帰宅の道は短いが長い。前者は距離的な意味で、後者は心理的な意味で。なぜならば、両手に吊した中身たっぷりな紙袋と買い物袋が物理的に重く、片側の紙袋を介した先のフワついた笑顔の娘っ子が気分的に重いからだ。いや、蓮乃の存在が心理的負担になっているわけではない。ただ、蓮乃のおかげで当社比十倍な周囲のなまあたたか~い視線が正太の気持ちをずっしりとさせているだけだ。
うわぁ、あの女子高校生ニヤニヤしながらこっち見てるよ。お母さん、子供の指さすの止めさせてください。ああもう、こんちくしょう。
正太の気分に合わせたように空は満天の曇り空。ビックバスケットに入ったときは晴れ晴れとした青空だったのに、出るときには分厚い積層雲が一面の空を覆い隠していた。朝の天気予報は杞憂ではすまないらしく、鉛色の雲は故事の如くに今にも落ちてきてしまいそうだ。家に着くまで持てばいいのだが。
心持ちも足取りもずっしりと重い正太は、肩を落として気分を落としながら歩みを進める。背中を丸め周囲の視線にビクビクと反応するその様は、罪を犯して逃走真っ最中の犯罪者を思わせる。おかげで取っ手を握る紙袋がついさっきかっぱらってきた盗品にしか見えない。これだけならば、善意の市民の通報を受けたお巡りさんに両肩を捕まれて、警察署でじっくりお話をするはめになるだろう。
そこで印象を変えてくれるのが片方の紙袋で取っ手を分け合っている蓮乃の存在だ。絹綿めいてふわふわと笑っている蓮乃のおかげで、正太の犯罪者臭さが程良く緩和されている。空模様とは真逆に「人生は素晴らしい」「なるようになるさ」と語っているかのように微笑む蓮乃は、正太のイメージを犯行直後の犯罪者から顔の悪いダメ親父に変えてくれる。
まあ、御年十四の正太にとっては全く持ってうれしくないのだが。それに周囲からの視線が「犯罪者へのそれ」から「ダメ親父へのそれ」に変わったところで、正太からしてみれば「毒劇物を糖衣錠にして飲みやすくした」程度の感覚でしかない。どっちにしたところで「前の一件」で対人恐怖症もどきな正太にとっては、周囲の視線で針山になるのは苦痛でしかないのだ。
だからといってこの場から逃げ出すわけにも行かないのが辛いところである。正直ため息を吐きたい心境ではあるが、隣で笑っている娘っ子の顔を曇らせるのもなんだ。ため息の代わりに泣き出しそうな空を仰いでしかめ面を浮かべるだけに留め、正太は帰宅の足を速めた。
足取りが如何に重くとも足踏みをせず足を進める限り、目的地には少しずつではあるが近づくものだ。正太の体感としては随分と長い、蓮乃的にはちょっと短い十数分を過ごし、正太と蓮乃は間島アパートの近くに達した。
あと少し、あと少しで楽しい時間もお終いだ。蓮乃は「まだ遊び足りない」と未練ありげな視線を向けるも、正太はそれに気がつけるほど鋭くはない。それに、気づいたとしても「いい加減にしろ」とにべもなく断るだろう。体力的より気分的な意味で、正太はとても疲れているのだ。
そんな正太にとって都合のいいことに、間島アパートの敷地出入り口近くに見覚えのある人影が見えた。二人の視線の先にあるのは蓮乃の母親である睦美の姿だ。だが、少しばかり様子がおかしい。何かを探し求めるように視線をせわしなく左右に散らしている。
「あ、睦美さんどーも!」
しかしながら、正太は僅かな違和感を覚えただけで、何も気にすることなく睦美へと声をかけた。自分としちゃありがたい限りだが、随分とお早いお帰りだこと。いつもなら五時半と相場が決まっているのにどういう風の吹き回しか。まあ仕事が速めに終わったんだろう。というか、職に就いている人間がそれ以外で早引きする理由なんぞ思い当たらない。
繰り返しになるが、正太は比べられたカタツムリが弁護士引き連れて直談判しに来るくらい鈍い。だから脳裏に浮かんだ疑問を、さほど考えることなく勝手な想像と仮説で埋めてしまった。
正太の声に気がついた睦美は二人の方へと視線を向けた。睦美はじぃっと正太を見、蓮乃を見る。正太の無意識に何かがふと浮かんで、捕まえる間もなく消えた。何だ、何か今あったような?
