二人の話   作:属物

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第八話、親子の話(その四)

 唐突に響きわたったチャイムの音に、家人の長である睦美は腰を上げた。『少しだけ待っててね』とノートに一言書き加えると、客を待たすわけにはいかないと玄関に小走りで向かう。確かに向井家の大事なところではあるが、それはドア向こうの客人には関係はない。急いで突っかけ代わりのサンダルに足を突っ込み、ドアの取っ手を捻る。

 

 「こんばんは。お忙しいところ失礼します」

 

 開いた扉の向こうには、骨に皮を張って作ったような薄髪の男性に、風船に肉を詰めて作ったようなパーマ気味の女性。目礼をする二人の名前は”宇城明弘”と”宇城昭子”。すなわち宇城正太の両親であった。

 

 「え」

 

 発想も想像もしていなかった両親の登場に、正太の口から顎と声が落ちた。二人は驚愕の余り凍結中の正太へ一瞬視線をやると、堅い顔で改めて睦美へと頭を下げる。

 

 「家の正太がご厄介になっているようで申し訳ありません」

 

 なんで、なぜ、どうして?疑問符が意識のスタートボタンを押すや否や、後れを取り戻そうとニトロを注ぎ込まれた時間感覚が急加速する。それにあわせるように、思い出したくもない記憶が自動的に再生されていく。血液を全て鉛に変えられたかのように停止する身体に対して、脳裏で閃光のように最低の過去が明滅を始めた。

 

 ――雨に濡れたオレンジの傘

 ――頭から血を流している思い人

 ――聞こえるように呟かれる陰口

 ――頭上からぶちまけられた泥水

 ――校舎裏のサッカーボール体験

 ――重苦しい顔で満ちた生活指導室

 ――そして心痛そのものの表情をした両親

 

 あの日の両親と目の前の二人が完全に一致する。正太の顔色は赤青白そして土気色と百面相の装いを見せた。とてもじゃないが蓮乃を笑えやしない。俺は何をやったんだ?俺は何をやらかしたんだ?白く染まった正太の脳裏に清子の言葉が瞬く。

 

 『あんな目にあっても、家族みんなに迷惑かけてもまだわかんないの!?』

 

 前の一件で自分勝手の代償をたっぷり味わい、いい加減に学んだはずだった。それでも蓮乃を放っておけず、無関係でもよかった隣の家庭事情に首を突っ込んだ。その実、自分に酔って独り善がりにヒーロー気取って、挙げ句の果てが目の前の両親。学んだつもりで何も学ばず、二の舞演じて轍踏んで、同じ様の繰り返しか。

 

 「と、父さん、えっと、あの、母さん、その」

 

 とにかく何か言わなければ。でも何を言えば?言葉にならない声をこぼしながら、正太はパニックに溺れる意識を回そうと必死で試みる。だが混乱の大嵐にもがく正太を父は重い声で切って捨てた。

 

 「正太、話は清子から聞いた。先に家に戻っていなさい」

 

 「えぁ、あ………………はぃ」

 

 ただの一言で打ちのめされた正太は、まともに言葉も返せずにうなだれた。首肯代わりに肩を落とし血の気の失せた顔を床に落とせば、フローリングの木目すら自分を嘲う顔に見える。

 

 「なーう……」

 

 その耳に気遣わしげな蓮乃の声が届いた。顔を向ければ心配と書かれた表情の蓮乃がこっちを見つめている。蓮乃の目には落とした肩にうなだれた首、顔を落とす前の表情が見えた。さらに耳には絞り出したような声と喘ぐような息が響く。どれからもこれからも正太の具合は格段に悪く感じられた。きっと母である睦美にひっ叩かれた時よりも調子が悪いに違いない。自分も母に叩かれたときは地面の底まで気分が落ち込んだのだ。きっと兄ちゃんもすごくやな気分だろう。

 

 目に映った不安げな蓮乃の顔が、正太のちっぽけな矜持を蹴り上げた。大失敗をやらかしたのか、大失策をしでかしたのか、自分が何をしてしまったのかはまだわからない。それでも蓮乃を助けたくて動いたのは確かだったはずだ。その裏側に何があったにせよ、こいつを不安がらせていいはずも無いだろう。なにより助けにきた相手に心配されてちゃ世話がない。

 青ざめ震える唇をつり上げ、根の合わぬ歯を剥いて見せる。意地と気合いとやせ我慢を総動員して、正太はひきつった笑みを蓮乃へ返した。空元気でも元気の内、作り笑いでも笑顔の一つ。無理矢理に浮かべた笑みでも多少の効果はあったのか、蓮乃から滲む不安の色が多少は薄まった。

