「どーしたもんだろ」
いつものぼやきで正太の意識は過去から今へと帰還した。しかし現実に戻ったところで、過去と現状にはさほど変わりはなかったが。
「う”~~に~~!」
「チッ!」
敵意の眼差しで唸り歯を剥く蓮乃に、蔑みの目で舌打ち地面を蹴る少年。そして重くなりすぎて固体と化しつつある空気。先の焼き直しが再び始まった。違いは蓮乃の発する声か。徒労感が正太の表情に混じる。こいつら放っておいたら何時間でもやっていそうだ。実に埒が開かない。さて、どーしたものか。
顎下の肉を揉みつつ、正太はこれからを思案する。が、不意に背中から後方へ力を加えられて、思考は唐突に中断させられた。意識外のベクトルに思わず正太はたたらを踏む。正太の後ろには一人しか居ないわけで、当然容疑者は一人しかいない。何をするんだという目つきを後ろ斜め下に向ければ、想像通りぐいぐいと服の裾を引っ張る蓮乃がいた。
「服が延びるぞ、急になんだ一体」
「なもっ!」
聞こえないのは理解しながらも、延びるから辞めろと言外に込めつつ正太は声を送る。蓮乃を見れば片手で正太の服の裾を掴みつつ、残りの手で「となりまち図書館」の煉瓦文字を指している。正太の想像とは異なり、蓮乃も埒が開けられそうにないと理解していたらしい。
正太は顎の贅肉を揉み直しつつ、思案をし直す。少年を放り出すのは多少思うところもあるが、蓮乃とのコミュニケーションに必須な文房具の一つも出さない向こうさんにも問題がある。ペンもノートも用意しないあたり、蓮乃へ嫌がらせでもする目的なんだろうか。なら、さっさと離れるが吉だろう。
正太が確認の目線をやると、蓮乃は「んっ!」と声を上げて大きく頷く。正太もそれを理解したとの意味を込めて首を縦に振った。言葉もなく二人の意志が交わされる。
「じゃぁ……」
「アンタ、何だよ?」
正太が合図代わりに蓮乃に声をかけようとした瞬間、目の前の少年が声を上げた。声の向かう先は、先から睨みつけている蓮乃ではない。敵意と蔑みをぶつけ続けている正太の方だった。
ようやくまともにコミュニケーションをする気になったのだろうか。しかし正太が見る限り、友好的な交渉を行う気はなさそうだ。正太に向けた舌打ちと地面蹴りを止めるそぶりはない。それどころかその数がいきなり増えて、目つきの険がさらに増している。全身から発する反感が倍増しているのかと思うほどだ。
--こんな態度の相手と何を話すんだ?
そうやって正太がげんなりした顔で少年を見ていると、手首にはまった赤銀色のブレスレットが光を反射した。正式名称:特殊能力確認用携帯機器こと、魔法使いの象徴である「腕輪」だ。ならばファッション目的で違法な類似品を身につけているのでもない限り、目の前の少年は魔法使いだと言うことになる。
正太が「訓練所」と「月検診」以外で、日本人の魔法使いを見たのは蓮乃が初めてだった。それから僅か一月で二人目を目にすることとなったわけだ。やっぱり蓮乃は変な引力でも発揮しているんじゃなかろうか。微妙な顔の正太は、奇妙な巡り合わせに珍妙な縁を覚えた。
それと同時に正太には、少年がどうにも悪意満点な理由の一端が理解できた気がした。以前、正太は「魔法は力である」と蓮乃に説明した。例え棒きれ一本と本気の殺意一つで容易くひっくり返せる程度であるとしても、それが力であることに違いはない。少なくとも他人を負の感情だけで大怪我させられるような代物であることは確かである。しかも理由もなく理屈もなく唐突かつ突然に手渡される力だ。それを手にした人間が、自分の特別さに酔いしれることは枚挙に暇がない。
