて破裂寸前の炙り餅だ。よく見れば目の端には涙がこんもりと小山を作っている。

 いい加減それを見咎めた清子は、正太に目配せして伝えようとする。だが蓮乃を指さして笑うのに忙しい正太に、気が付く様子はない。腹を押さえて体を折って、さらなる爆笑の準備を進めている。その有様をみて清子は顔をしかめる。いい加減にしなさいと、机の下で延びきった正太の爪先を、踵で踏みつけさらに捻り込む。

 

 「アダッ!」

 

 笑い転げる寸前の正太を、突如爪先を踏みつけられるような激痛(正太視点)が襲った。思わず痛みの声を上げて両足を引っ込ませる。位置関係的にも人間関係的にもやる奴は一人しかいない。やられた正太はやっただろう清子を睨みつける。が、清子はじっとりとした文句ありげな目で睨み返すと、蓮乃の方へと指を指した。

 一方の蓮乃は何が起きたか解らないと書いた顔でキョトンとしている。突然始まった夫婦ならぬ兄妹漫才に驚きを隠せない様子だ。だが、その目にはさっき流す予定だった涙がまだ溜まったままだった。

 蓮乃の顔を見ていい加減に事態を把握したようで、正太はばつ悪げ且つ不満ありげに清子を見やった。

 

 ――確かに蓮乃の涙を見逃したのは悪いが、それとなく伝えてくれるだけで良かったんじゃないか?

 

 正太は鬼瓦が拗ねた顔を清子に向けるが、知らぬ顔の半兵衛を決め込んだ清子は涼しい顔だ。なにせそれとなく伝えようとしたのに、全く気付きもしなかったのは正太の方なのだから。清子の素知らぬ態度に、正太は演技臭い大仰なため息を聞こえよがしについた。それを受けて、清子の眉が苛立ちからかわずかに上がる。

 すわ、家庭内冷戦勃発か? だが、二人の間にかかる鉄製カーテンは蓮乃の好奇心で輝く瞳によって除去された。二人を見つめる蓮乃の表情には、「ワクワクドキドキ」と刻まれている。二人の兄妹漫才がずいぶんと気に入ったらしい。

 無邪気極まりない蓮乃の視線にさらされて、正太と清子はお互いの顔を見合わせた。

 

 「……いい加減にしよっか」

 

 「……そーだな」

 

 次は何が起こるのか期待に胸膨らませる蓮乃を横目に、やる気や負けん気の削がれた二人はデタントに合意した。

 

 

 

 

 

 

 番組を見終え、(意図したものではないが)兄妹漫才を終えて、気づけばもう午後五:三〇の一〇分前。楽しい時間はいい加減終わり、残すは後始末と帰宅の時間だ。

 蓮乃は時間に気がついたのか、ノートやらペンやら手荷物をポーチに詰め込み始める。正太も小説をまとめて部屋へ持ち帰り、清子はカップを台所の洗い場へと持っていった。

 本をしまい終えた正太が居間に戻ると、一通り詰め込み終えたのか蓮乃がウサギ型ポーチのジッパーを閉じる所だった。正太は壁際に突っ立ってその様子を見ながら、今日は調子良さそうだなとぼんやり思った。

 昨日一昨日は帰宅の時間となると、こっちがびっくりするほど落ち込んでいた。それでいて親御さんである睦美さんが顔を見せると、途端に元気な様子を見せる。まるでスイッチを切り替えたか、何かしたかのように唐突にだ。理由は知らないし知る気もない。気にならないと言えば嘘になるが、清子の言うとおり他人様の家庭の事情に口を出せる道理も権利もどこにもない。それに自分たちがそれを知る必要性もどこにもないのだ。

 

 正太がぼけーっと蓮乃を眺めながら思考を進めていると、当の蓮乃が正太の方へと駆け寄ってきた。なんだなんだと蓮乃を見やる正太の前で、蓮乃はノートを広げて文章を見せた。

 

 『今日はもう帰るね。楽しかった! さよなら!』

 