 それを見た正太は残りの気力を総ざらいして背筋を伸ばし胸を張る。ヒーロー気取りで首突っ込んだのは確かに事実だ。だったら最後の最後まできっちり格好付けて見せるのが最低限の義務だろう。丸まりそうになる背中を腹筋を締めて堪えながら、正太は最後まで意地と胸を張って一〇四号室の扉を抜けた。

 

 

 

 

 

 

 夕日は地平線の下へと姿を消し、既に夜の帳が空を覆っている。点灯したばかりの街灯を背中に、一〇三号室の扉を後ろ手に閉めると、正太は上がり口の床に両膝をついた。痺れを伴う衝撃が膝間接から大腿骨を勢いよく駆け抜けていく。衝撃由来の膝蓋反射で意図せず正座を作るも、正太は重力に身を任せるままにイスラム式礼拝の体勢に崩れ落ちた。

 蓮乃の前では格好悪いところ見せられんと破裂寸前まで気を張って、正太はドアを閉める所まで格好付けて見せた。つまり、逆に言えば蓮乃の居ないところではガスの抜けた風船の様となるわけで。事実、ここ数時間の消耗で正太の気力活力精神力の悉くがガス欠状態。とどめの両親登場で精神自体もスクラップのそれだった。

 ゾンビより生気のない正太は、死体の様でしばらく床の上で充電を試みる。しかし腹の底の熱量は既に底をついている。燃料タンクの中身が増える様子は全くない。どうしようもないしょうがないと、しょうもない気分でものぐさに足首だけ動かして靴を脱ぎ捨てる。そして正太は尺取り虫の要領で前進を始めた。

 尺取り虫は廊下を通り過ぎて居間へと至り、部屋の真ん中で表裏をひっくり返すと、そのまま天井のシミを数える重労働を始めた。脳味噌を振り絞って脳味噌を使いつぶそうとする自己矛盾な作業に従事する。そうでもしなければわき上がる不安と自己嫌悪に潰されそうだからだ。

 そうして虚ろな目で単位面積当たりのシミを計算する正太を、妹である清子は椅子に腰掛けたまま絶対零度の視線で睨みつけていた。石地蔵の仏頂面に明王の憤怒相を滲ませたながら、憤り五割苛立ち四割そのほか一割の皮肉を投げつける。

 

 「勝手にした結果は随分だったみたいね」

 

 清子からしてみれば正太は自分の言葉も聞かず前の失敗からも学ばず、ヒーロー気取りでお隣の家庭問題に首突っ込んだ大バカ野郎である。その結果で精神的にぶちのめされて死にかけているというなら、自業自得としか言いようがない。だが、清子の顔に浮かぶのは嫌う相手の失敗を喜ぶ、暗い優越感と冷ややかな侮蔑ではなかった。

 腹立たしげに細められた目の上にはしわの寄った眉根が座り、苦り切った口元は見事なへの字に歪んでいる。誰が見ても一目瞭然のしかめ顔であり、どこか苦痛にも似た苛つきの表情が正太を睨みつけている。

 天井を見つめる作業に大忙しの正太にそんな清子の表情が見えるはずもなく、エクトプラズムと一緒に疲れ切った返事を口から漏らした。

 

 「……まぁな」

 

 ガス抜けした過発酵パンよろしく平たくなった正太と、発酵不足な固パン擬きな清子。居間の空気は弛緩と緊張の微妙なグラデーションを描く。ヤジロベエめいた不安定な安定が、二人の間に奇妙な静寂を保った。それはしばらく維持された後、唐突な清子の声で破れた。

 

 「あたしは謝んないからね」

 

 清子が吐き捨てた謝罪の反対が、不意に正太の耳に飛び込んだ。その声に疲れ切った脳味噌は違和感を覚える。正太は謝罪にもその反対にも覚えがない。自分がするなら別だし、それを要求されるならわかる。少なくとも自分は、清子の助言と小言を無視して突撃したのだから。しかし、清子が口にしたのは詫びの否定だった。

 

 「……何のこと?」

 

 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。自分で調べるのが一番だが、知らないままにしておくより万倍マシだ。それに今の脳味噌で清子の内心を言い当てるなど、フルマラソンを完走するより難しい。先より随分と間が空いて、そっぽを向いた清子の口から解答がこぼれ出た。

 