だが、心中の影を捕まえる間もなく正太の片手にかかる重量が増した。重さを増したのは紙袋の取っ手一つだけを掴んだ手の方。紙袋を介して蓮乃とつながっている方だった。
と、なれば下手人は蓮乃しかいない。正太は内心面倒を感じながら蓮乃の方へと顔を向ける。どーせ『まだ五時半になってない』って駄々をこねるんだろう。想像に過ぎんが確信は大ありだ。今までの経緯からして、蓮乃はしっかりと道理を通した説明の上でならば、素直にこちらの言うことを聞く。逆に言えばそれ無しでは、早々言うこと聞いてはくれない。訳の分からない蓮乃理論を並べ立て、頑強かつ意固地に抵抗するのだ。
ほら、子供の理屈で意地を張って頬を膨らませる蓮乃の顔が…………ない。
「オイ、蓮乃どうした?」
正太の視界に入ったのは蓮乃のつむじと垂れた髪、下がった肩。それだけだった。追記することがあるとすれば、落ちた肩はおこりを思わせる病的な震え方をしていたくらいだ。鈍い正太からしても異常であることは一目で見て取れた。
尋常な様子ではない。とにかく母である睦美さんに伝えねば。出入り口付近にいた睦美へと声をかけるべく正太は顔を上げた。だが声をかけるまでもなく、睦美は二人めがけて駆け寄ってくる。その顔を見た瞬間、睦美もまた尋常な様子ではないのがよくわかった。
青ざめたを通り越して土気色を漂白したような顔色に、異様な輝きを帯びた目が強烈に存在を主張している。整った顔立ち、白すぎる肌、固定された目が相まって、もはや怨念の生き人形としか思えない。美人が怒ると怖いと言うが、これほどまでとは知らなかった。お岩さんに恨まれた伊右衛門も、さぞかし生きた心地がしなかったことだろう。
二人の目の前に駆け寄った睦美は血走った目で正太と蓮乃を見つめてくる。正気と思わせてくれない視線は、小刻みに揺れて二人の間を揺らめいてている。睦美が息を吸った。間違いなく強烈なのが来る。来た。
「何で蓮乃が……家の子がここにいるんですかっ!?」
なんでって言われましても、買い物に連れて行ったからとしか答えようがないです。睦美の絶叫めいた非難の声に顔をひきつらせつつ、正太は胸の内で返答を返す。第一声で鼻っ柱に右ストレートをたたき込まれた気分だ。急展開の衝撃に脳味噌がオーバーフローを起こしている。頭の中がパニック一色に漂白される。叩きつけられたインパクトに両手から紙袋が滑り落ちた。一時停止ボタンを押したが如くに凍り付く正太を後目に、ヒステリックに喚く睦美は一方的に温度を上げてゆく。
「家から勝手に出ていいなんて一言も言ってないのに家にいなくて! 誘拐とか役所の人が連れて行ったりしたのかって本当に心配して! それなのに!」
金切り声に近い早口で、文句なのか心配なのか非難なのかよくわからない言葉を睦美は綴る。それを聞かされる正太は、マシンガントークに打ちのめされてグロッキー状態だ。脳味噌は完全にハングアップし、意識は遙かお空の彼方。隣で震える蓮乃のことを考える余裕なんぞ一ミリもない。
「何で勝手に外へ連れて行ったりしたんですかっ!」
――「勝手に」って、あなたが許可出したんじゃないんですかぁ!?