そして自信と過信で自己中毒、略して自己中になった人間がどうなるか。正太はイヤになるほど知っている。なにせ正太もかつてその一人だったのだから。目の前で悪意過剰積載の目を向けてくる少年に、かつての自分が重なる気がして、正太の表情がさらなるげんなりに彩られる。思わず吐き出す言葉まで、コミュニケーションへのやる気が失せてしまっているほどだ。皮肉なことにそのお陰で、常なら詰まり気味な正太の口は意外と滑らかに動いた。
「なんだよと言われてもな。見ての通り、人間の男としか言いようがない」
「ふざけてんじゃねぇ、デブ野郎! ハダカザルが何様のつもりだよ!」
正太の疲れ切った言葉で堪忍袋が破れたのか、少年が大声上げて怒鳴り散らす。目尻をつり上げ歯を剥き出し、今にも飛びかからんばかりだ。羽でも生えてそうな天使の顔つきのくせに、角が生えてきそうな悪魔の形相をしている。口から出る言葉も悪魔らしく、毒が滴り落ちるような耳に悪い罵声である。
少年の悪罵を聞いた正太は、咄嗟に蓮乃へと視線をやっていた。脱出を邪魔されてさらに頬を膨らませた蓮乃は、威嚇の表情を崩してはいないが、何を言われたか理解はしていない様子だ。蓮乃は障害のために他人の言葉を聞き取ることができない。だから取り敢えず「やな奴が大声で怒鳴った」としか判っていない。安堵の息を吐いた正太は、蓮乃に悪いが蓮乃が言葉を聞き取れないことを、八百万の神々とお釈迦様に心底感謝したくなった。
ハダカザルなんて言葉を聞いて欲しくないし、覚えられるなんて以ての外だ。そしてそんな言葉を当たり前のように吐く奴とコミュニケーションをとる気など綺麗さっぱりなくなった。
呆れかえった正太は、少年と同じく「腕輪」のはまった右手を、少年の眼前に突き出して揺らした。その顔には明確に蔑みの色が混じっている。想定外の事実に、少年の目が大きく見開かれた。
「ハダカザル」とは魔法使い優越主義者(通称:主義者)がよく使う悪罵の一つだ。主義者が魔法を使えない普通の人間に対して使う蔑称で、魔法使いは進化した人間であり、魔法を持ち得ないただの人間は進化できていないサルと同じ、というような意味の罵倒語彙だ。
それを魔法使いである正太に口にしていた矛盾に気がついた少年の顔に、恥を感じた表情が浮かぶ。やらかしてしまったと少年の視線が虚空を泳いだ。だが、自己中毒が内省と自省へ麻酔作用を及ぼしたようで、即座に怒りの顔に戻る。反省の色を即座に塗りつぶした少年へ、うんざり顔の正太はため息代わりの返答をこぼした。
「ふざけるも何も、そっちがまともに話をする気もないのに、俺たちが一々きっちり答える筋もないだろ」
「いいから答えろ!」
侮蔑混じりの疲れた顔で正太が発した理屈に、少年は怒りの感情を吐き散らして返答を求める。腹立ちを排出すべく正太はことさら大きくため息を吐くと、半眼で少年を見つめた。
「だったら最低限、質問の内容を明確にしてくれ。で、何について聞きたいんだ?」
「そんなのもわかんねぇのかよ? アンタ頭大丈夫か?」
なるほど、目の前の少年は自分たちと話をしたいのでも、質問の答えを聞きたいのでもないようだ。自分にとって都合のいいお話を、相手が自ら口にしてくれるものだと思っているらしい。
思う存分に軽んじた表情を浮かべる少年を、正太は哀れみ混じりの顔で見つめる。正太を小馬鹿にする目の前の少年は、最早正太にとっては単なる馬鹿にしか見えない。
「ご心配ありがとう。少なくともお前さんよりは大丈夫だよ。話す気がないんならここらで失礼。それじゃあな」
ならば話をしようと考えるだけ時間の無駄だ。そう結論づけた正太は吐き捨てる言葉で話を打ち切る。正太はコミュニケーション障害の気があるが、それは「嫌われたくないと」「つっかえないように」「意識をしてしまって」話すからだ。嫌われても構わない相手にぶつける感情的な言葉ならば、正太の口は問題なく滑らかに回る。