 「父さんと母さんに話したこと」

 

 清子は確かに「もう何も関係する気はない、勝手にしろ」と切って捨てたが、それでも家族相手には捨てるに捨てれぬものがあるわけで、実際帰宅後の両親に事細かく事情を説明していた。

 両親に事情を伝えれば当然、向井家にお邪魔するだろう。なにせ自分が叱咤したように余所の家庭のことであり、現在進行形で兄は勝手に首を突っ込んでいるのだ。兄の行動が上手くいくかどうか別にしても、話をせずにすますわけにはいかない。扶養家族の責任は保護者が取るものなのだ。前の一件で兄が一番気に病んでいたことは両親に迷惑をかけたことだった。その割には今回もやらかしているが。

 そして両親が姿を現せばどうなるか。半死人というか七割五分死んでいる兄が証明している。こうなることを想像しなかった訳ではない。最初は阿呆な兄にはいい薬だと考えていたが、結局自分も口に苦い罪悪感を味わう羽目になった。

 

 「……悪いの俺だし、別にいいよ」

 

 罪悪感と後悔と苛立ちと怒りの入り交じった、複雑きわまりない清子の返答に、正太は気のない様子で気の抜けた返事を投げ返した。正太からしてみれば間違っていたのは紛れもなく自分の方だ。確かに結果としては偶然と向井家親子の絆に恵まれて、どうにかこうにか奇跡じみた結果を指の先にひっかけられた。

 だがそれは文字通り結果論にすぎない。清子の叱責は的を射ていたし、妹の怒りはもっともだ。ほんの一つボタンを掛け違えていれば、ほんの一歩踏み込み方を間違えていれば、見るも無惨な結果を招いたに違いない。自分はその一・二歩手前まで足を踏み入れていた。単に自分は幸運だっただけだ。

 

 正太の肯定に清子の胃の腑の底が罪悪感と嫌悪感で疼く。求めたはずの返答はさらに気分を悪くしただけだった。渋面に苦色を加えて、眉根のしわをさらに深める。さらに何かを口にしようと唇を開いて、すぐに閉じた。

 もういい。何を言おうと何を聞こうとひたすらに嫌気が増すだけだ。言葉になる前のあやふやなイメージが舌の上で落雁めいて崩れる。それは後味まで落雁に似てどこか粉っぽく喉に引っかかった。吐き気にも似た不快感を手で押さえると、清子は勢いよく席を立った。

 

 「トイレいってくる」

 

 誰ともない宣言とともに、清子は居間を後にする。その背中へあいよと返答になってない声を返し、正太は天井のシミを一から数え直し始めた。

 

 

 

 

 

 

 どれだけ時間が過ぎたのだろうか。窓の外は夜闇に塗りつぶされて久しい。とりあえず、宇城家の平均的な夕食の時間はとうに過ぎているだろう。天井のシミを三度数え終えて個数どころか正確な位置関係まで記憶してしまった正太は、疲れ切った脳味噌にムチ打ってやることないかと絞り出そうとする。

 空白の時間はよろしくない。小人閑居して不善をなす。人間、暇になればなるほど余計なことを考える。賢人ならば哲学のように進歩につながったりするが、自分のような愚人は自己嫌悪と自己批判ばかり。後ろ向きに突撃ススメで崖に向かって一直線。こうして気づけば自滅思考にどっぷり浸かり、自縄自縛で自爆しそうだ。

 乾いた笑みを浮かべて、喉の奥で痙攣するように己を嗤う。漏れ出す失笑は嘲笑に、嘲笑は哄笑にと三段高笑いの要領で、笑い声は無意味に音量を上げていく。しかし、それは扉の開く音に急停止した。

 

 耳に響いた「ただいま」の声に、正太の冷笑が凍り付いた。自嘲の化粧で繕おうと、自身も騙せぬ三文詐欺師。冷たい現実見据えてみれば、震えてはがれた地金が見える。油の切れた首間接を捻れば、玄関口には両親が見える。両親と正太の視線が交差するが、正太はすぐに目線をそらした。顔を背けた正太に父からの重い声が投げかけられる。

 

 「正太、清子を呼んでくるから椅子に座って待っていなさい」

 

 口の中で半分噛み潰されて聞き取りづらい「はい」を返し、正太はもそもそと椅子に腰掛ける。その姿を一瞥もせず、父は清子を呼びに居間を出た。一方、母は茶の用意でもするのか台所に入る。