 『おう、さよなら』

 

 どうやら帰宅の挨拶のようだ。蓮乃が手渡したペンを受け取り、正太も文の下に返答を書き込んだ。

 正太の文を見て蓮乃は満足げに頷くと、今度は片づけ終わって手持ちぶさたな清子の方へと駆け出した。

 

 『今日はもう帰るね。楽しかった! さよなら!』

 

 『うん、さよならね』

 

 正太の時と同じ文章を掲げて、さっさと清子とも帰りの挨拶をすませると、正太の前を横切って蓮乃は玄関へと駆けてゆく。その姿を清子が追って、同じように玄関へと向かった。

 蓮乃が出た後、玄関の鍵を掛けるのは清子に頼んでいいだろう。そう考えた正太は、壁に背を預けたまま清子が戻ってくるのを待とうとした。途端に耳に軽い足音が届いた。それも遠ざかるのではなく、近づいてくる足音が聞こえる。

 ちょっと早かないかと、正太の頭の隅に疑問が浮かんだ。疑問は直ぐに解消された。目の前を「蓮乃」が横切ったのだ。

 

 「え」

 

 予想外の光景に、正太の口から惚けた驚きの声が漏れる。目を丸くした正太に気づくことなく、蓮乃は庭に面した居間の窓を開くと縁側に腰を下ろす。さらに玄関から持ってきた靴を庭に置いて履き始めた。いそいそと靴に足をねじ込む蓮乃を半ば呆然と見つめる正太。

 

 ――え、なんで庭から?

 

 その横へと清子が急ぎ足でやってきた。正太と同様に、その顔には驚きの色が浮かんでいる。

 

 「蓮乃ちゃんは?」

 

 右足を靴に入れ終えて左足を突っ込み始めた蓮乃を、正太は声も出せずに指さす。それを見た清子は惚けたままの正太を後目に、テレビ横のメモとペンを掴むと蓮乃へ歩み寄った。

 蓮乃の後ろに付いた清子は、蓮乃の肩を軽く揺すった。厳しい表情に反して丁寧で優しげな揺すり方だ。肩を揺する感触に、蓮乃は振り返らずに反り返って清子に顔を向ける。それに合わせて長い黒髪が床に流れた。

 

 「ぬ~ぅ?」

 

 何を言っているのかは全く解らないが、とりあえず不思議がっていることだけは解る声を上げる蓮乃。その顔の前に短い質問を書いたメモを清子がぶら下げた。

 

 『どうして玄関から帰らないの?』

 

 それを見た蓮乃は、まず反っくり返った体を一八〇度ロールさせてメモに書かれた文に上下を合わせた。

 それからジッとメモと文面を眺めると、ウサギ型ポーチから引っ張りだしたペンでメモになにやら書き付けた。

 そして勢いを付けて縁側から庭へと立ち上がると、大きく手を振って宇城家一〇三号室と向井家一〇四号室を区分ける植木の間へ姿を消してしまった。

 

 この間わずか五秒足らず。正太と清子が何か反応する時間もなかった。呆気にとられたまま、窓の前で立ち尽くす二人。開いた窓から五月の薫風が流れ込み、二人の髪をわずかに揺らした。

 

 「……清子、メモ見せてくれ」

 

 たっぷり三〇秒はたっただろうか。先に呆けていた分、一足先に正気に返った正太が、清子にメモを見せるように促す。

 

 「あ、うん」

 

 その言葉でようやく我に返った清子が急いでメモの文面を表にした。短い質問の答えはさらに短かった。それを返答と呼ぶならの話だが。

 

 『またね!』

 

 二人は返答でない返答に頭を抱えて困惑した。蓮乃の行動に二人とも違和感を感じていたが、もうこれは違和感どころの話ではない。そもそも質問に答えていないのだから。

 

 「これ、どーしたもんだろ」

 

 「私に聞かれても困るよ」

 

 二人の間にもう一度、風が緩やかに吹き抜ける。穏やかで心地よいはずの五月の風は、ずいぶんと寒々しく感じられた。

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