半ば反射的なツッコミが正太の脳髄をセーフモードに切り替えさせた。口から飛び出しかかったエクトプラズムを深呼吸と一緒に吸い込み直す。脳味噌に酸素と霊気もとい冷気が行き渡り、不完全ではあるもののある程度思考が回り出した。
ここで意識を失ったらお仕舞いだ。凍死寸前の登山者が体温維持のため歩き続けるように、正太はとにかく思考を回転させる。とりあえず今解ることは、睦美さんが狂乱と言えるほど怒り狂っているくらいだ。発言の内容を鑑みるに、蓮乃を連れ出したことについて怒り心頭のご様子らしい。加えて言うなら、睦美さんは「俺が」「勝手に」蓮乃を連れ出したとお考えだ。しかし蓮乃から今日の買い物については伝わって…………待て。
高速で空転する正太の脳髄に、違和感の小石が挟まった。こんだけ「勝手に」言っているんだ、睦美さんは今日出かける旨を知らないんじゃ無かろうか。だとしたら蓮乃の奴がちゃんと伝えて無かったのか。蓮乃は睦美さんの姿を見た途端に妙な反応をし出した。これが睦美さんを見たことにより、伝え忘れたことに思い至ったのだとしたら? ……十分あり得る話だ。と言うか他に答えが見あたらないし、考えつける余裕もない。とりあえず、と枕詞を添えた上で正太は行動に移すことに決めた。もう一度深呼吸の後、興奮のあまり血の気が引いた睦美に向けて口を開く。
「睦美さん、自分は昨日蓮乃ちゃんに「睦美さんから出かける許可をもらってくる」よう伝えました。この話は伝わっていませんか?」
「そんなことは聞いていませんし、そもそも許可を出すはずもありません! すぐに解るような嘘を付かないでください!」
間髪入れず絶叫めいた返答が投げ返された。嘘を付いた覚えはないが、睦美さんが話を知らないことは確からしい。驚き桃の木粉山椒だ。地口になっていない地口を腹の底で漏らしつつ、正太はいい加減思い出したように俯いたままの蓮乃へと視線を向ける。やはり目に入るのは頭頂部と黒髪と肩だけだ。いや、足元を見れば水たまりとすら呼べないサイズの地面のしみも目に入る。
もしかして泣いてんのか。そりゃ自分のミスで母親が怒髪天をぶち抜いているのだ。蓮乃ぐらいの年ならば泣きたい心境になってもおかしくはない。ただ、一人矢面に残されたあげく、おそらくは蓮乃の涙で誤解を加速させた睦美さんの相手をするのは俺だ。こっちだって泣きたい気分なんだぞ。
吐き出しそうになる愚痴と文句を無理矢理飲み干すと、正太は深く深く深呼吸をした。とにかく冷静に、冷静に。一緒にパニクったらどうにもならなくなっちまう。幸いというか何というか、目の前で睦美さんが大いにパニクってくれているおかげで、多少なりとも冷静さを維持しやすい。
これでこっちまでパニックに巻き込まれたらどうしようもない。美人親子と見た目不審者。警官は法に従うはずだが、心象は確実に外観によるだろう。一緒くたに半狂乱になっちまったら留置所素泊まり確定だ。五月といえどコンクリ剥き出しの床は冷たかろう。そいつはさすがに御免被る。
いくらか気分も心拍も落ち着いたことを確認し、正太はメモとペンを手に取った。正太の行動になにを思ったのか青筋を立てた睦美はなにやら口を開こうとする。だが機先を制した正太は「ちょっと待ってください」と待ったをかけて荒ぶる睦美を押しとどめると、俯いたままの蓮乃の肩を叩いた。
『蓮乃、ノート貸してくれ』
蓮乃との会話は障害の関係で基本的に筆談である。そして筆談に使っているのは正太が自宅から持ち出すメモを除けば、蓮乃が持つ「お話」と書かれたノートが主力だ。当然、ノートには今までの会話が書き込まれている。昨日の会話もだ。ならばそれを見せれば誤解はあっさり晴れるのだ。少なくとも正太が勝手に蓮乃を連れだしたという誤解は。
しかし蓮乃はむずがるようにポーチを抱きしめた。その中にノートがあるのだ。誤解を解こうとしているところに、蓮乃の誤解を深めそうなこの仕打ち。正太の顔がおおいに引き吊る。
『蓮乃。叱られるのがイヤなのはよくわかる、俺だってイヤだ。けどな、何か失敗したときはしっかり叱られて、なにを間違えたのか理解するのが大事なんだ。叱られたくないから「後で後で」ってやっていると、すごく大変なことになるんだぞ』
メモにペンを走らせ正太は蓮乃の説得にかかる。文字からすれば優しく諭しているようにも思えるが、正太にしてみれば必死の行為だ。実際こめかみには脂汗が浮いている。
