ベンチに腰掛け見上げる空は、相も変わらず曇り模様だった。空をのっぺりと塗りつぶす積層雲を見るともなしに見上げながら、正太は両手の間の本を手慰みにめくる。何も考えずに書籍のページを弄ぶと、指先を撫でる紙の感触が心地よい。
正太は先ほどから借り直した『花魁危機一髪』を何度か読もうとしたが、文字が脳味噌の上を滑るようで物語に没頭できなかった。どうにも気が乗らず内容が頭に入ってこない。常ならば実に笑えて読み進める一助となるトンチキ世界観も、ヘンテコ具合が気に障るばかりだ。
紙が傷むからこの辺にしようとパンと軽い音とともに両手で本を閉じる。その音に気が付いたのか、ベンチの隣で『神話の防人』を読み進めていた蓮乃が顔を上げた。
作品に入れずぼんやりまんじりとしていた正太とは裏腹に、蓮乃は思う存分に作品世界に浸っていた。それを正太の立てた音で引き上げられて不満顔を浮かべていると思いきや、正太に向ける顔には心配の二文字が透かし彫りされている。自分が思い切り読書を楽しんでいる横で、無闇矢鱈と辛気くさい顔をされれば多少なりとも気にもなる。
正太は余計な心配かけさせたなと空元気で笑ってみせる。世話する相手に世話を焼かれちゃ世話がない。歯を剥いて笑う正太に安心したのか、蓮乃も笑うと物語の世界へと舞い戻った。
その姿を見て正太も安堵の息を吐く。何のことはない。自分は単に司書から叱られ周りから白い目で見られて、べこべこ凹んでいただけだ。以前の虐めで自尊心が根こそぎ吹っ飛んで、実に凹みやすくなったのは事実だ。だとしても、母親である睦美さんに預けられた蓮乃に、気遣われてちゃ立つ瀬がない。
いい加減落ち込んだ気持ちを取り除こうと、正太は両手を組んで背中と一緒に反らす。背筋と二の腕が延びる感覚が心地いい。そのまま体を捻れば脇下の筋肉も引き絞られて、これまた気持ちがいい。思わず変な声が出るくらいだ。そうして伸ばした体を緩めると、反作用で口から長い息が漏れた。緊張と解放のカタルシスが実にたまらない。立ち上がって全身くまなくストレッチしてしまおうと腰を上げる。
「むー」
そしたら文句をぶーたれる顔の蓮乃が目に入った。湿っぽい半目でじっとり睨む視線から、微妙な顔の正太は微妙に目を逸らす。読書中の脳波は睡眠時のそれに似るという。実際、布団にくるまり眠りに落ちる迄と同様に、作品に没入するには読み始めてから多少の時間がかかるものだ。そしてうとうと微睡んでいる最中に騒音で叩き起こされれば、大抵の人間は腹を立てる。それは読書においても変わらない。
折角、物語に入りかけていたところだったのに、隣からの絞り上げられた豚の鳴き声めいた雑音で妨害された蓮乃は大いにご立腹であった。そしてご不満を表現している自身の視線から、目線を外す正太の態度は火に油をそそぎ入れた。なのでぐいぐいと裾を引っ張り、わたしの目を見ろと正太の眼前に自分の顔を突きつける。
「ぬーーーー!」
「……うるさくしてすまんかった」
逃れようがないと観念したのか、正太は視線を戻し目礼で頭を下げる。それで蓮乃的には納得できたらしく、「ぶふー」とか表現できそうな太めの息を鼻から吹き出すと、薄い胸を張って頷いた。おまけにそっくり返って、ノートに随分な許しの一文を書いてみせる。
『許してあげましょう!』
下から手渡された上から目線の蓮乃の言葉に、受け取る正太の顔がひきつった。何でこうも見下されなきゃならんのだ。いや、蓮乃にはそんなつもりもないだろう。単にお姉さんぶっているだけだ。だから怒るのは筋が通らない。だから自分よ、決してキレるな。
