正太の目の前では、一人の女の子が死んだように眠っている。とりあえず、口周りの髪が呼吸にあわせて揺れていることから、死んでいるわけではなさそうだ。美睡とでも言うのだろうか。女の子は五月の薫風を浴びて、心地よい眠りに浸っている。
正太は持ってきた小説を机の上に放り出すと、テレビの側から改めて、ソファーの上の顔をじっくり眺める。だが、その容貌は記憶にいっさい引っかからない。ただただ、すさまじい美人だとわかるだけである。
見た感じは、正太の妹より年下の小学校三~四年生くらいだろう。その年で、顔の印象が「かわいい」より「美しい」と出てくるあたり、何とも末恐ろしいものがある。自分と同じ人類とは考えづらいほどの美貌である。格好は肩を覆った若草色のワンピースだけで、アクセサリーの一つもないが、その麗しさに一切の不備はない。むしろ、下手なアクセサリーなど、彼女の優美を損なうだけだろう。
しかし、一体どうやって我が家に入り込んだのだろう。正太が疑問を感じながらぐるりと周囲を見渡すと、庭に面した窓が子供一人分くらい開いているのが見えた。しかもその周りには、見覚えのない子供靴が脱ぎ散らかされている。
――あれだ。母さん、居間の窓締め忘れたっぽい
このアパートの宇城家のある一〇三号室は、一階の庭付きである。そのため庭を囲う垣根を越えさえすれば、庭の側から簡単に進入できるのだ。
おそらくこの女の子は窓が開いているのに気づいて、ちょっとした冒険のつもりで入ってきたのだろう。そしてテレビ正面のちょうど日向になったソファーを見つけ、五月の陽気に誘われてちょいと昼寝と洒落込んだ。そして、帰宅した正太に発見されたというわけだ。
渋柿を口一杯に頬張ったような顔をした正太は、深いため息をついて呟いた。
「どーしたもんかね」
しかし、ぼやいたところでどうにかなるものでもない。となれば、どうにかするためにも、とりあえず女の子と事情を話すほかはないだろう。
正太はそこまで考えると
息を吸い込み、
口を開いて、
言葉に詰まった。
正太の声帯を急停止させたのは、持病に等しいコミュニケーション障害だった。正太は他人と話すとき、十分に覚悟を決め会話だけに集中して、ようやく実務的な話ができる。昔色々あってそうでもしないと、他人とまともに話せなくなってしまったのだ。だが、今回は急な事態が続いたせいか、初対面の人間と話そうとしているにも関わらず、そのことが頭からすっぽりと抜けていた。
これは拙いと考えるものの、頭の中はあっという間に漂白され、まともな思考は遙か彼方へ飛び去ってしまう。ただ頭の中で「何を?」という言葉だけが、ねずみ車のように空回る。焦りが焦りを呼び、何かを言おうと口を開くものの、視線はカーテンレールの辺りをさまよい、声にならない唸り声ばかりが口から漏れていた。思考は白一色に染まり、「何を?」という言葉と「まずい」という感情だけが、沸騰したお湯のようにブクブクと沸き立っている。
きっとこの時、正太の顔色を見ている人間がいれば、ずいぶんと笑えるものを見れたに違いない。何せ、人間の顔が赤、青、白、そして土気色へと変色する所など、そうはお目にかかれない。宴会に出れば大盛り上がり間違いなしの百面相だ。無論、出る予定の宴会などどこにもないが。
「んーーんぅーー」
そして正太の頭の中が混乱と混沌でグツグツに煮詰められている一方、ソファーで寝こけている女の子が、悩ましい声で寝言を呟いた。いや、寝言ではない。彼女の瞼がゆっくりとではあるが、見開かれていく。
その僅かに開いた瞼の隙間からは、濡れた烏羽玉の瞳が覗いている。寝起きのためか、その目は僅かに開くばかりで、視線は未だ夢の世界に焦点を合わせていた。