何せここで誤解が加速すれば、パトカー呼ばれて手鎖留置所。仕舞いの果てには「特殊能力保有者専門学校」こと通称「特学」にたたき込まれる羽目になりかねない。その上「前」の時には幸運にも行かずにすんだ特学に行くとなれば、周囲の視線は純白より白く漂白されるに違いない。そうなれば残された家族は冷たい視線でできた針のむしろで日々を過ごすか、二度目の引っ越しをしなければならないだろう。
何の恩義も返せてないのに、そんなのは御免だ。ただでさえ「前の一件」であれだけ迷惑をかけたのだから。
だが蓮乃はポシェットをさらに強く抱きしめるだけだった。言葉は届かず万事休す。死角の睦美の気配が強まった気がした。こめかみから脂汗が滴り落ちる。メモの文字が手汗で滲んだ。
ああ、これから死の宣告が告げられるのだ。走馬燈めいて家族の顔が正太の脳裏に浮かぶ。今まで厄介かけてすみません、そしてごめんなさい。面倒をさらにおかけします。胸の内で正太は家族へと今までの、そしてこれからの迷惑を謝罪する。だがしかし、後ろからの声は正太の想像とは異なった。
「蓮乃、ノートを見せなさい」
蓮乃は障害の関係で言葉を聞き取ることができない。それでも睦美から発せられた異様なまでに落ち着いた声に、涙目の顔を上げた。先の狂乱を嵐とすれば、まるで凪の様に大人しい。
だが、「嵐の前の静けさ」という言葉があるように、大嵐の前には海は凪ぐものだ。睦美の声は表面張力の限界まで注がれたニトログリセリンを思わせた。一見したところは静かでも、ほんのちょっとのショックで致命的な爆発を起こすだろう。振り返れない、振り返りたくない。緊張に耐えかねたのか、知らず知らずの内に正太の呼吸も荒くなる。
「蓮乃?」
声音は静かだ。だがその下には溶岩が沸々と煮えたぎっている。意図せず正太はつばを飲んだ。蓮乃の態度にじれたのか、正太の横を通り睦美は蓮乃の斜め前へ出た。横顔は能面のそれだ。ただしその下には爆薬が詰められている。もはや問答は無用と、睦美の白い手が伸びた。
「っあ!」
驚くほどあっさりとポーチは蓮乃の手を放れた。いくらたおやかな女性の腕力であろうと幼女の力よりは格段に強い。仮にも主婦業をやっている睦美と、箱入り生活な蓮乃では両手の筋力が違うのだ。
睦美は奪ったポーチから会話用ノートを引きずり出し、指先でこするようにしてページをめくる。くだんのページに至ったのだろう、ページを手繰る手が凍り付いた様に止まった。睦美から発される雰囲気に飲まれたのか、思わず正太は荒い息を潜める。蓮乃は言うまでもなく、俯いたままで身じろぎ一つしない。数秒間、三人の時が止まった。
「……蓮乃?」
時間を解凍したのは、先と同じ睦美の問いかけだった。声もまた先と変わらぬ静かなもの。だが、雰囲気は似て非なる。強いて表現するならば、「ニトロに火のついたマッチが投げ込まれるのを眺めている」ような、破滅的な状況が止めようもなく起きかかっていることを痛烈に確信させた。
そしてそれが生じたのはわずか一瞬の後だった。
パンッ!
柏手を打ったような、しかしそれよりも大きい破裂音が周囲に響いた。音源は両の掌ではなく、睦美の手と蓮乃の頬。睦美が蓮乃を打ったのだ。理由も言わず、訳も告げずに。
睦美から平手打ちされた蓮乃は地面に視線を向けたまま、ただ呆然の顔をしている。そっと触れた頬はジンジンと痺れ、十を数えないうちにひりつく痛みが自己主張を始めた。正太にお叱りの拳骨をもらったときと同様、「打たれたという事実」の衝撃に蓮乃はただ打ちのめされて、茫漠とした無色の表情を顔に浮かべることしかできない。
一方、蓮乃の頬を張った睦美の視線は、彼女の心境のように不安定に震えて定まらない。平手打ちをした手も、破断点から水が吹き出して振動する配管の様にわなわなと細かく震えている。
「……何で嘘をついたの!? 何で勝手に家から出たの!?」
そして声は水門が破れたダムのように、感情がうねり溢れる激しいものだった。絶叫に近い睦美の怒鳴り声に、気圧された正太はたたらを踏んで二・三歩下がる。鬼気迫る形相で睦美は蓮乃の肩をつかむ。美人は怒ると怖いというが、元来の美貌と狂気じみた様子が相まって鬼も退く水準だ。完全に圧倒される正太の脳裏に「鬼子母神」という単語が一瞬浮かんだ。
そばで見ているだけの正太ですらこの様相だ。真っ正面からこの怒気をぶつけられる蓮乃の心境はいかほどか。おそらく泣いてわめく余裕もないのだろう。茫然自失という言葉そのままの表情で、サンドバックもかくやに睦美の怒声で一方的に打ちのめされることしかできない。