正太は沸点に近づく胸の内を、理屈で抑えて深呼吸で空冷する。変なところで怒りっぽいのは自分の悪癖だ。ちゃんとした大人は感情的にはならないものだ。そして「他人が常に理性的である」といった過度な期待もしないものだ。
向井家での一件(第一部参照)を思い出しつつ、正太は繰り返しの息吹法で自己制御を試みる。多少は効果があったのか、はたまた単に正太が熱しやすく冷めやすいだけか、とにかくカッカと煮えていた気分は落ち着いてきた。
最後に肺の底まで空気を入れ換えて、正太は全身に酸素と冷気を送り込む。ようやっと平素の平静に戻れたと、深呼吸ではない安心の息をこぼす。ふと隣を見れば蓮乃も、先の正太同様に体で弧を描いている。
「うぅんっにぃ~」
そして漏らす声も先ほどの正太と同じく変な具合だ。人様にあれだけな事を書いておいて、自分も似たようなことやらかすのか。正太の目が剃刀の厚みに細まる。が、すぐにいつもの細さに戻った。蓮乃が怒ったのは読書の時間を声で邪魔したからだ。自分は本を閉じている。それで腹を立てるのは筋違いだ。あのバカタレなクソガキみたく、ご無体な真似をするような人間でありたくはない。
かの少年を反面教師兼サンドバッグにして、そこまで思考を回した正太は、思い出したようにペンとメモを手に取った。一つ、判っていないことを思い出したのだ。
『お前さんはさっきのアイツを嫌っているが、あいつはどんな嫌なことをしたんだ?』
正太が判らないのは蓮乃の理由である。少年の今まで取った態度やら行動やらで、蓮乃が好かない人間ではないことは簡単に想像できた。しかし、具体的にどんな行動があったかは知らないままだ。行動如何によっては、少年への対応が変わることもあるだろう。もっとも、今後合うことはそうそうないだろうだが。
思考を進めつつ質問を書いたメモを差しだそうとして、正太はピタリと手を止めた。興味のままに聞こうとしていたが、考えてみれば蓮乃が思い出すのも嫌な事である可能性もある。やっぱり止めようか。でも気になるしな。
目線を宙に泳がせた正太は、メモの端に『返答自由』の意味を追記して妥協することした。何があったか関心があるのも事実だが、トラウマ的な記憶を引き出す真似をしたくないのも事実だ。だったら蓮乃に任せるのが一番だろう。
そう考えて『答えたくないなら別に答えんでもいいぞ』と太股の上で書き込むメモに、人影が差した。ベンチ周りに人はいない。ベンチの上には正太と蓮乃の二人しかいない。ならばと顔を上げてみれば、正太の想像通りに横合いから覗き込む蓮乃である。ただし表情は正太の想像と異なり、牙を剥く柴犬と同類の面構えだ。そのご機嫌は即座にペンを走らせたノートの上からも伺えた。
『月検診の時、あいつが物を投げてきたり、揺さぶってきたり、頭叩いたり、髪引っ張られたり、大声出されたりしたの。すっごく嫌だった。あいつ、ホントにやなやつ!』
月検診は、魔法使い向けに地域で毎月行われる定期検診のことだ。魔法由来の異常な病気や特殊生物の存在もあり、現代では三ヶ月に一度の定期検診が義務づけられている。それに加えて魔法使いは魔法が肉体に妙な影響を及ぼすことが多く、それを調べるために政府主導で始まったと正太は聞いている。例えば「特能知覚」と呼ばれる第6感じみた異常感覚を生じさせることもあるので、月検診は魔法使い全員に義務づけられている。
つまり別の言い方をするなら、毎月地域の魔法使いが一カ所に集まるということでもある。正太自身もそこで何人か同じ魔法使いの知り合いを作った。前の虐めで転校と引っ越しをしたこともあり、その知り合い全員と縁が切れているが。
嫌な思い出を首を振って振り飛ばすと、正太は顎に手を当てて考え込む。とにかく月検診の場であの少年は蓮乃と出会い、一目惚れか徐々に好いたのかは不明だが、蓮乃へと心引かれたのだろう。