続いて、未だ威嚇を続ける蓮乃の肩を軽く揺すった。「待ってました!」と書かれた顔で見つめる蓮乃に、正太は了解の意味を込めて頷いてみせる。途端に蓮乃は正太の手を握り、散歩に飛び出す犬の勢いで駆けだした。どうやら蓮乃の方も随分と辟易していたらしい。引っ張られた勢いでもつれそうになる足をどうにか調整しつつ、正太も小走りで蓮乃の速度に合わせる。呆気にとられた少年の横をすり抜け、二人は「となりまち図書館」へと走り出す。
「待てよ、オイ! 何やってんだよ!」
その背中を焦りに焦げ付いた声が追いかけた。正太が首だけ振り返って見てみれば、泡を食った少年が大慌てで走り出すところだった。正太の手を引く蓮乃にも少年の声が聞こえたらしく、少年に向けて上半身だけで振り向く。そして繋いでない手で下まぶたを引き下げて、ついでに血色の良い舌を大きく出した。舌とまぶた裏の赤が、流れる血のごとく白い肌に鮮烈に浮かび上がる。つまり単なるアッカンベーである。
首を戻してそれを見た正太は渋い顔を浮かべる。確かにこの少年もといクソガキは少なからず腹立つ奴ではある。だが、嫌いな相手だからといって自分から挑発するのは問題ありだ。しかし、自分も自分でクソガキに色々言っているし言える立場ではないのかもしれない。でも、それを良しとして終いにするのは色々と……
「待て、待てって言ってんだろ! 聞こえねぇのかよ!?」
ネズミ車で堂々巡りをする正太の思考を、少年の大声が中断に追い込んだ。意外に距離が近い。振り返ってみれば、先ほどより正太の身長足すことの蓮乃の身長程度は近づかれている。少なく見積もってまだ一〇mはあるが、声が近づいていること考えれば時間の問題でしかない。
正太を引っ張って疾走中の蓮乃だが、足はさほど速くはない。むしろ遅い。太めな上に運動不足の正太が小走りですむ程度だ。公園が珍しいくらいに外出する機会が少なかったインドア生活なことを鑑みれば、ずいぶんとマシな速度と言える。だからといって、少年より遅いことに違いはない。
そして追いつかれればどうなるか。少年の今までの態度を思い出せば、ろくな結果とならないことは明白だろう。渋い色の皺が正太の額に増える。正太は少年の魔法を知らない。だが、どんな魔法であれど使い方如何で、他人を傷つけられることは知っている。そして下手をすればクソガキな頭の中身を現実にしようと、少年が違法な水準で魔法を行使する可能性があり得る。それは「特殊能力違法使用」であり明確な犯罪だが、自己中な態度と主義者な思考からして躊躇うとは思えない。
なら、こっちが先手を取るまで。正太は胸の内でそう決めて、小走りの足を緩めた。手を引っ張られる正太が速度を落とせば、当然引っ張る蓮乃のブレーキとなる。急いで脱出したい蓮乃にとって、正太の行動は想定外もいいとこだ。
「にーなーっ!?」
疑問と焦燥らしき声を上げつつ、蓮乃は手を引っ張り正太を急かす。急がなければあのやな奴がやってくるのだ。だから、急いで図書館に行かなきゃいけない。そんな心情を知ってか知らずか、正太は蓮乃の肩を軽く押しとどめる。そして繋いだ手を離すと、蓮乃を背にして向き直った。ちょうど迫ってくる少年から立ちふさがるような位置になる。蓮乃が正太を盾にしていた時と変わらない位置関係。
異なるのはそれぞれの心境、そして正太の行動だった。先のように何もしないまま盾になるのではなく、正太は膝を突くと蓮乃に向けて自分の背中を叩いて見せた。正太からは見えないが、それを見る蓮乃は困惑を顔に浮かべている。何らかの意図のある行動であることは蓮乃にも理解できる。しかしその意図が判らない。その間にも少年は急いで迫ってくる。