「何で…………何でお母さんの言うことを聞けないのよぉっ!?」
茫然自失で反応のない蓮乃に業を煮やしたのか、睦美は再び手を振り上げる。
これはいけない。このままじゃ拙い。危機感じみた感覚に突き動かされ、自身にも理由はわからないが「制止しなくては」と正太は声を出していた。
「あ、あの~」
出た声はこの様だったが。さらに言うなら、視線は微妙に睦美を外れて周囲をさ迷い、顔も睦美ではなく斜め右下の辺りに向けられている。この様を見たのが平時の正太でも、無様の一言しか出てこないだろう有様であった。
まあ、睦美の雰囲気に完全に圧倒されていたのを考慮するならば、多少は仕方のない話かもしれない。加えてここ数年、長年暮らした家族と最近出会った蓮乃を除けば、他人様とまともなコミュニケーションをとった覚えがまるでない。これらを鑑みれば、正太にしてはよく頑張ったといえるだろう。他人を制止するという目的に、全く持って不十分である点に目をつぶればの話だが。
それでも多少の効果はあったようで、ようやく存在を思い出したように睦美は正太へと視線を向ける。大理石のマスクめいた顔から発せられる視線の奥には、わずかながら正気の色がちらついている。
「その、ええと、あの、ひっぱたくのはちょっと……」
ここぞと正太は睦美へと声をかける。かける言葉は笑える様だが、コミュ障気味な正太にしてみれば勇気とか気力とか根性とか、そのほか諸々を込めている。正太の情けない、それでも色々振り絞った台詞に何かを感じたのか、睦美は振るった手と蓮乃の顔を繰り返し見やった。赤く腫れた蓮乃の頬と自分の手、叩かれた娘の顔と叩いた己の掌。自分のした、そしてしようとしたことを確かめるように、二度、三度、四度。唐突に睦美の瞳に光が戻った。
「ご、ごめんなさい! 娘の嘘のせいでご迷惑をお掛けしたあげく、勝手な疑いをかけてしまって!」
遅刻に気がついた学生もかくやで表情を変えた睦美は、これまた上司に遅刻を報告する新入社員を思わせる勢いで繰り返し頭を下げる。米搗きバッタの勢いでお辞儀を連発する睦美に正太の方が唖然とする始末だ。
「すみません! 本当にご迷惑をお掛けしてすみません! これで失礼します!」
水飲み鳥の様相で頭部を上下させる睦美は蓮乃の腕をつかむと、呆然とした正太を後目に引きずるようにしてアパートの敷地内へと去ってゆく。引きずられる蓮乃は声も上げずに下を向くばかり。濁流のような状況に振り回されてその気力もないのだろうか。抵抗はもとより反応する様子もない。
いや、蓮乃が正太へ視線を向けた。ここ数日で何度となく見た切れ長の瞳は、溢れる涙で満ちている。涙の玉をこぼす目が、縋るように正太を見た。あるいは助けを求めるように、救いを求めるように。そんな気がした。でも正太は中途半端に手を伸ばしただけだった。声にならない声が正太の口からわずかに漏れた。
「あっ……」
文字通り「あっ」という間に、正太は間島アパート敷地入り口前に一人取り残された。まるで夢か幻の如く二人は姿を消した。別に消えて無くなったわけじゃない。単に自宅へ帰っただけだ。だから、何か言いたいことがあるなら追いかけてインターホンを鳴らせばいい。けれども正太はアパート前から一歩も動かなかった。
――どんな声をかければいいのかわからなかったから?
――余所様の家庭のことだから口出し難かったから?
――何故に? どうして?
自分でも解らない疑問が脳味噌の中でぐるぐる回る。空転する正太の脳髄を冷やすように、ぽつりと頭に雨の滴が落ちた。僅かに顔を上げれば、空から降る雨粒が目に入る。予報では五時半過ぎからと聞いていたが、曇天の空はすでに泣き始めている。何の気無しに足下を見ればビックバスケットの文字が印字された紙袋に、滴が当たって弾けるのが見える。文字が印字された紙袋からはみ出た徳用煎餅の袋へと水の滴が流れ落ちた。
半ば茫然自失の体で正太はぼんやりと紙袋を眺める。撥水処理のされた紙袋だから多少の防滴能力はあるが、雨にさらされればそう長くは持たないだろう。徐々に強まる雨に濡れながら、納豆よりぐちゃぐちゃにかき混ぜられた思考を無理矢理絞り出した。
「一体全体何がどーしたっていうんだよ……」
雨足は段々と勢いを増している。予報によれば雨はしばらく続くらしい。