考えてみれば、いや考えなくとも蓮乃は美人だ。モデルやらタレントやら、外観一つでおまんまが食える位に蓮乃の顔立ちは整っている。常のお天気お日様お天道様な明るすぎる表情の数々で、その顔立ちは昼間の星空よろしく隠れているのだが。それに美麗な顔形を覆い隠す程の青天井ノーテンキな性格も、見方を変えずとも蓮乃の魅力だ。蓮乃にその自覚はないが、恋をした異性は決して少なくないだろう。
しかし、好かれるだけの理由なくして相手が答えてくれるはずもない。かつての自分もそうだったが、相手のことを考えない一方的かつ身勝手な主張で理解してもらえることなど一片もない。小学生男子並というかそのもののアピールで対象が感じることは、精々が蓮乃の言う所の『やな奴』であるという事だけだ。
少年の理由を想像する正太の顔に浮かぶのは、登山の準備なしで山に分け入り遭難した人間を見る冷めた納得の表情だった。あの少年が嫌われるのもの自業自得で因果応報。人を呪わば穴二つと言うが、人の嫌がる真似をすればそいつが嫌がられるのもまた同じこと。相手に好いて欲しいなら、好かれる努力をするしかない。そして、それを書いた本を感情で拒否した以上、あの少年の可能性はほぼゼロと言える。
テストは〇点、落第決定、留年確定。追加の一年頑張らないなら、学校辞めて社会に出たら?プライドを優先して差し出した手を撥ね除けた少年へと、正太は冷ややかな表情で冷徹に評価を付ける。その目の前に開いたノートが横合いから突き出された。
『兄ちゃん、あいつはなんで急に大声上げようとしたの?』
顎下の贅肉を揉み延ばしつつ、蓮乃の質問に正太は考え込む。理由は当然知っている。だが腹立たしいクソガキといえども、勝手に話してしまって良いものか。思い出してみれば当の本人のくせして、蓮乃一人だけ何にも判っていなかった。ずっと頭の上の疑問符を首と一緒に揺らしていた。
そのときの蓮乃と同じ仕草で、正太は首を傾げた。他人様の隠し事を暴き立てて世間一般に振れ回るのは、ちゃんとした大人なら御法度の行いだ。両親も妹もパパラッチやマスコミの真似事は好まない。それに負の感情を通り越して、無関係を求める気持ちが湧いてくるような相手でもある。しかし、事の当事者である蓮乃が何も知らないというのもどうなんだ。ただ一人蚊帳の外というのは決して心地いいものではない。
どーしたもんだろ。しばらく首を捻った末に、頸椎を痛める寸前で正太は受け取ったノートに言葉を書き込んだ。
『自分に好きな人がいるって周り中にばれたからだよ』
結局、5W一Hの内「Who(誰)」は黙っておくことにした。いくら腹立つ迷惑な御仁の事とはいえ、自分の品格をそのレベルまで落とす必要はない。それにあの少年と蓮乃が今後顔を合わせる可能性は低い。知らなくても問題はあるまい。なお、正しくいえば好きな人がいると自分がバラしたようなものだが、直接口にはしてないし周囲が察しただけだからノーカンノーカンと自分で自分に言い訳しておく。
返された文章を見て蓮乃はなるほどと納得顔でうんうん頷く。それを見た正太の脳裏に、蓮乃にも色恋沙汰が理解できるのかと随分な台詞が浮かんだ。まあ、ドラマを見たり小説を読んだりしているなら、大なり小なり恋愛要素には触れているだろう。人類存続と切っても切れない根源的な欲求である以上、創作全般に惚れた腫れたは存在しているのだ。
だからといって実感しているかは全く別だろう。正太自身、大抵の恋愛作品と共感できない。一応、前の虐めの引き金になった初恋もどきは経験しているが、少年同様の自己中二病で腐り果てた憧れ混じりの幼い感情でしかなかった。好いた嫌ったは結局よく判っていない。