蓮乃が判っていないことが判ったのか、正太は辺りを急いで見渡す。さっき見た筈だ。お目当ての者はすぐに見つかった。幼児を「背負った」母親の姿。それを指さし、正太はもう一度背中を叩く。
「んっ!」
「何、してんだよ、お前ら!」
今度は意図をしっかりと理解できた蓮乃は、元気良い返答とともに正太の首にしがみついた。正太も両手を背中に回して蓮乃を支える。それとほぼ時を同じくして、ようやっと少年が追いついてきた。今から負ぶわれようとしている蓮乃を見て、荒い息の少年は途切れ途切れに大声を上げる。
正太からすれば「何してんだ」と言われても、見たままにおんぶしようとしているとしか答えようがない。もっとも少年の態度からして正太には答えるつもりはないし、少年の方も質問を口にしたわけではないようだ。単なる詰問と文句付けだろう。
「くそっ、このっ、やめろよっ!」
そして正太の想像通りに、正太の背中にしがみついた蓮乃を引きずり降ろすべく、少年は横に回ろうとした。全力疾走してきた直後だけあってさほど素早い動きではないが、正太もまた膝を突いているので直ぐに向き直ったりはできない。
ならばと正太は腹筋に力を込めて急いで立ち上がる。最近何度も腰をいわしているから、ここは慎重に行いたい処だがそんな暇はない。幸い蓮乃は想像より軽いが、年相応の重さはあるようだ。想定より軽すぎるとぎっくり腰の原因になるそうだからこれは助かる。実に有り難い。
立ち上がった正太は、蓮乃の軽さを後ろ手に組んだ両手に感じつつ、横合いから蓮乃を引き下ろそうとする少年に向き直った。少年は蓮乃よりは幾らか足が速いが正太よりは遅い。小走りで蓮乃に合わせていた正太に、全力疾走で何とか追いつけた辺りが証拠だ。蓮乃を背負った分の速度低下を正太は考慮から外しているが、その対策は打ってある。
未だ蓮乃を引きずり降ろすことを諦めていないようで、少年は繰り返し横に回ろうとする。その度に正太は少年に向き直った。こいつの好きにさせてやるつもりなど一片もない。
同時に正太は深い呼吸を繰り返し、明確なイメージを形作る。へその下、丹田の位置に、沸々と煮えたぎる溶岩めいた熱量(カロリー)をイメージする。正太の魔法「熱量操作」を使う為の下準備だ。後は心臓で熱量(カロリー)を汲み上げて、必要な場所に流し込むだけ。
「このデブ野郎! これでも食ら……」
そして「特殊能力違法使用」を警告する少年の「腕輪」の電子音を合図に、正太は汲み上げた適正量の熱量(カロリー)を下半身中心に流し込んだ。当然、「腕輪」が反応しない合法使用の範囲に収めている。
両方の足が送り込まれた血液と熱量で一気に膨れ上がり、ズボンの太股がパンパンに張りつめる。急上昇の体温に対抗して冷却水代わりの汗が吹き出すが、瞬く間にわずかな塩を残して蒸発していく。前のいじめ以前なら「熱量加給・下肢増量」と呼んでいた魔法である。これにより正太は、一〇〇m走の速度でフルマラソンが可能となるのだ。
続けて両足に流し込まれた熱量(カロリー)が求めるままに、太股とふくらはぎの筋肉に「走れ」と神経電流を送り込んだ。次の瞬間、正太の肉体は瞬時にトップギアに入り、音速飛行の戦闘機の気分で駆けだしていた。吹き飛ぶ汗の蒸気が音速雲(ヴェイパーコーン)、空冷されていく熱が推進噴射(ジェットストリーム)代わりの心地だ。
「待てよ! 待てって言ってるだろ! 畜生!」
少年の声を置き去りに、蓮乃を負ぶった正太は一路「となりまち図書館」向けて疾走する。正太にしがみついた蓮乃の黒髪が残像じみて二人から延びる。その持ち主である蓮乃が振り向くと、少年の姿は前後逆の望遠鏡で見つめたようだった。すでに今日初めて見つけた時の少年の人影より小さい。その姿向けて、蓮乃はもう一度下まぶたの裏と舌全体を見せつけた。
「べーーーっ!」