 不安と心配に胃袋の底をヤスリ掛けされている心地で正太は二人をじっと待つ。祭りの前が一番楽しいと言われるように、叱責前の待機時間ほど神経を痛めつけるものはない。何を言われるのだろうか、何を叱られるのだろうか。拳骨は何発いただくのか、説教は何時間続くのか。

 いっそ、台所の母に麺棒かフライパンあたりでタコ殴りしてもらった方が楽じゃないか。死ぬほど痛いだろうがそれで最後ならマシな気がする。もしかしたら最後を飛び越えて最期に行ってしまうかもしれないが、それはそれでもう苦痛を感じることはないだろう。

 じれる気持ちに脳味噌まで焦げ付き始めたのか、正太の思考は本末転倒な方向へとかっとび始めた。割腹は伝統的な謝罪スタイルだが、介錯人がいないと死ぬほどつらい。どっちにせよ死ぬけど。ギロチン台はスピーディなエンターテイメントだけど、用意が大変だ。ああ、どうしたら楽に死ねるのか。

 

 「これ、とりあえず飲みなさい」

 

 ぐるぐると冥府の方角に転がっていく頭を止めたのは、軽い音と共に正太の目の前に置かれたマグカップだった。中身の豆乳からは独特の臭いと一緒に湯気がふわりと立ち上っては消えていく。顔を上げれてみれば、堅い色をした丸い母の顔が目に入った。台所でやっていたのはこれの用意だったようだ。

 

 「……いただきます」

 

 返答を兼ねた挨拶を返して、正太はマグカップに口を付けた。いつもの味が適温で口の中に広がる。喉を鳴らして頬張った豆乳を飲み干すと、食道から胃袋へと温みの固まりがとろけながら落ちていく。思わず口から熱を帯びた吐息が漏れる。体中に広がっていく熱で、ようやく全身が冷え切っていたことに気がついた。考えてみれば帰宅以降、何もまともに口にしてはいなかった。吐息と共に肩を動かせば、乗っかった疲労の重さがずしりと身に染みる。凍えて、飢えて、疲れ切っていたのだ。緊張と衝撃のあまり認識すらしていなかった。

 半端に胃に物を入れたせいか、強烈な空腹感が腹の底をひっかいてくる。胃袋の求めに逆らわず、正太はマグカップの残りを勢いよく喉に流し込んだ。暖かな豆乳が胃を満たすにつれて、気がつかない間に強ばりきっていた全身が弛緩していく。胃袋から血管を通して伝わる熱に、筋繊維の一本一本がほぐれていく。豆乳の白髭も拭わずに空っぽになったマグカップを食卓に戻すと、満足の色が混ざった長く深い息を吐き出した。

 強ばっていた正太の身体が緩むのを見て、母の表情も柔らかさを取り戻した。ゆるんだ緊張の糸の間から、心配をかけていたんだなという気持ちがうすぼんやりと浮かび上がる。外から見てみれば、老人並に丸まった背中に、気力の一切が昇華したフリーズドライ顔。両肩は外れて地面にめり込みかねないほど落ちていた。百人が百人とも「元気がない」としか言えない様だった。これを見て心配しない親はいないだろう。居るとしたらもう親ではない。

 いくらか薄らいだとはいえ心配の色が見える母を、もう少し安心させる意味を込めて、正太は空のカップを高めに掲げた。

 

 「母さん、お代わりできる?」

 

 「はいはい。でもその前に顔を拭いなさいよ」

 

 苦笑と共にカップを受け取ると母は軽い歩調で台所へと帰っていく。上唇を指で拭うと指に黄みのかかったおぼろ豆腐擬きがくっついた。品無く白い指先を舐ると、湯葉のなり損ないが口の中で柔らかく溶ける。

 ほんとに腹減ったなぁ。改めて正太は空腹を自覚する。説教はどのくらいになるのだろうか。早めに終わってすぐに夕食になってくれるとありがたいんだが、やらかしたことがやらかしたことだし流石に無理だろうな。

 正太がため息を吐こうとしたところで、目の前に豆乳の注がれたカップがずいと突き出された。お代わりを予想して用意していたのだろうが、随分と早い。驚きを込めて母を見ると、正太にも遺伝した細目がじっとりと細められている。行儀が悪いと非難する目だ。ばつ悪げに肩をすくめて二杯目の豆乳に口を付けようとする。しかし、それとタイミングを合わせたように居間に姿を現した木石顔の父と仏頂面の清子を見て、正太は不満げに、そして不安げにカップを机へ戻した。

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