その内いつか判るだろう。そう投げ捨てるように結論づけて、正太は手の中の『花魁危機一髪』を弄ぶ。ふと横を見るとノートの上を滑るペン先が目に映った。暗い色合いの表情をした蓮乃が、ノートになにやら書き込んでいる。文字をつづる蓮乃の顔には、嫌悪と怒りに加えてもう一つ別の色が混じっていた。その文字を見て正太は眉をひそめる。
『あいつが好きな人にすっごく嫌われちゃえばいいのに。あんな酷いことする奴なんだから、もっと酷い目に遭えばいいのに』
とてもじゃないが、他人様に向けていい言葉ではない。嫌う理由は蓮乃と少年の両方からよく判ったが、流石にこれは問題だ。さっきも舌出して挑発していたし、こういう態度は見過ごせん。嫌みを叩きつけた自分が言える立場でないかもしれんが、仮にも親御さんから預かった身だ。言うべきは言わねばならんだろう。
思考のギアを三段とばしで一気にあげて、ここまで考えた正太はメモに勢いよく文を書き込む。息を詰めていたのか、正太の口から深呼吸を兼ねた重いため息がこぼれる。そしてメモの文章を二・三度確認すると、蓮乃の額を傾注と叱責の意味を込めて手刀で軽く叩いた。加減したチョップだったので痛みはない。ただ、想定外の衝撃に蓮乃は驚いて正太を見た。
「なーも?」
『蓮乃、お前は今非常に酷いことを言った、いや書いた。他人の不幸を願うことはとても悪いことだ。謝れとは言わんが、酷いことを書いたことは自覚すべきだぞ』
目の前に差し出されたメモを見る蓮乃の顔に、さらなる負の感情が追加されていく。具体的には不機嫌そうに頬が風船河豚(フウセンフグ)の膨らみを見せた。吹き出す刺々しい気持ちを加えて見れば、針千本(ハリセンボン)の出来上がりだ。そして蓮乃は棘まみれな機嫌をそのままにペンに乗せてノートに刻む。
『酷いことなんて言ってないし書いてない! あいつやな奴だもの!』
ああ、やっぱり理解できてないのか。遺憾ながら想定通りの蓮乃の反応に、正太は腹の底でげんなりな気分をこぼした。まずは自覚させるところからやらねばなるまい。しかし、前みたいに拳骨落として脅しつけるわけにもいかん。諭すしかないか。ああ、めんどくせぇ。不満顔で膨れている蓮乃を眺め、正太はため息一つ。
『まず、あいつが嫌な奴であることには俺も深く同意する。俺もあいつは嫌いだ』
差し出されたメモを見た蓮乃は納得に足すことの不思議顔だ。兄ちゃんもやっぱりそう思っているんだ!なら、何が悪いの?表情で返答を求める蓮乃を片手で制して、正太は文章を続ける。
『それに嫌うってのは、心の働きの一つでしょうがないことだ。そりゃ努力のしようはあるが、無くすことは絶対に出来ない。だからお前があいつを嫌っていることも否定はしない』
『じゃあ何がダメなの!?』
不満の顔に答えろと書いて見せても、正太はまだ回答しない。なので蓮乃は実際にノートに書いて突き出した。それに対して正太はようやく答えになる文を返してみせた。
『誰かを嫌いであることと、誰かの不幸を願うことは全く別々のことだからだ』
どーいうこと?返事を読んだ蓮乃の首が捻られて表情が疑問の意味に戻る。理解できていない蓮乃の顔を見て、正太も何を言うべきかと首を捻った。判ってもらわなきゃならないが、平易な文章はむやみやたらと長くなりがちだ。そいつは手首によろしくない。
『誰かの不幸を願うってことは、そいつが不幸になる様を笑いたいってのと同じことだ』
結局、どう伝えればいいか結論のでなかった正太は、とりあえず解説することにした。小石というには少々大きい、ベンチから見える拳大の石を指さしながらペンを進める。