さらに彼女は、半ば寝ぼけた視線で周囲を見渡すと、他人の家だというのに何の慎みも感じさせない自然な様子で、気持ちよさそうな大欠伸をした。口を限界まで大きく開けて欠伸をする様は、よく実って裂けたザクロを思わせる。
「いぃぃぃっなぁぁぁぁっ」
そして寝起きの犬と同じ声が、喉の辺りから漏れる。彼女は緩やかに身を起こし、起きたばかりの猫と同じようにしなやかな伸びをした。同時にパキパキと背筋の間接一つ一つが伸びる音が響き、髪が彼女を薄衣の柔らかさで覆った。
ここまで来て、ようやく正太は再起動を果たした。正太のさほど性能が高くない脳味噌が、とりあえず現状に対処するため、無限ループを一時中断したのだ。
煮えたぎっていた頭は、知恵熱でも起こしそうなくらいに熱くなっている。正太は強く頭を振って熱を振り払い、焦燥感と疑問の残滓をはじき出す。そして目の前の問題、すなわち「何処の誰とも知れない美人の女の子」に向き直った。
*
「君は何処の誰さんですか? 名前を教えてください」
正太はまず質問をすることにした。
知らない人が家にいたらまず一一〇番をすべきだろうが、知らない子供ならばこう聞くのが道理だろう。だが女の子は右へ左へと、視線をふらつかせるだけで反応はない。話を聞く気がないのだろうか?
「あなたは誰ですか?」
先ほどより強い様子で質問する。が、やはりこちらの言葉を聞いている様子はない。視線が虚空をさまよっている。どうやら未だ夢の国から帰ってきていないらしい。
「あなた様はどちら様でしょうか?」
皮肉と苛つきを少々こめた三度目の質問。ようやく寝ぼけ眼の女の子は夢の国から帰ってきたらしく、こちらに視線を向けた。
彼女は黒真珠の目をパチクリと瞬かせる。その目には疑問がありありと浮かんでおり、とてもじゃないが現状を理解しているように見えない。
――外見がいいからって何でも許されるわけでもねぇぞコラ
「おまえ、誰だ?」
はっきりとした苛立ちを込めて、正太は叩きつけるように四度目の問いをぶつける。その声音に驚いたのか、女の子はビクリと体をふるわせると、慌てた様子でソファーの前の低い机に手を伸ばした。改めて見てみると、机の上にはウサギを模したポシェットがポツンと置いてある。サイズはB四の用紙程度で、色は実験動物のウサギを思わせる白だ。
彼女はそれを手に取ると、その中から小振りなノートを取りだした。ピンク色の表紙とページを強化紙のリングでまとめてある、そこらの文具屋で売っているような特徴のない代物だ。唯一の特徴として表紙には、おそらくは彼女の母親が書いたのだろう、「お話」と流麗な丸文字のタイトルがあった。
正太の顔に何とも表現しがたい表情が浮かぶ。無理矢理に表現するなら、「トーストにジャムのつもりで塗ったのが味噌で、しかも口一杯に頬張ってからそれにようやく気付いた」ような顔だ。
確かにこのくらいの女の子は、自分で創作したお話を書くことも、それを親しい相手に見せることもあるだろう。しかし、他人の家に侵入した後、その家人にそれを見せても悪い効果しかない気がするのだが。
非常に複雑な顔をして固まる正太に、彼女はノートの表紙を開いて見せた。そこには表紙と同じ筆跡で、こんなことが書かれていた。
『私の名前は”向井 蓮乃”といいます。
私は人の言葉を聞いたり喋ったりすることができません。
何かお話がある場合は、このノートに書いて伝えてください。
私のお家は、K県Y市実木区戸小三〇三ー二間島アパート一〇四号室です。
私のお母さんの電話番号は、〇九〇―*$%―YZABCです』
正太の表情がさらに形容しがたいものに変わった。先ほど同様に表現するなら「味噌が入っているはずのジャム瓶のラベルを見直したら、茶色絵の具と書いてあった」と言った所だろう。
予想を右斜め四五度で綺麗にかわす現実を見せられて、正太は唸った。
「う~~む。どーしたもんかね、これ」