『例えば、あいつがあんな石でずっこけて怪我をしたとする。あいつは嫌な奴だ。それに変わりはない。しかし、嫌いを理由に怪我を笑うのはおかしいことだ』
『そうだけど、あいつやな奴だもん』
返答を書いた蓮乃を見れば、唇をとがらせて目を反らしている。どうやら理解できたようだが理解したくないらしい。その顔を見ながら正太はため息を一つ追加した。
何が悪いかは判ったのだろう。でも、認めがたいと。自分が宜しくないと認めるのは、そりゃあ気分が悪いものだ。ましてや相手がろくでもないクソガキならば、なおの事だろう。さて、どーしたもんか。
首をねじった正太は、筆が渋るのかペン先でメモに触れては放すを繰り返す。ずいぶんと渋い表情を浮かべて、しばらくメモにドットを書き加えていたが、いい加減に意を決したのか正太はペンを動かし始めた。
『俺も言いたくないことだけど、誰かを嘲笑するってことは実はすごく楽しいんだ。それが嫌いな相手と来れば尚更だ』
人間の宜しくない面など好き好んで蓮乃に伝えたいことではない。しかし、理由を伝えるに避けては通れないことならば、下手にぼかしてフィルターをかけるよりは真っ正面から誤解の無いように伝えるべきだ。
『嘲笑うって悪いことじゃないの?』
蓮乃は両目をまん丸に見開いた驚きの顔。正太の唐突な善悪逆転の言葉に混乱しきっている。その通りだと正太は大きく頷く。蓮乃の言うとおりに全くもって悪いことだ。
見下げた奴だと指さし笑われ、嬉しい人間などこの世にいない。自分の努力も思いも存在も唾を吐かれて玩具にされる、その苦痛は計り知れない。正太には経験があった。
『人間ってのは変なもんでな。良いことだからといって愉快だとは限らないし、悪いことだからって不快とも限らんのだ』
しかし、嘲笑する側においてはその限りではない。相手を貶めれば貶めた分、相対的な優越感を味わえる。相手を蔑んで踏みにじれば、自分が上位の人間になったように錯覚できる。正太には経験があった。
虐めの引き金を引いたのはたった一度のやらかしだった。だが、銃を用意して弾を込めるどころか撃鉄まで上げておいたのは、周囲を嘲って蔑んだ自分自身に他ならない。そして自業自得で鉛玉並に苦痛な虐めの日々を味わったのもまた自分だ。
『だが、他人を蔑んでいる奴の顔を見ると、驚くくらい卑しい顔をしているもんだ』
嘲笑する側、される側。正太はその両方を知っている。嘲笑するときの人間が外からどう見えるかも知っている。正太はそんな面構えを蓮乃にして欲しくなかった。何せ、見てるこっちが辛くなる。
『だから、俺のわがままだけど、お前さんは誰かを嘲っているより、いつもみたいに朗らかに笑っている方がいい。……そっちの方がずっと美人だしな』
冗談めかした最後の一文を付け加えると、正太は特に考えることなく蓮乃の頬に触れていた。蓮乃は目を細めて心地良さげに正太の指を受け入れる。指先から伝わる大福餅の滑らかさと人肌の温もりが心地よい。
「……ん」
蓮乃の顔に浮かぶのはバターのようにとろけて、蜂蜜のように甘やかで、パンケーキのように柔らかな、なにより三時のおやつのように幸せな笑み。それを見る正太もまた表情を暖かく緩めている。
そうしてしばらく蓮乃のほっぺたを指の先で撫でていた正太だが、自分のやっていたことにいい加減気づいたのか、手を引っ込めて誤魔化しの咳払いをする。虚空に目線を泳がせて厳つい面を赤らめる正太に対して、整った顔を薄桃色に染めた蓮乃はまっすぐ正太を見つめていた。
『まあ、まとめると、嫌いになるのはよくてもそいつを蔑んじゃならんと言うことだ』
繰り返しの空咳で強引に空気を再設定した正太は、これまた無理矢理話をまとめにかかる。腕白フルスロットルでお子様オーバードライブな蓮乃相手でも、女性という言葉から限りなく遠い正太には、先の空気は居心地が悪かったのだ。
『わかった。そう言うこと書かないようにする。でもやな奴にはどうすればいいの?』
言えば判るのが蓮乃の美点だ。そして一度理解したことを繰り返し誤らないのも大きな長所だろう。しかし逆を言えば言っていないことは、当然了解できないということでもある。例えば、蔑んで嘲って突っかかってくる相手への対応とか。
『そいつは単純明快。顔を合わせて一言「お前が嫌いだ」。それだけでいい。嫌いな奴には嫌いだと、きっちり伝えてやればいいんだ』
ニイッっと目と歯を剥いた不敵な笑みと共に、シンプルな回答が帰ってきた。正太の顔立ちは逆立ちしても出来が悪い。やぶ睨みの細い三白眼に、ニキビ跡の多い凸凹な顔。形の悪いタラコ唇とこれまた形の悪い団子鼻。とどめに父由来の骨ばった輪郭と、母由来のでっぷりした下膨れ。はっきり言って不細工だ。
だが、厳つい顔に浮かべる太い笑いは、男臭い魅力を見る者に感じさせた。片頬をつり上げて笑ってみせるその顔は、一四歳の容貌というよりも一味も一癖もある任侠の徒を思わせる。それも、ふてぶてしく笑いながら幾つもの鉄火場をくぐり抜けた、年季の入った大親分の面構えだ。
『ただし、当然の話だがあいつがこっちを嫌うってことも頭に入れておけよ。俺たちがあいつを嫌うなら、その逆もあって当然だからな』
裏社会な笑みから堅気な真面目顔に戻して、正太は追加のメモを蓮乃に渡した。身勝手な話だが、甘えで他人を否定しておきながら、そいつから否定されて大いにショックなんてこともあるのだ。そこら辺甘い考えすると他人に厳しく自分に甘くなりかねない。
『誰かを嫌うなら、誰かに嫌われる覚悟だけはしておくことだ。俺たちがあいつを嫌いであるように、誰かが俺たちを嫌いであることだって十分あり得る。というか、俺の場合実際にあったしな』
そして嫌いになるのが仕方ないなら、誰かに自分たちが嫌われることだってあり得る。実を言えば正太にも嫌われる覚えは多々あった。少なくとも転校前の小学校の同級生に、自分を好いている人間はいないだろう。
『でも私、兄ちゃんのこと好きだよ!』
しかし、蓮乃は正太のことを間違いなく好いている。なにせ自分を必ず助けてくれて、自分の側にいつもいてくれて、自分と沢山話をしてくれるのだ。その気持ちを表すのに蓮乃は全くもってやぶさかではない。
「ファッ!? きゅ、急に変なこと言うなよ……」
太陽色した満面の笑みと共に、突きつけられた蓮乃からのストレートな好意は、正太にとって不意打ちもいいところだった。蓮乃が聞き取れないことも忘れて言葉をこぼし、定まらない視線を虚空に泳がせ回る。
顔を突っつき合わせるようになってから、一ヶ月にも満たない相手に言うことじゃないだろ。自分も変な受け取り方するべきじゃない。こいつのことだ、犬猫がしっぽ振るのとそう変わらん。
とにかく落ち着けと自分に言い聞かせつつ、一六ビートに急加速した心臓を繰り返しの深呼吸で鎮め、夕焼け色に染まった厳つい顔を繰り返し振って赤みをとばす。
『そう言う話じゃないんだがな。でも、ありがとう』
最後に咳払いで場を仕切り直すと、正太はメモを一枚差し出した。それと一緒に蓮乃の頭に手を乗せる。蓮乃はこうされるのが好きだと知っているからだ。優しく正太が頭を撫でると、蓮乃も優しく微笑んだ。幸福な時間がお互いの間に流れる。二人はしばらくそうしていた。
なお、帰宅後の正太は自分のやったことを省みて、頭を抱えてのたうち回ることになるのだが、未来予知なんぞ出来ない今の正太に、それを知る由はなかった。